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私の生ひ立ち(わたしのおいたち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-22 10:51:04  点击:  切换到繁體中文

 

私の生ひ立ち 一

 学校へ行く私が、黒繻子(くろじゆす)の襟(えり)の懸つた、茶色地に白の筋違(すぢか)ひ雨(あめ)と紅(べに)の蔦の模様のある絹縮(きぬちゞみ)の袢纏(はんてん)を着初めましたのは、八歳(やつつ)位のことのやうに思つて居ます。私はどんなにこの袢纏が嫌ひでしたらう。芝居で与一平(よいちべい)などと云ふお爺(ぢい)さん役の着て居ますあの茶色と一所(いつしよ)の茶なんですものね。それは私の姉(ねえ)さんの袢纏だつたのを私が貰つたのだつたらうと思ひます。十一違ひと九つ違ひの姉(ねえ)さんの何方(どちら)かが着て居ましたのは恐らく私の生れない時分だつたらうと思ひます。大阪へ出て古着を安く買つて来るのがお祖母(ばあ)さんの自慢だつたやうですから、それも新しい切地(きれぢ)で私の家(うち)へ買はれて来た物でないと認めるのが当然だと思ひます。で袢纏の絹縮は其(その)頃から二十年位前に織られて染められて呉服屋の店へ出されたものであらうと今から思へば思はれます。私はこの袢纏を二冬程(ふたふゆほど)着て居たやうに思ひます。私はこの時分程同級生にいぢめられたことはありません。私が鳳(ほう)と云ふ姓なものですから、
「鳳さんほほづき。」
「鳳さんほうらく。」
 私をめぐつて起る声はこの嘲罵より外(ほか)にありませんでした。
「鳳さんほほづき、ほう十郎、ほらほつたがほうほ。」
 塀の上や木の枝の上から私に浴びせかけて、かう云ふのは男の同級生でした。私が学校の黒い大門を入りますと、もう半町程向うにある石段の辺(あた)りではほほづき、ほうらくの姦(かしま)しい叫びが起るのでしたから、私がこの悲い目に逢ふのも、一つは茶色のかうした目立つた厭な色の袢纏を着て居るからであると、朝毎(あさごと)に思はないでは居られませんでした。私は手織縞(ておりじま)の袢纏を着た友達を羨んで居ました。けれど私は絹縮の袢纏がぼろぼろに破れてしまひますまで、そんな話は母にしませんでした。私の母は店の商売の方に気を配らなければならないことが余りにあつて十分と沈着(おちつ)いて私達と向ひ合つて居るやうなことはありませんでした。また私とは違つて継母(まゝはゝ)に育てられて居る私の姉達が、いろ/\なことを一人々々が心一つに忍んだ淋しい日送りをして居るのを見て居(を)りますから、私も苦しいことを辛抱し通すのが人間の役目であると云ふやうに思つて居たらしいのです。私に始終意地悪ばかりをした水谷(みづたに)と云ふ男の子の顔は今でも思ひ出す時があつて気持ちが悪くなります。朝早くその子が登校して居ない間に私が行つて、教場の薄暗い隅の方などに隠れて居れば比較的無事なのですが、私の家(うち)は朝の忙しい商売で、学校へ子供達を出すのも大方は時間かつ/\なのでしたから、どうしても私は水谷のひどい罵(のゝし)りを受けた後(あと)でなければ先生のお顔を見られませんでした。水谷は頭に腫物(おでき)の跡が充満(いつぱい)ある、何時(いつ)も口から涎(よだれ)の伝はつて居る厭な厭な子でした。そして水谷は子供のくせに千筋縞(せんすぢしま)の双子織(ふたこおり)の着物を着て居ました。帯は黒い毛繻子(けじゆす)のくけ帯を貝(かひ)の口(くち)に結んで居ました。紺木綿(こんもめん)の前掛をして居ました。

 これも二年生位の時、先生は修身(しうしん)の話をしておいでになりましたが、
「あなた方、此処(ここ)に三羽のひよこがあるとしまして、二羽のひよこは今人から餌(ゑ)を貰つて食べて居ます。一羽のひよこはそれを見てます。さうするとその一羽のひよこはどんなことを思つて居ると思ひますか。解(わか)つている人は手をお挙げなさい。」
とお云ひになりました。手を挙げたのは僅に三人でした。私はもとよりその中ではありません。一番の子と二番の子と三番の浅野(あさの)はんがそれです。
「浅野はん。」
と先生は指名をなさいました。私はこのむづかしい問題を説き得たと云ふ浅野はんをえらい人であると思つて、後(うしろ)に居るその人の顔を振返つて眺めました。
「私も欲しいと思ひます。」
 浅野はんはかう云つただけです。先生は可否をお云ひにならずに、外(ほか)の二人を立たせて答をお聞きになりました。
「私も欲しいと思ひます。」
 皆この言葉を繰り返しただけです。私はつまらないことを考へる人達だと三人を思ひました。一羽のひよこが何を思つて居たかは、人間の子供の私達にさう容易(たやす)く解る筈(はず)はないが、何と云つてもそんな簡単なものでないと思つたのです。
「さうです。それに違ひありません。」
と先生はお云ひになりました。私はそれにも関らず一羽のひよこの真実(ほんたう)の心持が解りたいとばかり幾年か思ひ続けました。浅野はんの名はそのために今も頭に残つて居るのです。

 私は満三歳(みつつ)になつて直(す)ぐ学校へ遣(や)られました。ですから遊びの方に心を引かれることが多くて、字を習ふ方のことを情けなく思つて居ました。私と同年(おないどし)の竹中(たけなか)はんが私の家(うち)へ遊びに来る約束をしてくれました。その日になりますと私は嬉しさに学校へ行く気になれませんでした。母がどんなに勧めても、私に附いて居る小い女中が促しても、私は今日は家(うち)で竹中はんと遊ぶのだとばかり云つて、学校へ出ようとはしませんでした。あなたがどんなに遊ばうと思つても、竹中はんは学校へおいでになるから、午後(ひるから)でなければ遊ばれませんよ、と女中が云ひましても、私はじつとして待つて居れば、楽しい時間の来ることが早いと云ふやうに信じて居るものですから、我儘(わがまゝ)を云ひ張つて、お盆にお菓子を充満(いつばい)載せたのを持つて来させて、隠居所の二階の八畳に女中と二人で座つて居ました。そして時々欄干(てすり)の所へ行つて下の街を眺めました。それは竹中はんの影が見えないかと思ふからでした。そのうちに私はだん/\淋しい、心持になつて来ました。悔恨の悲みはもう私の胸にいつばいに広がつて居ました。竹中はんがおいでになつてから開けますと女中は云つて、庭向の方の雨戸はまだ閉めたまゝなのです。暗い縁側の方を向いて、こんな我儘をした私はもう本宅(おもや)へ行つて母にも姉にも逢はれないと云ふやうなことばかりを思ひました。そして昨日(きのふ)の約束は、双方の女中同志がしてくれたものの、竹中はんは真実(ほんたう)に来てくれるのだらうかと云ふ不安も感じないでは居られませんでした。欄干(てすり)の所へ倚(よ)つて見ますと、本宅(おもや)の煙突は午(ひる)近くなつてます/\濃い煙を吐くやうになり、窓の隙間から男女(なんによ)の雇人(やとひにん)の烈しく働いて居る姿の見えるにつけて、私は我儘者、不勉強者であると云ふことばかりが思われるのでした。色の白い細面(ほそおもて)の美くしい竹中はんが、女中と並んで十一時半頃に東の方から歩いて来るのを見ました時、私の胸にはどんなに高い動悸が打つたでせう。私の居る二階の下まで来ました時、竹中はんは上を一寸(ちよつと)見上げたまゝで、ずつと通つて行つてしまひました。失望して居る私に女中は午後(ひるから)を待てとも云ひませんでした。私も黙つて居ました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないとその刹那に感じました通り、その人とそれきり遊んだ覚えはありません。私はそれから満五歳(いつつ)までは、学校通ひを止(や)めさせようと云はれて家(うち)に置かれて居ました。


私の生ひ立ち 二 狸の安兵衛/お歌ちやん

狸の安兵衛

 私の小い頃に始終家に出入りして居た車夫は、友吉(ともきち)と安兵衛(やすべゑ)の二人でした。安兵衛は狸の安兵衛と云はれて居ました。私はその人を真実(ほんたう)の狸とも思つて居ませんでしたが、人間とは少し違ふもののやうに思つて居ました。安兵衛は肱(ひぢ)に桃色をした花の刺青(いれずみ)がしてありました。友吉は顔に黒子(ほくろ)が幾つもある男でした。私の家(うち)ではどう云ふ理由(わけ)でか友吉の方を重んじて居ました。父と母が外出する時には、必ず父は友吉の方の車に乗りました。母が女中を供にして行く時には、女中が安兵衛の車に乗せられました。この二人の男は、ある時相談をして車夫を廃(や)めて新しい事業を起すことにしました。私は父母の前で、その計画に就(つ)いて度々友吉の語つて居るのを聞きました。今から思つて見ますと、そんなことは大阪あたりで誰かの既にもうして居たことで、友吉等はその模倣者であつたのでせう。それは青や赤で塗つた箱馬車に子供を乗せて、一つの町を一廻(ひとまは)りして、降ろす時に豆と紙旗を与へるのでした。馬は真実(ほんたう)のでなく、紙ばかりでやはり赤や青で塗られたものでした。もとより自動車ではありませんから、誰かが押して歩いたものと思はれます。友吉と安兵衛は、揃ひの赤い洋服を着て居ました。友吉は御者台(ぎよしやだい)に居て喇叭(らつぱ)を吹いて居ました。安(やす)は後(うしろ)の板の上に立つて居ました。乗車賃は一銭位でしたらう。豆は三角の紙袋に入つて居ました。私は営業者の好意で、初めてから三日目位に、無賃でその馬車に乗せられました。ですから町々の辻を幾つ乗り越しても、乗車賃のかさむ心配はいらないのでした。私は入口の隅に腰を掛けて居ました。安兵衛の顔の近く見える方が心丈夫だつたのです。私の親しい同(おなじ)町内の子供達が、皆旗を貰つて馬車からばら/\と帰つて行き、薄見知(うすみし)りの顔の交つた隣町の子供等にも別れ、終(しま)ひには誰一人馴染(なじみ)のない子供等の中に、私だけが交つて行くことになつたのです。窓から外を眺めますと、人通りの少くて町幅の広い寺町(てらまち)に来て居ました。友吉はぱつぱつぱつ、ぱぱつ、ぱぱつと喇叭を吹きました。どんなにその音が私に悲しかつたでせう。車が停(とま)つた時に、安兵衛は私の淋しい顔を見て、
「嬢やん、豆あげまひよか。」
と云ひました。
「ちつとも欲しいことない。帰りたいのや。」
 涙がほろほろと零(こぼ)れました。
「いきまへんな。一番終ひに送つたげまつせ。」
 私は仕方なしに点頭(うなづ)いて居たのでせう。私の家(うち)のある方を背にして、車は南へ南へと行きました。私はそれきりその馬車に乗つた覚えはありません。何でも大人達の話で聞くと、友吉と安兵衛の仕事は一月(ひとつき)も続かなかつたのださうでした。損を余程沢山したとかも聞きました。二人はまた同時に車夫に帰つて、私の家(うち)の父や番頭の大阪行を引いて来た後(あと)を、銀場(ぎんば)の板(いた)の間(ま)で向ひ合つて食事などをして居ました。この二人が運んで行くのに余る大阪行の人数である時には、がた馬車がよく雇はれて来ました。私はその時分満四歳(よつつ)位だつたと思ひます。私と弟とが母と姉の中に腰を掛けた馬車の中の向側には、妹を抱いた乳母(うば)や女中が居ました。親類の小母(をば)さんなども居ました。私の家の大阪行には、必ず決つた様式がありました。春であるなら遅い早いにかゝはらず、牡丹(ぼたん)で名高い吉助園(きちたすゑん)と云ふ植木屋へ最初に行くのです。それから上本町(うへほんまち)の博物場へ廻るのです。中(なか)の島公園(しまこうゑん)へも行くのです。そして浪華橋(なにはばし)の下の生洲(いけす)の網彦(あみひこ)と云ふ川魚料理の船で、御飯を食べて帰るのでした。こと、こと、ことと浪華橋の下駄の音がする時に、私等は船の障子を開けて、淀川(よどがは)の水をちやぶちやぶと手で弄(もてあそ)ぶのが、どんなに楽いことでしたらう、その頃の私等に。

お歌ちやん

 お照(てる)さんは向ひの仏師屋(ぶつしや)の子で、私より二つの歳上(としうへ)でしたが、背丈は私の方が高いのでした。お春(はる)さんはその人の姉(ねえ)さんでした。隣の藍玉屋(あゐだまや)には、より江(え)さんと云ふ子がありました。それは私に同年(おないどし)でした。その姉(ねえ)さんが茂江(しげえ)さんで、そのもう一つ上が幾江(いくえ)さんでした。斜向(すぢむか)ひの角の泉勇(いづゆう)と云ふ仕立屋の子は、お歌(うた)ちやんと、名を云ひました。お歌ちやんは優しくて女のやうな気のする兄(にい)さんと、菊石(あばた)の顔にある嫂(あによめ)に育てられて居るのでした。両親はもうありませんでした。私が学校へ行き初めた頃、力にしたのはこのお歌ちやんでした。小い姉がお歌ちやんによく頼んで置いたと云つてくれませんでしたら、七歳(なゝつ)になつて再入学をしました私は、また学校を恐がつたかも知れません。お歌ちやんは三歳(みつつ)位は私より大きい子供でした。前髪と後毛を円(まる)く残したあとを青々と剃つた頭をして居ました。私は毎朝お歌ちやんを誘ひに寄りました。
「お歌ちやん、おていらへ。」
 かう呼ぶのです。寺子屋へ行く子供等の習慣(ならはし)が、まだ私の小い頃にまで残つて居たのです。私はお歌ちやんの家(うち)へもよく遊びに行きました。苔で青くなつた石の手水鉢(てうづばち)に家形(やかた)の置いてあるのがある庭も、奥の室(ま)も、静かな静かなものでしたが、店の方には若いお針子(はりこ)が大勢来て居ましたから、絶えず笑ひ声がするのでした。恥しがりの私も、遠慮がちなお歌ちやんも、その仕事場へは一度も行つたことがありませんでした。私の小い姉も、其処(そこ)へ稽古に来て居ました。仏師屋のお春さんや藍玉屋の茂江さんは、よくお歌ちやんをいぢめました。私はある時どうしたのかいぢめる連中に交つて居ました。私の家(うち)の軒下にお春さんが参謀長のやうに立つて居て、泉勇のお歌ちやんの居る窓の下へ、いろいろとお歌ちやんの悪口を云つて遣(や)らせるのです。私は通りを横ぎつて向ふへ走つて行き、歌のやうなことを云ふのが唯(たゞ)面白かつたのです。このことが姉から母に聞えまして、母は私をひどく叱りました。
「お歌ちやんのやうないい子に、意地わるをするやうな子は、子やない。」
とも云はれました。私が悪いことと知りながらした罪に就(つ)いて、また可(か)なり大きい後悔をしないでは居られませんでした。お歌ちやんに詫(あやま)りますと、
「そんなこと云ひなはらんでもええ。」
と云つて私の肩を撫でてくれました。ある日姉が、
「お歌ちやんが死にやはつた。」
と私に話しました。悲しく思つたに違ひありませんが、その時の心持などはよく覚えません。お歌ちやんは、十歳(とを)だつたと云ふことです。
薄倖(ふしあはせ)なお歌ちやん。」
「賢い子やつた。」
 誰も皆かう云つてました。お歌ちやんが居なくなつてから、私はどうしてもお照さんや茂江さんの仲間へ入つて遊んで貰はなければなりませんでした。その中で意地悪でない人は、私と同年(おないどし)のより江さんだけでした。


私の生ひ立ち 三 お師匠さん/屏風と障子/西瓜燈籠

お師匠さん

 藤間(ふぢま)のお師匠さんは私の家の貸家(かしや)に居ました。その隣には私の母の両親が隠居をして居ました。私はそれから間もなく死別れたその母方の祖父の顔は、唯(たゞ)白髪(しらが)を長くして後撫(うしろな)でにした頭つきと、中風(ちゆうぶ)になつて居たために何時(いつ)も杖を突いて居たその腰つき位が記憶にあるだけですが、お師匠さんの顔ははつきりと覚えて居ます。大きい目や、油ぎつたやうな色をした広い額や、薄い髪の生際(はえぎは)やは、今も電車の中などで類似の顔に逢ふと思ひ出されるのです。私はお師匠さんに何年程踊(をどり)を習つて居たのでせう、それとも幾月と云ふ程だつたのでせうか。舞扇(まひあふぎ)を使ひ壊して新しく買ふことはかなり幾度もありました。私の大きくなつてからはありませんでしたが、その頃舞扇を売つて居た家の店のことなども私はよく覚えて居ます。新しくて美しい飾りのしてある店でした。私が扇屋へ行く使(つかひ)の丁稚(でつち)に随(つ)いて行つた時、丁稚の渡す買物帳を其処(そこ)の手代(てだい)が後(うしろ)の帳場へ投げました。そしてかちかちと音をさせて扇箱から出した五六本の扇が私の丁稚に渡されました。私はその扇が母の前へ持つて来られて、開いて見せて貰ふのがどんなに楽みだつたか知れません。私は稽古朋輩(ほうばい)の持つて居るやうな塗骨(ぬりぼね)の扇が欲しいと心に願つて居たのでした。私はさうして塗骨の銀の扇の持主になりました。絵は桜の花で、四分通りの地が薄紅(うすべに)につぶされて居ました。母は舞扇が買はれる度に、扇の上に切地(きれぢ)で縁を附けるのが好きでした。好きと云ふよりもせねばならないこととして母はさうしたのです。扇が畳目(たゝみめ)から早く切れて破扇(やれあふぎ)になるのを惜んだのです。けれどその体裁は極めてよくないものでした。扇を襟(えり)の間にさした時、私の扇は他人の三倍もかさがありました。銀地の扇に母の附けた縁は紫のめりんすでした。私が生地骨(きぢぼね)で赤地の扇に金銀の箔の絵を置いたのを持つて居たこともありました。絵は御簾(みす)にそれも桜で、裏に蝶が二つ白抜きで附いて居ました。それには桃色の縁がとられてました。桔梗(ききやう)の花の扇は大阪の誰かから貰つた物でした。
「かうして縁を取りやはるとよう持つんだつせ、この嬢やんのお母(かあ)はんの新案だつせ。」
 お師匠さんは私の扇を弟子入に来る子の母親などに開いて見せたりしました。私はそれを恥しく思ひました。
 師匠の家のさらへ講に私が踊ることになつたのは「流しの枝」と云ふ曲でした。私は黒地の友染(いうぜん)の着物を着て出ました。模様の中に赤い巴(ともゑ)のあつたことを覚えて居ます。丁度(ちやうど)その日に私の家ではお祖母(ばあ)さんが報恩講(ほうおんかう)と云ふ仏事を催して多勢の客を招いて居ました。私はそれを余所(よそ)にして踊の場へ行くのが厭(いや)だつたのでした。私は楽屋でお膳のないのを悲みながら、煮魚のむしつたので夕飯を食べさせられました。この時も大勢の弟子の中でお師匠さんは私を一番大事にしてくれました。踊の済んだ時に、もうこれでいゝと思つた心持と、地方(ぢかた)の座を背にして、扇を膝に当てながら歌の起るのを待つて居た記憶はありますが、その間の気分などは皆忘れてしまひました。
 お師匠さんはお酒が好きでしたが、そんなことが病の原因(もと)になつて、死んでしまはれたのではないでせうか。

屏風と障子

 西洋好(せいやうずき)の私の父は西洋から来た石版画(せきばんゑ)で屏風が作らせてありました。私はその絵の中で一番端にはられた、青い服に赤いネクタイをした子供の泣いて居る絵がどんなに嫌ひだつたか知れません。これは阿呆(あはう)な子で、学校へ行くのが厭だと云つて居るのですと老婢(らうひ)はよく私に教へました。さう云はれます度に私は身慄(みぶる)ひがしました。またその横に、母親に招かれて笑ひながら走り寄つて来る子供の絵もありました。私はそれを家中で大騒ぎをされて可愛がられて居る弟のやうな子だと思つて居ました。口の傍(そば)に厭な線を充満(いつぱい)寄せて泣いて居る子の方は、人から見て自分になぞらへられるのではあるまいかと思ふやうなひがみを私は意識せずに持つて居たかも知れません。和蘭陀(オランダ)の風車(かざぐるま)小屋の沢山並んだ野を描いた褐色の勝つた風景画は誰が悪戯(いたづら)をしたのか下の四分通りが引きちぎられてました。私の父はまた色硝子(いろがらす)をいろいろ交ぜた障子を造つて縁(えん)へはめました。廊下にもはめました。欄間(らんま)もそれにしました。一家の者が開閉(あけたて)の重い不便さを訴へるので、父は仕方なしにそれを浜の道具蔵へしまはせてしまひました。けれど欄間だけは長く其儘(そのまゝ)でした。私は欧州へ見物に行きました時、古い大寺のかずかずを巡つたのでしたが、その色硝子で飾られた窓の明りを仰ぎます度に、私は父のことや幼い日のことが思はれるのでした。

西瓜燈籠

 これはもう大分(だいぶ)大きくなつてからのことです。藤間のお師匠さんの所へ通つて居た頃から云へば、五年も後(のち)の十歳(とを)か十一の時の夏の日に、父が突然私のために西瓜燈籠(すいくわどうろう)を拵(こしら)へてやらうと云ひ出しました。どんなに嬉しかつたか知れません。老婢は早速八百屋へ走つて行つて、ころあひの小い西瓜を選(え)つて買つて来ました。父は私にどんな模様がいゝかと尋ねましたが、私は何でもいゝと云つて居ました。出来上りましたのは一面に匍(は)つた朝顔の花の青白く光つて透き通る美しさの限りもなく思はれる燈籠でした。その晩軒に吊して置きますと通る人で振返つて賞めて行かないものはない程でした。父は翌日また弟に馬の絵を彫つた燈籠を作つてやりました。その夜の涼台(すゞみだい)の上には朝顔のとそれが並んで吊されました。三疋(びき)の馬が勢よく飛び上つて居る図がらの好(い)いのを、また街を通る人々が賞めて行きました。私は少し自分のがけなされたやうな悲みを感じました。三日目に父は妹のために楓の葉と短冊を彫つた燈籠を作りました。それは朝顔などの線の細い模様とちがつて、くつきりと浮き出したやうな鮮明(あざやか)さは何にも比べやうもない美しいものでした。三つの燈籠はまたその夜涼台の上に吊されました。老婢が気を附けて、萎(しな)びぬやうにと井戸端の水桶の中に、私の燈籠は前夜もその前夜も入れられてあつたのですが、それにも関らず青白かつた彫跡(ほりあと)は錆色(さびいろ)を帯び、青い地は黒い色になつて居るのです。形も小くなり丸かつたものが細長いものに変つて居るのです。私は生れて初めて老(おい)と云ふことと死と云ふことをその夜の涼台で考へました。早く生れたものは早く老い、早く死ぬとそれ程のことですがどんなに悲しく遣瀬(やるせ)ないことに思はれたでせう。私はそれを足つぎをして下(おろ)さうとはせずにそのまゝ眺めて居ました。
 次の年には父は誰のとも決めずに流(ながれ)を鮎の上る燈籠を西瓜で彫つてくれました。私はその時にはもう生命(いのち)の悲みなどは忘れて、早く自分も何かの絵を西瓜に彫つて、燈籠を作るやうになりたいとばかり思つてました。

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