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高野聖(こうやひじり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 13:25:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     五

「さっきの茶店ちゃみせからここへ来るまで、売薬の外はだれにもわなんだことは申上げるまでもない。
 今別れぎわに声を懸けられたので、先方むこうは道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷きまよいがするので、今朝けさも立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。
(ちょいとうかがいとう存じますが、)
(これは何でござりまする、)と山国の人などはことに出家と見ると丁寧ていねいにいってくれる。
(いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれを素直まっすぐに参るのでございましょうな。)
(松本へ行かっしゃる? ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨つゆに水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。)
(まだずっとどこまでもこの水でございましょうか。)
(何のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向うのあの藪までで、後はやっぱりこれと同一おなじ道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのはもと大きいおやしきの医者様の跡でな、ここいらはこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良のらになりましたよ、人死ひとじにもいけえこと。ご坊様ぼうさま歩行あるきながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい。)と問わぬことまで深切しんせつに話します。それでよく仔細しさいわかってたしかになりはなったけれども、現に一人踏迷ふみまよった者がある。
(こちらの道はこりゃどこへ行くので、)といって売薬の入った左手ゆんでの坂をたずねて見た。
(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行あるいた旧道でがす。やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時いまどき往来の出来るのじゃあござりませぬ。去年もご坊様、親子づれ巡礼じゅんれいが間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食こじきを見たような者じゃというて、人命に代りはねえ、おっかけて助けべえと、巡査様おまわりさまが三人、村の者が十二人、一組になってこれから押登って、やっと連れてもどったくらいでがす。ご坊様も血気にはやって近道をしてはなりましねえぞ、草臥くたびれて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。はい、気を付けて行かっしゃれ。)
 ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予ためらったのは売薬の身の上で。
 まさかに聞いたほどでもあるまいが、それが本当ならば見殺みごろしじゃ、どの道私は出家しゅっけの体、日がれるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るにはおよばぬ、追着おッついて引戻してやろう。罷違まかりちごうて旧道を皆歩行あるいてもしゅうはあるまい、こういう時候じゃ、おおかみしゅんでもなく、魑魅魍魎ちみもうりょうしおさきでもない、ままよ、と思うて、見送るとや深切な百姓の姿も見えぬ。
(よし。)
 思切おもいきって坂道を取ってかかった、侠気おとこぎがあったのではござらぬ、血気にはやったではもとよりない、今申したようではずっともうさとったようじゃが、いやなかなかの臆病者おくびょうもの、川の水を飲むのさえ気がけたほど生命いのちが大事で、なぜまたとわっしゃるか。
 ただ挨拶あいさつをしたばかりの男なら、私は実のところ、打棄うっちゃっておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄てるのが、わざとするようで、気が責めてならなんだから、」
 と宗朝はやはり俯向うつむけにとこに入ったまま合掌がっしょうしていった。
「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ。」

     六

「さて、聞かっしゃい、わしはそれからひのきの裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、の中をくぐって草深いこみちをどこまでも、どこまでも。
 するといつの間にか今上った山は過ぎてまた一ツ山がちかづいて来た、このあたりしばらくの間は野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。
 心持こころもち西と、東と、真中まんなかに山を一ツ置いて二条ふたすじ並んだ路のような、いかさまこれならばやりを立てても行列が通ったであろう。
 このひろでも目の及ぶ限り芥子粒けしつぶほどのおおきさの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行あるいた。
 歩行あるくにはこの方が心細い、あたりがぱッとしていると便たよりがないよ。もちろん飛騨越ひだごえめいを打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこであわの飯にありつけば都合もじょうの方ということになっております。それを覚悟かくごのことで、足は相応に達者、いやくっせずに進んだ進んだ。すると、だんだんまた山が両方からせまって来て、肩につかえそうな狭いとこになった、すぐにのぼり
 さあ、これからが名代なだい天生あもう峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、あえぎながらまず草鞋わらじひも緊直しめなおした。
 ちょうどこの上口のぼりぐちの辺に美濃みの蓮大寺れんだいじの本堂の床下ゆかしたまで吹抜ふきぬけの風穴かざあながあるということを年経としたってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰さたではない、一生懸命いっしょうけんめい景色けしき奇跡きせきもあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、じろぎもしないですたすたとねてのぼる。
 とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、へびで。両方のくさむらに尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。
 わし真先まっさき出会でっくわした時はかさかぶって竹杖たけづえを突いたまま、はッと息を引いてひざを折ってすわったて。
 いやもう生得しょうとく大嫌だいきらいきらいというより恐怖こわいのでな。
 その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首かまくびを上げたと思うと草をさらさらと渡った。
 ようよう起上おきあがって道の五六町も行くと、またおなじように、胴中どうなかを乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!
 あッというて飛退とびのいたが、それも隠れた。三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出はいだしたところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでにがあろうと思う長虫と見えたので、やむことをえずわしまたぎ越した、とたんに下腹したっぱら突張つッぱってぞッと身の毛、毛穴が残らずうろこに変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目をふさいだくらい。
 しぼるような冷汗ひやあせになる気味の悪さ、足がすくんだというて立っていられるすうではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。
 しかも今度のは半分に引切ひっきってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口があおみを帯びてそれでこう黄色なしるが流れてぴくぴくと動いたわ。
 我を忘れてばらばらとあとへ遁帰にげかえったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれをまたぐ気はせぬ。ああさっきのお百姓がものの間違まちがいでも故道ふるみちには蛇がこうといってくれたら、地獄じごくへ落ちても来なかったにと照りつけられて、なみだが流れた、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、今でもぞっとする。」と額に手を。

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