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中国怪奇小説集(ちゅうごくかいきしょうせつしゅう)07白猿伝・其他(唐)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-27 17:47:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   壁龍

 柴紹さいしょうの弟なにがしは身も軽く、足もはやく、どんな所へでも身を躍らせてのぼるばかりか、十余歩ぐらいは飛んで行った。
 唐の太宗たいそう皇帝が彼に命じて長孫無忌ちょうそんむき(太宗の重臣)の鞍を取って来いと言った。同時に無忌にも内報して、取られないように警戒しろと注意した。その夜、鳥のようなものが無忌の邸内に飛び込んで、二つの鞍を二つに切って持ち去った。それ逃がすなと追いかけたが、遂に捉え得なかった。
 帝はまたかれに命じて丹陽公主たんようこうしゅ(公主=皇女)の枕を取って来いと言った。それは金をちりばめたはこ付きの物である。かれは夜半にその寝室へ忍び入って、手をもって睡眠中の公主の顔を撫でた。思わず頭をあげるあいだに、かれは他の枕とりかえて来た。公主は夜の明けるまでそれを覚らなかった。
 又ある時、彼は吉莫靴かわぐつをはいて、石瓦の城に駈けあがった。城上のかきには手がかりがないので、かれは足をもって仏殿の柱を踏んで、のきさきに達し、さらにたるきじて百尺の楼閣に至った。実になんの苦もないのである。太宗帝は不思議に思った。
「こういう男は都の近所に置かない方がよい」
 彼は地方官として遠いところへうつされた。時の人びとは彼を称して壁龍へきりゅうといった。
 太宗は又かつて長孫無忌に七宝帯を賜わった。そのあたい千金である。この当時、段師子だんししと呼ばれる大泥坊があって、屋上の椽のあいだから潜り込んで無忌の枕もとに降り立った。
「動くと、命がありませんぞ」
 彼は白刃を突き付けて、その枕の函の中から七宝帯を取り出した。更にその白刃を床に突き立てて、それを力に飛びあがって、ふたたび元の椽のあいだから逃げ去った。
(同上)

   登仙奇談

 唐の天宝てんぽう年中、河南※(「糸+侯」、第4水準2-84-44)かなんこうし県の仙鶴観せんかくかんには常に七十余人の道士が住んでいた。いずれも専ら修道を怠らない人びとで、未熟の者はここに入ることが出来なかった。
 ここに修業の道士は、毎年九月三日の夜をもって、一人は登仙とうせんすることを得るという旧例があった。
 夜が明ければ、その姓名をしるして届け出るのである。勿論、誰が登仙し得るか判らないので、毎年その夜になると、すべての道士らはみな戸を閉じず、思い思いに独り歩きをして、天の迎いを待つのであった。
 張竭忠ちょうけっちゅうがここの県令となった時、その事あるを信じなかった。そこで、九月三日の夜二人の勇者に命じて、武器をたずさえて窺わせると、宵のあいだは何事もなかったが、夜も三更さんこうに至る頃、一匹の黒い虎が寺内へり来たって、一人の道士をくわえて出た。それと見て二人は矢を射かけたがあたらなかった。しかも虎は道士を捨てて走り去った。
 夜が明けて調べると、昨夜は誰も仙人になった者はなかった。二人はそれを張に報告すると、張は更に府に申し立てて、弓矢の人数をあつめ、仙鶴観に近い太子陵の東にある石穴のなかをあさると、ここに幾匹の虎を獲た。穴の奥には道士の衣冠や金簡のたぐい、人の毛髪や骨のたぐいがたくさんに残っていた。これがすなわち毎年仙人になったという道士の身の果てであった。
 その以来、仙鶴観に住む道士も次第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。
(博異記)

   蒋武

 唐の宝暦ほうれき年中、循州河源じゅんしゅうかげん蒋武しょうぶという男があった。骨格たくましく、豪胆剛勇の生まれで、山中の巌窟に独居して、狩猟に日を送っていた。彼は蹶張けっちょうを得意とし、熊や虎やひょうが、その弦音つるおとに応じてたおれた。蹶張というのは片足で弓を踏ん張って射るのである。そのやじりをあらためると、皆その獣のむねをつらぬいていた。
 ある時、甚だ忙がしそうに門を叩く者があるので、蒋は扉を隔ててうかがうと、一匹の猩々しょうじょうが白い象にまたがっていた。蒋は猩々がよく人の言葉を語ることを知っているので、内からいた。
「象と一緒に来たのはどういうわけだ」
「象に危難がせまって居ります。わたくしに人間の話が出来るというので、わたくしを乗せてお願いに出たのでございます」と、猩々は答えた。
「その危難のわけを言え」と、蒋はまた訊いた。
「この山の南二百余里のところに、天にそびゆる大きい巌穴いわあながございます」と、猩々は言った。「そのなかに長さ数百尺の巴蛇うわばみが棲んで居ります。その眼はいなずまのごとく、そのきばはつるぎの如くで、そこを通る象の一類はみな呑まれたりまれたりします。その難に遭うもの幾百、もはや逃げ隠れるすべもありません。あなたが弓矢を善くするのを存じて居りますので、どうぞ毒矢をもってかれを射殺して、われわれのうれいを除いて下されば、かならず御恩報じをいたします」
 象もまた地にひざまずいて、涙を雨のごとくに流した。
「御承知ならば、矢をたずさえてお乗り下さい」と、猩々はうながした。
 蒋は矢に毒を塗って、象の背にまたがった。行けば果たして巌の下に二つの眼が輝いて、その光りは数百歩を射るのであった。
「あれが蛇の眼です」と、猩々は教えた。
 それを見て、蒋も怒った。彼は得意の蹶張をこころみて、ひと矢で蛇の眼を射ると、象は彼を乗せたままではしり避けた。やがて巌穴のなかでは雷の吼えるような声がして、大蛇だいじゃは躍り出てのたうち廻ると、数里のあいだの木も草も皆その毒気に焼けるばかりであった。蛇は狂い疲れて、日の暮れる頃にたおれた。
 それから穴のあたりを窺うと、そこには象の骨と牙とが、山のように積まれていた。十頭の象があらわれて来て、その長い鼻であかい牙一枚ずつを捲いて蒋に献じた。それを見とどけて、猩々も別れて去った。蒋は初めの象に牙を積んで帰ったが、後にその牙を売って大いに資産を作った。
(伝奇)

   笛師

 唐の天宝の末に、安禄山あんろくざんが乱をおこして、潼関どうかんの守りも敗れた。都の人びとも四方へ散乱した。梨園りえん弟子ていしのうちに笛師ふえしがあって、これも都を落ちて終南山しゅうなんざんの奥に隠れていた。
 そこに古寺があったので、彼はそこに身を忍ばせていると、ある夜、風清く月明らかであるので、彼はやるかたもなき思いを笛に寄せて一曲吹きすさむと、嚠喨りゅうりょうの声は山や谷にひびき渡った。たちまちにそこへ怪しい物がはいって来た。かしらは虎で、かたちは人、身には白い着物をていた。
 笛師はおどろきおそれて、階をくだって立ちすくんでいると、その人は言った。
「いい笛のだ。もっと吹いてくれ」
 よんどころなしに五、六曲を吹きつづけると、その人はいい心持そうに聴きほれていたが、やがておおいびきで寝てしまった。笛師はそっと抜け出して、そこらの高いの上にじ登ると、枝や葉が繁っているので、自分の影をかくすに都合がよかった。やがてその人は眼をさまして、笛師の見えないのに落胆したらしく、大きい溜め息をついた。
「早く喰わなかったので、逃がしてしまった」
 彼は立って、長くうそぶくと、暫くして十数頭の虎が集まって来て、その前にひざまずいた。
「笛吹きの小僧め、おれの寝ている間に逃げて行った。路を分けて探して来い」と、かれは命令した。
 虎の群れはこころ得て立ち去ったが、夜の五更ごこうの頃に帰って来て、人のように言った。
「四、五里のところを探し歩きましたが、見付かりませんでした」
 その時、月は落ちかかって、斜めに照らす光りが樹の上の人物を映し出した。それを見てかれは笑った。
「貴様は雲かすみと消え失せたかと思ったが、はは、此処ここにいたのか」
 かれは虎の群れに指図して、笛師を取らせようとしたが、樹が高いので飛び付くことが出来ない。かれも幾たびか身を跳らせたが、やはり目的を達しなかった。かれらもとうとう思い切って立ち去ると、やがて夜もあけて往来の人も通りかかったので、笛師は無事に樹から離れた。
(広異記)

   担生

 昔、ある書生が路で小さい蛇に出逢った。持ち帰って養っていると、数月の後にはだんだんに大きくなった。書生はいつもそれをにないあるいて、かれを担生たんせいと呼んでいたが、蛇はいよいよ長大になって、もう担い切れなくなったので、これをはん県の東の大きい沼のなかへ放してやった。
 それから四十余年の月日は過ぎた。かの蛇は舟をくつがえすような大蛇だいじゃとなって、土地の人びとに沼のぬしと呼ばれるようになった。迂闊に沼に入る者は、かならず彼に呑まれてしまった。一方の書生は年すでに老いて他国にあり、何かの旅であたかもこの沼のほとりを通りかかると、土地の者が彼に注意した。
「この沼には大蛇が棲んでいて人を食いますから、その近所を通らないがよろしゅうございます」
 時は冬の最中さなかで、気候も甚だ寒かったので、今ごろ蛇の出る筈はないと、書生はかずにその沼へさしかかった。行くこと二十里余、たちまち大蛇があらわれて書生のあとを追って来た。書生はその蛇の形や色を見おぼえていた。
「おまえは担生ではないか」
 それを聞くと、蛇はかしらを垂れて、やがてしずかに立ち去った。書生は無事に范県にゆき着くと、県令は蛇を見たかと訊いた。見たと答えると、その蛇に逢いながら無事であったのは怪しいというので、書生はひとまず獄屋につながれた。結局、彼も妖妄ようもうの徒であると認められて、死刑におこなわれることになった。書生は心中大いに憤った。
「担生の奴め。おれは貴様を養ってやったのに、かえっておれを死地におとしいれるとは何たることだ」
 蛇はその夜、県城を攻め落して一面のみずうみとした。唯その獄屋だけには水がひたさなかったので、書生は幸いに死をまぬかれた。
 天宝の末年に独孤暹どっこせんという者があって、そのしゅうとは范県の県令となっていた。三月三日、家内の者どもと湖水に舟を浮かべていると、子細もなしに舟は俄かに顛覆して、家内大勢がほとんど溺死しそうになった。
(同上)
 



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