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しかるにここに困ったことが出来た。 月日が経つに従って、お染の顔が父親へは似ずに、藤九郎の顔に似るのであった。 「藤九郎め、好男子だからな」 「そういえば、伊丹屋のお神さんは、莫迦に藤九郎めを贔屓にしたっけ」 「誰の種だか解りゃしねえ」 世間の人達はこう云い合った。 しかし真面目な伊丹屋の内儀が、博奕風情の藤九郎などを問題にするはずがない。それは伊右衛門も信じていた。で幸いこの事については何の事件も起こらなかった。 しかし事件はその翌年、すわなちお染の二歳の時に、別の方面から起こってきた。 それは実に嘉永元年夏の初めのことであったが、母のお琴はお染を抱きながら、裏庭の縁で涼んでいた。すると最初口笛が聞こえ、次に鼬が現われた。アッと驚く隙もなく鼬はお染へ噛みついた。幸い手当が速かったので、腕へ歯形が印いただけで、生命には何の別状もなかった。ところが何と奇怪なことには、その翌晩にも口笛が聞こえ、同じ鼬が現われたではないか。そうして鼬はお染を追って、庭の植込の方へ行ったかと思うと、お染の姿が消えてしまった。 ちょうどこの頃城下外れに女軽業の大一座が小屋掛けをして景気を呼んでいた。女太夫の美しいのも勿論評判ではあったけれど、四尺に余る大鼬が、口笛に連れて躍るというのがとりわけ人気を博していた。 それで、自然疑いがその一座へかかって行った。官からも役人が出張し、厳重に小屋を吟味した。しかしお染はいなかった。誘拐したという証拠もない。どうすることも出来なかった。 伊丹屋夫婦の悲嘆にも増して、藤九郎の悲嘆は大きかった。 「彼奴は有名な悪党なんですよ。ええ、あの一座の親方って奴はね。ちょっと私とも知己なんで。釜無の文というんでさ。……ああ本当に飛んだことをした。みんな私が悪かったんで、つい迂闊り口を走らしたんでね」 彼はこう云って口惜しがった。 その後伊丹屋では親類から、伊太郎という養子を迎え、間もなく江戸へ移り住んだが、お染のことは今日が日まで忘れたことはないのであった。 「……こういう事情があるのだもの、妾が鼬を恐がったり、女軽業を憎むのは、ちっとも無理ではないじゃないかえ」 母のお琴は辛そうに云った。 「だからさ、お前もその意で、そんな小屋者の紫錦なんて女を、近付けないようにしておくれよ。どうぞどうぞお願いですからね」 「だってお母さん不可ませんよ」伊太郎はやっぱり反対した。「私は紫錦が好きなんですもの。それにその女は見た所、悪い女じゃありませんよ」 「きっと悪い女ですよ」 「第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ」 「鼬を使うとお云いじゃないか」 「それだって別の鼬ですよ」 「いいえ同じ鼬です。妾見たから知っています」 お琴は飽く迄も云うのであった。
紫錦はこれ迄は源太夫を別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。 「甚助め! 飛んでもねえ奴だ!」 そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。 その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱の質であった。朋輩交際で芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん惚れ込んだのであった。 こういう男女の落ち行く先は、古来往来同一である。夫婦になれなければ心中である。 驚いたのはお琴であった。 彼女は窃り訴え出た。「娘を誘拐した同じ一座が、今度は息子を誑かそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。 勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。 この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。 鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判が可かった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻を喰らう。 で疾風迅雷的に、やっつけようと云うことになった。
その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。 湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんよりと曇り、今にも降ってきそうであった。 伊太郎を家へ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐が颯と吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々漁舟を覆えした。 「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。 次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂が役に立たなくなった。 「どうしよう」 と紫錦は周章てながらなおしばらくは櫓を漕いだ。 しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆えた。 「どうともなれ。勝手にしやアがれ」 そこは小屋者の猛烈性で、こんな事を思いながら、案外暢気に寝そべっていた。 「ご大家様のお坊ちゃん、今こそ妾に夢中になって、夫婦になろうの駆落しようのと、血道をあげているけれど、その中きっと厭になるよ。そうしたら捨てるに違いない。捨てられたら元々通り小屋者の身分へ帰らなけりゃならない。いつ迄も小屋者でいるくらいなら、死んだ方が増じゃないか」 雨と泡沫で彼女の体は、漬けたように濡れてしまった。 「おや」 と彼女は顔を上げた。空が俄かに赤くなったからで、見れば遙か町の一点が、焔を上げて燃えていた。 「おやおやこんな晩に火事を出したんだよ。何て間抜けな人足だろう。アラ、驚いた、小屋じゃないか!」
正しく火事を出したのは、女軽業の掛小屋であった。 役人達が遣って来て、立退きを命ずると、急に彼等は周章て出した。そうして役人に反抗し、突然小屋へ火を掛けた。これには役人達も驚いたが、しかし事情はすぐ解った。この時代の小屋者の常で、彼等は反面、賊でもあった。で盗み蓄めた品物が、小屋に隠されてあったのである。 つまり贓物[#「贓物」は底本では「臓物」]を焼き払い、証拠を湮滅させようため、わざと小屋へ火を掛けたのであった。 それと感付くと役人達は、がぜん態度を一変させ、彼等を捕縛えようと犇めいた。 彼等は男女取り雑ぜて三十人余りの人数であった。それに馬が二頭いた。それから白という猛犬がいた。それから例の鼬がいた。これらのものが一斉に、役人達に敵対した。彼等は武器を持っていた。商売用の刀や匕首や、竹槍などを持っていた。 どんなに彼等が凶暴でも、三十人こっきりであったなら、捕縛えるに苦労はしなかったろう。しかるにここに困ったことには味方する者が現われた。 当時諏訪藩は佐幕党として、勤王派に睨まれていた。で安政年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉三位と宣る公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵が浪士を率い、下諏訪の地に陣取って乱暴したのもこの頃であった。 それで、この事件の起こった時でも、勤王派の浪士達が、様々の者に姿を窶し、城下の諸方に入り込んでいたが、これが小屋者の味方となって、役人方に斬り込んだ。 それに城下の町人達の中にも、味方する者が出来てきて、石礫を投げ出した。 事態重大と見て取って、城下からは兵が出た。 内乱と云えばそうも云え、市街戦と云えばそうも云える。思いも由らない大事件が、計らず勃発したのであった。 城兵かそれとも浪士達か、鉄砲を打ち出したものがあった。 と、火事が飛火した。女の悲鳴、子供の泣声、避難する人々の喚き声が、山に湖面に反響した。
この時一人の若者が、逃げ惑う人々を押し退けて、小屋の方へ走って行った。 他でもない伊太郎で、恋人の安否を気遣って、家を抜け出して来たのであった。 小屋は大半焼け落ちていて、焔の柱、煙の渦巻……その中で戦いが行なわれていた。 役人の一人を殺し、血だらけの竹槍を振りかざしながら、荒れ廻っていた小屋掛があったが、伊太郎の姿に眼を付けると、 「野郎!」 と叫んで飛び掛かって行った。余人ならぬ源太夫であった。 「紫錦さんは 紫錦さんは」 「何を吠く! 死ってしまえ!」 源太夫は伊太郎の襟上を掴むと、ズルズルと火の中へ引き込もうとした。 と、焔に狂気しながら、馬が一頭走り出して来た。 「嬲殺しだ! 思い知れ!」 伊太郎は馬の背へ括り付けられた。 「ヤッ」と叫ぶと源太夫は竹槍で馬の尻を突いた。 馬は驀地に狂奔し、湖水の中へ飛び込んだ。 ワッワッと云う鬨声。火事は四方へ飛火した。
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湖水は猛烈に荒れていた。火事は益々燃え拡がった。物凄くもあれば美しくもあった。 紫錦は小舟に取り付いたまま浪の荒れるに委せていた。火事の光が水に映り四辺が茫と明るかった。 その時何物か浪を分けて彼女の方へ来るものがあった。 「おや、馬だよ。馬が泳いで来る」 いかにもそれは馬であった。 「おや。黒だよ、黒来い来い!」 紫錦は喜んで声を上げた。 馬は馴染の黒であった。つまり彼女が芸当をする時、時々乗った馬であった。近付くままによく見ると誰やら馬の背にくくり付けられていた。それが恋人の伊太郎であると火事の光りで見て取った時の彼女の驚きと云うものはちょっと形容に苦しむ程であった。その伊太郎は気絶していた。そうして手足から血を流していた。 彼女は軽業の太夫であって馬扱いには慣れていた。で小舟を乗り捨てて馬と一緒に泳ぐことにした。荒れ狂う浪を掻き分け掻き分け馬と人とは泳ぎに泳いだ。精も根も尽き果て、もう溺れるより仕方がないと、こう彼女が思った時、眼前に石垣が現われた。伊太郎の家の石垣であった。 伊太郎の家ではもう先刻から、伊太郎の姿が見えないと云うので、母をはじめ家内の者は狂人のようになっていた。とそこへ現われたのが伊太郎を抱き抱えた紫錦の姿であった。 「伊太郎さんが!」 「若旦那が!」 と、にわかに人々は活気付いた。張り詰めていた精神がこの時一時に弛んだと見えて、紫錦は気絶してグダグダと倒れた。それと云うので人々は二人を家の中へ舁ぎ入れた。間もなく医者が駈け付けて来て応急手当を施した。 この頃町では火事と戦いとがなお烈しく行なわれていた。それが全然静まったのは夜も明け方に近い頃で、その結果はどうかと云うに、むしろ諏訪藩の負けであった。小屋者にも浪士達にも、大半逃げられてしまったのであった。 伊太郎と紫錦が蘇生したのはそれから間もなくのことであった。二人は顔を見合わせてかつ驚きかつ喜んだ。紫錦は伊太郎の命の親であった。伊丹屋としても粗末に出来ない。それに彼女が属していた例の軽業の一行は、今は行衛不明であった。いわば彼女は宿なしであった。で伊丹屋では娘分として彼女を養うことにした。 信濃の春は遅かったが秋の立つのは早かった。湖水の水が澄みかえり八ヶ嶽の裾野に女郎花が咲いた。虫の鳴音が降るように聞こえた。この頃伊丹屋では諏訪を引き上げ江戸の本宅へ帰ることになった。 さて、ところで、紫錦にとっては、江戸の本宅の生活は、かなり窮屈なものであった。ジプシイ型の彼女から見れば、まるで不自由そのものであった。ちょっと外出にも女中が付き、箸の上げ下げにも作法があった。 「簡単」ということが卑しまれ「面倒臭い」ということが尊ばれた。膝を崩すことも出来なければ寝そべることも出来なかった。あらゆるものに敬語を付け、呼び捨てにするのを失礼とした。「お箸」「お香の物」「お櫛」「お召物」―― 彼女は繁雑に耐えられなくなった。 それに一緒に住んで見れば、柔弱の伊太郎も鼻に付いた。 「万事万端拵え物のようで、活気というものがありゃアしない」彼女はこんなように思うのであった。 「お金持とか上流とか、そういった人達の生活方が、みんながみんなこうだとすれば、ちっともうらやましいものではない」 とはいえ以前の生活へ帰って行きたいとは思わなかった。それは「泥棒の生活」であり又「動物の生活」だからであった。 「何か妾にぴったりと合った有意味の暮らし方はないものかしら」 彼女はそれを目付けるようになった。 伊丹屋の主人伊右衛門が或日女房にこう云った「お錦、近来変わってきたね。なんだかおちつかなくなったじゃないか」 「そう云えば本当にそうですね」女房のお琴も眉を顰め「いったいどうしたって云うんでしょう」 「それにお錦は左の腕を、いつも繃帯しているが、どうも私は気になってならない」 「ほんとにあれは変ですね」 「お前からそれとなく訊いて見るがいい」 ――それで、或日それとなくお琴はお錦へ訊ねて見た。 「お前傷でもしたんじゃないの?」 「いいえ、そうじゃございません」お錦はそっと着物の上から左の二の腕を抑えたが、 「痣があるのでございますの」 「まあ、そうかえ、痣がねえ」 お琴は意外な顔をした。
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