12[#「12」は縦中横]
「爺つあん」はすっかり疲労てしまった。 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。 で、布団を胸へかけ、静かに睡へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆さんが顔を出した。 「もし、親方、お客様ですよ」 「誰だか知らねえが断っておくれ」 「どうしても逢いたいって仰有るので」 「ところが俺は逢いたくねえのだ」 「困りましたね、どうしましょう」 婆さんはいかにも困ったらしかった。 「どんな人だね、逢いたいって人は?」 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、 「「爺つあん」俺だよ」という声がした。 開けられた襖のむこう側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。 「おっ、お前は文じゃねえか!」 「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。 「うん、そうだよ、「釜無しの文」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっちへ行っていな、俺ら「爺つあん」に用があるんだからな」 雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。 「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」 「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」 「おいら夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村一座の仕打として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」 「目付けてくれずともよかったに」 「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」 「ところで、どうして目付けたな?」 「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」 「ああ成程、トン公をな」 「彼奴は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」 「そういうことだな、トン公から聞いた」 「ところが今じゃお前の座にいる」 「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」 「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」 「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。 「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換しようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。 「交換だって? え、何の?」 「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな」 「成程」と云ったが、「爺つあん」は、変に皮肉に微笑した。「その交換なら止めようよ」 「え、厭だって? どうしてだい?」文は明かにびっくりした。 「もうあの娘には用がねえからさ」 「おかしいな、どうしてだい?」 「俺の心が変ったからさ」 「だって、お前の子じゃあねえか」 「それに」と「爺つあん」は嘲笑うように「噂によるとあの紫錦は、高島以来お前の所から、行衛を眩ましたって云うじゃねえか」 「え?」と云ったが釜無しの文は、顔に狼狽を現わした。しかしすぐに声高く笑い「トン公の野郎め、喋舌ったな!」 「手許にもいねえその紫錦を、どうして俺らへ返してくれるな?」 「うん」と云ったが、行き詰ってしまった。 「だがな」と文は盛り返し「いかにも紫錦は手許にはいねえ。だが居場所は解っている。源公が後をつけて行ったはずだ」 「ふうむ」 と今度は「爺つあん」の方が、苦悶の色を現わした。 「だから紫錦は俺達のものさ」 「ほんとに居場所を知っているのか?」 「知っていなくてさ。大知りだ」 「どこに居るな? 云ってみるがいい」 「じゃ、よこせ、杉の手箱を!」 隙さず文は手を出した。
13[#「13」は縦中横]
「その手箱なら手許にないよ」素気なく「爺つあん」は云い放った。 「嘘を云いねえ、ほんとにするものか」文は憎さげに笑ったが、「ではどうでも厭なのだな。ふん、厭なら止すがいい。その代り紫錦を連れて来て、もう今度は遠慮はいらねえ、何も彼もモミクチャにしてやるから」 これを聞くと「爺つあん」の顔は、不安のために歪んだが、 「文! 紫錦にゃ罪はねえ! そんな事はよしてくれ!」 「じゃ、手箱を渡すがいい」 「ないのだないのだ! 手許には!」 「じゃ一体どこにあるのだ?」 「そいつあ云えねえ。勘弁してくれ」 「云えなけりゃそれまでよ。……そろそろ料理に取りかかるかな」 文は部屋から出ようとした。 「オイ待ってくれ、釜無しの!」と「爺つあん」は周章てて呼びとめた。 「何か用かな? え、「爺つあん」?」相手の苦痛を味わうかのように文はゆっくりとこう云った。 「ほんとに紫錦をいじめる気か?」 「二枚の舌は使わねえよ」 「ほんとに居場所を知ってるのか? え、紫錦の居り場所を?」 「二枚の舌は使わねえよ」 「それじゃどうも仕方がねえ」じっと「爺つあん」は考え込んだが、 「云うとしよう、在り場所をな」 「おお云うか、それはそれは」文はニタリと北叟笑みをしたが、「どこにあるんだ、え、手箱は」 「その代り手箱を手に入れたら、きっと紫錦からは手を引くだろうな」 「云うにゃ及ぶだ、手を引くとも。元々あの娘を抑えたのは、その手箱が欲しかったからさ。いわば人質に取ったんだからな。……で、手箱はどこにあるな?」 「よく聞きねえよ、その手箱はな……」 「おっと、云っちゃいけねえ!」突然こう云う声がした。 驚く二人の眼の前へ、襖をあけて現われたのは、他でもないトン公であったが、頭を白布で巻いているのは、傷を結えたからであろう。 「おお親方、久し振りだね」まず文へ挨拶をした。 「や、手前、トン公じゃねえか!」文は憎さげに怒鳴り声をあげ「福助の出る幕じゃあねえ、引っ込んでろ!」 「そいつはいけねえ、いけねえとも、お生憎さまだが引っ込めねえ」負けずにトン公はやり返した。 「と云うなあお前さんが、あんまり嘘を云うからさ」 「ナニ嘘を云う? 嘘とはなんだ!」 「嘘じゃねえかよ、ねえ親方、なんのお前さんや源公が、紫錦さんの居場所を知ってるものか。大嘘吐きのコンコンチキさね。こっちはちゃあんと見透しだあ」トン公は小気味よく喝破してから、「ねえ親方、嘘だと思うなら、荒筋を摘まんで話してもいい。聞きなさるか、え、親方?」 文は返辞をしなかった。 「まずこうだ、しかも今日、お前さんとそうして源公とが、観音堂の横っちょで、エテ物を踊らせていたってものだ。するとそこへ遣って来たのが、令嬢姿の紫錦さんよ。で、早速源公が後をつけたというものだ。そうさ、ここまでは成功だ。だが、後が面白くねえ、そうさ、途中でまかれたんだからな。アッハハハ、いい面の皮さ。……だから親方にしろ源公にしろ、紫錦さんの居り場所なんか、知ってるはずはねえじゃあねえか。へん、この通り、見透しだあね」 文は返辞をしなかった。事実は返辞が出来なかった。それというのもトン公の言葉が一々胸にあたるからであった。 「トン公!」ととうとう喚くように云った。「昔の親方の恩を忘れ、襟元へ付こうって云うんだな。覚えていろよ、いい事アねえぞ」 「覚えているとも」とトン公は笑い、「悪いことは云わねえ帰った方がいい。そうだ足下の明るいうちにね」 云い捲くられた釜無しの文は、縹緻を下げて帰ることになった。 足音が門口から消えた時、「爺つあん」は深い溜息をした。 「……すんでに瞞される所だった。トン公、ほんとに有難うよ」 「ナーニ」と云ったがトン公は、頭の繃帯を手でさぐり、「どうもいけねえ、まだ痛えや。……だがね「爺つあん」実の所はね、紫錦さんは浮雲
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