12[#「12」は縦中横]
「爺つあん」はすっかり疲労てしまった。 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。 で、布団を胸へかけ、静かに睡へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆さんが顔を出した。 「もし、親方、お客様ですよ」 「誰だか知らねえが断っておくれ」 「どうしても逢いたいって仰有るので」 「ところが俺は逢いたくねえのだ」 「困りましたね、どうしましょう」 婆さんはいかにも困ったらしかった。 「どんな人だね、逢いたいって人は?」 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、 「「爺つあん」俺だよ」という声がした。 開けられた襖のむこう側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。 「おっ、お前は文じゃねえか!」 「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。 「うん、そうだよ、「釜無しの文」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっちへ行っていな、俺ら「爺つあん」に用があるんだからな」 雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。 「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」 「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」 「おいら夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村一座の仕打として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」 「目付けてくれずともよかったに」 「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」 「ところで、どうして目付けたな?」 「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」 「ああ成程、トン公をな」 「彼奴は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」 「そういうことだな、トン公から聞いた」 「ところが今じゃお前の座にいる」 「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」 「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」 「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。 「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換しようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。 「交換だって? え、何の?」 「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな」 「成程」と云ったが、「爺つあん」は、変に皮肉に微笑した。「その交換なら止めようよ」 「え、厭だって? どうしてだい?」文は明かにびっくりした。 「もうあの娘には用がねえからさ」 「おかしいな、どうしてだい?」 「俺の心が変ったからさ」 「だって、お前の子じゃあねえか」 「それに」と「爺つあん」は嘲笑うように「噂によるとあの紫錦は、高島以来お前の所から、行衛を眩ましたって云うじゃねえか」 「え?」と云ったが釜無しの文は、顔に狼狽を現わした。しかしすぐに声高く笑い「トン公の野郎め、喋舌ったな!」 「手許にもいねえその紫錦を、どうして俺らへ返してくれるな?」 「うん」と云ったが、行き詰ってしまった。 「だがな」と文は盛り返し「いかにも紫錦は手許にはいねえ。だが居場所は解っている。源公が後をつけて行ったはずだ」 「ふうむ」 と今度は「爺つあん」の方が、苦悶の色を現わした。 「だから紫錦は俺達のものさ」 「ほんとに居場所を知っているのか?」 「知っていなくてさ。大知りだ」 「どこに居るな? 云ってみるがいい」 「じゃ、よこせ、杉の手箱を!」 隙さず文は手を出した。
13[#「13」は縦中横]
「その手箱なら手許にないよ」素気なく「爺つあん」は云い放った。 「嘘を云いねえ、ほんとにするものか」文は憎さげに笑ったが、「ではどうでも厭なのだな。ふん、厭なら止すがいい。その代り紫錦を連れて来て、もう今度は遠慮はいらねえ、何も彼もモミクチャにしてやるから」 これを聞くと「爺つあん」の顔は、不安のために歪んだが、 「文! 紫錦にゃ罪はねえ! そんな事はよしてくれ!」 「じゃ、手箱を渡すがいい」 「ないのだないのだ! 手許には!」 「じゃ一体どこにあるのだ?」 「そいつあ云えねえ。勘弁してくれ」 「云えなけりゃそれまでよ。……そろそろ料理に取りかかるかな」 文は部屋から出ようとした。 「オイ待ってくれ、釜無しの!」と「爺つあん」は周章てて呼びとめた。 「何か用かな? え、「爺つあん」?」相手の苦痛を味わうかのように文はゆっくりとこう云った。 「ほんとに紫錦をいじめる気か?」 「二枚の舌は使わねえよ」 「ほんとに居場所を知ってるのか? え、紫錦の居り場所を?」 「二枚の舌は使わねえよ」 「それじゃどうも仕方がねえ」じっと「爺つあん」は考え込んだが、 「云うとしよう、在り場所をな」 「おお云うか、それはそれは」文はニタリと北叟笑みをしたが、「どこにあるんだ、え、手箱は」 「その代り手箱を手に入れたら、きっと紫錦からは手を引くだろうな」 「云うにゃ及ぶだ、手を引くとも。元々あの娘を抑えたのは、その手箱が欲しかったからさ。いわば人質に取ったんだからな。……で、手箱はどこにあるな?」 「よく聞きねえよ、その手箱はな……」 「おっと、云っちゃいけねえ!」突然こう云う声がした。 驚く二人の眼の前へ、襖をあけて現われたのは、他でもないトン公であったが、頭を白布で巻いているのは、傷を結えたからであろう。 「おお親方、久し振りだね」まず文へ挨拶をした。 「や、手前、トン公じゃねえか!」文は憎さげに怒鳴り声をあげ「福助の出る幕じゃあねえ、引っ込んでろ!」 「そいつはいけねえ、いけねえとも、お生憎さまだが引っ込めねえ」負けずにトン公はやり返した。 「と云うなあお前さんが、あんまり嘘を云うからさ」 「ナニ嘘を云う? 嘘とはなんだ!」 「嘘じゃねえかよ、ねえ親方、なんのお前さんや源公が、紫錦さんの居場所を知ってるものか。大嘘吐きのコンコンチキさね。こっちはちゃあんと見透しだあ」トン公は小気味よく喝破してから、「ねえ親方、嘘だと思うなら、荒筋を摘まんで話してもいい。聞きなさるか、え、親方?」 文は返辞をしなかった。 「まずこうだ、しかも今日、お前さんとそうして源公とが、観音堂の横っちょで、エテ物を踊らせていたってものだ。するとそこへ遣って来たのが、令嬢姿の紫錦さんよ。で、早速源公が後をつけたというものだ。そうさ、ここまでは成功だ。だが、後が面白くねえ、そうさ、途中でまかれたんだからな。アッハハハ、いい面の皮さ。……だから親方にしろ源公にしろ、紫錦さんの居り場所なんか、知ってるはずはねえじゃあねえか。へん、この通り、見透しだあね」 文は返辞をしなかった。事実は返辞が出来なかった。それというのもトン公の言葉が一々胸にあたるからであった。 「トン公!」ととうとう喚くように云った。「昔の親方の恩を忘れ、襟元へ付こうって云うんだな。覚えていろよ、いい事アねえぞ」 「覚えているとも」とトン公は笑い、「悪いことは云わねえ帰った方がいい。そうだ足下の明るいうちにね」 云い捲くられた釜無しの文は、縹緻を下げて帰ることになった。 足音が門口から消えた時、「爺つあん」は深い溜息をした。 「……すんでに瞞される所だった。トン公、ほんとに有難うよ」 「ナーニ」と云ったがトン公は、頭の繃帯を手でさぐり、「どうもいけねえ、まだ痛えや。……だがね「爺つあん」実の所はね、紫錦さんは浮雲えんだよ」 「え、どうしてだい? どうして浮雲えな?」 「源公の野郎ヤケになって、江戸中探しているらしいんだ。それで今夜もぶつかったって訳さ。この頭の傷だって、つまり何だ、その時の土産さ。……あれいけねえ、まだ痛えや!」怨めしそうな顔をした。
14[#「14」は縦中横]
よし足引の山めぐり、四季のながめも面白や、梅が笑えば柳が招く、風のまにまに 早蕨の、手を引きそうて 弥生山……
その翌日の午後であったが、小堀義哉は裏座敷で、清元の『山姥』をさらっていた。 と、襖がつつましく開いて、小間使いのお花が顔を出した。 「あの、お客様でございます」 「お客様? どなただな?」 「伊丹屋の娘だと仰有いまして、眼の醒るようなお美しい方が、駕籠でお見えでございます」 「ああそうか、通すがよい」 間もなく部屋へ現われたのは、盛装をしたお錦であった。 「お錦殿か、よく見えられたな」義哉は愛想よく声を掛けた。 「昨夜はお助け下されまして、お蔭をもちまして危難を遁がれ、何とお礼を申してよいやら」 お錦は手をついて辞儀をしたが、「お礼にあがりましてござります」 其処へ小間使いが現われて、頂戴物の披露をした。 「それはそれはご丁寧に。そんな心配には及ばなかったものを」義哉はかえって気の毒そうにした。 一人は美男の若侍、一人は妖艶な町娘、それに男は武士とは云っても、清元の名手で寧ろ芸人そうして女は其昔は女軽業の太夫である。それが春の日の閑静な部屋に、二人だけで向かい合っているのであった。 二人はしばらく黙っていた。蒸されるような沈黙であった。 「おおそうそう、杉の手箱をお預かりしてあったはず、お持ち帰りになられるかな」やがて義哉はこう云って、ものしずかに立ち上りかけた。 「ハイ」と云ったが、周章てて止め、「ご迷惑でないようでございましたら、その手箱はもう少々お預かりなされて下さいますよう」 「ははあ左様か、よろしゅうござる」 この手箱がありさえしたら、これから度々この娘が、訪ねて来ないものではない。何と云っても美しい娘で、美人を見るということは、悪い気持のものではない。……これが義哉の心持だった。それで、承知したのであった。話の口が切れたので、すぐに義哉は追っかけて訊いた。 「由ありそうな杉の手箱、何が入れてありますかな?」 「さあ何でございましょうか」お錦は一向平気で云った。「戴いたものでございますの」 「ほほう左様で、誰人からな?」 「ハイ、見知らぬ老人から」 「見知らぬ老人から? これは不思議」 「ほんとに不思議でございますの。……昨夜あれから参りました、瓦町の古家で、気味の悪い老人から、戴いたものでございます」 「ふうむ」と云ったが小堀義哉は、にわかに興味に捉えられた。 で、立ち上って隣室へ行き、袋戸棚の戸をあけて、杉の手箱を取り出して来た。それから仔細に調べたが、 「この箱は杉ではない」先づこう云って首を傾げた。 「杉でないと仰有いますと?」 「杉材としては持ち重りがする。鐡で作った箱の表皮へ、杉の板を張り付けたもので、しかも日本の細工ではない。支那製か南蛮製だ」 「マアさようでございますか」お錦も興味を感じてきた。 「ひとつ、開けて見ましょうかな。おおここに鍵穴がある。さて鍵だがお持ちかな?」 「ハイ、うちにならございます」 「では明日にでも持って来て、ともかくも開けて見ましょうかな」 「そういうことに致しましょう」 ここで話がちょっと切れた。 もう夕暮に近かった。庭の築山では吉野桜が、微風にもつれて散っていた。パチッ、パチッと音のするのは、泉水で鯉が躍ねるのであった。 何気なくお錦は庭を見た。往来と境の黒板塀にかなり大きな節穴があったが、そこから誰か覗いていると見えてギラギラ光る眼が見えた。 「あれ!」とお錦の叫んだ時には、もうその眼は消えていた。
15[#「15」は縦中横]
やがて夕暮がやって来た。お暇をしなければならなかった。充分の未練を後へ残し、お錦は駕籠で帰って行った。 「よこしまの美であろうとも、美人はやっぱり好ましいものだ」 義哉はこんなことを想いながら、部屋に残っている脂粉の香に、うっとりと心をときめかした。 思い出して三味線を取り上げると、さっきの続きを弾き出した。
雁がとどけし 玉章は、小萩のたもとかるやかに、へんじ 紫苑も朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
ちょうどここまで引いて来た時、どうしたものか一の絃が、鈍い音を立ててブッツリと切れた。 「これはおかしい」と云いながら三味線の棹を膝へのせ、義哉は小首をかたむけた。 「一の絃の切れるのは、芽出度いことになっているが、どうもそうとは思われない」彼は何となく不安になった。「変ったことでもなければよいが」 帰って行ったお錦のことが、妙に気になってならなかった。で、三味線を掻いて遺ると彼は急いで立ち上った。 「お花お花」と小間使を呼び「ちょっと私は出てくるからね。この手箱をしまっておくれ」 云いすてとつかわ家を出ると、愛宕下の方へ足を向けた。 暮れそうで暮れない春の日も、愛宕下へ来た頃には、もうすっかり暮れてしまって、人の顔さえさだかでなかった。その時こんもりと繁り合った、林の中から云い争うような男女の声が聞こえてきた。 さてこそ! というような気持がして、義哉はそっちへ走って行った。 そこは林のずっと奥で、丘になろうとする傾斜地であったが、香具師風をした八九人の男が、一人の娘を真中に取り込め、口汚く罵っていた。その娘はお錦であった。それと見て取った小堀義哉は、足音荒く走り寄ったが、 「この破落戸!」と一喝した。 しかしこれは悪かった。破落戸のうち四五人の者が、急に彼の方へ向かって来た。そうして後の四五人は、お錦を宙へ吊るすようにして、一散に丘の方へ走り出した。ならずものなどと声をかけずに、忍び寄って一刀に、彼らの一人を斬ったなら、彼らは恐れて逃げたかもしれない。 義哉へ向かった破落戸達は、いずれも獲物を持っていた。そうして人数も多かった。無手であしらうのは困難であった。そこで義哉も刀を抜いた。 義哉は芸人ではあったけれど、武術もひととおりは心得ていた。しかし勿論名人ではなかった。とはいえ四五人の破落戸ぐらいに、退けを取るような未熟者でもなかった。 しかし彼の心持は、この時ひどく混乱していた。娘を助けなければならないからであった。 彼は平和好きの性質からいえば、人を斬るのは厭であり、峯打ちぐらいで済ましたかったが、しかしそうはいかなかった。破落戸どもの抵抗は、思ったよりも強かった。 「チェッ」と一つ舌うちをすると、真先に進んで来た破落戸の右の手首へ斬り付けた。 侍でない悲しさに、斬り付けられた破落戸は、ワーッと叫ぶと尻もちを突いた。踏み込んで行って斬り付けるのは、容易なことではあったけれど、義哉はそうはしなかった。ビューッと刀を振り廻し、 「まだ来る気か!」と威嚇した。 これは非常に有効であった。ワーッと叫ぶと破落戸どもは、手負い[#「手負い」は底本では「手負ひ」]の仲間を捨てたまま、パラパラと四方へ逃げ散った。 その隙に義哉は走り出した。 朧ろの春の月影に、丘の方を透かして見ると、お錦をかどわかした一団は、今や丘を上りきり、向う側へ下りようとしていた。 で、血刀をさげたまま彼はその後を追っかけた。しかし頂上まで来た時には、彼等の一団は丘を下り、巴町の方へ走っていた。 そこで彼も丘を下り、彼らの後を追っかけて行った。 夜の静寂を驚かせ、彼らの走る足音は、家々の戸に反響したが、さてその戸を引き開けて、事件の真相を知ろうというような、冒険好きの者はいなかった。この頃は幕府も末の末で、有司の威令は行なわれず、将軍の威厳さえほとんど傾き、市中は文字通り無警察で、白昼切取強盗さえあった。 そこで、市民は日中さえ、店を開こうとはしないほどであった。 その時、破落戸の一団は、にわかに大通りから横へそれた。で、義哉もその後を追い、狭い露路を左へ曲がった。 曲がって見て彼はアッと云った。露路は浅い袋路なのに、彼らの姿がどこにも見えない。 彼は棒立ちに突立った。それから仔細に辺りを見た。
16[#「16」は縦中横]
左と右は板壁で、出入口らしいものは一つもなく。[#「。」はママ]ただ正面に古びた家が、戸口を向けて立っていた。 「ああ、あの家へ入り込んだな」 こう思った彼は走り寄ると、躊躇なく表戸へ手を掛けた。すると意外にもスルリと開いた。内へ入って見廻すと、空家と見えて人影もなく、家具類さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]見あたらない。 裏にも一つの出入口があって、その戸がなかば開いていた。 「うん、あそこから抜け出したのだな」 で、彼はその口から、急いで外へ出ようとした。すると、その戸がにわかに閉じ、閂を下す音がした。 「しまった!」と叫ぶと身を翻えし、入って来た口から出ようとした。するとその戸も外から閉ざされ、閂のかかる音がした。 もう出ることは出来なかった。彼は監禁されてしまった。 こんな場合の彼の心に、よくあてはまる形容詞といえば「茫然」という文字だろう。実際彼は茫然として、暗黒の家内に突立っていた。 しかしいつまでも茫然として、突立っていることは出来なかった。抜け出さなければならなかったし、追っかけなければならなかった。いやいやそれよりこうなってみれば、先ず何より自分自身の、安全を計らなければならなかった。 「戸を破るより仕方がない」そこで彼は全力を集め、裏戸へ体をぶっつけた[#「ぶっつけた」は底本では「ぶつっけた」]。 途端に人声が聞こえてきた。 「こっちでござる。お入りなされ」 ギョッとして四辺を見廻すと、一筋の火光が天井から、斜に足許へ射していた。二階から来た燈火である。ぼんやりと梯子段も見えている。その梯子段の行き詰まりに、がんじょうな戸が立ててあり、それが細目にあけられた隙から火光が幽に洩れていた。 「それでは空家ではなかったのか」こう思うと彼は心強くなった。それと同時に案内も乞わず、他人の家へ入り込んだことが、申し訳なくも思われた。 「こちらへ」 という声が聞こえた。 そこで彼は階段を上った。 思わず彼はあっと云った。二階の部屋の光景が不思議を極めていたからであった。そこには十人の男がいた。一人は按摩、一人は瞽女、もう一人は琵琶師、もう一人は飴屋、更に、居合抜に扮したもの、更に独楽師に扮したもの、又は大工又は屑屋、後の二人は商人風に、縞の衣裳を着ていたが、いずれも鋭い眼光や、刀を左右に引き付けている様子で、武士であることが見て取られた。 そうして彼らの真中に一葉の図面が置かれてあったが、他ならぬ千代田城の図面であった。 「これは浪士だ! 浪士の密会だ!」早くも察した小堀義哉は戦慄せざるを得なかった。 浪士達の方でも驚いたらしく、互に顔を見合わせたが、 「これは人違いだ。本庄氏ではない」琵琶師に扮した一人が云った。 「貴殿は一体何者かな?」 「拙者は旗本、小堀と申すもの、人を迫っ駆けて参ったものでござる」義哉は正直に打ち明けた。 「実は空家と存じましてな」 「左様、ここは空家でござる。……幽霊屋敷で通っている。外桜田の毛脛屋敷でござる」 これを聞くと小堀義哉[#「義哉」は底本では「直哉」]は、「ああそうか」と思わず云った。天井から毛脛が下がって来て悪戯をするという所から、外桜田[#「外桜田」は底本では「下桜田」]の毛脛[#「毛脛」は底本では「下脛」]屋敷と呼ばれ、いつまで経っても住手のない家が、一軒あるという噂は、既に以前に聞いていた。「はああそれでは浪士どもが、集会の用に立てようため、そんな気味の悪い噂を立て、人を付近に近寄せないのだな」こう考えて来ていよいよ義哉は身の危険に戦慄いた。 その時浪士たちは顔を寄せ合い、しばらくヒソヒソ相談したが、 「さて小堀義哉氏とやら、我々を何と覚しめすな?」琵琶師風の一人がやがて云った。 「姿はさまざまにしては居れど、浪士方と存ぜられます」 「いかにも左様、浪士でござる。……何の為の会合とおぼしめすな?」 「それはトント存じませんな」 「この図面、ご存知かな?」 琵琶師は図面を指差した。 「千代田の城の図面でござろう」 すると浪士は頷いたが、 「実は我ら千代田城へ、火を掛けようと存じましてな。それで会合をして居るのでござる」 家常茶飯事でも話すように、こう浪士はスラスラと云った。そうしてじっと眼を据えて、義哉の顔を見守った。
17[#「17」は縦中横]
主君も主君将軍家の城を、焼打ちにしようというのであるから、これが普通の幕臣なら、カッと逆上るに違いない。 勿論義哉もカッとなった。しかし義哉は芸人であって、忍耐性に富んでいた。それで、別に顔色をかえず、冷やかに相手を見返した。 「小堀氏、何と思われるな?」 琵琶師風の浪士は嘲笑うように「さぞ憤慨に堪えられますまいな」 「破壊、放火、殺人というような殺伐なことは大嫌いでござる。こういう意味から云う時は、勿論貴所方の計画を、快く思うことは出来ませんな」義哉は憚らず思う所を云った。 「将軍に対する反逆については?」 「それとてよくはござらぬな。しかし、大勢というものは、多数の意嚮に帰するものでござる。天下は一人の天下ではなく、即ち天下の天下でござる、いや、帝の天下でござる」 「しかし、貴殿は旗本とのこと、すれば将軍は直接の主君、それに反抗するこの我々をさぞ憎く覚し召さりょうな?」 「さようでござる、普通にはな」義哉は敢て興奮もせず「しかしそれより実の所は、勤王、左幕の衝突の結果、世間がいつ迄もおちつかず、その為芸道の廃れを見るのが、拙者にとっては残念でござるよ」 「ナニ、芸道とな? 何の芸道?」 「清元、常磐津、長唄、新内、その他一般の三味線学でござる。日本古来よりの芸道でござる」 これを聞くと浪士達は、一度にドッと笑い出した。それから口々に罵った。 「アッハハハ、沙汰の限りだ。こういう武士があればこそ、徳川の天下は亡びるのだ」 「両刀をたばさむ武士たるものが、遊芸音曲に味方するとは、さてさて武士道もすたれたものでござるな」 「諸君、そういったものでもない」こう静かに止めたのは、例の琵琶師風の浪士であった。どうやら一座の頭目らしい。グイと義哉の方へ膝を進めたが、 「いや仰せごもっともでござる。武道であれ遊芸であれ、人の世に必要があればこそ、産れもし繁栄も致すので、この世に用のないものなら、産れもせねば繁昌もしまい。せっかく栄えた遊芸道が、衰退に向うということは、それを愛する人々にとり、遺憾であるに相違ござらぬ。……がそれはともかくとして、たとえ偶然であろうとも、我らが集会へ突然参られ、一切の秘密を知ったからは、お気の毒ながら安穏に、お帰しすることは出来ませんでな」 さも笑止だというように、こう云うとその浪士は微笑した。 どうせ無事ではあるまいと、ひそかに覚悟はしていたものの、いよいよこのように明かされてみれば、義哉としても恐ろしかった。彼は下俯向き、黙って唇を噛みしめた。 「しかし貴殿はたった一人、それに反して我らは十人、一度にかかっては後の人に、卑怯の譏りを受けるでござろう。そこで一人ずつの真剣勝負、最初に拙者がお相手致す、お立合い下さることなりますまいかな」 言葉は丁寧ではあったけれど、語韻に云われぬ殺気があって、義哉の心をおびやかした。 「その立合いなら無駄でござる」やがて義哉は冷やかに云った。 「ほほう、それは何故でござるな?」 「なぜと申して、立ち合ったが最後、負けるに相違ござらぬからな」 「ふうむ、それで、厭とおっしゃるか」さも案外だと云うように、 「しかし、それでは卑怯でござるぞ」 「負けると知って剣を合わせ、万一の僥倖を期する者こそ、即ち卑怯と申すもの。拙者はそれとは反対でござる」 「なるほど」と浪士はそれを聞くと、どうやら感心したらしかった。「と申してこのままお帰ししては、秘密の洩れるおそれがある。いよいよお立合い下さらぬとあっては、お気の毒ながら一刀の下に……」 「よろしゅうござる、お斬りなされ」 いよいよ不可ないと知ってからは、却って捨身の度胸が定まり、義哉の心は澄み返った。そこで、膝へ両手を重ね、頸をグイと前へ延ばした。 それと見てとると例の浪士は、やおら立ち上って太刀を抜いたが、「神妙のお覚悟感じ入ってござる、何か遺言はござらぬかな」 「左様」と云って首をかしげたが「ちょっと三味線をお貸し下され」 ここに至って浪士どもは、唖然たらざるを得なかった。 「何になさるな?」と例の浪士が訊いた。 「中途で弾き止めた清元の『山姥』、今生の思い出に了えとうござる」 「ははあ」と云うと例の浪士は、仲間の者と眼を見合わせたが、やがて頤で合図をした。瞽女に扮した浪士の一人が、そこで三味線を押しやった。 艶に床しい三味線の音色が、毛脛屋敷から洩れたのは、それから間もなくのことであった。
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