国枝史郎伝奇全集 巻六 |
未知谷 |
1993(平成5)年9月30日 |
1993(平成5)年9月30日初版 |
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1
「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざらの男振りでもない意だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」 ユダはこう云って抱き介えようとした。 猶太第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。 「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」 「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」 「胸をご覧、妾の胸を」 マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくらと目が廻った。 「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」 「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解った」 ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革商人のヤコブであった。 「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」 革財布をチャラチャラ揺すぶった。 「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、 「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」 寝室の戸をギーと開けた。 充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。 マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。 銀三十枚が股の上にあった。 「畜生!」と突然彼女は叫んだ。 「一杯食った! ヤコブ面に!」 三十枚の銀をぶちまけた。 「マリア!」とその時呼ぶ声がした。 「誰!」と彼女は娼婦声で云った。 「解らないのかい。驚いたなあ」 「あら解ってよ。お入んなさい」 彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。 「これはこれは」と彼は云った。 「銀の洪水と見えますわい」 「よかったらお前さん持っておいでな」 「気前がいいな。そいつアほんとか?」 カヤパは勿怪な顔をした。
2
イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹、橄欖、無花果の木々を、銀鼠色に燻らせていた。 肉柱の香、沈丁の香、空気は匂いに充たされていた。 十三人は歩いて行った。 小鳥が塒で騒ぎ出した。その跫音に驚いたのであろう。 と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。 月光は黎明を想わせた。 十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。 イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。 ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。 彼にはイエスが疑わしく見えた。 イエスに疑念を挟んだのは、かなり以前からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。 女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。 「瞽いた者は見ることが出来、跛えた者は歩くことが出来、癩病る者は潔まることが出来、聾いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺に来たる者は幸福である」と。 その時ユダはこう思った。 「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」 しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。 浅薄な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。 「神とは一体何だろう?」 ユダはここから発足した。 「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」
3
ユダはその説とは反対であった。 「宇宙は[#「「宇宙は」は底本では「 宇宙は」]決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」 イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。 そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。 ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。 そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。 「お前達が俺を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」 「莫迦な話だ」とユダは思った。 「預言者どころの騒ぎではない。彼奴はひどい利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」 ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。
十三人は歩いて行った。 次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊のように痩せて見えた。 ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。 ――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和さがなく、木の根や岩に躓いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。 楊の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流を徒歩渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。 イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。 「さあお前達は監視っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」 こう云ってイエスは奥へ進んだ。 「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」 ついに三人をさえ追い払った。 イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。 と、林が立っていた。楊、橄欖の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。 突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。 「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」 白痴か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。
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