十二
「ちっとは、好い方かね」と枕元へ坐る。 六畳の座敷は、畳がほけて、とんと打ったら夜でも埃りが見えそうだ。宮島産の丸盆に薬瓶と験温器がいっしょに乗っている。高柳君は演説を聞いて帰ってから、とうとう喀血してしまった。 「今日はだいぶいい」と床の上に起き返って後から掻巻を背の半分までかけている。 中野君は大島紬の袂から魯西亜皮の巻莨入を出しかけたが、 「うん、煙草を飲んじゃ、わるかったね」とまた袂のなかへ落す。 「なに構わない。どうせ煙草ぐらいで癒りゃしないんだから」と憮然としている。 「そうでないよ。初が肝心だ。今のうち養生しないといけない。昨日医者へ行って聞いて見たが、なに心配するほどの事もない。来たかい医者は」 「今朝来た。暖かにしていろと云った」 「うん。暖かにしているがいい。この室は少し寒いねえ」と中野君は侘し気に四方を見廻した。 「あの障子なんか、宿の下女にでも張らしたらよかろう。風が這入って寒いだろう」 「障子だけ張ったって……」 「転地でもしたらどうだい」 「医者もそう云うんだが」 「それじゃ、行くがいい。今朝そう云ったのかね」 「うん」 「それから君は何と答えた」 「何と答えるったって、別に答えようもないから……」 「行けばいいじゃないか」 「行けばいいだろうが、ただはいかれない」 高柳君は元気のない顔をして、自分の膝頭へ眼を落した。瓦斯双子の端から鼠色のフラネルが二寸ばかり食み出している。寸法も取らず別々に仕立てたものだろう。 「それは心配する事はない。僕がどうかする」 高柳君は潤のない眼を膝から移して、中野君の幸福な顔を見た。この顔しだいで返答はきまる。 「僕がどうかするよ。何だって、そんな眼をして見るんだ」 高柳君は自分の心が自分の両眼から、外を覗いていたのだなと急に気がついた。 「君に金を借りるのか」 「借りないでもいいさ……」 「貰うのか」 「どうでもいいさ。そんな事を気に掛ける必要はない」 「借りるのはいやだ」 「じゃ借りなくってもいいさ」 「しかし貰う訳には行かない」 「六ずかしい男だね。何だってそんなにやかましくいうのだい。学校にいる時分は、よく君の方から金を借せの、西洋料理を奢れのとせびったじゃないか」 「学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ」 「平生ですら、そうなら病気の時はなおさらだ。病気の時に友達が世話をするのは、誰から云ったっておかしくはないはずだ」 「そりゃ世話をする方から云えばそうだろう」 「じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい」 「不平はないさありがたいと思ってるくらいだ」 「それじゃ心快く僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか」 高柳君はしばらく返事をしない。なるほど自分は世の中を不愉快にするために生きてるのかも知れない。どこへ出ても好かれた事がない。どうせ死ぬのだから、なまじい人の情を恩に着るのはかえって心苦しい。世の中を不愉快にするくらいな人間ならば、中野一人を愉快にしてやったって五十歩百歩だ。世の中を不愉快にするくらいな人間なら、また一日も早く死ぬ方がましである。 「君の親切を無にしては気の毒だが僕は転地なんか、したくないんだから勘弁してくれ」 「またそんなわからずやを云う。こう云う病気は初期が大切だよ。時期を失すると取り返しがつかないぜ」 「もう、とうに取り返しがつかないんだ」と山の上から飛び下りたような事を云う。 「それが病気だよ。病気のせいでそう悲観するんだ」 「悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。君は必要がないから悲観しないのだ」 「困った男だなあ」としばらく匙を投げて、すいと起って障子をあける。例の梧桐が坊主の枝を真直に空に向って曝している。 「淋しい庭だなあ。桐が裸で立っている」 「この間まで葉が着いてたんだが、早いものだ。裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。凄い景色だ」 「そうだろう。――しかし寒いのに夜る起きるのはよくないぜ。僕は冬の月は嫌だ。月は夏がいい。夏のいい月夜に屋根舟に乗って、隅田川から綾瀬の方へ漕がして行って銀扇を水に流して遊んだら面白いだろう」 「気楽云ってらあ。銀扇を流すたどうするんだい」 「銀泥を置いた扇を何本も舟へ乗せて、月に向って投げるのさ。きらきらして奇麗だろう」 「君の発明かい」 「昔しの通人はそんな風流をして遊んだそうだ」 「贅沢な奴らだ」 「君の机の上に原稿があるね。やっぱり地理学教授法か」 「地理学教授法はやめたさ。病気になって、あんなつまらんものがやれるものか」 「じゃ何だい」 「久しく書きかけて、それなりにして置いたものだ」 「あの小説か。君の一代の傑作か。いよいよ完成するつもりなのかい」 「病気になると、なおやりたくなる。今まではひまになったらと思っていたが、もうそれまで待っちゃいられない。死ぬ前に是非書き上げないと気が済まない」 「死ぬ前は過激な言葉だ。書くのは賛成だが、あまり凝るとかえって身体がわるくなる」 「わるくなっても書けりゃいいが、書けないから残念でたまらない。昨夜は続きを三十枚かいた夢を見た」 「よっぽど書きたいのだと見えるね」 「書きたいさ。これでも書かなくっちゃ何のために生れて来たのかわからない。それが書けないときまった以上は穀潰し同然ださ。だから君の厄介にまでなって、転地するがものはないんだ」 「それで転地するのがいやなのか」 「まあ、そうさ」 「そうか、それじゃ分った。うん、そう云うつもりなのか」と中野君はしばらく考えていたが、やがて 「それじゃ、君は無意味に人の世話になるのが厭なんだろうから、そこのところを有意味にしようじゃないか」と云う。 「どうするんだ」 「君の目下の目的は、かねて腹案のある述作を完成しようと云うのだろう。だからそれを条件にして僕が転地の費用を担任しようじゃないか。逗子でも鎌倉でも、熱海でも君の好な所へ往って、呑気に養生する。ただ人の金を使って呑気に養生するだけでは心が済まない。だから療養かたがた気が向いた時に続きをかくさ。そうして身体がよくなって、作が出来上ったら帰ってくる。僕は費用を担任した代り君に一大傑作を世間へ出して貰う。どうだい。それなら僕の主意も立ち、君の望も叶う。一挙両得じゃないか」 高柳君は膝頭を見詰めて考えていた。 「僕が君の所へ、僕の作を持って行けば、僕の君に対する責任は済む訳なんだね」 「そうさ。同時に君が天下に対する責任の一分が済むようになるのさ」 「じゃ、金を貰おう。貰いっ放しに死んでしまうかも知れないが――いいや、まあ、死ぬまで書いて見よう――死ぬまで書いたら書けない事もなかろう」 「死ぬまでかいちゃ大変だ。暖かい相州辺へ行って気を楽にして、時々一頁二頁ずつ書く――僕の条件に期限はないんだぜ、君」 「うん、よしきっと書いて持って行く。君の金を使って茫然としていちゃ済まない」 「そんな済むの済まないのと考えてちゃいけない」 「うん、よし分った。ともかくも転地しよう。明日から行こう」 「だいぶ早いな。早い方がいいだろう。いくら早くっても構わない。用意はちゃんと出来てるんだから」と懐中から七子の三折れの紙入を出して、中から一束の紙幣をつかみ出す。 「ここに百円ある。あとはまた送る。これだけあったら当分はいいだろう」 「そんなにいるものか」 「なにこれだけ持って行くがいい。実はこれは妻の発議だよ。妻の好意だと思って持って行ってくれたまえ」 「それじゃ、百円だけ持って行くか」 「持って行くがいいとも。せっかく包んで来たんだから」 「じゃ、置いて行ってくれたまえ」 「そこでと、じゃ明日立つね。場所か? 場所はどこでもいいさ。君の気の向いた所がよかろう。向へ着いてからちょっと手紙を出してくれればいいよ。――護送するほどの大病人でもないから僕は停車場へも行かないよ。――ほかに用はなかったかな。――なに少し急ぐんだ。実は今日は妻を連れて親類へ行く約束があるんで、待ってるから、僕は失敬しなくっちゃならない」 「そうか、もう帰るか。それじゃ奥さんによろしく」 中野君は欣然として帰って行く。高柳君は立って、着物を着換えた。 百円の金は聞いた事がある。が見たのはこれが始めてである。使うのはもちろんの事始めてである。かねてから自分を代表するほどの作物を何か書いて見たいと思うていた。生活難の合間合間に一頁二頁と筆を執った事はあるが、興が催すと、すぐやめねばならぬほど、饑は寒は容赦なくわれを追うてくる。この容子では当分仕事らしい仕事は出来そうもない。ただ地理学教授法を訳して露命を繋いでいるようでは馬車馬が秣を食って終日馳けあるくと変りはなさそうだ。おれにはおれがある。このおれを出さないでぶらぶらと死んでしまうのはもったいない。のみならず親の手前世間の手前面目ない。人から土偶のようにうとまれるのも、このおれを出す機会がなくて、鈍根にさえ立派に出来る翻訳の下働きなどで日を暮らしているからである。どうしても無念だ。石に噛みついてもと思う矢先に道也の演説を聞いて床についた。医者は大胆にも結核の初期だと云う。いよいよ結核なら、とても助からない。命のあるうちにとまた旧稿に向って見たが、綯る縄は遅く、逃げる泥棒は早い。何一つ見やげも置かないで、消えて行くかと思うと、熱さえ余計に出る。これ一つ纏めれば死んでも言訳は立つ。立つ言訳を作るには手当もしなければならん。今の百円は他日の万金よりも貴い。 百円を懐にして室のなかを二度三度廻る。気分も爽かに胸も涼しい。たちまち思い切ったように帽を取って師走の市に飛び出した。黄昏の神楽坂を上ると、もう五時に近い。気の早い店では、はや瓦斯を点じている。 毘沙門の提灯は年内に張りかえぬつもりか、色が褪めて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手拭を半襷にとって、しきりに寿司を握っている。露店の三馬は光るほどに色が寒い。黒足袋を往来へ並べて、頬被りに懐手をしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万年筆は安過ぎると思う。 世は様々だ、今ここを通っているおれは、翌の朝になると、もう五六十里先へ飛んで行く。とは寿司屋の職人も今川焼の婆さんも夢にも知るまい。それから、この百円を使い切ると金の代りに金より貴いあるものを懐にしてまた東京へ帰って来る。とも誰も思うものはあるまい。世は様々である。 道也先生に逢って、実はこれこれだと云ったら先生はそうかと微笑するだろう。あす立ちますと云ったらあるいは驚ろくだろう。一世一代の作を仕上げてかえるつもりだと云ったらさぞ喜ぶであろう。――空想は空想の子である。もっとも繁殖力に富むものを脳裏に植えつけた高柳君は、病の身にある事を忘れて、いつの間にか先生の門口に立った。 誰か来客のようであるが、せっかく来たのをとわざと遠慮を抜いて「頼む」と声をかけて見た。「どなた」と奥から云うのは先生自身である。 「私です。高柳……」 「はあ、御這入り」と云ったなり、出てくる景色もない。 高柳君は玄関から客間へ通る。推察の通り先客がいた。市楽の羽織に、くすんだ縞ものを着て、帯の紋博多だけがいちじるしく眼立つ。額の狭い頬骨の高い、鈍栗眼である。高柳君は先生に挨拶を済ました、あとで鈍栗に黙礼をした。 「どうしました。だいぶ遅く来ましたね。何か用でも……」 「いいえ、ちょっと――実は御暇乞に上がりました」 「御暇乞? 田舎の中学へでも赴任するんですか」 間の襖をあけて、細君が茶を持って出る。高柳君と御辞儀の交換をして居間へ退く。 「いえ、少し転地しようかと思いまして」 「それじゃ身体でも悪いんですね」 「大した事もなかろうと思いますが、だんだん勧める人もありますから」 「うん。わるけりゃ、行くがいいですとも。いつ? あした? そうですか。それじゃまあ緩くり話したまえ。――今ちょっと用談を済ましてしまうから」と道也先生は鈍栗の方へ向いた。 「それで、どうも御気の毒だが――今申す通りの事情だから、少し待ってくれませんか」 「それは待って上げたいのです。しかし私の方の都合もありまして」 「だから利子を上げればいいでしょう。利子だけ取って元金は春まで猶予してくれませんか」 「利子は今まででも滞りなくちょうだいしておりますから、利子さえ取れれば好い金なら、いつまででも御用立てて置きたいのですが……」 「そうはいかんでしょうか」 「せっかくの御頼だから、出来れば、そうしたいのですが……」 「いけませんか」 「どうもまことに御気の毒で……」 「どうしても、いかんですか」 「どうあっても百円だけ拵えていただかなくっちゃならんので」 「今夜中にですか」 「ええ、まあ、そうですな。昨日が期限でしたね」 「期限の切れたのは知ってるです。それを忘れるような僕じゃない。だからいろいろ奔走して見たんだが、どうも出来ないから、わざわざ君の所へ使をあげたのです」 「ええ、御手紙はたしかに拝見しました。何か御著述があるそうで、それを本屋の方へ御売渡しになるまで延期の御申込でした」 「さよう」 「ところがですて、この金の性質がですて――ただ利子を生ませる目的でないものですから――実は年末には是非入用だがと念を押して御兄さんに伺ったくらいなのです。ところが御兄さんが、いやそりゃ大丈夫、ほかのものなら知らないが、弟に限ってけっして、そんな不都合はない。受合う。とおっしゃるものですから、それで私も安心して御用立て申したので――今になって御違約でははなはだ迷惑します」 道也先生は黙然としている。鈍栗は煙草をすぱすぱ呑む。 「先生」と高柳君が突然横合から口を出した。 「ええ」と道也先生は、こっちを向く。別段赤面した様子も見えない。赤面するくらいなら用談中と云って面会を謝絶するはずである。 「御話し中はなはだ失礼ですが。ちょっと伺っても、ようございましょうか」 「ええ、いいです。何ですか」 「先生は今御著作をなさったと承わりましたが、失礼ですが、その原稿を見せていただく訳には行きますまいか」 「見るなら御覧、待ってるうち、読むのですか」 高柳君は黙っている。道也先生は立って、床の間に積みかさねた書籍の間から、厚さ三寸ほどの原稿を取り出して、青年に渡しながら 「見て御覧」という。表紙には人格論と楷書でかいてある。 「ありがとう」と両手に受けた青年は、しばしこの人格論の三字をしけじけと眺めていたが、やがて眼を挙げて鈍栗の方を見た。 「君、この原稿を百円に買って上げませんか」 「エヘヘヘヘ。私は本屋じゃありません」 「じゃ買わないですね」 「エヘヘヘ御冗談を」 「先生」 「何ですか」 「この原稿を百円で私に譲って下さい」 「その原稿?……」 「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」 道也先生は茫然として青年の顔を見守っている。 「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」 高柳君は懐から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。 「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。 「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致し、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。
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