您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 芥川 竜之介 >> 正文

或敵打の話(あるかたきうちのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-12 7:19:40  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集3
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1986(昭和61)年12月1日
入力に使用: 1996(平成8)年4月1日第8刷
校正に使用: 1997(平成9)年4月15日第9刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

  発端

 肥後ひご細川家ほそかわけ家中かちゅうに、田岡甚太夫たおかじんだゆうと云うさむらいがいた。これは以前日向ひゅうがの伊藤家の浪人であったが、当時細川家の番頭ばんがしらのぼっていた内藤三左衛門ないとうさんざえもんの推薦で、新知しんち百五十こくに召し出されたのであった。
 ところが寛文かんぶん七年の春、家中かちゅうの武芸の仕合しあいがあった時、彼は表芸おもてげい槍術そうじゅつで、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守えっちゅうのかみ綱利つなとし自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望しょもうした。甚太夫は竹刀しないって、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流しんかげりゅうの剣術を指南している瀬沼兵衛せぬまひょうえが相手になった。甚太夫は指南番の面目めんぼくを思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手がにくくなった。そこで甚太夫がわざと受太刀うけだちになった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強くのどを突かれて、仰向あおむけにそこへ倒れてしまった。その容子ようすがいかにも見苦しかった。綱利つなとしは彼の槍術を賞しながら、この勝負があったのちは、はなはだ不興気ふきょうげな顔をしたまま、一言いちごんも彼をねぎらわなかった。
 甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口かげぐちの的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀かわいや剣術は竹刀しないさえ、一人前には使えないそうな。」――こんなうわさが誰云うとなく、たちまち家中かちゅうに広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬しっと羨望せんぼうまじっていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門ないとうさんざえもんの身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番瀬沼兵衛せぬまひょうえと三本勝負をしたいと云う願書ねがいしょを出した。
 日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合しあいをする事になった。はじめは甚太夫が兵衛の小手こてを打った。二度目は兵衛が甚太夫のめんを打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十こくの加増を命じた。兵衛は蚯蚓腫みみずばれになった腕をでながら、悄々すごすご綱利の前を退いた。
 それから三四日経ったある雨の加納平太郎かのうへいたろうと云う同家中かちゅうの侍が、西岸寺さいがんじ塀外へいそとで暗打ちにった。平太郎は知行ちぎょう二百石の側役そばやくで、算筆さんぴつに達した老人であったが、平生へいぜいの行状から推して見ても、うらみを受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天ちくてんした事が知れると共に、始めてそのかたきが明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好せいかっこうはよく似寄っていた。その上定紋じょうもんは二人とも、同じ丸に明姜みょうがであった。兵衛はまず供の仲間ちゅうげんが、雨の夜路を照らしている提灯ちょうちんの紋にあざむかれ、それから合羽かっぱかさをかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽そこつにもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。
 平太郎には当時十七歳の、求馬もとめと云う嫡子ちゃくしがあった。求馬は早速おおやけゆるしを得て、江越喜三郎えごしきさぶろうと云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打かたきうちの旅にのぼる事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感をまぬかれなかったのか、彼もまた後見うしろみのために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友ねんゆうの約があった、津崎左近つざきさこんと云う侍も、同じく助太刀すけだちの儀を願い出した。綱利は奇特きどくの事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。
 求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の初七日しょなぬかをすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた熊本くまもとの城下を後にした。

        一

 津崎左近つざきさこんは助太刀のこいしりぞけられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて求馬もとめと取換した起請文きしょうもんおもて反故ほごにするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず朋輩ほうばいたちに、後指うしろゆびをさされはしないかと云う、懸念けねんも満更ないではなかった。が、それにも増して堪え難かったのは、念友ねんゆうの求馬を唯一人甚太夫じんだゆうに託すと云う事であった。そこで彼は敵打かたきうち一行いっこうが熊本の城下を離れた、とうとう一封の書を家に遺して、彼等のあとを慕うべく、双親ふたおやにも告げず家出をした。
 彼は国境くにざかいを離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅さんえきの茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重いくえにも同道を懇願した。甚太夫ははじめ苦々にがにがしげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易よういけ引く色を示さなかった。が、しまいには彼もを折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎きさぶろうの取りなしを機会しおにして、左近の同道を承諾した。まだ前髪まえがみの残っている、女のような非力ひりきの求馬は、左近をも一行に加えたい気色けしきを隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返くりかえしていた。
 一行四人は兵衛ひょうえ妹壻いもうとむこ浅野家あさのけの家中にある事を知っていたから、まず文字もじせき瀬戸せとを渡って、中国街道ちゅうごくかいどうをはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞在して、かたき在処ありかさぐる内に、家中のさむらいの家へ出入でいりする女の針立はりたての世間話から、兵衛は一度広島へ来てのち、妹壻の知るべがある予州よしゅう松山まつやまへ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船いよぶね便びんを求めて、寛文かんぶん七年の夏の最中もなかつつがなく松山の城下へはいった。
 松山に渡った一行は、毎日編笠あみがさを深くして、敵の行方ゆくえを探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処をあらわさなかった。一度左近が兵衛らしい梵論子ぼろんじの姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁ゆかりもない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝をふさいでいたの下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつれて一行の心には、だんだん焦燥の念が動き出した。殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外をうかがって歩いた。敵打の初太刀しょだちは自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親しゅうおやをも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目めんぼくが立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。
 松山へ来てから二月ふたつき余りのち、左近はその甲斐かいがあって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠しのびかごにつき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのにった。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠かごの中の侍が外へ出た。侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌かおかたちは瀬沼兵衛にまぎれなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗なのりをかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟とっさに決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛せぬまひょうえ加納求馬かのうもとめが兄分、津崎左近が助太刀すけだち覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇ちゅうちょした。その途端に侍の手が刀の柄前つかまえにかかったと思うと、かさあつの大刀が大袈裟おおげさに左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深まぶかくかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。

        二

 左近さこんを打たせた三人の侍は、それからかれこれ二年間、かたき兵衛ひょうえを探って、五畿内ごきないから東海道をほとんどくまなく遍歴した。が、兵衛の消息は、ようとして再び聞えなかった。
 寛文かんぶん九年の秋、一行は落ちかかるかりと共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の老若貴賤ろうにゃくきせんが集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の裏町うらまちに仮の宿を定めてから甚太夫じんだゆうは怪しいうたいを唱って合力ごうりきを請う浪人になり、求馬もとめ小間物こまものの箱を背負せおって町家ちょうかを廻る商人あきゅうどに化け、喜三郎きさぶろう旗本はたもと能勢惣右衛門のせそうえもん年期切ねんきぎりの草履取ぞうりとりにはいった。
 求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に鳥目ちょうもくを貰いながら、根気よく盛り場をうかがいまわって、さらに気色けしきも示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠にやつれた顔を隠して、秋晴れの日本橋にほんばしを渡る時でも、結局彼等の敵打かたきうちは徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。
 その内に筑波颪つくばおろしがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪かぜが元になって、時々熱がたかぶるようになった。が、彼は悪感おかんを冒しても、やはり日毎に荷を負うて、あきないに出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、このしゅう思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
 やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原のくるわに通い出した。相方あいかた和泉屋いずみやかえでと云う、所謂いわゆる散茶女郎さんちゃじょろうの一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。
 渋谷しぶや金王桜こんおうざくらの評判が、洗湯せんとうの二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打かたきうちの大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江まつえ藩の侍たちと一しょに、一月ひとつきばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。さいわい、その侍の相方あいかたくじを引いた楓は、面体めんていから持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日うちに、江戸を立って雲州うんしゅう松江まつえおもむこうとしている事なぞも、ちらりと小耳こみみに挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔らんすいした。そうして宿へ帰って来ると、すぐにおびただしく血を吐いた。
 求馬は翌日から枕についた。が、何故なぜかたき行方ゆくえほぼわかった事は、一言ひとことも甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞そでごいに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日葺屋町ふきやちょうの芝居小屋などを徘徊はいかいして、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書をくわえたまま、もう火のはいった行燈あんどうの前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天ぎょうてんしながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃じじん仔細しさいとがしたためてあった。「私儀わたくしぎ柔弱にゅうじゃく多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間そうろうあいだ……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心とうしんの火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫のにがい顔を照らした。
 書面は求馬が今年ことしの春、かえで二世にせの約束をした起請文きしょうもんの一枚であった。

[1] [2] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告