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或敵打の話(あるかたきうちのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-12 7:19:40  点击:  切换到繁體中文



        三

 寛文(かんぶん)十年の夏、甚太夫(じんだゆう)は喜三郎(きさぶろう)と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋(おおはし)の上に立って、宍道湖(しんじこ)の天に群(むらが)っている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
 彼等はまず京橋(きょうばし)界隈(かいわい)の旅籠(はたご)に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家(まつだいらけ)の侍に不伝流(ふでんりゅう)の指南をしている、恩地小左衛門(おんちこざえもん)と云う侍の屋敷に、兵衛(ひょうえ)らしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎(へいたろう)一人の敵(かたき)ではなく、左近(さこん)の敵でもあれば、求馬(もとめ)の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗(な)めさせた彼自身の怨敵(おんてき)であった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
 しかし恩地小左衛門は、山陰(さんいん)に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足(しゅそく)となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴(はや)りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
 機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠(はたご)の庭には、もう百日紅(ひゃくじつこう)の花が散って、踏石(ふみいし)に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日(しょうつきめいにち)を迎えた。喜三郎はその夜(よ)、近くにある祥光院(しょうこういん)の門を敲(たた)いて和尚(おしょう)に仏事を修して貰った。が、万一を慮(おもんぱか)って、左近の俗名(ぞくみょう)は洩(も)らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌(いはい)があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気(なにげ)ない風を装(よそお)って、所化(しょけ)にその位牌の由縁(ゆかり)を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人(びと)が、月に二度の命日には必ず回向(えこう)に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納(かのう)親子や左近の霊が彼等に冥助(みょうじょ)を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
 甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣(てらもう)でに気づかなかった事を口惜(くちお)しく思った。「もう八日(ようか)経てば、大檀那様(おおだんなさま)の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈(あんどう)を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提(ぼだい)を弔(とむら)っている兵衛の心を酌(く)む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
 平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃(ねたば)を合せながら、心静(しずか)にその日を待った。今はもう敵打(かたきうち)は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望(ほんもう)を遂(と)げた後(のち)の、逃(の)き口(くち)まで思い定めていた。
 ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈(あんどう)の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革(しょうぶがわ)の裁付(たっつけ)に黒紬(くろつむぎ)の袷(あわせ)を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷(たすき)をかけた。差料(さしりょう)は長谷部則長(はせべのりなが)の刀に来国俊(らいくにとし)の脇差(わきざ)しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌(はだ)には着込みを纏(まと)っていた。二人は冷酒(ひやざけ)の盃を換(か)わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠(はたご)の門(かど)を出た。
 外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院(しょうこういん)の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝(けさ)の勘定は四文(しもん)釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高(たか)が四文のはした銭(ぜに)ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目(ちょうもく)は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代(まつだい)までの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
 が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧(おぼろ)げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗(なつめ)の葉が黄ばんでいる寺の塀外(へいそと)を徘徊(はいかい)しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
 しかしかれこれ午(ひる)近くなっても、未(いまだ)に兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
 二人は惴(はや)る心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食(は)み落す鴉(からす)の声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉(も)んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭(かしら)を振って、許す気色(けしき)も見せなかった。
 やがて寺の門の空には、這(は)い塞(ふさが)った雲の間に、疎(まばら)な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念(しゅうね)く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更(よふ)けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
 とうとう初夜(しょや)の鐘が鳴った。それから二更(にこう)の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
 が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。

     大団円

 甚太夫(じんだゆう)主従は宿を変えて、さらに兵衛(ひょうえ)をつけ狙った。が、その後(ご)四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉(としゃ)を催し出した。喜三郎(きさぶろう)は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧(おそ)れて、どうしてもそれを許さなかった。
 甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈(しんみゃく)を請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠(はたご)の主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技(ぎ)を売っている、松木蘭袋(まつきらんたい)と云う医者を呼びにやった。
 蘭袋は向井霊蘭(むかいれいらん)の門に学んだ、神方(しんぽう)の名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌(ごうけつはだ)の所もあって、日夜杯(さかずき)に親みながらさらに黄白(こうはく)を意としなかった。「天雲(あまぐも)の上をかけるも谷水をわたるも鶴(つる)のつとめなりけり」――こう自(みずか)ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上(かみ)は一藩の老職から、下(しも)は露命も繋(つな)ぎ難い乞食(こじき)非人(ひにん)にまで及んでいた。
 蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病(りびょう)と云う見立てを下(くだ)した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒(なお)らなかった。喜三郎は看病の傍(かたわら)、ひたすら諸々(もろもろ)の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮(に)る煙を嗅(か)ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
 秋は益(ますます)深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡(しばしば)空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間(ちゅうげん)と落ち合った。それが恩地小左衛門(おんちこざえもん)の屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子(うちでし)と話している言葉にも自(おのずか)ら明かであった。彼はその仲間が帰ってから、顔馴染(かおなじみ)の内弟子に向って、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」――人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。
 それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の容子(ようす)を探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平太郎の命日頃から、甚太夫と同じ痢病のために、苦しんでいると云う事がわかった。して見れば兵衛が祥光院へ、あの日に限って詣(もう)でなかったのも、その病のせいに違いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、敵(かたき)の打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜(おと)したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕(まくら)を噛(か)みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵(かたき)瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)の快癒も祈らざるを得なかった。
 が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄(こくはく)であった。彼の病は重(おも)りに重って、蘭袋(らんたい)の薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容態(ようだい)になった。彼はそう云う苦痛の中にも、執念(しゅうね)く敵打(かたきうち)の望を忘れなかった。喜三郎は彼の呻吟(しんぎん)の中に、しばしば八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡(もた)げる事さえ出来なかった。
 その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱(かたじけな)く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床(とこ)の上に起直(おきなお)って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く頷(うなず)いた。すると甚太夫は途切(とぎ)れ途切れに、彼が瀬沼兵衛をつけ狙(ねら)う敵打の仔細(しさい)を話し出した。彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる容子(ようす)がなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘(あえ)ぎながら、「身ども今生(こんじょう)の思い出には、兵衛の容態(ようだい)が承(うけたまわ)りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、今朝(こんちょう)寅(とら)の上刻(じょうこく)に、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶(やつ)れた頬(ほお)へ、冷たく涙の痕(あと)が見えた。「兵衛――兵衛は冥加(みょうが)な奴でござる。」――甚太夫は口惜(くちお)しそうに呟(つぶや)いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭(かしら)を垂れた。そうしてついに空しくなった。……
 寛文(かんぶん)十年陰暦(いんれき)十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上(のぼ)った。彼の振分(ふりわ)けの行李(こうり)の中には、求馬(もとめ)左近(さこん)甚太夫(じんだゆう)の三人の遺髪がはいっていた。

     後談

 寛文(かんぶん)十一年の正月、雲州(うんしゅう)松江(まつえ)祥光院(しょうこういん)の墓所(はかしょ)には、四基(しき)の石塔が建てられた。施主は緊(かた)く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形(そうぎょう)が紅梅(こうばい)の枝を提(さ)げて、朝早く祥光院の門をくぐった。
 その一人は城下に名高い、松木蘭袋(まつきらんたい)に紛(まぎ)れなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み耄(ほう)けていたが、それでも凛々(りり)しい物ごしに、どこか武士らしい容子(ようす)があった。二人は墓前に紅梅の枝を手向(たむ)けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。……
 後年黄檗慧林(おうばくえりん)の会下(えか)に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子(ろうのうし)がいた。これも順鶴(じゅんかく)と云う僧名(そうみょう)のほかは、何も素性(すじょう)の知れない人物であった。

(大正九年四月)




 



底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
   1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月12日公開
2004年3月10日修正
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