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お律と子等と(おりつとこらと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:10:47  点击:  切换到繁體中文



        三

 午(ひる)過ぎになってから、洋一(よういち)が何気(なにげ)なく茶の間(ま)へ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造(けんぞう)が、長火鉢の前に坐っていた。そうしてその前には姉のお絹(きぬ)が、火鉢の縁(ふち)に肘(ひじ)をやりながら、今日は湿布(しっぷ)を巻いていない、綺麗(きれい)な丸髷(まるまげ)の襟足をこちらへまともに露(あらわ)していた。
「そりゃおれだって忘れるもんかな。」
「じゃそうして頂戴よ。」
 お絹は昨日(きのう)よりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶(あいさつ)に答えた。それから多少彼を憚(はばか)るような、薄笑いを含んだ調子で、怯(お)ず怯(お)ず話の後(あと)を続けた。
「その方(ほう)がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」
「よし、よし、万事呑みこんだよ。」
 父は浮かない顔をしながら、その癖冗談(じょうだん)のようにこんな事を云った。姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、未(いまだ)に一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――そう云う消息(しょうそく)に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙然(もくねん)と新聞をひろげたまま、さっき田村(たむら)に誘われた明治座の広告を眺めていた。
「それだからお父さんは嫌になってしまう。」
「お前よりおれの方が嫌になってしまう。お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴(ぐち)ばかりこぼされるし、――」
 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖(ふすま)一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではお律(りつ)がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸(うな)り声を洩(も)らしているらしかった。
「お母さんも今日は楽じゃないな。」
 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切(とぎ)らせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔を睨(にら)みながら、
「お母さんの病気だってそうじゃないの? いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。
「だからさ、だから今日は谷村博士(たにむらはかせ)に来て貰うと云っているんじゃないか?」
 賢造はとうとう苦(にが)い顔をして、抛(ほう)り出すようにこう云った。洋一も姉の剛情(ごうじょう)なのが、さすがに少し面憎(つらにく)くもなった。
「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」
「三時頃来るって云っていた。さっき工場(こうば)の方からも電話をかけて置いたんだが、――」
「もう三時過ぎ、――四時五分前だがな。」
 洋一は立て膝を抱(だ)きながら、日暦(ひごよみ)の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。
「もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」
「さっきって?」
「戸沢(とざわ)さんが帰るとすぐだとさ。」
 彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の間(ま)へはいって行った。
「やっと姉さんから御暇(おいとま)が出た。」
 賢造は苦笑(くしょう)を洩らしながら、始めて腰の煙草入(たばこい)れを抜いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。
 病室からは相不変(あいかわらず)、お律の唸(うな)り声が聞えて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士はどうしたのだろう? もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者(かんじゃ)ではなし、今頃はまだ便々(べんべん)と、回診(かいしん)か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――
「どうです?」
 洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見ると襖(ふすま)の明いた所に、心配そうな浅川(あさかわ)の叔母(おば)が、いつか顔だけ覗(のぞ)かせていた。
「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」
 賢造は口を開く前に、まずそうに刻(きざ)みの煙を吐いた。
「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「そうですね、一時凌(しの)ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」
「僕がかけて来ます。」
 洋一はすぐに立ち上った。
「そうか。じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。番号は小石川(こいしかわ)の×××番だから、――」
 賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間(ま)から、台所の板の間(ま)へ飛び出していた。台所には襷(たすき)がけの松が鰹節(かつおぶし)の鉋(かんな)を鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭(がしら)に向うからも、小走りに美津(みつ)が走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱(かわ)した。
「御免下さいまし。」
 結(ゆ)いたての髪を※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)(にお)わせた美津は、極(きま)り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。
 洋一は妙にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山(かみやま)が、後(うしろ)から彼へ声をかけた。
「洋一さん。谷村病院ですか?」
「ああ、谷村病院。」
 彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山は彼の方を見ずに、金格子(かねごうし)で囲(かこ)った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。
「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」
「何てかかって来たの?」
「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、――ただ今だね? 良さん。」
 呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏台の上にのりながら、高い棚(たな)に積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。
「ただ今じゃありませんよ。もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」
「そうか。そんなら美津のやつ、そう云えば好いのに。」
 洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。が、ふと店の時計を見ると、不審(ふしん)そうにそこへ立ち止った。
「おや、この時計は二十分過ぎだ。」
「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう。」
 神山は体を※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)(ねじ)りながら、帯の金時計を覗いて見た。
「そうです。ちょうど十分過ぎ。」
「じゃやっぱり奥の時計が遅れているんだ。それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」
 洋一はちょいとためらった後(のち)、大股(おおまた)に店さきへ出かけて行くと、もう薄日(うすび)もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。
「来そうもないな。まさか家(うち)がわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」
 彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履(いたぞうり)の上へ飛び下りた。そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。
 大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。そこの角(かど)にある店蔵(みせぐら)が、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋(とうぶつや)になっている。――その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽(むぎわらぼう)や籐(とう)の杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手(はで)な海水着が人間のように突立っていた。
 洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を後(うしろ)に佇(たたず)みながら、大通りを通る人や車に、苛立(いらだ)たしい視線を配(くば)り始めた。が、しばらくそうしていても、この問屋(とんや)ばかり並んだ横町(よこちょう)には、人力車(じんりきしゃ)一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車(あきぐるま)の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。
 その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。そうしてペダルに足をかけたまま、
「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。
「何か用だったかい?」
 洋一はそう云う間でも、絶えず賑(にぎやか)な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。
「用は別にないんだそうで、――」
「お前はそれを云いに来たの?」
「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」
「お父さんが?」
 洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りも疎(まばら)な往来には、ちょうど今一台の人力車(じんりきしゃ)が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒(かじぼう)の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
「兄さん!」
 車夫は体を後(うしろ)に反(そ)らせて、際(きわ)どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎(しんたろう)が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟(はさ)んだトランクを骨太な両手に抑えていた。
「やあ。」
 兄は眉(まゆ)一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。
「お母さんはどうした?」
 洋一は兄を見上ながら、体中(からだじゅう)の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。
「この二三日悪くってね。――十二指腸の潰瘍(かいよう)なんだそうだ。」
「そうか。そりゃ――」
 慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃(ひらめ)いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。
「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」
 車夫は慎太郎の合図(あいず)と一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今朝(けさ)上(のぼ)りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映(うつ)るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目(しにめ)に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い耽(ふけ)っている彼だった。しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……
「兄さん。試験はまだ始らなかった?」
 慎太郎は体を斜(ななめ)にして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
「明日(あす)からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」
 洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟を劬(いたわ)りたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。
「よっぽど待ったかい?」
「十分も待ったかしら?」
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」
 車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒(かじぼう)を店の前へ下(おろ)した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸(ガラスど)の立った店の前へ。

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