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開化の殺人(かいかのさつじん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-15 15:18:11  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1968(昭和43)年8月25日
入力に使用: 1968(昭和43)年8月25日初版第1刷

 

下(しも)に掲げるのは、最近予(よ)が本多子爵(ほんだししやく)(仮名)から借覧する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎(きたばたけぎいちらう)(仮名)の遺書である。北畠ドクトルは、よし実名を明(あきらか)にした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。予自身も、本多子爵に親炙(しんしや)して、明治初期の逸事瑣談(いつじさだん)を聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶(なほ)二三、予が仄聞(そくぶん)した事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。現に後者に関しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だつたさうである。
 北庭筑波(きたにはつくば)が撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英吉利(イギリス)風の頬髯を蓄へた、容貌魁偉(くわいゐ)な紳士である。本多子爵によれば、体格も西洋人を凌(しの)ぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力抜群を以て知られてゐたと云ふ。さう云へば遺書の文字さへ、鄭板橋(ていはんけう)風の奔放な字で、その淋漓(りんり)たる墨痕(ぼくこん)の中にも、彼の風貌が看取(かんしゆ)されない事もない。
 勿論予はこの遺書を公(おほやけ)にするに当つて、幾多の改竄(かいざん)を施した。譬(たと)へば当時まだ授爵の制がなかつたにも関らず、後年の称に従つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。唯、その文章の調子に至つては、殆(ほとんど)原文の調子をそつくりその儘(まま)、ひき写したと云つても差支へない。
       ―――――――――――――――――
 本多子爵閣下、並に夫人、
 予は予が最期(さいご)に際し、既往三年来、常に予が胸底に蟠(わだかま)れる、呪ふ可き秘密を告白し、以て卿等(けいら)の前に予が醜悪なる心事を暴露せんとす。卿等にして若しこの遺書を読むの後、猶(なほ)卿等の故人たる予の記憶に対し、一片憐憫(れんびん)の情を動す事ありとせんか、そは素(もと)より予にとりて、望外の大幸なり。されど又予を目して、万死の狂徒と做(な)し、当(まさ)に屍(しかばね)に鞭打つて後已(や)む可しとするも、予に於ては毫(がう)も遺憾とする所なし。唯、予が告白せんとする事実の、余りに意想外なるの故を以て、妄(みだり)に予を誣(し)ふるに、神経病患者の名を藉(か)る事勿(なか)れ。予は最近数ヶ月に亘(わた)りて、不眠症の為に苦しみつつありと雖(いへど)も、予が意識は明白にして、且(かつ)極めて鋭敏なり。若し卿等にして、予が二十年来の相識(さうしき)たるを想起せんか。(予は敢(あへ)て友人とは称せざる可し)請(こ)ふ、予が精神的健康を疑ふ事勿れ。然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝(ひれき)せんとする此遺書の如きも、結局無用の故紙(こし)たると何の選ぶ所か是(これ)あらん。
 閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、将来に於ても亦同一罪悪を犯さんとしたる卑(いやし)む可き危険人物なり。しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に対して、企画せられたるのみならず、又企画せられんとしたりと云ふに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。予は是(ここ)に於て、予が警告を再(ふたたび)するの、必要なる所以(ゆゑん)を感ぜざる能(あた)はず。予は全然正気(しやうき)にして、予が告白は徹頭徹尾事実なり。卿等幸(さいはひ)にそを信ぜよ。而(しか)して予が生涯の唯一の記念たる、この数枚の遺書をして、空しく狂人の囈語(げいご)たらしむる事勿れ。
 予はこれ以上予の健全を喋々(てふてふ)すべき余裕なし。予が生存すべき僅少なる時間は、直下(ぢきげ)に予を駆りて、予が殺人の動機と実行とを叙し、更に進んで予が殺人後の奇怪なる心境に言及せしめずんば、已まざらんとす。されど、嗚呼(ああ)されど、予は硯(けん)に呵(か)し紙(し)に臨んで、猶(なほ)惶々(くわうくわう)として自ら安からざるものあるを覚ゆ。惟(おも)ふに予が過去を点検し記載するは、予にとりて再(ふたたび)過去の生活を営むと、畢竟(ひつきやう)何の差違かあらん。予は殺人の計画を再(ふたたび)し、その実行を再し、更に最近一年間の恐る可き苦悶を再せざる可(べか)らず。是果して善く予の堪へ得可き所なりや否や。予は今にして、予が数年来失却したる我(わが)耶蘇基督(ヤソキリスト)に祈る。願くば予に力を与へ給へ。
 予は少時より予が従妹たる今の本多子爵夫人(三人称を以て、呼ぶ事を許せ)往年の甘露寺明子(かんろじあきこ)を愛したり。予の記憶に溯(さかのぼ)りて、予が明子と偕(とも)にしたる幸福なる時間を列記せんか。そは恐らく卿等が卒読(そつどく)の煩(はん)に堪へざる所ならん。されど予はその例証として、今日も猶予が胸底に歴々たる一場の光景を語らざるを得ず。予は当時十六歳の少年にして、明子は未(いまだ)十歳の少女なりき。五月某日予等は明子が家の芝生なる藤棚の下(もと)に嬉戯(きぎ)せしが、明子は予に対して、隻脚(せききやく)にて善く久しく立つを得るやと問ひぬ。而して予が否と答ふるや、彼女は左手を垂れて左の趾(あしゆび)を握り、右手を挙げて均衡を保ちつつ、隻脚にて立つ事、是を久(ひさし)うしたりき。頭上の紫藤(しとう)は春日の光りを揺りて垂れ、藤下(とうか)の明子は凝然(ぎようぜん)として彫塑(てうそ)の如く佇(たたず)めり。予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。私(ひそか)に自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、実にその藤棚の下に於て然りしなり。爾来(じらい)予の明子に対する愛は益(ますます)烈しきを加へ、念々(ねんねん)に彼女を想ひて、殆(ほとんど)学を廃するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。陰晴(いんせい)定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫々(ばうばう)数年の年月を閲(けみ)せしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる医学を英京竜動(ロンドン)に学ばしめぬ。予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、厳粛なる予等が家庭は、斯(かか)る機会を与ふるに吝(やぶさか)なりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦桑間濮上(さうかんぼくじやう)の譏(そしり)を惧(おそ)れたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤笈飄然(こきふへうぜん)として英京に去れり。
 英吉利(イギリス)留学の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故園(こゑん)の紫藤花下(しとうくわか)なる明子を懐(おも)ひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身を憫(あはれ)みしか、そは茲(ここ)に叙説するの要なかる可し。予は唯、竜動(ロンドン)に在るの日、予が所謂(いはゆる)薔薇色の未来の中に、来る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。然り而して予の英吉利より帰朝するや、予は明子の既に嫁して第×銀行頭取満村恭平(みつむらきようへい)の妻となりしを知りぬ。予は即座に自殺を決心したれども、予が性来の怯懦(けふだ)と、留学中帰依(きえ)したる基督教(キリストけう)の信仰とは、不幸にして予が手を麻痺(まひ)せしめしを如何(いかん)。卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、再(ふたたび)英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、徒(いたづら)に精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、寧(むしろ)チヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、骨を異域の土に埋むるの遙(はるか)に慰む可きものあるを信ぜしなり。されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄(はうき)せしめ、加之(しかのみならず)予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚(よ)らしめ了(をは)りぬ。
 是に於て予は予の失恋の慰藉(ゐしや)を神に求めたり。当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次(ぜんじ)熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一(いつ)に同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。予は屡(しばしば)、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜行人(かうじん)稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。若し卿等にして予が児女の情あるを哂(わら)はずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私(ひそか)に従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷(きよき)せしを語るも善し。
 予が愛の新(あらた)なる転向を得しは、所謂(いはゆる)「あきらめ」の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之を詳(つまびらか)にする勇気と余裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創痍(さうい)を医し得たるの一事は疑ふ可(べか)らず。是を以て帰朝以来、明子夫妻の消息を耳にするを蛇蝎(だかつ)の如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依頼し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安の益(ますます)大にして、念頭些(いささか)の苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。
 予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校書(かうしよ)十数輩と共に柳橋万八(まんぱち)の水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一夕(いつせき)の歓(くわん)を倶(とも)にしたり。歓(くわん)か、歓か、予はその苦と云ふの、遙に勝(まさ)れる所以(ゆゑん)を思はざる能はず。予は日記に書して曰(いはく)、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆一肚皮(いつとひ)の憤怨何(いづれ)の処に向つてか吐かんとするを知らず。神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。然り而して予が妹を、斯(かか)る禽獣の手に委(ゐ)せしめ給ひしは、何ぞや。予は最早、この残酷にして奸譎(かんけつ)なる神の悪戯に堪ふる能はず。誰か善くその妻と妹とを強人(がうじん)の為に凌辱(りようじよく)せられ、しかも猶天を仰いで神の御名(みな)を称(とな)ふ可きものあらむ。予は今後断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼(しきき)の手より救助す可し。」
 予はこの遺書を認(したた)むるに臨み、再(ふたたび)当時の呪(のろ)ふ可き光景の、眼前に彷彿(はうふつ)するを禁ずる能はず。かの蒼然(さうぜん)たる水靄(すゐあい)と、かの万点の紅燈と、而してかの隊々(たいたい)相銜(ふく)んで、尽くる所を知らざる画舫(ぐわぼう)の列と――嗚呼(ああ)、予は終生その夜、その半空(はんくう)に仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大妓(たいぎ)を擁し、左に雛妓(すうぎ)を従へ、猥褻(わいせつ)聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲然(がうぜん)として涼棚(りやうはう)の上に酣酔(かんすゐ)したる、かの肥大豕(ゐ)の如き満村恭平をも記憶す可し。否、否、彼の黒絽(くろろ)の羽織に抱明姜(だきめうが)の三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。予は信ず。予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、実にこの水楼煙火(すゐろうえんくわ)を見しの夕(ゆふべ)に始る事を。又信ず。予が殺人の動機なるものは、その発生の当初より、断じて単なる嫉妬の情にあらずして、寧(むしろ)不義を懲(こら)し不正を除かんとする道徳的憤激に存せし事を。
 爾来予は心を潜めて、満村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の観察に悖(もと)らざる痴漢なりや否やを検査したり。幸(さいはひ)にして予が知人中、新聞記者を業とするもの、啻(ただ)に二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聴に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。予が先輩にして且知人たる成島柳北(なるしまりうほく)先生より、彼が西京祇園(さいきやうぎをん)の妓楼に、雛妓(すうぎ)の未(いまだ)春を懐(いだ)かざるものを梳※(「木+龍」、第4水準2-15-78)(そろう)して、以て死に到らしめしを仄聞(そくぶん)せしも、実に此間の事に属す。しかもこの無頼(ぶらい)の夫にして、夙(つと)に温良貞淑の称ある夫人明子を遇するや、奴婢(どひ)と一般なりと云ふに至つては、誰か善く彼を目して、人間の疫癘(えきれい)と做(な)さざるを得んや。既に彼を存するの風を頽(おと)し俗を濫(みだ)る所以(ゆゑん)なるを知り、彼を除くの老を扶(たす)け幼を憐む所以なるを知る。是に於て予が殺害の意志たりしものは、徐(おもむろ)に殺害の計画と変化し来れり。

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