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或る女(あるおんな)前編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:24:42  点击:  切换到繁體中文



       七

 葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手じょうずな字で唐紙牋とうしせんに書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼こうぎを受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、とけんもほろろに書き連ねて、追伸ついしんに、先日あなたから一ごんの紹介もなく訪問してきた素性すじょうの知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人おっとの定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替かわせが同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病けびょうをつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念たんねんに墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずたずたに破いてくずかごに突っ込んだ。
 葉子は地味じみ他行衣よそいき寝衣ねまきを着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
 姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちんと小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母おば一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓むつきから立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父おじが、えりのまっ黒に汗じんだ白い飛白かすりを薄寒そうに着て、白痴の子をひざの上に乗せながら、朝っぱらからかきをむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶あいさつをして草履ぞうりをさがしながら、
「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除そうじしておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
 と駆けて来た愛子にわざとつんけんいうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
「おゝ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。かもうてくださるな、おいおしゅん――お俊というに、何しとるぞい」
 とのろまらしく呼び立てた。おびしろはだかの叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論くちいさかいをするのだと思うと、どろの中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子はかかとちりを払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店くぎだなの往来は場所がらだけに門並かどなみきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体ふうていの男女が忙しそうにしていた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草まきたばこの袋のちぎれたのが散らばってほうきの目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品みやげひんや、新しいどっしりしたトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町おおつかくぼまちに住む内田うちだという母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎だかつのように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才はだの人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐんぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人からへだてをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、せまった眉根まゆねを少しは開きながら、「また子猿こざるが来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱをなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳ぎゅうじを握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐さつきおやさを責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々うとうとしいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった一人ひとりの娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々あまあましい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈しゅんれつな性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋へやに通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴みちづれだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応いやおうなしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心をなじり責める嫉妬しっと深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂げきこうさせられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣いけがきの多い、家並やなみのまばらな、わだちの跡のめいりこんだ小石川こいしかわの往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇ゆうやみの催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつんと切れたような不思議なさびしさの胸にせまるのをどうする事もできなかった。
「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人ひとの失望も神の失望もちっとは考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
 そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替かわせを引き出して、定子を預かってくれている乳母うばの家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束をかぞえながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり延びた垣添かきぞいのきりの木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸こうしどをあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君さいくんと顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっとためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたんと閉じる音がした。葉子は自分の爪先つまさきを見つめながら下くちびるをかんでいた。
 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶のに招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子いすを離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっとこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかにむごく思われた。
「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごたごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃしていて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」
 意地も生地きじも内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人おっとからさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。まゆと口とのあたりにむごたらしい軽蔑けいべつの影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故せこに慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)
「歯がゆくはいらっしゃらなくって」
 と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉いかただとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはいはいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そうかさにかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけはけ物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさるかた。おじさんはわがままでお通しになるかた。もっともおじさんにはそれが神様のおぼしなんでしょうけれどもね。……わたしも神様のおぼしかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗ちゃわんと茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
 内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日おとといあたり結ったままの束髪そくはつだった。癖のない濃い髪にはたきぎの灰らしい灰がたかっていた。糊気のりけのぬけきった単衣ひとえも物さびしかった。そのがらの細かい所には里の母の着古しというようなにおいがした。由緒ゆいしょある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。
他人ひとの事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、
「わたしあすアメリカにちますの、ひとりで」
 と突拍子とっぴょうしもなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
「まあほんとうに」
「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
 細君がうなずいてなお仔細しさいを聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
「だからきょうはお暇乞いとまごいのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎たろうさんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっとなった。そして口びるを震わしながら、
「もう一言ひとことおじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人のとがも許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分しょうぶんなんですから、おじさんに許していただこうとはてんから思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
 口のはたに戯談じょうだんらしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤おおなみどすんどすんと横隔膜につきあたるような心地ここちがして、鼻血でも出そうに鼻のあながふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上にうすずいて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋こべやで荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっと目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いゝえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕かんじょに対する問答を例に引いた。いゝえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃんとあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何かおこってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀かがやいたが、すっと惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有ちゅううからどっしり大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口からあごを伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチをたもとから探り出そうとした時、
「どうかなさいましたか」
 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。
「鼻血なの」
 とこたえながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾こんのれんを所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
 四十格好の克明こくめいらしい内儀かみさんがわが事のように金盥かなだらいに水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気おしろいけのない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地ひとごこちがついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つにれていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かのわざかもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占つじうらかもしれない。またそう思うと葉子は襟元えりもとに凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱ゆううつな目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀かみさんのひざにもたれて、七つほどの少女が、じっと葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸せっけんの香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡のれたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわくわくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。
 しばらくのあいだ葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂ものうかった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子ひとりごであろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙まきがみを買って、硯箱すずりばこを借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替かわせの金を封入して、その店を出た。そしていきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛ひざかけをはぐって、蹴込けこみに打ち付けてある鑑札にしっかり目を通しておいて、
「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさりあるから大事にしてね」
 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょときょとと見やりながら空俥からぐるまを引いて立ち去った。大八車だいはちぐるまが続けさまに田舎いなかに向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子はかさつえにしながら思いにふけって歩いて行った。
 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店くぎだなのほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷したやいけはたる曲がりかどに来て立っていた。
 そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷ほんごうの高台に隠れて、往来にはくりやの煙とも夕靄ゆうもやともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプのがことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈かいわいの空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子のほおの膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のあるやわらかい触感を感じていた。葉子のひざふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がりかどの朽ちかかった黒板塀くろいたべいとおして、木部からけた笑窪えくぼのできる笑顔えがおが否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀かみさんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそこそとそこを立ちのいて不忍しのばずいけに出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中のはすの実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時こはんとき立ち尽くしていた。

       八

 日の光がとっぷりと隠れてしまって、往来のばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとにまゆを痛々しくしかめながら、釘店くぎだなに帰って来た。
 玄関にはいろいろの足駄あしだくつがならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物はきものといっては一つも見当たらなかった。自分の草履ぞうりを始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚しんせきや知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきにもどそうとしたその途端に、
「ねえさんもういや……いや」
 といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔をうずめながら、成人おとなのするような泣きじゃくりをして、
「もう行っちゃいやですというのに」
 とからく言葉を続けたのは貞世さだよだった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段はしごだんをのぼって行った。
 階子段をのぼりきって見ると客間はしんとしていて、五十川いそがわ女史の祈祷きとうの声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待ってへやにはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤ことうだけは昂然こうぜんと目を見開いて、ふすまをあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。
 葉子は古藤にちょっと目で挨拶あいさつをして置いて、貞世を抱いたまま末座にひざをついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父おじが、わが子でもたしなめるように威儀を作って、
「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷きとうをお頼み申して、はしを取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
 面と向かっては、葉子に口小言くちこごと一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっちに見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店くぎだなの往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れたびんのほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
「しばらくでしたのね……とうとう明朝あしたになりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度はとうの敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
「車で駆け通ったんですから前もあともよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路ひろこうじに出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇やまわきさんですの」
 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父おじはもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
「それがまたね、いつものとおりに金時きんときのように首筋までまっですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心かんじんの禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわいわいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、はしをおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」
 叔父があわてて口の締まりをして仏頂面ぶっちょうづらに立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着とんじゃくなく五十川いそがわ女史のほうに向いて、
「あの肩のりはすっかりおなおりになりまして」
 といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合はちあわせになって、二人ふたりは所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしくまゆをきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃくした調子で口をきった。
「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
 葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
「何しろわたしども早月家さつきけの親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはきはきできるし、若いに似合わぬ物のわかったじんだ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人ひとりだが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身てきしん報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕ゆとりをつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっしゃくにさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さんがたしめしにもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川いそがわさん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」
 葉子は乞食こじきの嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈がんじょうな骨組みで、がっしりと正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心ははやり熱した。
「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様ひとさま同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
 といって葉子は指の間になぶっていた楊枝ようじを老女史の前にふいと投げた。
「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいとおぼすかもしれませんが、この二人ふたりだけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂あかさか学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷きとうと、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯かくおびのようなものを絹糸で編みはじめた。あいに白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかたでき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁ささべりのようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形いびつにならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時かたときも編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心おとめごころにどうしてこの夢よりもはかない目論見もくろみを白状する事ができよう。教師はその帯の色合いからして、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌ようぼうの舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄ほんろうした。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめたとらの子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島たじまさんのじゅくに行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人ふたりを連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
 といきなり恨めしそうに、貞世は姉のひざをゆすりながらその言葉をさえぎった。
「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着とんじゃくなく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長いそでの下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらでき消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」
 とたしなめさとすようにいうと、
「しかたがあるわ」
 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、
「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
 といって、くるりと首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父おじはことに大きなとんきょな声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっと叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋へやをかけ出した。階子段はしごだんの所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人ふたりが何かいい争うらしい声が聞こえて来た。
 一座はまたしらけ渡った。
「叔父さんにも申し上げておきます」
 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおりじゅくに入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介ごやっかいはかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏くじを背負い込んだとおぼして、どうか二人ふたりを見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」
 古藤は少し躊躇ちゅうちょするふうで五十川いそがわ女史を見やりながら、
「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
 と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂げきこうした様子で、
「わたしはくなった親佐おやささんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持ったかたですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」
 といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばらばらと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のように。
 古藤は何か自分一人ひとりで合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八の所をじっと見つめた。
 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して相好そうごうを変えたのは五十川いそがわ女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさくに立ちじたくをしながら、
「皆さんいかが、もうおいとまにいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
 葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着とんじゃくなく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々つやつやしい顔をなでさすりながらきっぱりといい放った。
 人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにかひざの上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
 最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母おじおばは二階を片づけには上がってこなかった。挨拶あいさつ一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、煉瓦れんがの通りの上にぼうっと立つの照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠まどおに日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店くぎだなの人通りは寂しいほどまばらになっていた。
 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
「愛さん……さあちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。しょうが合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけてもねこのように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直すなおに立ち上がって、はなをすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚しょだなのあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。
「ねえさま敷けました」
 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、
「そう御苦労さまよ」
 とまたしとやかにこたえながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。

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