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或る女(あるおんな)前編

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 6:24:42  点击:  切换到繁體中文



       一六

 葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔でいすいして、事務長の部屋へやから足もとも定まらずに自分の船室にもどって来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。目のまわりに薄黒いかさのできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔どうこうは光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の付け根までみなぎっていた。雪解時ゆきげどきの泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちんとよどんでいるばかりだった。
 葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどのせつなさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと目をさましそうになったり、意識の仮睡かすいに陥ったりした。猛烈な胃痙攣いけいれんを起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的かんけつてきに起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬まやくの恐ろしい力の下に、ただ昏々こんこんと奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞のふち深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色くけむっていた。その黄色い煙の中を時々あかい火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気いきづまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂こだまのようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしいへだたりを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみをおおって行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽いいびきがもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
 どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっと目を開いて頭をもたげた。ずき/\/\と頭のしんが痛んで、部屋へやの中は火のように輝いておもても向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、えりもとをかき合わせながら、静かにソファの上にひざを立てて、眼窓めまどから外面とのもをのぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと晴れ渡って、紺青こんじょうの色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されてえ茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江らしく可憐かれんなさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の動悸どうきを打ちながらしずかに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。
 岸の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきりとなって行った。そして頭がはっきりして来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、明瞭めいりょうに現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓めまどから顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥倒ねたおれた。頭の中は急にむらがり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上からこめかみの所を押えた。そして少し上目うわめをつかって鏡のほうを見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。
 葉子はとにかく恐ろしいがけのきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるかためしてみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心のたくらみを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清にっしん戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀叛人むほんにんのように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味(弱味ともいわばいえ)になるべきすぐれた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲滅法めくらめっぽうに動いて行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、世の中にはほんとうに葉子をたすけ起こしてくれる人がなかった。「わたしが悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい放ってやりたかった。女を全く奴隷どれい境界きょうがいに沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっとしている間は慇懃いんぎんにして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかそのにがい杯をなめさせられた。そして十八の時木部孤※(「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1-89-60)きべこきょうに対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮初かりそめの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくもえてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくりと見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。
 葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒石ひせきの用法をあやまった患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
 肉欲のきばを鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまくにおいのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛くものように網を張った。近づくものは一人ひとり残らずその美しい手網であみにからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力ようりょくある女郎蜘蛛じょろうぐものように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目しりめにかけた。
 葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群ひとむれはただ貪欲どんよく賤民せんみんとしか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人ひとりの男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近みぢかにいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵きゅうてきのような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱うすべは知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果二人ふたりの間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱ゆううつの沼に蹴落けおとした。自分は荒磯あらいそに一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母うばの家を尋ねたり、突然大塚おおつかの内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入ひとしおの心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまたみだらな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢きょうまんな女王のように、その捕虜からおもてをそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物えものはきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
 こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人おっとに選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそりを合わせる努力をしたならば、一生涯いっしょうがい木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎな考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇ちゅうちょする少女の心に似たぞんざいなためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
 そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板かんぱんの上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもしおそれもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾きょうしょくを自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面うわべでは事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶ものうげな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事はたなに上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしいがけのきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものはみじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でもみつと思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
 葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿めじかのように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在刹那せつなのくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
 その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着とんじゃくなく、
「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談じょうだんらしくいった。
「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑こわくの力がこめられていた。
 事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳こおどりして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。

       一七

 事務長のさしがねはうまいつぼにはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり済んで放蕩者ほうとうものらしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。
 まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人ふたりの医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側げんそくを離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座かじざに立ち上がって、手欄てすりから葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談じょうだんを取りかわした。船梯子ふなばしごの下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子ふなばしごきりきりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶あいさつもそこそこに、思いきり派手はでな装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄ながしめを送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹いちまつの白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音そうおんにもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱かじづなをあやつりながら、有頂点うちょうてんになってそれを拾おうとするのを見ると、船舷ふなばたに立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉いっせいに手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率かるはずみらしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
 検疫官は絵島丸が残して行った白沫はくまつの中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵まんばを放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはしたない群集の言葉にも、苦々にがにがしげな船客の顔色にも、少しも頓着とんじゃくしないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女おぼこらしくさらにまっになってその場をはずしてしまった。
 葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生のよろこびから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露ひろうしたいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄てすりを離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙せんそうの出口に田川夫妻とかなえになって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉でむくいられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのがさとれた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「またおせっかいだな」
 一秒の躊躇ちゅうちょもなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも無頓着むとんじゃくに、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげておくをかき上げながら顔じゅうを蠱惑的こわくてきなほほえみにして挨拶あいさつした。田川博士のほおにはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。
「あなたはずいぶんな乱暴をなさるかたですのね」
 いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的ちょうせんてきな調子で震えていた。田川博士はかせはこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。
 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言ひとことではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、溜飲りゅういんの下がるような小気味よさが小おどりしつつせめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあしゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。
「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
 初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気いきをさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返けかえすように離れて事務長のほうに振り向けられた。
「ごもっともです」
 事務長はあぶに当惑したくまのような顔つきで、がらにもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」
 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月さつきさんに一度か二度愛嬌あいきょうをいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」
 田川夫人がますますせき込んで、矢継やつばやにまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
「それにしてからがお話はいかがです、部屋へやで伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士はかせ、例のとおり狭っこい所ですが、甲板かんぱんではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
 と笑い笑い言ってからくるりッと葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂とんきょうな顔をちょっとして見せた。
 横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段はしごだんを下る時始めてぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種のにおいが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風つむじかぜのごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子のまゆの間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、ていよく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。
「ちょっといらっしゃい」
 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段はしごだんにかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっと明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種のおそれとなつかしさとをこめて打ちながめた。
 部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息といき一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまともに葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
 そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
「シャンペンだ。船長の所にバーから持ってさしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
 事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。
 あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心のせつなさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々なまなましい部屋へやの中を見るにつけても、激しくたかぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸にせまるのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人ふたりの二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人ひとりの女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代えがたく思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かをい求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりとつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡かいらいのようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきりと事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾にごうを煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま陰鬱いんうつに立っていた。今までそわそわと小魔しょうまのように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすにしりをすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児あかご同様の無邪気さで犯しうるたちの男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつさきを越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿ばかばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
 そういって笑って、事務長はひざがしらをはっしと打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目はけんを持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着むとんじゃくに下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸におさえあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えてのどがかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。
 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。
 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっと葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとして飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕きゅうじらしく、そこそこに部屋へやを出て行った。
 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たくうとくなった。胸からのどもとにつきあげて来る冷たいそして熱いたまのようなものを雄々おおしく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手うすでのコップにあわを立てて盛られた黄金色こがねいろの酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取けどられまいと、しいて左の手を軽くあげてびんの毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけがんでもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。
 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男ののどを見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
 と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そしてせきを切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
 事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどいかたですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」
 何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬しっとが頭をぐらぐらさせるばかりにこうじて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
 葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根まゆねは痛ましく眉間みけんに集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股こまたの切れあがったやせがたなその肉を痛ましくしいたげた。長いそでの下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命におさえながら、葉子はつばも飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
 事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋しろたびの足もとから、やや乱れた束髪そくはつまでをしげしげと見上げながら、
「どうしたんです」
 といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそくに返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口のはたまで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、
「どうしたんです」
 ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
「どうもしやしません」
 という事ができた。二人ふたりの言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫にはえられなくなって、はなやかなすそ蹴乱けみだしながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずたずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真のくずを男の胸もとおれと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく我武者がむしゃにすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地をつめも立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋へやの中の静かさをかき乱して響いていた。
 突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退さがって行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子はねこに見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。おこった野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。
「またおれをばかにしやがるな」
 という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
 あゝこの言葉――このむき出しな有頂点うちょうてんな興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。
「いやです放して」
 こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。
「だれが離すか」
 事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間にがいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
「ほんとうに離してくださいまし」
「いやだよ」
 葉子は倉地の接吻せっぷんを右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けたけもののようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子はほどを見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっと倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
「ほんとうに放していただきます」
 ときっぱりいって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋へやを横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたはけさこの戸にかぎをおかけになって、……それは手籠てごめです……わたし……」
 といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。
 取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛じゅそを口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
 葉子は興録が事務長のさしがねでなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋へやを出て行きそうな気配けはいもなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応こたえもなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。

「女の弱き心につけ入りたもうはあまりにむごきお心とただ恨めしく存じ参らせそろわらわの運命はこの船に結ばれたるしきえにしやそうらいけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」

 となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里いっしゃせんりに書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。
 と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなくつむりを上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっと戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。
 葉子は恥ずかしげに座にもどった。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっひじをついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。
 念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地いじ一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこな思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中しんじゅうでもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
 やがて酔いつぶれた人のようにつむりをもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。
 いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸にどたりと突きあたった人の気配がして、「早月さつきさん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。
早月さつきさんお願いだ。ちょっとあけてください」
 葉子は手早く小机の上の紙をくずかごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓めまどのカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。
 外部ではにぎこぶしで続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前すそまえをかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいてまゆをなでつけた。
「早月さん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 葉子はややしばしとつおいつ躊躇ちゅうちょしていたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、かぎがちがちやりながら戸をあけた。
 事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒ごうしゅな倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に仁王立におうだちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたにれていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」
 葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩めまいを感ずるほど有頂天になった。
「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深惚ふかぼれしとる事だけは、この胸三寸でちゃんと知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」
 葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。
 こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。

       一八

 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に“Car to the Town.Fare 15¢”と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓めまどから見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力クリーがここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々そうぞうしくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋へやに顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽きった人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝ってかぶとを脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。
 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人おっとを持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌ようぼうとを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人ふたりに近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心ともいえないほどの野心――もう一ついいゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍ゆうかんな男として、美貌びぼうな男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々よそよそしい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして甲板かんぱんに出て見ると、いつものように手欄てすりによりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。
 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着むとんじゃくだった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」のもと苦々にがにがしい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
 しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲どうせいしていなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。
 葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今瀬戸内せとうちのような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアでやとい入れた水先みずさき案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっにしながら帽子を取って挨拶あいさつした。ビスマークのような顔をして、船長よりひとがけもふたがけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっと葉子を見たが、そのまま向き直って、
「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」
 とスコットランドふうな強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
 その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は小動こゆるぎもせずにアメリカ松のえ茂った大島小島の間を縫って、舷側げんそくに来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとしたみさきくるりと船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずしたがけの土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々なまなましい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並やなみが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとんとのんきらしく音を立てて回っていた。かもめが群れをなしてねこに似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋あめやの呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。放埒ほうらつな、移りな、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの大海原おおうなばら――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水のしわを見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。
「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」
 すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄てすりから下を見おろした。そこに事務長が立っていた。
「One more over there,look!」
 こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。
 船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。
「Here we are! Seatle is as good as reached now.」
 船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、
「Thanks to you.」
 と付け足した。そして三人でしばらく快活に四方山よもやまの話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、
「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
 といった。葉子は船長にちょっと挨拶あいさつを残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段はしごだんを降りる時でも、目の先に見える頑丈がんじょうな広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子にせまる事はもうなかった。自分の部屋へやの前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草たばこの煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。
 それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子いすに腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人ひとり腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目いちもく置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御あねご」扱いにしていた。
「向こうに着いたらこれで悶着もんちゃくものだぜ。田川のかかあめ、あいつ、一味噌ひとみそすらずにおくまいて」
因業いんごうな生まれだなあ」
「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」
 などと彼らは戯談じょうだんぶった口調で親身しんみな心持ちをいい現わした。事務長はまゆも動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹かいきどてらを着ていた。
「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
 とそのどてらを着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔をうかがい窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶ものうげに葉子を見やりながら、
「わたしもそう思うんだがどうだ」
 とたずねた。葉子は、
「さあ……」
 と生返事なまへんじをするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは物をいうのがさすがに億劫おっくうだった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別ふんべつぶった顔をさし出して、
「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは検疫けんえきがとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」
「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌みそさえしこたますってくれればいちばんええのだが」
 と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼうにいってのけた。
 木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつりしたその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌悪けんおの種だったのだ。
 葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、
「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病けびょうじゃないんですの。この間じゅうからていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……おなかのここが妙に時々痛むんですのよ」
 というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。
「まあしおの悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほどていただけて?」
 事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。
 二人ふたりきりになってから、
「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」
 葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙ばいえんが遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣ねまきに着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談じょうだんのようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂げきこうしたりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が痲痺まひしたり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽いいたみのある所をそっと平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場はとばに着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせと手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、目論見もくろみどおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。
 まずきのう着た派手はでな衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢ながじゅばんや裏地が見えるように衣紋竹えもんだけに通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧にしに隠した。古藤ことうが木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、まくらの下に差しこんだ。鏡の前には二人ふたりの妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調ととのえるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺たんつぼに捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。においまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
 葉子はせわしく働かしていた手を休めて、部屋へやのまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。ふるい記憶がこうのようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
 フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶ものうかった。
 食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうにようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭ふとうに立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、ひざに抱き上げて愛撫あいぶしてやる母親にもはぐれたあの子は今あのいけはたのさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、まくらもとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んでかなしくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこうかなしく一人ひとりぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかりすがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯はてしのない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと広がっていた。生をのろうよりも死が願われるような思いが、せまるでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果てはまくらに顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
 こうして小半時こはんときもたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶ものうげに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らがつなづなを受けたりやったりする音と、鋲釘びょうくぎを打ちつけたくつ甲板かんぱんを歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
 と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋へやです」
 という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっとなった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがばと伏さってしまった。
 戸があいた。
「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気いきもとまるほど身内がしゃちこばってしまっていた。
早月さつきさん、木村さんが見えましたよ」
 事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
 木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人ふたりの顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人にうしろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生ごしょうですから今この部屋を……出てくださいまし……」
 木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪けんおとのために身をちぢめて壁にしがみついた。
「痛い……いけません……おなかが……早く出て……早く……」
 事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気いきえに、
「どうぞ出て……あっちに行って……」
 といいながら、いつまでも泣き続けた。

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