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二筋の血(ふたすじのち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 16:26:00  点击:  切换到繁體中文

底本: 石川啄木作品集 第二巻
出版社: 昭和出版社
初版発行日: 1970(昭和45)年11月20日
入力に使用: 1970(昭和45)年11月20日発行
校正に使用: 1972(昭和47)年6月20日発行

 

夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧氣に續いて、今になつては、皆、仄(ほの)かな哀感の霞を隔てゝ麗(うらゝ)かな子供芝居でも見る樣に懷かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に殘つてゐる事が二つある。
 何方(どつち)が先で、何方が後(あと)だつたのか、明瞭(はつきり)とは思出し難い。が私は六歳で村の小學校に上つて、二年生から三年生に進む大試驗に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つは慥か二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出來事と憶(おぼ)えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。
 今では文部省令が嚴(きび)しくて、學齡前の子供を入學させる樣な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舍の事でもあり、左程面倒な手續も要(い)らなかつた樣である。でも數へ年で僅か六歳の、然も私の樣に※(「おうにょう+王」、第3水準1-47-62)弱(かよわ)い者の入學(はい)るのは、餘り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳年長の子供等が、五人も七人も一度に學校に上つて了つて、淋しくて/\耐(たま)らぬ所から、毎日の樣に好人物の父に強請(ねだ)つた爲なので、初めの間こそお前はまだ餘り小さいからと禁(と)めてゐたが根が惡い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日學校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友(みんな)と一緒に學校に行く事になつた。されば私の入學は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい學問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸(ぼろ/\)になつた孝經やら十八史略の端本やらを持つて、茶話ながら高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。 
 其頃父は三十五六、田舍には稀な程晩婚であつた所爲(せゐ)でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなく唯一粒種、剛い言葉一つも懸けるられずに育つた爲めか、背丈(せい)だけは普通であつたけれども、ひよろ/\と痩せ細つてゐて、隨分近所の子供等と一緒に、裸足(はだし)で戸外の遊戯もやるにかゝはらず、怎(どう)したものか顏が蒼白(あを)く、駈競(かけくら)でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。隨つて、さうして遊んでゐながらも、時として密(こつそ)り一人で家に歸る事もあつたが、學校に上つてからも其性癖が變らず、樂書をしたり、木柵を潜り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言(むつつり)で黒板に書いた字を讀めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯(うつむ)いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで學校に入れて貰つたに拘はらず、私は遂學科に興味を有(も)てなかつた。加之(しかのみならず)時には晝休に家へ歸つた儘、人知れず裏の物置に隱れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何時(いつ)か私の頭を撫でながら、此兒も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる樣になれば可(い)いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。
 私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計(くらし)が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。隨つて、年中變らぬ稗勝(ひえがち)の飯に粘氣(ねばりけ)がなく、時偶(ときたま)夜話に來る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦(いぶ)つて、茶代りに出すといふ有樣であつたから、私なども、年中つぎだらけの布(ぬの)の股引を穿(は)いて、腰までしかない洗晒(あらひざら)しの筒袖(つゝそで)、同じ服裝(なり)の子供等と共に裸足(はだし)で歩く事は慣れたもので、頭髮(かみ)の延びた時は父が手づから剃(そ)つて呉れるのであつた。名は檜澤新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。
 學校では、前にも言つた如く、些(ちつ)とも學科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許りの級(クラス)のうち尻から二番で漸と及第した。惡い事には、私の家の兩隣の子供、一人は一級上の男で、一人は同じ級の女の兒であつたが、何方(どつち)も其時半紙何帖かを水引で結んだ御褒賞を貰つたので、私は流石に子供心にも情(なさけ)ない樣な氣がして、其授與式の日は、學校から歸ると、例(いつも)の樣に戸外(おもて)に出もせず、日が暮れるまで大きい圍爐裏(ゐろり)の隅に蹲(うづくま)つて、浮かぬ顏をして火箸許り弄(いぢ)つてゐたので、父は夕飯が濟んでから、黒い羊羹を二本買つて來て呉れて、お前は一番稚(ちいさ)いのだからと言つて慰めて呉れた。
 それも翌日になれば、もう忘れて了つて、私は相變らず時々午後の課業を休み/\してゐたが、七歳の年が暮れての正月、第三學期の初めになつて、學校には少し珍らしい事が起つた。それは、佐藤藤野といふ、村では儔(くら)べる者の無い程美しい女の兒が、突然一年生に入つて來た事なので。
 百何人の生徒は皆目を聳(そばた)てた。實際藤野さんは、今想うても餘り類のない程美しい兒だつたので、前髮を眉の邊まで下げた顏が圓く、黒味勝の眼がパッチリと明るくて、色は飽迄白く、笑ふ毎に笑窪(えくぼ)が出來た。男生徒は言はずもの事、女生徒といつても、赤い布片(きれ)か何かで無雜作に髮を束(たば)ねた頭を、垢染(あかじ)みた浅黄(あさぎ)の手拭に包んで、雪でも降る日には、不恰好な雪沓(つまご)を穿いて、半分に截(き)つた赤毛布を頭からスッポリ被(かぶ)つて來る者の多い中に、大きく菊の花を染めた、派手な唐縮緬の衣服(きもの)を着た藤野さんの姿の交つたのは、村端(むらはづれ)の泥田に蓮華の花の咲いたよりも猶鮮やかに、私共の眼に映つたのであつた。
 藤野さんは、其以前(そのまへ)、村から十里とも隔たらぬ盛岡の市の學校にゐたといふ事で、近江屋の分家の、呉服屋をしてゐる新家といふ家に、阿母(おかあ)さんといふ人と二人で來てゐた。
 私共の耳にまで入つた村の噂では、藤野さんの阿母さんといふ人は、二三年も前から眼病を患(わづら)つてゐた新家の御新造の妹なさうで、盛岡でも可也(かなり)な金物屋だつたが、怎(どう)した破目かで破産して、夫といふ人が首を縊つて死んで了つた爲め、新家の家の家政を手傳ひ旁々、亡夫の忘れ形見の藤野さんを伴れて、世話になりに來たのだといふ事であつた。其阿母さんも亦、小柄な、色の白く美しい、姉なる新家の御新造にも似ず、いたつて快活な愛想の好い人であつた。
 村の學校は、其頃まだ見窄(みすぼ)らしい尋常科の單級で、外に補習科の生徒が六七人、先生も高島先生一人限(き)りだつたので、教場も唯一つ。級は違つてゐても、鈴の樣な好い聲で藤野さんが讀本を讀む時は、百何人が皆石筆や筆を休ませて、其方(そつち)許り見たものだ。殊に私は、習字と算術の時間が厭(いや)で/\耐(たま)らぬ所から、よく呆然(ぼんやり)して藤野さんの方を見てゐたもので、其度先生は竹の鞭で私の頭を輕く叩いたものである。
 藤野さんは、何學科でも成績が可(よ)かつた。何日(いつ)であつたか、二年生の女生徒共が、何か授業中に惡戲(いたづら)をしたといつて、先生は藤野さんを例に引いて誡(いまし)められた事もあつた樣だ。上級の生徒は、少しそれに不服であつた。然し私は何も怪(あやし)まなかつた。何故なれば、藤野さんは其頃、學校中で、村中で、否、當時の私にとつての全世界で、一番美しい、善い人であつたのだから。
 其年の三月三十日は、例年の如く證書授與式、近江屋の旦那樣を初め、村長樣もお醫者樣も、其他村の人達が五六人學校に來られた。私も、祕藏の袖の長い衣服(きもの)を着せられ、半幅の白木綿を兵子帶にして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の白い覆布をかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた樣に憶(おぼ)えてゐる。勅語の捧讀やら「君が代」の合唱やらが濟んで、十何人かの卒業生が、交る交る呼出されて、皆嬉し相にして卒業證書を貰つて來る。其中の優等生は又、村長樣の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。軈て、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が讀上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周圍の子供等は皆私の顏を見た。私は其時甚※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)(どんな)氣持がしたつたか、今になつては思出せない。
 式が濟んでから、近江屋樣から下さるといふ紅白の餅だけは私も貰つた。皆は打伴れて勇まし相に家に歸つて行つたが、私共落第した者六七人だけは、用があるからと言つて先生に殘された。其中には村端の堀立小屋の娘もあつて、潸々(さめ/″\)泣いてゐたが、私は、若しや先生は私にだけ證書を後で呉れるのではないかといふ樣な、理由もない事を心待ちに待つてゐた樣であつた。
 軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ/″\に誡められたり勵まされたりしたが、私は一番後※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、體も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭(おじぎ)をすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は餘り穩(おとな)し過ぎる。」と言つた、そして卓子(テーブル)の上のお盆から、麥煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其室には、村長樣を初め二三の老人達がまだ殘つてゐた。
 私は紙に包んだ紅白の餅と麥煎餅を、兩手で胸に抱いて、悄々(しを/\)と其處を出て來たが、昇降口まで來ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。喉まで出懸けた聲は辛うじて噛殺したが、先生の有難さ、友達に冷笑(ひやかさ)れる羞(はづ)かしさ、家へ歸つて何と言つたものだらうといふ樣な事を、子供心に考へると、小さい胸は一圖に迫つて、涙が留度もなく溢れる。すると、怎(どう)して殘つてゐたものか、二三人の女生徒が小使室の方から出て來た樣子がしたので、私は何とも言へぬ羞かしさに急に動悸(どうき)がして來て、ぴたりと柱に凭懸(よりかゝ)つた儘、顏を見せまいと俯(うつむ)いた。
 すた/\と輕い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『何したの、新太郎さん?』と言つた聲は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、恁(か)う言はれたので、私は思はず顏を上げると、藤野さんは、晴乎(ぱつちり)とした眼に柔かな光を湛へて、凝(ぢつ)と私を瞶(みつ)めてゐた。私は直ぐ又俯いて、下脣を噛締めたが、それでも歔欷(すゝりなき)が洩れる。
 藤野さんは暫く默つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下で漸(やつ)と及第したもの。』と、弟にでも言ふ樣に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と、私の顏を覗き込む樣にしたが、私は片頬を柱に擦(す)りつけて、覗かれまいとしたので、又すたすたと行つて了つた。藤野さんは何學科も成績が可かつたのだけれど、三學期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。
 其日の夕暮、父は店先でトン/\と桶の箍(たが)を篏(い)れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然(せうぜん)と圍爐裏の隅に蹲(うづくま)つて、もう人顏も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロチロと舌を出す樣に燃えて了ふのを餘念もなく眺めてゐたが、裏口から細い聲で、『新太郎さん、新太郎さん。』と呼ぶ人がある。私はハッと思ふと、突然(いきなり)土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。
 藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾(につこり)笑つて、『まあ、裸足(はだし)で。』と、心持眉を顰(ひそ)めた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。
『これ上げるから、一生懸命勉強するッこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然(ぼんやり)立つてゐたので、すた/\と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顏の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと氣が附いたので、私は頷(うなづ)いて見せると、其儘またすた/\と梨の樹の下を。
 紙包の中には、洋紙の帳面が一册に半分程になつた古鉛筆、淡紅色(ときいろ)メリンスの布片(きれ)に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懷中時計であつた。
 其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心(しん)を甜めながら、贈物の帳面に、讀本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄寫した。私が初めて文字を學ぶ喜びを知つたのは、實に其時であつた。

 人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく學校に行くのが愉(たのし)くなつて、今迄では飽きて/\仕方のなかつた五十分宛の授業が、他愛もなく過ぎて了ふ樣になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。
 廣い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板を※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前方の机に一團になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。 新學年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。默つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度(きつと)解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を擧げろと言はれて、私の手を擧げぬ事は殆ど無かつた。
 何の學科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注(みづつぎ)の役を吩附(いひつ)けられる。私は、葉鐵(ぶりき)で拵へた水差を持つて、机から机と※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つて歩く。机の兩端には一つ一つ硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑(とらぶち)か黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして私が水を注(つ)いでやつた時、些(そつ)と叮頭(おじぎ)をするのは藤野さん一人であつた。
 氣の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豐吉といふ兒が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳(ふたつ)か年長であつた。體も大きく、頭腦も發達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を擧げる時は大抵豐吉も手を擧げた。何しろ子供の時の二歳違ひは、頭腦の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顯著に現はれるのは算術である。豐吉は算術が得意であつた。
 問題を出して置いて先生は別の黒板の方へ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つて行かれる。そして又歸つて來て、『出來た人は手を擧げて。』と、竹の鞭を高く擧げられる。それが、少し難(むづ)かしい問題であると、藤野さんは手を擧げながら、若くは手を擧げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に滿干(さしひき)する微かな波をも見遁(みのが)す事はなかつた。二人共手を擧げた時、殊にも豐吉の出來なかつた時は、藤野さんの眼は喜びに輝いた。豐吉も藤野さんも出來なくて、私だけ手を擧げた時は、邪氣ない羨望の波が寄つた。若しかして、豐吉も藤野さんも手を擧げて、私だけ出來ない事があると、氣の毒相な眼眸(まなざし)をする。そして、二人共出來ずに、豐吉だけ誇りかに手を擧げた時は、美しい藤野さんの顏が瞬く間暗い翳(かげ)に掩(おほ)はれるのであつた。
 藤野さんの本を讀む聲は、隣席の人すら聞えぬ程讀む他の女生徒と違つて、凛として爽やかであつた。そして其讀方には、村の兒等にはない、一種の抑揚(ふし)があつた。私は、一月二月と經(た)つうちに、何日(いつ)ともなく、自分でも心附かずに其抑揚(ふし)を眞似る樣になつた。友達はそれと氣が附いて笑つた。笑はれて、私は改めようとするけれども、いざとなつて聲を立てゝ讀む時は、屹度其抑揚(ふし)が出る。或時、小使室の前の井戸端で、六七人も集つて色々な事を言ひ合つてゐた時に、豐吉は不圖其事を言ひ出して、散々に笑つた末、『新太と藤野さんと夫婦になつたら可(よ)がんべえな。』と言つた。
 藤野さんは五六歩離れた所に立つてゐたつたが、此時、『成るとも。成るとも。』と言つて皆を驚かした。私は顏を眞赤(まつか)にして矢庭に駈出して了つた。

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