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病院の窓(びょういんのまど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-21 16:20:54  点击:  切换到繁體中文

底本: 石川啄木作品集 第二巻
出版社: 昭和出版社
初版発行日: 1970(昭和45)年11月20日
入力に使用: 1970(昭和45)年11月20日発行
校正に使用: 1972(昭和47)年6月20日発行

 

野村良吉は平日いつもより少し早目に外交から歸つた。二月の中旬過の、珍らしく寒さのゆるんだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて來たから、指先に穴のあいた足袋が氣持惡く濡れて居た。事務室に入つて、受付の廣田に聞くと、同じ外勤の上島も長野も未だ歸つて來ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。
 暫時しばらく其處の煖爐ストーブにあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る煖爐に自暴やけこすり附けると、シュッシュッといやな音がして、變な臭氣が鼻をつ。苦い顏をして階段を上つて、懷手をした儘耳を欹てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首卷と毛羅紗の鳥打帽を打釘に懸けて、其手でドアを開けて急がしく編輯局を見※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)した。一月程前に來た竹山と云ふ編輯主任は、種々の新聞を取散らかした中で頻りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた廣い背を此方に向けて、煖爐の傍の窓際で新着の雜誌らしいものを讀んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々ひそ/\話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少からず渠の心を惱ませて居たのだ。役所※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りをして、此間やつた臨時種痘の成績調やら辭令やらを寫して居ながらも、四六時中しよつちうそれが氣になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
 ホッと安堵すると妙な笑が顏に浮んだ。一足入つて、扉を閉めて、
『今日は餘程よつぽど道が融けましたねす。』
と、國訛りのザラザラした聲で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は煖爐の側にあつた椅子を引ずつて來て腰を下した。古新聞を取つて性急そゝくさに机の塵を拂つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか譯もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚掴んで來て、懷から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと氣乘りのする材料も無かつたので、「不漁しけだ。不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す樣な氣がする。兩の袂を探つたが煙草が一本も殘つて居ない。野村は顏を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
 編集局は左程廣くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が氣持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松とゞまつの大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射ひざしが硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も擴げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染しみが、新らしい机だけに、胸が苛々いら/\する程血腥い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。
 此新聞は昔貧小ちつぽけな週刊であつた頃から、釧路の町と共に發達して來た長い歴史を持つて居て、今では千九百何號かに達して居る。誰やらが「新聞界の桃源」と評しただけあつて、主筆と上島と野村と、唯三人でやつて居た頃は隨分暢氣のんきなものであつたが、遠からず紙面やら販路やらを擴張すると云ふので、社屋の新築と共に竹山主任が來た。一週間許り以前に長野と云ふ男が助手といふ名で入社はいつた。竹山が來ると同時に社内の空氣も紙面の體裁も一新されて、野村も上島も怠ける譯にいかなくなつた。
 野村は四年程以前に竹山を知つて居た。其竹山が來ると聞いた時、アノ男が何故※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)こんな釧路あたりまで來るのかと驚いた。と同時に、云ふに云はれぬ不安が起つて、口には出さなかつたが、惡い奴が來る事になつたもんだと思つて居た。野村は、假令※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)どんなに自分に自分に好意を持つてる人にしても、自分の過去を知つた者には顏を見られたくない經歴を持つて居た。けれども、初めて逢つた時は流石に懷しく嬉しく感じた。
 野村の聞知つた所では、此社の社長の代議士が、どうした事情の下にか知れぬけれど、或實業家から金を出さして、去年の秋小樽に新聞を起した。急造にはかづくりの新聞だから種々いろ/\な者が集まつたので、一月經つか經たぬに社内に紛擾が持上つた。社長は何方かと云へば因循な人であるけれど、資本家から迫られて、社の創業費を六百近く着服したと云ふ主筆初め二三人の者を追出して了つた。と、どうしたのか知らぬが他の者まで動き出して、編集局に唯一人殘つた。それは竹山であつたさうな。竹山は其時一週間許りも唯一人で新聞を出して見せたのが、社長に重んぜられる原因になつて、二度目の主筆が兎角竹山を邪魔にし出した時は、自分一人の爲に折角の社を騷がすのは本意で無いと云つて、誰が留めてもかずに到頭退社の辭を草した。幸ひ此方の社が擴張の機運に際して居たので、社長は隨分と破格な自由と待遇を與へて竹山を伴れて來たのだと云ふ事であつた。打見うちみには二十七八に見えるけた所があるけれど、實際は漸々二十三だと云ふ事で、髭が一本も無く、烈しい氣象が眼に輝いて、少年らしい活氣の溢れた、何處か恁うナポレオンの肖像畫に肖通つた所のある顏立で、愛相一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好ひとずきがする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故かどううしても心から竹山に服する氣にはなれぬ。酒を喰つた時などは氣が大きくなつて、思切つて竹山の蔭口を叩く事もある位で、殊にも此男が馴々しく話をする時は、昔の事――強ひて自分で忘れて居る昔の事を云ひ出されるかと、それはそれは人知れぬ苦勞をして居た。
 野村は力が拔けた樣に墨を磨つて居たが、眼は凝然と竹山の筆の走るのを見た儘、いろ々な事が胸の中に急がしく往來して居て、さらでだに不氣味な顏が一層險惡になつていた。竹山も主筆も恰も知らぬ人同志が同じ汽車に乘合はした樣に、互にそ知らぬさまをして居る。何方も傍に人が居ぬかの樣に、見向くでもなければ一語を交すでもない。彼は此態を見て居て又ぞろ不安を感じ出して來た。屹度俺の來るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。うと、今朝俺の出社したのは九時半……否十時頃だつたが、それから三時間餘も恁う默つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不圖すると俺の來る直き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其處へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も煖爐の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が來たに違ひない。先刻事務の廣田に聞いてくれば可かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が來て、三人になつて三人で俺の事を色々惡口し合つて……然うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴ひどい男だ。以前は俺と毎晩飮んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴あいつの事を素破拔すつぱぬいてやらう、と氣が立つて來て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠狐鼠こそこそ相談せずと、退社しろなら退社しろとはつきり云つたら可いぢやないか、と自暴糞やけくそな考へを起したが、退社といふ辭が我ながらムカムカしてる胸に冷水を浴せた樣に心に響いた。飢餓と恐怖と困憊と悔恨と……眞暗な洞穴の中を眞黒な衣を着てゾロ/\と行く乞食の群! 野村は眼を瞑つた。
 白く波立つ海の中から、檣が二本出て居る樣が見える。去年の秋、渠が初めて此釧路に來たのは、恰度竹の浦丸といふ汽船が、どうした錯誤あやまりからか港内に碇泊した儘沈沒した時で、二本の檣だけが波の上に現はれて居た。風の寒い濱邊を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨うろつき乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて「破船」といふことを考へた。そして、渠は、濡れた巖に突伏して聲を出して泣いた事があつた。……野村は一層堅く目を瞑つた。と、矢張其時の事、子供を伴れた夫婦者の乞食と一緒に、三晩續けて知人岬しりとさきの或神社に寢た事を思出した。キイと云ふ子供の夜泣の聲。垢だらけの胸をはだけて乳をやる母親は、鼻が推潰した樣で、土に染みた髮は異な臭氣を放つて居たが、……噫、淺間しいもんだ※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)あんな時でも※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)あんな氣を、と思ふと其をつとの、見るからに物凄い鬚面が目に浮ぶ。心は直ぐ飛んで、遠い遠い小坂の鑛山へ行つた。物凄い髯面許りの坑夫に交つて、十日許りも坑道の中で鑛車トロツコを推した事があつた。眞黒な穴の口が見える。それは昇降機エレヴェーターを仕懸けた縱坑であつた。噫、俺はアノ穴を見る恐怖に耐へきれなくなつて、坑道の入口から少し上の、些と許り草があつて女郎花の咲いた所に半日寢ころんだ。母、生みの母、上衝のぼせで眼を惡くしてる母が、アノ時甚※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)どんなに戀しくなつかしく思はれたらう! 母の額には大きな痍があつた。然うだ、父親が醉拂つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の額が目の前に……。
 ハッとして目を開いた野村は、微かな動悸を胸に覺えて、墨磨る手が動かなくなつて居た。母! と云ふ考へが又浮ぶ。母が親ら書く平假名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙! 此間返事をやつた時は、馬鹿に景氣の可い樣な事を書いた。景氣の可い樣な事を書いてやつて安心さしたのに、と思つて四邊あたりを見た。竹山は筆の軸で輕く机を敲き乍ら、書きさしの原稿を睨んで居る。不圖したら今日締切後に宣告するかも知れぬ、と云ふ疑ひが電の樣に心を刺した、其顏面には例の痙攣ひきつけが起つてピクピクふるへて居た。
 内心の斷間なき不安を表はすかの樣に、ピクピク顏の肉を痙攣ひきつけさせて居るのは渠の癖であつた。色のドス黒い、光澤つやの消えた顏は、何方かと云へば輪廓の正しい、醜くない方であるけれども、硝子玉の樣にギラギラ惡光りのする大きい眼と、キリリと結ばれたる事のない脣とが、顏全體の調和を破つて、初つて逢つた時は前科者ぢやないかと思つたと主筆の云つた如く、何樣なにさま物凄く不氣味に見える。少し前に屈んだ中背の、齡は二十九で、髯は殆ど生えないが、六七本許りも眞黒なのが頤に生えて五分位に延びてる時は、其人相を一層險惡にした。
 渠が其地位に對する不安を抱き始めたのは遂此頃の事で、以前郵便局に監督人とかを務めたといふ、主筆と同國生れの長野が、編輯助手として入つた日からであつた。今迄上島と二人で隔日に校正をやつて居た所へ、校正を一人入れるといふ竹山の話は嬉しかつたものの、逢つて見ると長野は三十の上を二つ三つ越した、牛の樣な身體の、牛の樣な顏をした、隨分と不恰好で氣の利かない男であつたが、「私は木下さん(主筆)と同國の者で厶いまして、」と云ふ挨拶を聞いた時、俺よりも確かな傳手つてがあると思つて、先づ不快を催した。自分が唯十五圓なのに、長野の服裝の自分より立派なのは、若しや俺より高く雇つたのぢやないかと云ふ疑ひを惹起したが、それは翌日になつて十三圓だと知れて安堵した。が、三日目から今迄野村の分擔だつた商況の材料取と警察※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)りは長野に歩かせることになつた。竹山は、「一日も早く新聞の仕事に慣れる樣に。」と云つて、自分より二倍も身體の大きい長野を、手酷しく小言を云つては毎日々々使役こきつかふ。校正係なら校正だけで澤山だと野村は思つた。加之のみならず、渠は※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)こんな釧路の樣な狹い所では、外交は上島と自分と二人で十分だと考へて居た。時々何も材料が無かつたと云つて、遠い所は※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)らずに來る癖に。
 浮世の戰ひに疲れて、一刻と雖ども安心と云ふ氣持を抱いた事のない野村は、適切てつきり長野を入れたのは、自分を退社させる準備だと推諒した。と云ふのは、自分が時々善からぬ事をしてゐるのを、渠自身さへたまには思返して淺間しいと思つて居たので。
 渠は漸々やう/\筆を執上とりあげて、其處此處手帳を飜反ひつくりかへして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を讀返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度續けると、何かしら鈍い壓迫が頭腦に起つて來て、四邊あたりが明るいのに自分だけ陰氣な所に居る樣な氣がする。これも平日いつもの癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつて、ズクズクうづき出す樣な氣がして、渠は痛くもならぬ中から顏を顰蹙しかめた。そして、下脣を噛み乍らまた書出した。
『支廳長が居つたかえ、野村君?』
突然だしぬけに主筆の聲が耳に入つた。
『ハア、支廳長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』
『今朝の一番汽車か?』
『ハア、札幌の道廳へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』
『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』
『ハア居ります。』
 野村は我乍ら可笑しい程狼狽へたと思ふと、赫と血が上つて顏がほてり出して、澤山の人が自分の後に立つて笑つてる樣な氣がするので、自暴やけに亂暴な字を五六行息つかずに書いた。
『じゃ君、先刻の話を一應戸川に打合せて來るから。』
と竹山に云つて、主筆は出て行つた。「先刻の話」と云ふ語は熱して居る野村の頭にも明瞭はつきりと聞えた。支廳の戸川に打合せる話なら俺の事ぢやない。ハテそれでは何の事だらうと頭を擧げたが、何故か心が臆して竹山に聞きもしなかつた。
『君は大變顏色が惡いぢやないか。』と竹山が云つた。
『ハア、どうも頭が痛くツて。』と云つて、野村は筆をいて立つ。
『そらア良くない。』
『書いてると頭がグルグルして來ましてねす。』と煖爐ストーブの方へ歩き出して、大袈裟に顏を顰蹙しかめて右の手で後腦を押へて見せた。
『風邪でも引いたんぢやないですか。』と鷹揚に云ひ乍ら、竹山は煙草に火をつける。
『風邪かも知れませんが、……先刻さつき支廳から出て坂を下りる時も、妙に寒氣さむけがしましてねす。餘程ぬくい日ですけれどもねす。』と云つたが、竹山の鼻から出て頤の邊まで下つて、更に頬を撫でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒どうぞ一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉のども少し變だどもねす。』
『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料は話して貰つて僕が書いても可いです。』
『ハア、ちつと許りですから。』
 込絡こんがらかつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて來た。上島は平日いつにない元氣で、
『愈々漁業組合が出來る事になつて、明日有志者の協議會を開くさうですな。』
と云ひ乍ら直ぐ墨を磨り出した。
『先刻社長が見えて※(「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2-94-57)そんな事を云つて居た。二號標題みだしで成るべく景氣をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は單に報道に止めて、此方の意見は二三日待つて見て下さい。』
 長野が牛の樣な身體を慇懃いんぎんに運んで机の前に出て『アノ商況で厶いますな。』揉み手をする。
『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』
『イヤソノ、今日は何も材料がありませんので。』
『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』
『え、異動がありませんでした。』
『越後米を積んで、雲海丸の入港はひつたのは、昨日だつたか一昨日だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて來た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位いのものだが――を書くことにしてあつたのだ。
『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打となつたらうと思ひますがねす。』
『遂聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり惡げに先づ野村を見た目を竹山に移した。
『警察の方は?』
『違警罪がたつた一つ厶いました。今書いて差上げます。』
と硯箱の蓋をとる。
 野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖美味うまさうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれども、些とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の變りがなかつた。軈てまた机に就いて、成るべく厭に見える樣に顏を顰蹙しかめたり後腦を押へて見たりし乍ら、手帳を繰り始めたが、不圖髭を捻つて居る戸川課長の顏を思出した。課長は今日俺の顏を見るとから笑つて居て、何かの話の序にアノ事――三四日前に共立病院の看護婦に催眠術をけた事を揶揄からかつた。課長は無論唯若い看護婦にけたと云ふだけで揶揄からかつたので、實際又醫者や藥劑師や他の看護婦の居た前でけたのだから、何もをかしい事が無い。無いには無いが、若しアノ時アノ暗示を與へたら怎うであつたらう、と思ふと、其梅野といふ看護婦がスッカリ眠つて了つて、横にたふれた時、白い職服きものの下から赤いものが喰み出して、其の下から圓く肥つた眞白いはぎの出たのが眼に浮んだ。渠はくすぐられる樣な氣がして、俯向いた儘變な笑を浮べて居た。
 上島は燐寸マッチを擦つて煙草を吹かし出した。と、渠はまたもや喉から手が出る程みたくなつて、『君は何日でも[#「も」は底本では「は」]煙草を持つてるな。』と云ひ乍ら一本取つた。何故今日はアノ娘が居なかつたらう、と考へる。それは洲崎町のとある角の、渠が何日でも寄る煙草屋の事で、モウ大分借が溜つてるから、すぐ顏を赤くする銀杏返しの娘が店に居れば格別、口喧くちやかましやの老母ばばあが居た日にはどうしても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何時でも俯向いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭にかぶさつた鈍い壓迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に數へて居た。
 兎角して渠は漸々やう/\三十行許り書いた。大儀さうに立上つて、其原稿を主任の前に出す時、我乍ら餘り汚く書いたと思つた。
『目が眩む樣なもんですから滅茶々々で、……』
いや、有難う。』と竹山は例になく禮を云つたが、平日いつもの癖で直ぐには原稿に目もくれぬ。渠も亦平日いつもの癖でそれを一寸不快に思つたが、
『あとは別に書く樣な事もございませんが。』と竹山の顏を見る。

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