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電気風呂の怪死事件(でんきぶろのかいしじけん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 12:51:25  点击:  切换到繁體中文


 突如、
「吁ッ、此処ここった!」
 と、職人風の一人が両手をさあッとげて頓狂とんきょうな叫びを発した。と、同時に、冷水管を通す円い穴の向うで、「きゃッ」という叫びがはじかれた。――それは、先刻さっき狼狽して釜場の方へ飛んで行った湯屋の女房であった。彼女は、のぞあなへ当てた片眼の前で、余りにも唐突だしぬけに職人の一人が声を発したので吃驚びっくりしたのである。のけぞりかえるように、逃げ腰に振り返った途端とたん発止はっし鉢合はちあわせたのは束髪そくはつった裸体の女客であった。
「見ちゃいけません。見ちやいけません。早くお帰んなさい」
 前後の見境みさかいなく、女房はその女客を片腕で制して押し戻した。その女客は、手に何か黒いかさばったものを持っているらしかったが、此際このさいそんなことは、女房に取って注意を要すべきことではなかった。ただ、その女客が黙って元来た女湯の方へ行こうとするのにおっかぶせて、
「あの、女湯の方には変りはありませんでしたでしょうか?」
 と問いかけた。すると、その女客は引戸に手をかけたまま、ちょっと振返ったが、
「いいえ、別に何とも……」
 と、曖昧あいまいに答えてそのまま女湯の流し場の方へ入ってしまった。
 その引戸が閉まると同時に、女房は何故か一抹いちまつ疑心ぎしんを感じて、念のため女湯の方を見廻りたいと思った。が、その時、男湯の方から主人の声が聴こえて来た。
「おい、早く蒲団ふとんを持って来い。おい、居ないか、由蔵、由蔵!」
 女房は擾乱じょうらんした頭で、裏口のドアじょうをかけると再び男湯の流し場へ駆けつけた。
 陽吉の身体が上ったものらしく、其処では色んな人々が立ち騒いでいた。寒さも忘れ、恥部ちぶを隠す余裕も持てない数人の浴客、それに椿事と知って駆けつけて来た近所の人々や、通行人らしい見知らぬ顔の男達が、あるい足袋たびを濡らしたまま、或は裾をまくったままで、わいわいと湯槽を取囲んでいた。
「おい、早く蒲団を持って来ないか。由蔵はどうしたんだ、いったいあいつは何処へ行っちまったんだ?」
「あたしゃ知らないよ。交番へでも駆けてったんじゃ、ないかね?」
「そんな筈はない。もう交番の旦那はとっくに見えてるんだ。由蔵にきたいことがあるって、待ってるんじゃないか。ええ、それより早く蒲団を持って来いというに――」
 いずれもむしょうに昂奮した口調で、こんなことを応酬おうしゅうしたのち、女房は返事も口の中でして奥の間へ飛び込んだ。押入から蒲団をきずり出すと、力一杯それをかかえて釜場の方へ引返して来た。と、其処にも男湯の方を覗き込んでいる近所の若衆が二三人立っていた。
「みなさん、お客様はもう死んでしまったんですか?」
「助かるだろうというんですがね、まあ早く蒲団を持ってってやんなさい!」
 だが、女房はその扉口とぐちに近く、警官や刑事らしい人々が数人、ひどく難しい表情で突立っているのを認めると、何故か心怯こころおびえてゆく気にはなれなかった。
「すみません、ちょっと此処を開けて下さい!」
 女房は、傍の人に声をかけて、女湯の扉口を頤でしゃくってみせた。
 無言で開けられた扉口とぐちから一歩、女湯の方へ足を踏み入れた彼女は、又も思わず「吁ッ!」と叫んだ。
 その声にはっと反射的に此方こちらを向いた扉口とぐちの連中は、「おやッ!」と、ひとしく目をみはった。
「お、女湯にも、大変です! 女湯にも人が、人が……」
 タイル張りの流し床に蒲団を放り出した女房が、こう叫んだのは、すべてはかることの出来ない瞬間のことである。
 男湯の方の出来事に注意をあつめていた警官連や他の男達は、どっと、その声に誘われて女湯の方へ雪崩なだれ込んで来た。
 司法主任の赤羽直三あかばねなおぞう氏の蒼白そうはくな顔が、何時の間にかまじっていた。
「おお! こりゃ兇器きょうきられてる。みんな傍へ寄っちゃいかん! 大変だ。君、急いで手配をして見張ってたまえ!」
 彼は、さすがに昂奮の色を見せて誰に云うとなく叫んだ。と同時に、刑事らしい一人がバタバタと表口へ駆け去った。
 男湯と女湯との仕切板の上から、いくつも覗いていた顔は、一様にさっと筋ばった。見るに忍びず、といったそれらの顔色が示す事件は、いったい何であったのだろう?――
 女湯の白いタイル張りの床の上に、年の若い婦人の屍骸しがい俯伏うつぶしに倒れていたのだ。いや、それよりも何よりも、一目見た程の人々の心に、最も強く映ったのは、その白いタイルの一面に、べにがらを溶かしような[#「溶かしような」はママ]生々なまなましい血糊ちのりがみなぎっていたのだ。そして、怖ろしいまでの苦悶くもんの跡をみせて、その年若い婦人の裸体が不自然な姿態したいをその中に示しているのであった。――
 赤羽司法主任は、たった一人でつかつかとその屍体したいに近づいて調べてみた。
 女は、もはやうにことれていた。そして、左の頸と肩との附根つけねの所に、鋭い吹矢ふきやが深々と喰い込んでささっている。おびただしい出血は、それがためのものであるらしい。が、その婦人の身体には、未だ幾分かあたたかみが残っていた。肉附のよい、見るからに豊満な全身にわたって、まだ硬直のきたしていないことが、誰の眼にも生々しい事件を想像させた。恐らく此の女は、男湯の騒ぎの最中さなかに殺されたものであろう。そう想う人々の面に、何がなし深い恐怖と不安がただよい初めたのを、赤羽主任も一通り看取かんしゅする余裕を持っていた。
 だが、見渡したところ、浴室の窓が開いている訳でもなし、吹矢を打ち込む隙間があろうとも思われなかった。と、赤羽主任の頭にさっとひらめいたのは、由蔵が姿を見せないということである。
「君、ちょっと、釜場の上にある由蔵の部屋を捜索して呉れ給え。狭い梯子はしごで昇れるようになっている所だ」
 部下の一人に耳打ちした赤羽主任は、次にも一人の部下に、容疑者ようぎしゃとして由蔵の逮捕かたならびに非常線を張ることを、本署に電話するように命じた。
 すぐに、その二人はそれぞれの役目にくべく其の場を去ると、赤羽主任は、向井湯の主人と女房を眼で呼び寄せた。
 主人は、あから顔を全く恐怖で包んだまんま扉口とぐちの前列に立っていた。女房はというと、投げ出した蒲団の後に眼をえたまま口を開けて立ちつくしている。四囲あたりの人々がどうあろうと、そんな判別もつかぬらしく、ただいたずらにその眼は執念しつこく女の屍体に注がれていた。
「君たち夫婦の中で、この女の顔に見覚みおぼえのある者はいないかね?」
 赤羽主任の訊問じんもんに、はじめて我に返った両人は、再び指し示されたその女の屍体に眼をやったが、答は横に振った首でなされた。
 次々と、その場に居合せた程の人々は、順に訊ねられたが、口数少く、いずれも女の身元については未知みちとの答ばかりであった。
 と、何を思ったか、低い、ややもすると隣の人にさえも聴き取れないような口籠くちごもり方で、女房がつぶやいた。
「……しかし、変だこと!」
「何? 何処が変だね?」
 赤羽主任の声に、一同は女房と共にはっとまなこを上げた。そして、赤羽主任の眼が女房の言動げんどうに何事か関心を持ったらしいことに気がついて、一層緊張した沈黙が生れた。
 女房は、飛んでもないことを云ってしまった、という様な不安を以て、まじまじと赤羽主任の眼を視返みかえした。
「今、変だこと! って云ったじゃないか?」
「ええ、でもそれは――」
 しかし、女房は云い逃れることの無駄を知って、おずおずと口を開いた。
「いえね、先刻さっき男湯で沈んだお客の体が見つかったとき、それがわたしの鼻の先なんでしょ。わたし、びっくりしちゃって奥へ逃げ出そうとしたんです。すると、ちょうどその時、女の人が一人、裸のまんま、わたしと衝突ぶつかったんです。思わず、いけません、早くお帰んなさい――って、わたしが云いますと、その方、この女湯の方へ帰ってしまいましたが、その時もしやと思ったもんですから、私は、女湯の方は何ともありませんか、って訊ねましたんです。すると、いいえ、何事もありません、と云って、そのまま此方こちらへ来た筈なんですのに――それで、今思い出したもんですから、ひょいと呟いたんですわ」
「ほほう、では君の見たという女は、此の死んでいる女客じゃなかったかね? よく見て御覧!」
 赤羽主任にそう云われて、今度は眉をひそめながら、女房は再びチラリとその方を見たが、
「いえ、まるっきりちがってますわ。何しろうす暗いのと、上気じょうきしていたのとで、はっきり見ることも出来ませんでしたが、わたしの見た女の方は束髪だった様に覚えています。此のお客さんは銀杏返いちょうがえしですものね、――ですけど、肉附きや、体の恰好など、似ていたと思えばそんな気もしますけれど……」
 赤羽主任は、無残むざんにつぶされた女の銀杏返しの髪に視線を送った。――丸々とえた頸筋くびすじに、血にまみれた乱れ髪が数本へびのようにっている、見るからに惨酷ざんこくな犯行を思わせずにはおかなかった。
 と、その時、赤羽主任のひとみはパッと大きく見開いた。というのは、その今しも見つめていた女の頸筋から一寸程離れた肩先に附着していた血痕けっこんが、チラリとひらめいたようだったからである。
「おやッ?」
 と叫んだ時、チラッと再び、その辺の血痕は鋭く光った。そして、同時に、その血は頸筋へかけてすうっと流れ出したではないか? 思わずてのひらを出して、赤羽主任はその上へ拡げてみた。と、まさしく、ポトリと音がして、赤羽主任の掌上てのうえには、一滴の血潮ちしおが、円点えんてんを描いた。
「ヤッ血だ!」
 一層頻繁ひんぱんに落ちて来る血潮を受け止めながら、赤羽主任は反射的に天井を見上げた。それに誘われて傍の人々もひとしく高い浴室の天井に首をめぐらせた。
「やッ、あそこに、あんな、あんなものが――」
 誰かが叫んだ時、一同のまなこは同時に同じものを認めたのであった。
 それは、高い高い、浴場特有の水色のペンキで塗られた天井であった。その天井の、ちょうど女の屍体がよこたわっている真上まうえおぼしい箇所に、小さな、黒いが見えていたのだ。いや、黒いと思ったのは、実は真紅な環で、血のにじみ出た環であったのだ。そこから、ポタリポタリと血潮が、青白い女の肉体に落ちるのではないか?
 打ち続く怪事に、人々の面は、今にも泣き出しそうにゆがんだ。
 赤羽主任は、唇をヒクヒクと痙攣けいれんさせ、顴骨けんこつの筋肉をこわばらせながら、主人に訊ねた。
「あの天井裏へ案内して呉れ! 早くだ、何処から昇るんだ!」
 が、主人は全く当惑とうわくした面持で躊躇ちゅうちょした。
「へッ、ど、何処から上ったもんでしょうかな?」
「自分の家じゃないか、落ついて考えるんだッ!」と、赤羽主任は、焦れったそうに、低いながらも力強く詰問きつもんした。
「それが、あそこへは一度も昇ったことがありませんので……。ま、とにかく裏梯子をかけてみましょう。どうぞ、こちらへ」
 周囲の人々の眼に送られて、両人が奥へ通う扉口とぐちを出ようとした時、刑事の一人があわただしく駆け込んで来た。
「主任、由蔵のへやを取調べましたが、由蔵の姿は見当りません。色々調べてみましたのですが、押入の天井の板が少し浮いていたほかに、別に異常はありません。で、押入の天井板を押しのけて上ってみますと、どうやら此の浴場の天井へ抜けられるんですが、驚いたことに……」
 と、報告しながら、その刑事は天井を見上げたが、突然頓狂に叫んだ。
「吁ッ! あいつの血だ! 由蔵が殺られてるんですぜ!」
 赤羽主任はきっとなって、共に天井の血の穴を見上げたが、刑事の叫びを聞くより、
「うむ、人が死んでいたろう? 男か女か?」
「男です! しかも裸体です。どうも由蔵らしいと思われますが、足裏が白くただれていました」
「よしッ! 直ぐ行こう、案内をたのむ!」
 と、赤羽主任は、真先に立って裏口へ行こうとしたが、何事かに気がついたと見えて再び身を振り返って云った。
「だが、この女の身元だ。女の着衣ちゃくいを調べて見よう!」
 赤羽主任は、あちこちにころがっている桶類をまたいで女湯の脱衣場だついじょうへ行くなり、乱雑に散らばっていた、衣類籠いるいかごをひとつひとつ探してみた。が、目指めざす女の着衣も誰の着衣きものも、一向に見当らない。

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