かたむき直し
「右舷メインタンク、排水用意!」
「用意よろしい」
「ほんとかね。弁は開いてあるかね」
「大丈夫ですよ、青木さん。もっとしっかり号令をかけてよ」
「よし。それじゃ、やるよ。……圧搾空気送り方、用意。用意、よろしい。圧搾空気送り方、はじめ! はじめ! 傾度四十五……」
豆潜水艇の中で、青木学士はひとりでさけんでいます。自分で号令をかけて、自分で仕事をやっているのです。なにしろ、この艇の中には乗組員はたった二人しかいないのですから、いそがしいことといったら、たいへんです。
かん、かん、かん、かん。
金具がすれるような音がきこえています。それとともに、今までたいへん右舷へかたむいていた豆潜水艇が、すこしずつかたむきをなおしてくるのがわかりました。
「青木さん。うまくなおってきましたね」
「ああ、この分なら、あと十六七分のうちに、ちゃんとなるだろう」
エンジンとポンプとが、あらい息をはいて、力一ぱいうごいています。
「どうして、左舷のメインタンクが開かなかったんだろうなあ」
「だって、いきなり艇が海の中へおちたから、故障がおきたのでしょう」
「さあ、どうかね。とにかくそんなことはないようにつくったつもりだったがねえ」
青木さんは、ふしぎそうにそういいました。
青木さんは、艇が海のなかにおちたと知ると、すぐにエンジンをかけ、メインタンクを開いたのです。そうすると、水がはいってきますから、潜水艇はしずみます。
そうしないと、艇はおちたいきおいで一たんしずみ、しばらくすると、また海面にうきあがるから、それでは悪人どもにまたつかまると思ったので、すぐタンクをひらいて、艇が海底におりたまま、うきあがらないようにしたのです。しかしそのとき、右舷のタンクはひらいたが、左舷のメインタンクがひらかなかったので、左舷タンクには水が入ってきませんでした。そこで、艇はひどくかたむいていたのです。
エンジンは、しきりにまわっています。
「防毒面はもうしばらくがまんしてかぶっているのだよ。今、艇内の毒ガスをおいだすと、そばにいる例の怪しい船にしれるからね」
青木さんが、ふと気がついたようすで、いいました。
「いつまでも、がまんできますよ」
「しかし、あのときは、あぶなかったねえ。悪い奴が、毒ガス弾をなげこんだとき、あわてないで、すぐ用意の防毒面をかぶったからよかったが、うっかりしていれば、今ごろは冷たくなって死んでいるよ」
「それよりも、ぼくは、青木さんが、艇内に防毒面をそなえておいた、その用意のよいのに、かんしんするなあ」
「そんなことは、べつにかんしんすることはないさ。コレラのはやる土地へいくには、かならず、水を水筒に入れてもっていくのと同じことだ。これからは、防毒面なしでは、外があるけないよ」
忘れもの
豆潜水艇のかたむきは、すっかりなおりました。艇は今、海のそこから五メートルほど上に、うきあがっています。
艇長さんの青木学士は、こんどは舵をうごかす舵輪にとりついて、かおを赤くしています。
「よし、このくらいで、ここをさよならしよう」
「青木さん、これからどっちの方へいくのですか」
「これから、ずっと沖の方へ出てみよう。その方が安全だし、ちょうど試運転にもいいからねえ」
「じゃあ、このまま外洋に出るのですね。ゆかいだなあ。青木さん、艇には、いる品ものはみんなそろっているのですか」
春夫は、しんぱいになって、たずねました。
「うん、ちょっと入れのこした品ものがあるんだ。しかし今さら、とりにかえるのも、めんどうなのでね」
「その足りない品ものというのは、一たいなんですか。たべものとか、水とかが足りないのではないのですか」
「あははは。君はくいしんぼうなんだね。だから、たべものだの、水だののことを、しんぱいするんだね。安心したまえ。その方はじゅうぶんとはいかないが、せつやくすれば、二人で三十日ぐらいくらしていけるだけはある」
「へえ、そんなにあるのですか」
春夫は、三十日分もあるときいて、目をまるくし、つばをのみこみました。
「それで、なにが足りないのですか、青木さん」
「その足りない品ものというのはね、当局からもらった機関銃だよ」
「へえ、機関銃ですって? そんなものを、どうしてもらったのですか」
「だって、太平洋は、いま武装しないでは、あぶなくて航海できないじゃないか。おねがいしてやっともらったんだけれど、大切なものだから、一番あとでのせるつもりでいたから、つめなかったんだよ」
なるほど、いま太平洋はいつ敵国の軍艦や飛行機から攻撃をうけるか、たいへんあぶない時期にはいっていた。そういう場合に日本男子は、おめおめ敵のためにしずめられたり、とりこになったりしてはいけない。むかってくる敵にたいしては、あくまでたたかうのが日本男子である。もうこうなれば、兵隊であろうが、なかろうが、かくごはおなじことである。
そういう時期にはいっているのに、青木学士は、身をまもる機関銃を忘れたといって、あんがいへいきでいるのである。
春夫は、あきれた。
「そんなものをわすれてきては、こまりますね。ほかに、武器はあるんですか」
「かくべつ武器と名のつくものはないよ。しかし、敵が向ってきても、またなんとかうまくあしらってやるよ」
「銃も刀ももたないで、敵に向うなんて、らんぼうじゃありませんか」
「そうだ。ちょっとらんぼうらしいね。あははは」
青木学士は、べつにおどろいた風でもなく、なぜか、からからとわらいました。
豆潜水艇は、どこへいく?
次ぎの日に、海上において、おどろくべき事件がおころうとは、春夫はもちろん、青木学士さえも、しらなかったのでありました。
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