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自叙伝(じじょでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:01:42  点击:  切换到繁體中文


   六

 平民社は幸徳と堺と西川光二郎と石川三四郎との四人で、石川を除く外はみな大の宗教嫌いだった。でもそとから社を後援していた安部磯雄や木下尚江は石川とともに熱心なクリスチャンだった。そしてそこに集まって来た青年の大半がやはりクリスチャンだった。当時の思想界では、キリスト教が一番進歩思想だったのだ。少なくとも忠君愛国の支配的思想に背くもっとも多くの分子を含んでいたのだ。
 幸徳や堺等はかなり辛辣に宗教家を攻撃もしまた冷笑もした。そして研究会ではよく宗教の問題が持ちあがった。しかし幸徳や堺等は、宗教は個人の私事だというドイツ社会民主党の何かの決議を守って、同志の宗教にはあえて干渉しなかった。
 石川は本郷会堂での僕の先輩だった。が、その頃にはもう教会というものにあいそをつかして、ほとんど教会に行くこともなかったらしい。
 僕も平民社へ出入りするようになってからは、みんなの感化で、まず宗教家というものに、次には宗教そのものに、だんだん疑いを付け始めた。そして日露の開戦が僕と宗教とを綺麗に縁を切ってくれた。
 僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上のいっさいの権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』や何とかいう仏教の博士の『釈迦牟尼』の、キリスト教および仏教の起源のところを読んで、やはりトルストイの言うように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一統の共産主義運動だと思っていた。
 しかるに、戦争に対する宗教家の態度、ことに僕が信じていた海老名弾正の態度は、ことごとく僕のこの信仰を裏切った。海老名弾正の国家主義的、大和魂的キリスト教が、僕の目にはっきりと映って来た。戦勝祈祷会をやる。軍歌のような讃美歌を歌わせる[#底本では「歌わせる」が「歌われる」]。忠君愛国のお説教をする。「我れは平和をもたらさんがために来たれるに非ず」というようなキリストの言葉を飛んでもないところへ引合いに出す。
 僕はあきれ返ってしまった。そうして海老名弾正だの、当時よくトルストイものを翻訳していた加藤直士だのと数回議論をしたあとで、すっかり教会を見限ってしまった。そして同時にまたうっかりはいりかけた「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という宗教の本質の無抵抗主義にも疑いを持って、階級闘争の純然たる社会主義にはいることができた。

 戦争が始まるとすぐ、父は後備混成第何旅団の大隊長となって、旅順へ行った。
 僕は父の軍隊を上野停車場で迎えた。そして一晩駅前の父の宿に泊った。
 僕は父が馬上でその一軍を指揮する、こんなに壮烈な姿は初めて見た。ちょっと[#「ちょっと」は底本では「ちょうど」と誤記]涙ぐましいような気持にもなった。しかし何だか僕には、父のその姿が馬鹿らしくもあった。「何のために、戦争に勇んで行くのか」と思うと、父のために悲しむというよりもむしろ馬鹿馬鹿しかったのだ。
 宿にはいってからも、父やその部下の老将校等はみな会う人ごとに「これが最後のお勤めだ」と言って、ただもう喜び勇んでいた。僕はまたそれがますます馬鹿馬鹿しかった。
 父は僕にただ「勉強しろ」と言っただけで、別に話ししたい様子もなく、ただそばに置いて顔を見ていればいいというような風だった。
[#改頁]


お化を見た話
   自叙伝の一節


   一

 僕が九つか十の時、ある日猫を殺して、夜中にふいと起ちあがって、ニャアと猫の泣くような声を出して母を驚かしたことは、前に話した。また、十一か十二の時、隣りの家に毎晩お化が出て、それが一と晩僕の家にも出たそうだということも、前に話した。
 が、こんどは僕自身が、しかも最近になって、お化を見た話だ。現にまだ生きてはいるが、しかし確かに怨霊であるだろう女の姿を、真夜中に、半年も続けて見た話だ。
 種子を割ってしまえば何でもないことであるだろうが、それはほかでもない、神近の怨霊だ。葉山の日蔭の茶屋の一番奥の二階で、夜の三時頃、眠っている僕の咽喉を刺して、今にもその室を出て行こうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちょっと立ちどまって振り返って見た、その瞬間の彼女の姿だ。その姿が、その後ほぼ半年もの間、伊藤と一緒に寝ている僕の足もとの壁に、ちょうどその時刻にはっきりと現れて来るのだ。毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。すると、その目は同時にもう前の壁の方に釘づけにされていて、そこには彼女のその姿が立っているのだ。一と晩の間にこんなにもやつれたかと思われる、その死人のように蒼ざめた顔色の上に、ふだんでも際だって見える顔の筋が、ことさらにひどく際だって見えた。そして、びっくりしたように見ひらいたその目には、恐怖と、憐れみを乞う心とが、一ぱいに充ちていた。
「許して下さい。」
 彼女は振り返って、僕が半分からだを起しているのを見て、泣き出しそうに叫びながら逃げ出した。
「待て。」
 と、その前に僕は彼女を呼んだのだ。そして立ちあがって彼女を押えようとしたのだ。
 が、そんな前後のことはいっさい断ち切られて、ただ彼女が振り返って見たその瞬間の彼女の姿だけが現れて来るのだ。
 僕は、それが夢か現なのかよく分らないことが、よくあった。が、確かにそれが夢でないと思われたことも幾度もあった。そして、そのいずれの場合にも、僕が自分に気のついた時には、おびえたように慄えあがって、一緒に寝ている伊藤にしっかりとしがみついているのだった。が、それもまたほんの一時のことで、僕はまたさらに本当の自分に帰って、手を伸して枕もとの時計を見た。時計はいつもきまって三時だった。
「また出たの?」
「うん。」
 と、伊藤はそれを知っていることもあった。が、ぶるぶる慄えたからだにしがみつかれながら、何にも知らずに眠っていることもあった。そして、よしそれを知っていても、僕のおびえが彼女にまでも移ることは決してなかった。彼女はいつも、
「ほんとにあなたは馬鹿ね。」
 と、笑って、大きなからだの僕の頭を子供のように撫でていた。
 実際僕は、このお化の時ばかりではない、何か恐い夢を見ると、きっと同じようにおびえるのだった。そしてその慄えが、どうかすると、目をさましてからもまだしばらくの間続くことがあった。
「ほんとにあなたは馬鹿ね。」
 と、そんな時にもよく、僕は彼女に笑われた。僕はきっと心(しん)は非常に臆病者なのだ。それとも、僕の心の中には、無知な野蛮人の恐怖が、まだ多分に残っているのだ。
 が、そんなにして、話を野蛮人のところまで引きもどす必要はない。僕は今ここで、僕が女の怨霊を見るに至った僕の心理の、科学的説明を試みようとしているのではないのだから。しかし、単にこの怨霊を見たという事実の話をするだけにしても、話は大ぶその以前に遡らなければならない。少なくとも、どうしてその女が僕を刺すに至ったかの、彼女と僕との関係の過去に遡らなければならない。
(僕は今、先きに数回本誌[#「本誌」は「改造」])に連載した自叙伝の続きとして、そのあとを数回飛ばしてこの一節を書きつつあるのであるが、その飛ばした数回ことにこの一節の前回については、何をどう書こうかという腹案がまだちっともできていないのだ。ただ、しばらく怠けていたあとの筆ならしに、すぐ書けそうに思われたこの題目を選んで書き出して見ただけのことなのだ。したがって、ここまで書いて来て、さてどこまで遡って話したらよかろうかとなると、まるで見当がつかない。仕方がない、やむを得ずんばそもそもの始めからでも書こうかということにまあきめたのだが、それにしても話の順序としては大ぶ困ることが多いようだ。が、とにかくまあ書いて行こう。)

   二

 そのよほど以前から、僕は日蔭のその室を僕の仕事部屋にしていた。文債がたまると、というよりもむしろそれをいい口実にして、よく一週間か二週間そこへ出かけて行っては遊んでいた。実は、今はもうその名も忘れてしまったが、よく僕の面倒を見てくれた女中も一人いたのだ。
 その女中は、もう一年ほど前に、嫁に行っていなかった。が、お寺か田舎の旧家の座敷のような、広い十畳に、幅一間ほどの古風な大きな障子の立っている、山のすぐ下のその室一つだけでも、まだ僕を引きつけるには十分だった。
 長い間いろいろと苦心していた雑誌の保証金が、ようやく手にはいった。その金がどうして手にはいり、またそれまでそれを得るためにどんなに苦しんだかについても、またあとで話しする機会があろうと思うが、とにかく当時の僕には、新しい小さな雑誌を一つ創めるということが、ほとんど唯一の当面の問題だった。二カ年間続いて来た『近代思想』を自ら廃刊して、新たに月刊『平民新聞』を起し、それがほとんど半カ年間発売禁止を重ねて、さらにまたもとの『近代思想』に帰り、そしてそれがまた発売禁止の連続を喰って倒れてから、僕等はもう半年あまり僕等の運動の機関を持たなかった。当時では、この機関がないということは、同時にまたほとんど運動がないというのと同じことだったのだ。僕は僕の恋愛問題がこのことに少なからざる責任のあることを感じていた。
 しかし、いよいよ雑誌を始めるのには、もう少し金がいる。それに、その前に、古い文債も一とまず始末して置かなければならない。となって、単行本の翻訳を一つと雑誌の原稿を二つ抱えて、一カ月ばかりの計画でいつもの通り葉山へ出かけることになった。
 一時はずいぶんこの雑誌の創刊に熱中していた神近も、その頃では、もう大ぶその熱がさめていた。僕が彼女にばかりではなく、なお伊藤にもいろいろと雑誌の相談をしかけて、伊藤がその保証金の奔走をしたりするようになってからは、彼女はむしろ僕等の計画に対して多少の反感をすら持っているようだった。そして、自分は別に宮島(資夫)の細君の麗子君と一緒に、何かやろうなどとも言っていた。しかし、それも麗子君にはあまりよく賛成されず、またひそかに頼みにしていた青山菊栄君(今の山川夫人)からは態よく拒られて、彼女は半ばそれを断念するとともに、その口惜しさのあまりを僕等の計画の上に反感として向けもしたようだ。そしてその上に彼女は、僕等の計画の上に、また僕や伊藤の上に、どうしてそんな金ができるものかという侮蔑や冷笑も持っていた。
 実際僕等はずいぶん困っていた。そして僕や伊藤が困りきっている時には、いつも神近が助けに来てくれていた。そんな場合の十円か二十円の金すらも工夫のできない僕や伊藤に、数百円というまとまった金のできる筈のないことを思うのも、彼女としては当然のことであった。そして、今から思えばこうも邪推されるのであるが、彼女はそれを知りぬいていて、郷里まで金策に行くという伊藤に二度までも旅費をかしたのであった。
 僕は神近に、雑誌の保証金が、それがどうしてできたかということは言わずに、ただできたというだけのことを話した。そして当分葉山へ行くということを話した。
「葉山へは一人で?」
 保証金の方のことは彼女には大して興味がないようだった。が、彼女には、この「一人で」かどうかがよほど気になるらしかった。
「勿論一人だ。みんなから逃げて、たった一人になって仕事をするんだ。」
 彼女はこの「たった一人に」ということにしきりに賛成した。そして、ゆっくりと、うんと仕事をして来るようにとしきりに勧めた。
 当時僕は、女房の保子を四谷の家に一人置いて、最初は番町のある下宿屋の二階に、そしてそこを下宿料の不払で逐い出されてからは、本郷菊坂の菊富士ホテルというやはり下宿屋に、伊藤と二人でいた。二人とも、二人一緒にいることは、決して本意ではなかったのだ。二人とも、同じように家を棄てて出て、一人っきりになることを渇望していた。だが僕は、女房とまだ縁が切れずにいる上に、神近や伊藤との関係があった。伊藤は、家とともにその亭主とも縁は切れているが、新たに僕との関係があった。そして、こうした厄介な関係の上からのみでも、二人は一緒にいるうるさい生活に堪えられなかったのだ。
 伊藤は最初からそのつもりで、家を出るとすぐ、赤ん坊を抱えて下総の御宿へ行った。そこは、かつて彼女の友人の平塚らいちょうが行っていて、彼女には話しなじみのところだったのだ。彼女は当分そこで、ほんとうの一人きりになって、勉強する覚悟だった。
 僕は伊藤のこの覚悟さえ続いたら、すなわちいろんな事情がそれを続けることを許しさえしたら、僕等の三角関係というか四角関係というか、とにかくあの複雑な関係がもっと永続して、そしてあんなみじめな醜い結果には終らなかったろうと、今でもまだ思っている。が、その覚悟を毀したのは何よりもまず経済問題だった。そして、どんなことがどこへどう祟って[#「祟って」は底本では「崇って」と誤記]行くか分らない一例証として、ちょいとその話をして見よう。
 伊藤はその以前と同じように、やはり原稿生活をして行くつもりだった。そして第一にまず、その家出のことを書いて、それを当時彼女が続きものを書いていた大阪毎日に売る予定だった。彼女はそれを大毎の菊池幽芳氏に交渉した。幽芳氏は彼女のそのものにかなり大きな期待を持って、激励と同時に承諾の返事を寄越した。それで、伊藤は落ちついて、御宿のある宿屋に腰を据えることになった。
 ところが、その原稿が、幽芳氏の非常な称讃の辞がついて、送り返されて来たのだ。その時、ちょうど僕は御宿へ遊びに行っていた。というよりも、彼女や僕が持って行ったわずかの金も費い果して、彼女は宿料の支払を迫られる僕は帰る旅費もなしというような始末になって、二人でもう三日も四日も大毎からの送金を待っていたのだった。二人は、それが駄目と分ると、あちこち、金をかしてくれそうなところへ手紙や電報を出した。が、それはまるで返事がなかったり、来てもいい返事は一つもなかった。
 その間に僕は、神近もその生徒の一人だった、フランス語の講義の日を欠かした。そして宮島が、その子供の誕生日の祝いとして、その三人の先輩の宮田修氏と生田長江氏と僕とを招いた、その御馳走をも欠かした。この御馳走には神近も連なる筈だった。神近や宮島には、僕等二人が御宿でどんなに困っているかは分らなかった。神近はそれをいろんな意味で怨んだ。そして、ことに酒でも飲めば、非常に人と同感しやすい宮島は、僕がその招待を欠いたことによってその人一倍強い自尊心を傷つけられた上に、ますます神近に同情した。僕は神近への宮島の同情がこれによって始まったなぞとは決して言わない。しかし、神近と宮島とが、同じ一つのことについて、僕等二人に対する怨みというか憎しみというかを合致させたのは、ほぼこの辺からじゃなかろうかと思う。
 そして、もう百方策尽きているところへ、神近から金を送ろうかと言って来た。
「あなたが困るのは私が困るも同じことだ。野枝さんが困って、そのためにあなたが困れば、私もまたやはりそのために困るのだ。だから、誰のため彼のためということはいっさい言わずに、お送りしましょう。」
 神近がこう言って来る腹の中には、僕に早く帰って欲しいという一念があることは明らかなのであるが、しかし彼女には、こういった寛大な姉さんらしい気持が多分にあったことも同じように明らかだった。そして僕は今はこの寛大にたよるほかに道はなかった。
 神近からは何でも二十円ばかり送って来た。そして僕は、宿屋の方の多少の払いをして、僕一人急いで東京に帰った。神近から少しでもまとまった金をかりたのはこれが初めてなのだ。
 伊藤はとうとう困りぬいて、子供を近村のものに預けて、僕の下宿にころがりこんで来た。そして二人は、もう四、五カ月の間、ますます困窮しつつ、一緒に愚図愚図していた。が、いよいよこんどの僕の葉山行きを期として、二人の別居を実行することにきめたのだった。
 神近は僕等のこの別居の計画を非常に喜んだ。しかし彼女にはまだ、その葉山では、僕と伊藤とが一緒にいるのではあるまいかと疑われたのだ。
「いつ立つ? 二、三日中! それじゃ、たった一つ、こういうことを約束してくれない? あなたが出かける時、私を誘うこと。そして一日、葉山で遊ぶこと。」
 ようやく疑いの晴れた彼女の願いは何でもないことだった。が、その頃の僕の気持では、彼女が事ごとにひつこく追求したり要求したりすることが、大ぶうるさくなっていた。そして、こんな何でもない願いでも、そのあとに、「ね、あなた、いいでしょう、いいでしょう」という、その「いいでしょう、いいでしょう」がうるさくて堪らなかった。が、それを拒絶すれば事がますますうるさくなるのだし、仕方がないから、ただ「うん、うん」とばかりいい加減な返事をして置いた。

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