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かの女の朝(かのじょのあさ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 7:36:47  点击:  切换到繁體中文

底本: 愛よ、愛
出版社: メタローグ
初版発行日: 1999(平成11)年5月8日
入力に使用: 1999(平成11)年5月8日第1刷
校正に使用: 1999(平成11)年5月8日第1刷


底本の親本: 岡本かの子全集 第五巻
出版社: 冬樹社
初版発行日: 1974(昭和49)年12月

 

K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのですね、これが。ママの意図いととしては、フランス人の性情せいじょうが、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧れいりさで、敵国の女探偵を可愛かわゆく優美に待遇する微妙な境地を表現したつもりでしょう。フランスおよびフランス人をよく知るぼくには――もちろんフランス人にも日本人として僕が同感しねる性情も多分たぶんにありますが――それが実に明白に理解されます。そしての作はその意味としてなり成功したものでしょう。だが、これは僕自身としてのママへの希望ですが、ママは何故なぜひとのことなんか書いてるのですか。ママにはもっと書くべき世界がある。ママの抒情じょじょう的世界、何故其処そこの女主人公にママはなり切らないのですか。ひとのことどころではないでしょう。ママがママの手を動かして自分の筆を運ぶ以上、もっと、ママに急迫きゅうはくする世界を書かずには居られないはずです。それを他国の国情など書いて居るのは、やっぱりママの小児性しょうにせいが、いくらか見せかけの気持ちに使われて居るからですよ。ママ! ママは自分の抒情的世界の女主人に、いつもいつもなって居なさい。幼稚ようちなアンビシューに支配されないで。でなければ、小説なんか書きなさいますなよ。

 かの女の息子の手紙である。今、仏蘭西フランス巴里パリから着いたものである。朝の散歩に、主人逸作いっさくといつものように出掛でかけようとして居るところへ裏口から受け取った書生しょせいが、かの女の手に渡した。
 逸作はもう、玄関に出て駒下駄こまげた穿いて居たのである。其処へ出合いがしらに来合わせた誰かと、玄関のとびらを開けた処で話し声をぼそぼそ立てて居た。
 かの女は、まことに、息子に小児性と呼ばれたほどあって、小児のごとこらしょうかった。
 主人逸作が待ってそうでもあったが、ひとと話をして居るのをいことにして、息子の手紙の封筒を破った。そして今のような文面にいきなり打突ぶつかった。
 だが、かの女としては、それが息子の手紙でさえあれば、何でも好かった。小言こごとであろうと、ねだりであろうと、(だが、甘えの時は無かった。息子は二十三歳で、十代の時自分を生んだ母の、まして小児性を心得て居て、甘えるどころではなくて、母の甘えにってはしかったり指導したりする役だった。普通生活には少しだらしなかったが、本当は感情的で頭の鋭い正直な男子だった。)そしてやっぱり一人息子にぞっこんな主人逸作への良き見舞品となる息子の手紙は、いつも彼女は自分がきに破るのだった。
 ――あら竹越さんなの。
 逸作と玄関で話して居たのは、かの女のところへ原稿の用で来た「文明社」の記者であった。
 ――はあ、こんなに早くあがって済みませんでしたけれど……。そのかわりめったにお目にかかれない御主人にお目にかかれまして……。
 竹越氏が正直に下げる頭が大げさでもわざとらしくはなかった。逸作は好感から微笑してかの女と竹越との問答もんどうの済むのを待って、ゆっくり玄関口に立って居た。
 竹越氏が帰って行った。二人は門を出て竹越氏の行った表通りとは反対の裏通りの方へ足を向けた。
 ――今の記者何処どこのだい。
 ――あら、知らないの、だって親しそうに話して居なすったじゃないの。
 ――だってむこうから親しそうに話すからさ。
 ――雑誌が大変よくってなんておっしゃって居たじゃないの。
 ――だって、記者への挨拶あいさつならそれよりほか無いだろう。
 ――何処どこの雑誌か知らなくっても?
 ――そうさ、何処の雑誌だっておんなじだもの。
 ――あれだ、パパにゃかないませんよ。
 かの女は自分のこととくらべて考えた。かの女はいつかる劇場の廊下で或る男に挨拶あいさつされた。誰だかわからなかったが、彼女は反射的に頭を下げた。だが、知らない人に頭をさげたことが気になった。そしてやっぱり反射的にその男のあとを追った。広い劇場の廊下の半町程はんちょうほどもその男のあとを追って
 ――あなたは、何誰どなたでしたか。
 と真面目まじめで男の顔を見ていた。男はかつて、かの女のところへは逸作の画業にいての用事で、る雑誌社から使いに来た人だった。男は、かの女がの時の真面目くさって自分の名を訊いた顔を忘れないと方々ほうぼうで話したそうだ。だが、それも、五六年前だった。画業において人気者の逸作と、度々たびたび銀座を歩いて居るとき、逸作が知らない人達に挨拶をされても鷹揚おうように黙々と頭を一つ下げて通過するのを見習って、彼女もいつまで、自分のそんな野暮やぼなまじめを繰り返してもなかったが、今朝けさの逸作が竹越氏に対する適応性を見て、久しぶりで以前の愚直ぐちょくな自分を思い出した。
 ――いたっ。
 かの女は駒下駄こまげたをひっくり返えした。町会で敷いた道路の敷石しきいしが、一つは角を土からにょっきりと立て、一つは反対にのめり込ませ、でこぼこな醜態しゅうたいかわっているのだ。裏町で一番広大で威張いばっている某富豪ふごうの家の普請ふしんに運ぶ土砂どしゃのトラックの蹂躙じゅうりんめに荒された道路だ、――良民りょうみんの為めに――のいきどおりも幾度か覚えた。だが、恩恵もあるのだ。
 ――ねえパパ、のO家の為めに我々は新鮮な空気が吸える、と思えば気もおさまるね。
 ――まあ、そんなものだ。
 二人は歩きながら話す。
 実際O家は此の町の一端何町四方を邸内に採っている。その邸内の何町四方はいっぱいの樹海じゅかいだ。緑の波が澎湃ほうはいとして風にどよめき、太陽に輝やき立っているのである。ベルリンでは市民衛生のめ市中に広大なチーヤガルデン公園を置く。の富豪は我が町に緑樹の海を置いてる。富豪自身は期せずして良民の呼吸の為めにふんだんな酸素を分配して居るのである。――ものの利害はそんなところ相伴あいともな相償あいつぐなっているというものだ――と二人はおなかの中で思い合って歩いて居るのだ。
 二三丁行くと、る重役邸の前門の建て換え場だ。半月も前からである。
 ――変な男女が、毎朝、同じ方向から出かけて来ると思ってるだろうね、人夫にんぷ達が。
 と、かの女。
 ――ふん。
 逸作は手を振って歩いて居る。中古の鼠色ねず縮緬ちりめん兵児帯へこおびが、腰でだらしなくもなく、きりっとでもなく穏健おんけんしまっている。古いセルの単衣ひとえ、少したけが長過ぎる。黒髪が人並よりぐっと黒いので、まれにまじっているわずかな白髪が、銀砂子ぎんすなごのように奇麗きれいに光る。中背ちゅうぜいがたの上にラファエルのマリア像のような線の首筋をたて、首から続くきよらかなあごの線を細いくちびるが締めくくり、その唇が少し前へ突き出している。足のあがたび脂肪あぶらの足跡が見える中古の駒下駄でばたりばたり歩く。
 かの女は断髪だんぱつもウエーヴさえかけない至極しごく簡単なものである。およそ逸作とは違った体格である。何処どこにも延びている線は一つも無い。みんな短かくてくくれている。日輪草にちりんそうの花のような尨大ぼうだいな眼。だが、気弱なほおが月のようにはにかんでいる。無器用ぶきよう小供こどものように卒直に歩く――実は長い洋行後駒下駄こまげたをまだ穿れて居ないのだ。朝の空気を吸う唇にべには付けないと言い切って居るその唇は、四十前後の体を身持みもちよく保って居る健康な女の唇のあかさだ。荒い銘仙絣めいせんがすり単衣ひとえを短かく着て帯の結びばかり少し日本の伝統にっているけれど、あとは異人女が着物を着たようにぼやけた間の抜けた着かたをして居る。
 ――ね、あんたアミダ様、わたしカンノン様。
 と、かの女はやわらかく光る逸作の小さい眼を指差し、自分の丸いひたいを指で突いて一寸ちょっと気取っては見たけれど、でも他人が見たら、およそ、おかしな一対いっついの男と女が、毎朝、何処どこへ、何しに行くと思うだろうとも気がさすのだった。うぬれの強いかの女はまた、莫迦ばか莫迦しくひがみやすくもある。だが結局人夫にんぷは人夫の稼業かぎょうから預けられた土塊つちくれや石柱をかかえ、それが彼等かれらの眼の中にいっぱいつまっているのだ。その眼がたまたまぬすみ視したところが、それは別に意味も無い傍見わきみに過ぎないと、かの女は結論をひとりでつける。そして思いやり深くその労役ろうえきの彼等を、あべこべに此方こちらから見返えすのであった。
 陽気で無邪気なかの女はまた、恐ろしく思索しさく好きだ。思索が遠い天心てんしんか、地軸にかかっている時もあり、優生学ゆうせいがくや、死後の問題でもあり、因果律いんがりつや自己の運命観にもいつかつながる。いものやい着物についてもいつか考え込んでる。だが、ぐ気がかわって眼の前の売地のふだの前に立ちどまって自分のわずかな貯金とくらべて価格を考えても見たりする。
 かの女は今、自分の住宅のためにさしてあたらしい欲望を持って居ないのを逸作はよく知って居る。かの女が仮想かそうに楽しむ――巴里パリに居るひとり息子が帰ったら、あたりへ家を建ててろうか、しくはいっかな帰ろうとしない息子にあんな家、んな家でも建てて置いたら、そんな興味が両親への愛着にもまじり、息子は巴里から帰りはしないか。あちらで相当な位置も得、どう考えてもあちらに向いて居る息子の芸術の性質を考えるとこちらへ帰って来るようには言えない。またかの女の芸術的良心というようなものが、それは息子の芸術へというばかりでないもっと根本の芸術の神様に対する冒涜ぼうとくをさえ感ずる。芸術的良心と、私的本能愛との戦いにかの女はまたつらくて涙が眼ににじむ。息子の居ない一ヶ所からっぽうのような現実の生活と、息子の帰って来た生活のいろいろな張り合いのある仮想生活とがかの女の心にかわがわる位置を占めるのである。かの女は雑草が好きだ。此の空地あきちにはふんだんに雑草が茂っている。なんぼ息子の為に建ててやる画室でも、かの女の好みの雑草は取ってしまうまい。人は何故なぜに雑草と庭樹にわきとを区別する権利があったのだろう。例えば天上の星のように、瑠璃るりを点ずる露草つゆくさや、金銀の色糸いろいと刺繍ししゅうのような藪蔓草やぶつるくさの花をどうして薔薇ばら紫陽花あじさいと誰が区別をつけたろう。優雅な蒲公英たんぽぽ可憐かれんな赤まま草を、罌粟けし撫子なでしこ優劣ゆうれつをつけたろう。沢山たくさんえる、何処どこにもあるからということが価値の標準となるとすれば、きっぽくてあさはかなのは人間それ自身なのではあるまいか。だが、かの女が草をらないことを頑張れば息子も甘酸あまずっぱく怒って、ことによったらかの女をスポーツ式に一つくらいはどやすだろう。そしたらまあ、仕方が無い、取ってもい。どやすと言えば、かの女が或時あるとき息子に言った。「ママも年とったらアイノコの孫を抱くのだね、楽しみだね」と、極々ごくごく座興ざきょう的ではあったけれど或時かの女がそれを息子の前で言ってどやされたことをかの女は思い出した。どやした息子の青年らしいこぶしの弾力が、かの女の背筋に今も懐かしく残っている。その時息子は言った。「子を生むようなフランス女とは結婚しませんよ。」それはフランス女を子を生む実用にしないと言うのか、あるいは子を生むような実用的なフランス女は美的でないと言う若者の普通な美意識から出た言葉か知らなかったが、それも今では懐かしくかの女に思い返されるのであった。六年前連れて行ってかの女と逸作が一昨年える時、息子ばかりが巴里パリに残った。
 かの女が分譲地の標札ひょうさつの前にとまって、息子に対する妄想もうそうたくましくしてる間、逸作は二間ほど離れておとなしく直立して居た。おとなしくと言っても逸作のはただおとなしさではない。宇宙を小馬鹿こばかにしたような、ぬけぬけしいおとなしさだ。だから、太陽の光線とじか取引とりひきである。逸作のような端正たんせいな顔立ちには月光の照りが相応ふさわしそうで、実は逸作にはまだそれより現世に接近したひと皮がある。そのせいか逸作も太陽が好きだ。何処どこといって無駄な線のない顔面の初老に近い眼尻のかすかなしわの奥までたっぷり太陽の光を吸っている。風がすそをあおって行こうと、自転車が、人が、犬がり抜けて通って行こうと、逸作は頓着とんじゃくなしにぬけぬけとたちどまって居る。これを、宇宙を小馬鹿にした形と、かの女は内心で評して居る。
 ――もういのかい。
 逸作の平静な声調せいちょうは木の葉のそよぎと同じである。「死のようしずかだ」とかつて逸作を評したかの女の友人があった。その友人は、かの女を同情するようなうらやむような口調で言った。だが、かの女はそれはまだ逸作に対する表面の批評だと思った。逸作の静寂せいじゃくは死魂の静寂ではない。りに機械にたとえるとの機械は、一個所、非常に精鋭な部分があり、あとは使用を閑却かんきゃくされていると言ってい。無口で鈍重な逸作が、対社会的な画作に傑出けっしゅつして居るのは、その部分が機敏きびんに働く職能しょくのうの現れだからである。逸作のこの部分の働きの原動力、それはあるときは画業に対しある時はかの女に対する愛であるとうよりほかない。そしてある時は画業に対しある時はかの女に対してその逸作の非常に精鋭な部分が機敏に働いているのである。かの女もまたそれを確実に常に受け取ってるのである。だから、かの女は自分の妄想もうそうまでが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までをそばで逸作の機敏な部分が、咀嚼そしゃくしていてれる。咀嚼して消化こなれたそれは、逸作の心か体か知らないが、かく逸作の閑却された他の部分の空間にまでみて行く――つまり逸作が、かの女の自由な領土であるということだ。かの女が、逸作の傍で思い切って何でも言え、何でも妄想出来できるということが、逸作がかの女の領土である証拠であり、そういう両者の機能的関係が「円満な夫婦愛」などと、世人が言いふらすかの女の本体なのである。だが、かの女は「夫婦愛」などと言われるのは嫌いなのである。夫婦と言う字や発音は、なまなましい性欲の感じだ。「愛」と言うほのぼのとした言葉や字に相応しない、いやらしさをかの女は「夫婦」という字音に感じる。ただ、今はひとのことでる時、或る場合一寸ちょっとの字が現われて来るのなら彼女は宜いと思う。芝居の仕草しぐさや、浄瑠璃じょうるりのリズムにともない、「天下晴れての夫婦」などと若い水々みずみずしい男女の恋愛の結末の一場面のくぐりをつける時に、たった一つくらい此の言葉を使うのは、世話にくだけたなまめかしさを感じて宜いと彼女は思う。だが、もっと地味に、決定的に、質実に、その本質を指定することも出来ない組み合せになって相当、年月をた男女――少なくとも取り立てて男女などと感じなくなった自分達だけは、子の前などでは尚更なおさら「夫婦」なんてぷんぷんなまの性欲のにおいのする形容詞を着せられるのははずかしい。よく年若としわかな夫が自分の若い妻を「うちのばあさん」などと呼ぶ、あれも何となく気取ってるように思われるが、でも人の前で、こと器量きりょうくない夫婦などが「われわれ夫婦」などと言うのを聞くのをかの女は好まない。新聞や雑誌などで、夫婦という字を散見さんけんしても、ひとのことどうでもいようなものの、好もしいとはかの女は思わない。
 逸作とかの女との散歩の道は進む。
 ――あたし、あなたに見せるものあるのよ。
 ――そうかい。
 ――何だか知ってる?
 ――知らない。
 ――あてなさい、な。
 ――あたらない。
 ――あれだ。太郎から手紙よ。
 ――おい、見せなさいよ。
 ――道のまん中じゃあないの。
 ――好いからさ。
 ――墓地へ行って見せる。
 かの女はそでのなかで、がさがさしてる息子の手紙を帯の間へ移す。くどく無い逸作は、るものに食欲を出しかけたような唇を、一つ強く引き締めることによって、の欲望を制した。かの女のいたずら心が跳ね返ってよろこぶ。
 散歩に伴う生理調節作用としてんないたずらが、かの女には快適なのだった。
 逸作が、他にむかっての欲望の表現はくどくないのだ。しかし、逸作の心に根を保っている逸作の特種とくしゅの欲望がある。逸作はそれを自分の内心に追求するにまない男だ。逸作の特種な欲望とは極々ごくごく限られた二三のものに過ぎないと言える。その一つが、今かの女に刺戟しげきされた。――息子に対する逸作の愛情は親の本能愛を裏付けにして実にこまやかな素晴らしい友情だとかの女はる。不精ぶしょうな逸作は、わずらわしい他人の生活との交渉にらなければ保たれない普通の友人を持たないのである。他の肉親には、逸作もかの女も若い間に、ひどいめに会ってりてる。その悲哀や鬱憤うっぷんまじる濃厚な切実な愛情で、逸作とかの女はたった一人の息子を愛して愛して、愛し抜く。これが二人の共同作業となってしまった。
 逸作とかの女の愛の足ぶみを正直に跡付ける息子の性格、そしてかの女の愛も一緒に其処そこを歩めるのが、息子が逸作にとって一層いっそううってつけの愛の領土であるわけなのだ。かの女と逸作が、愛して愛して、愛し抜くことにって息子の性格にも吹き抜けるところが出来でき、其処から正直な芽や、怜悧れいり芽生めばえがすいすいと芽立って来て、逸作やかの女をよろこばした。逸作やかの女は近頃では息子の鋭敏な芸術的感覚や批判力に服するようにさえなった。だが、息子のそれらの良質や、それに附随ふずいする欠点が、世間へ成算せいさん的に役立つかとあやぶまれるとき、また不憫ふびんさの愛がえる。
 ――おい、小学校の方でなく、こっちから行こうよ。
 ――何故なぜ
 ――だって、子供達が道にいっぱいだ。
 ――早く、墓地へ行って手紙見度みたいから近道行こうってんでしょう。
 ――………………。
 ――え、そうでしょう。
 ――俺は子供きらいだ。

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