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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-15

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:03:04  点击:  切换到繁體中文


  一婦人の籐椅子との正式結婚を認めるや否や

 ある婦人が、某青年と恋愛に陥つた、当時青年は失業中であつて、何等の経済的な力が無かつたために、婦人はその青年との結婚後の生活に不安を抱き、この事に関して、之を或る親しい一小説家の処に、相談のために彼の下宿を訪れたのであつた。
 婦人は下宿の小説家の部屋に、足を一歩踏み入れるや否や、其処に金文字の洋書、小説評論集の類と、立派な籐椅子、机を発見し、殆んど本能的反射的に斯う言つてしまつた。
『突然ですけれど、妾、あなたと結婚をしたいの、それで今日御相談にあがつたのだわ』
 部屋の中の状態では、彼女の恋人より、この小説家がはるかに経済力があることを感じたからであり、殊に立派な籐椅子が魅惑的であつた。
 かくして彼女の結婚の最初の予定は変更されたのである。
 翌日から彼女は籐椅子と机とを占領し、夫たる小説家は、チャブ台をもつて執筆机にかへた、意外な事には夫の小説は少しも売れない、その書く小説も余りに純文学的であり、性格もまたこれにふさはしく全く非生産的であることが判り、彼女は激しく幻滅を感じ、従つて夫婦喧嘩の絶え間がなく、金文字の蔵書も、電燈代、瓦斯代にかはり、机も売り払ひ残るところの最後のものが籐椅子一つとなつた時、彼女は離婚を小説家に求めた。
『貴方のやうな、才能なしと一緒に生活してゐても、着物一枚買へやしないわ』
『さうか、別れるのは異議は無いがね、夫婦の愛といふものは、さう簡単に別れていゝものかね――』
『夫婦の愛――、可笑いわ、最初から貴方を愛してなんか居なかつたの』
『ぢや、なぜ結婚したのかね』
『貴方が、もつと経済力があると思つたからよ、お部屋が立派だつたし、本もあつたし、籐椅子なんかおいたりしてね』
『ぢや何んだな、籐椅子と結婚したわけだな』
『さうよ、ついふらふらとね、まさに籐椅子と結婚したんだわ、貴女は籐椅子より機能はたらきが無いぢやないの』
『よし、判つた、ぢや籐椅子を呉れてやる、出てゆけ』
『出て行くわよ、立派に女だつて一人で働いて生活してゆけてよ、妾、籐椅子と結婚するわよ』
 区役所婚姻係であるところの本官は――かゝる理由に基くところの、この婦人の籐椅子との正式結婚の届出に接したのであります。
 婦人の意識的なる産児制限は、婦人から母性を喪失せしめ、生活力無き夫との生活は、性生活を営まぬところの、籐椅子との生活と何等変るところなし、とするこの婦人の考へ方は、将来に於ける婦人の結婚に対する、絶望と不安を招来し、真鍮製の大根オロシとの結婚、木製バイオリンとの結婚、石油コンロ、洋服箪笥との結婚等の傾向を示すだらうこと明らかであつて、本官は経済的逼迫が刺戟するところの、あやまれる婦人の唯物思想への転心を憂へるものでありまして、これら無機物との婚姻を、正当として届出を受理するや否や、籐椅子に公民権を与へることの可否に就いて、上司の賢明なる指示を望むものであります。

  『飛つチョ』の名人に就いて

 汽車は崖の間を過ぎ、トンネルを潜り、広い平野を突切らうとして走つてゐた。客車には一団の土工夫の群が乗つてゐた、彼等は東京と函館とで募集されたものだ、彼等は言ひ合はしたやうに髯を蓄へてゐた、彼等の髯は濃く、毛も太い、型も様々で威厳を競ひ合ひ、談笑の間にも、指をもつてそれぞれ個性的なヒネリ方をした。
 彼等にとつて髯は余程重要なものに違ひない、車の中程に腰かけてゐる若い東京から来た男一人だけが無髯であるといふ意味で、この男を他の者よりも惨めに、弱々しく見せた。
 汽車は北海道の奥地へ、奥地へと走つてゐたが、間もなく轟々と水響のする小さなS駅に着いた。
 土工夫の一行は、この小駅に降り、せまい構内を出るとすぐ足下にある谷に懸つてゐる鉄索の釣橋を列をなして渡り、樹林の中に分けて入つた。一行は吉本組××地区飯場で、水力電気の土工工事に働くのであつた。
 若い無髯の土工夫は、飯場に着いてから、三日目に逃げ出さうと企てゝゐた、彼の逃走を感づいてゐたのは、モッコの相手である『げん』といふ男であつた。
 源はまるで弾丸を繋ぎ合したやうな、美事な褐色の体をし、彼の太い八字髯は、大将級の髯の威厳を示し、部屋を圧倒してゐた。
 土工達の争ひが、互に顔を突出しての啀み合に際して、彼等は手を出すに先だつて、まづ髯をもつてセリ合ふ、髯の優劣や誇張的なヒネリ方で勝負のつくものはつけ、つかぬものは、体力で打ち合つて血を流し勝負をつけた。
『おい、若いの、今度部屋に来るときは、俺のやうな立派な髯をはやして来いよ――』
 と源はモッコの引繩を、ヒョイとしやくりあげて、先棒担ぎの若い無髯の土工の力の負担を少くしてやるのであつた。
 四日目の日没頃、この無髯の若い土工夫は逃げだした、二里程逃げて追手に捕まつた。彼はその時隠し持つてゐた猫イラズを、追手の眼の前で嚥み、更に御丁寧にも、釣橋の上から身を躍らして、真逆様に谷の激流に身を投げこんだ。
 一方そのドサクサに『源』が『飛つチョ』した、『とびつチョ』とはいなごのことで、土工夫仲間では脱走の事をさう呼んでゐる、この蝗のやうにみごとに部屋を跳躍してしまつた、さうした出来事は山間の一飯場の出来事として、それを秘密にするとか、しないとかいふ事柄に関係なしに、完全に秘密を保たれた、何故といへば彼等にはさうした出来事は、日常茶飯事に属してゐたから。
 それから幾日目かに、意外にも二人の土工夫は小樽の市街でばつたり行き合つた。
 源は若い男の幽霊ではあるまいかと驚ろいた、若い土工夫は確に猫イラズを嚥みはした、然し彼は次いで渓流の過の中で、鱈腹水をのんだのであつた、そのために却つて腸のなかを洗滌したことになり、岸に流れついて助かつたのだといふ、源はふんと首を傾しげ成程と合点した。
『俺は何処の土工部屋にも、ものの一ヶ月とは働いて居ない、前金踏倒し、飛つチョの名人さ』
 源はかういつて、これから周旋屋へ行き、別な土工部屋へ売られて行くのだといふことであつた、逃走五度さうして舞ひ戻つて来れば、周旋屋から逃走奨励の金時計を褒美に貰へるのさ、と彼は得意になつて八字髯をひねるのであつた。
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監房ホテル

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