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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-20

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:09:17  点击:  切换到繁體中文



新劇の無系統 「春香伝」と婦人客


 ▼御時世のせいもあるが最近の新劇は、その上演ものが全く無系統であつて、脚本の選び方をみても、その劇団の特長を永続させてゆくために、成程斯ういふ戯曲を選んだのだなと思はせるものがない、脚本の選び方が無方針であらうが、無系統であらうが、やつた芝居が巧くいつたら文句がないぢやないかといふ――意見もあらうが、俳優や演出家の劇芸術に対する良心性は我々も充分に認める。

 ▼然し上演劇曲の成功、即その劇団の成功とは、軽忽には考へられない、新協劇団と新築地が何れも面白い芝居をみせてくれたとしても、そこにそれぞれその劇団の特質的な面白さ、成功さといふものを具体的に示してくれなくて、この二つの劇団が一つに合併しても少しも変らないやうな単一化が最近の傾向だとしたら、相当の危険が隠れてゐると云ふべきである。

 ▼新築地の「綴方教室」や新協劇団[#「劇団」は底本では「劇壇」と誤記]の「春香伝」は何れも近頃の努力的な上演であるが、この二つの劇団がまるで場所を取り替へたやうに、新築地は、おそろしく地味な劇曲を、そして新協劇団は「夜明け前」のリアリズムの後に、思ひもかけない華麗な「春香伝」の舞台面を展開してゐる、その飛躍ぶりは非常なものであるだらうかといふ疑問も起きる。

 ▼ただ「春香伝」は朝鮮の伝説の紹介であるといふ文化的意義があるので、新協のこれまでの態度の継続であらうといふ理由づけができるが、そのことだけの値打を認めて、上演の方法に関して、その文化性を吟味するといふことも見のがされない、例へばヤンバン(武士階級)とシャンノム(平民)の階級的な明確さが演技の上に出てゐない、ことなどはその特長的な微温さを示してゐる、「平民」はただぺこぺこ頭を下げてゐるだけである、ただ新協がおそろしく華美な芝居をやりながら、婦人客を泣かせる巧者さを身に着けたことだ。



利き過ぎた薬 当局の「作家忌避」


 ▼屋外労働者の生活問題に触れてゐる俗謡『土方殺すにや刃物は要らぬ、雨の三日も降ればいゝ――』を文筆労働者である作家に、あてはめてみると、或る作家の書いたものに、一度二度の発禁があれば、その作家を土方の雨同様、生活を乾上らすには充分だらう。

 ▼然も最近では『当局の作家忌避』といふ新しい現象が加へられた、法のはたらきは、必ずしも法文に依つてのみ作用するとはかぎらない、法文以外に、当局者のちよつと許りの首の傾け方、頭のふり方が法の権威を発揮する場合も少くない、此場合の当局者が作家に対する選り好みの小感想も時節柄波紋が大きい、随つて当局者の感想風な好悪の表現も言はれた作家にとつて事実上の執筆禁止の運命になつてしまふこともある。

 ▼東京保護監察所の斡旋で、当局と文筆業者との懇談会が催され、執筆禁止組の文学者も参会したが、この種の会を開くことは大いに意義あることだ、作家、評論家、ジャナリズム編輯者が、必要以上に萎縮してゐる現状を当局に確認して貰ふことは、この種の会で大いに為されていい、作品の検閲がその作品の内容に依るのであつて、決して誰々の作品だからいけないといふ筆名本位でなされるといふことは勿論無い筈である。

 ▼然し前述のやうに、当局者の『思はせぶりな頭のふり方』が案外、作家、ジャナリズムに大きく作用し、当局にとつても所謂『薬が利きすぎた――』状態を呈し、当局と文筆業者との懇談会などといふ、世話の焼ける催しも開かなければならなくなつたのであらう。

 ▼必要以上に薬を利かすとか、必要以上にジャナリズム編輯者を萎縮させるといふことは、これは単に作家個人の死活問題にとどまらない、文化面の萎縮として、正常な状態でないから、吾人は文化面の明朗化を望む意味からも、当局者にその間の事情に対する適応に敏感であることを望みたい。



批評の長期戦 良書支持のために


 ▼普通に言はれてゐる『月評』といふ意味は、現在ではその月の刊行物に[#「に」は底本では「は」と誤記]掲載された作品を、その月の間か、或は精々翌る月の間に批評をしてしまはなければならないなどといふ、考へてみると甚だ滑稽な現象を産んでゐる、これは出版ジャナリズムが批評家に与へた単なる時間的な課題に過ぎないのである。

 ▼然も多くの批評家達は、さうした現象に少しも疑ひを抱かうとせず、次々と吐き捨てるやうに、新しい作品から、新しい作品へと批評を移してゆく状態であるため、読者にとつては目まぐるしい許りで、どの作品を読まうかなどといふ選択を批評家から与へられるといふことが至つて少ないのである。

 ▼最近に至つて漸くこの著作物の印象批評と刹那主義的新刊紹介の傾向が薄れだしてきたことは喜ぶべき現象である、作家にとつてはこれらの批評家の月評的態度といふものは、有り難いやうな、又迷惑なやうな反感があらう、一つの作品が優れてゐると呼ばれるのはその作家の創作態度に、現実的根拠が深いものがあるからで、したがつてその作品を発表したと同時に、批評家の駈け足的態度で評価が完了してしまふやうな性質のものではなからう。時世は長期抗戦時代である。作家に於いても、またその作品の支持者である批評家に於いても、その作品の正統性を粘り強く、読者に訴へてゆくといふ態度が、これからは是非必要なことだと思はれる。こゝでは名はあげないが既に二三の優れた著作物は、発行されてから可成りになるが、依然として作品の良心性は紹介されてゐるし、そのことに依つて着実な読者を獲得してゐる。

 ▼殊に最近の読書界は、近来診らしく重版などといふ現象もあるので、一般の読書本能も決して低くない証拠を示してゐるので、この際良質の刊行物紹介は、批評家もじつくりと腰を据ゑてなすべしである。

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