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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-20

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 7:09:17  点击:  切换到繁體中文



単純な優等生 政治と文学のお茶の会


 ▼作家が政治家と、社会や文学の発展のために談合することは、結構なことである。有馬農相が農民文学者と、お茶をすすつて、政治と文学のために一夜を会談するといふことは、たしかにこれまでの政治家には珍らしい砕けたものがある。

 ▼土の文学のために、農林大臣が乗り出した。それでは商工大臣は何をしてゐるのか。日本の『店員文学』樹立のために出馬しないのか。そして逓信大臣は、逓信従業員のための文学に――それぞれ各大臣は作家を動員していゝ筈である。

 ▼しかし政治家と作家、この両者の斯うした関り合ひから、如何なるものが生れるかは疑問である。政治家はその政策の遂行の樋として文学を利用しようとしても、果して順調に水が流れるかどうか怪しい。また文学者は政治家の力を借りて、真の文学をつくらうなどといふ功利性はやめた方がいゝやうだ。

 ▼真に政策的に多忙な政治家なら文学者とものの一時間としやべつてゐる暇などあるまい。また文学者も同じことである。さうしたことに両者がエネルギーを消費してゐるとは驚ろくべきである。政治上のジレッタントと、文学上のジレッタントとの会談、多分にさうした性質を帯びてゐる。

 ▼文学者の最近の著しい傾向として、作家が逸早く国策に呼応するといふことである。しかし近衛さんの肝煎りでつくらうとする新党でさへ、その政治上の一元化の内容吟味で手間どる世の中である。ましてや複雑な人間心理を扱ふ作家が、政治や政策といへば、真先にハイッと手を挙げる優等生のやうな態度はお可笑しい位単純である。

 ▼政治家と作家との懇談や、作家の国策への転化、従軍作家の労役奉仕など、いづれも一寸見には体裁がいゝが、しかしこれは政治の秩序と、文学の秩序との単なる外観上の一致であつて、作家はこのところ、この世間態のつくろひ方に醜態にすぎるものがある。



杉山平助氏に 死ぬ覚悟の押売


 ▼婦人公論十二月号で杉山平助氏が、『漢口攻略従軍記』を『戦線より吾子に送る手紙』の形式で書いてゐる、この戦地通信は相当枚数の原稿紙を、雑誌社に手渡してゐるから、文章で飯を喰つてゐる人間が、量的に原稿を売る目的はまづ達成してゐるわけである。

 ▼さてその文章の内容にふれるが、杉山氏はそこでは、日本人の古来からの感傷性を美点だと主張し、それを高く買ふ論を一席弁じながら、巧みに己れの感傷的な文章を合理化してゐるのは心得たものだ、彼ぐらゐ自分の書いた文章の後先に、自己弁護をするジャアナリストはないだらう、また彼程自己を主張し、維持しようとすることにかけて本能的な人間も少なからう。

 ▼彼の書いたものは、そのときどきの社会情勢で猫の眼のやうにかはる、その文章は一見個性的にみえるが実はさうではない、個性などはもつてゐないのである、西洋の哲学者曰く『即ちひとが「白己」よりも「維持」の方を強調すれば、この維持は絶えず脅やかされてゐる――』と、杉山氏はその自己の方がないから「維持」の方を専門にやる、勢ひジャアナリズムに執念に喰ひ下らざるを得まい、したがつて絶えず何物かに脅やかされ、恐怖観念が彼に『死ぬ』『死ぬ』とセンチメンタルな文章を書かせてゐるのだ、しかも彼は自分は死ぬ広告文を書いて生きてゐて他人にだけ『死ぬ覚悟』を押しつけるのはどうかと思ふ。

 ▼『吾子に送る手紙』も彼の四歳と三歳の子供に、成人したらそれを読んで父親平助の覚悟の程を知つてくれと書き残すのはいゝとして、しかし何も文芸協会との従軍のイキサツまでも書き残す必要はあるまい、他人のことでも子供のことと言へば眼のない子煩悩な読者を当てこんだキョロキョロした書きぶりは嫌らしい、泣くな平助、しかも子供は他人のでも自分のでも、余り文章のダシに使ふなかれ。



作家移民団 本多顕彰氏に望む


 ▼本多顕彰氏は日本評論十二月号で『知識階級再建』を論じ『謂ふところの知識階級の中には――こゝに自発的に再出発し、知能の欠如の証明にすぎぬ消極性を清算する者が必ず続出するだらう』といつてゐる。

 ▼この論でいへば、革新十二月号の山田清三郎氏の『現地生活を志願するの書』などは政府の大陸政策への文化的義勇兵たらんとして、当局者に向つて移住の機会を与へてくれと懇請してゐるのだから、その熱意といひ、態度といひ、知識階級再建、知識人再出発の典型のやうなものだらう。

 ▼山田清三郎氏は、自分はこれまで左翼的文章と口舌とで生きてきたが、いまこゝに転向更生して新しい実践に移るのだと、その更生の目標を大陸建設にをいたわけだ。それはいゝとして、その『現地生活を志願するの書』なるものは、だらだらと書き流した一種の懺悔文であり、自己告白たつぷりなもので、所謂転向者気質にぴつたりとはまつたものだ。

 ▼世には一言の声明書も、『志願するの書』も書かずに、黙々として大陸に移住して行つた良民もある。山田氏にして真に大陸に住みたいのであつたら、長たらしい志願文を書くまでもなく、実践的に彼地に赴くべしである。でなければ遂に口舌の徒に終るだらう。山田氏あたりが先導で作家移民団を引率して出かけてはどうか。

 ▼たゞこゝに不思議な現象は、これらの政府の大陸政策に、関心をもつものや、積極的な参加者が、所謂知識人側では、山田氏を始め思想的転向者が多いといふ事実である。一般知識人は、その無関心の故に消極的であるといつて本多顕彰氏に責められていゝかどうか。見掛けだけの積極性も知能の欠如の証明といふことにならぬかどうか。本多氏よ、『思想転向者の積極性の本質』も序でに論じてもらひたい。



政治への媚態 島木健作氏へ一言


 ▼最近、農林大臣と農民作家との懇談を始めとして、これに類した作家と政治家との、文化工作的触れ合ひの機会が非常に多い、両者の協力がまだ試験済みでないといふ意味でも、世の批評家、評論家は、批評的協力といふ見地から、この問題をもつと盛んに採り上げていゝはずである。

 ▼ところが『国策に沿つてゐること』に対して語ることが罰でも当るかのやうに沈黙をまもつてゐる、我国の政界でも、まだ党派性が認められてゐて、批判の自由が保留されてゐるのに、最近の作家の畑では、政界の馴れ合以上に、お手々をつないだ超党派的な仲の善さである、国策が全体主義的な方向にむかひつゝある――といつただけで、作家は現実が全く全体主義化したかのやうにそれに対してポーズを示す。

 ▼島木健作氏などは最も逸早く、その全体主義的な意思表示をしたが、彼は農民文学者だけでは農民文学ができないから、農村問題に関心をもつ、すべての人々の協力の必要性を説き『そして関心の持ち所は共通だから、この協力は可能なのだ――』といつてゐる、どこから割り出して、農村問題に関心をもつてゐるすべてのものが共通だなどといふことができるのか、強ひてその共通のものを軍人、政治家、商人、作家等から、島木式に求めるとすれば、これらの個々の人々の、それぞれの中から、或る『均等に』含まれてゐるものに、共通性といふ名前をくつつけて、それと結びつく以外に方法はないのである。

 ▼農村問題の関心の持ち所などが、農民文学を生むのではない、農村の現実が農民文学を生むのである、本質的に言へば、農村問題に最も関心をもつてゐるものは農民以外にはないのだ、殊に共通性で結びつけられた、所謂農村問題の『取り巻き連』では農村の本質の解明は不可能である、わけても文学の場合にはその特質があり、作家がそれを見失ふときは、政治家との接触の限りで、文学者の媚態以外の何ものでもないであらう。

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