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青春の逆説(せいしゅんのぎゃくせつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:05:30  点击:  切换到繁體中文


    第二章

      一

 中学生の豹一は自分には許嫁があるのだと言い触らした。そのためかえって馬鹿にされていると気が付く迄、相当時間が掛った。その間、自分に箔をつけたつもりで、芸もなくやに下っていたのである。
 彼は絶えず誰かに嘲笑されるだろうという恐怖を疥癬ひぜんのように皮膚に繁殖させていた。必要以上に肩身の狭い思いを、きょろきょろ身辺を見廻す眼の先にぶら下げていたのである。少年らしい虚栄心で、だから彼には人一倍箔をつける必要があった。おまけに入学試験の時、彼の自尊心にとっては致命傷とも言う失敗があったのだ。
 入学試験は自分の運命を試すようなものだと、彼は子供心にも異様な興奮を感じながら試験場へはいっていた。ところが余り興奮したので、ふと尿意を催した。未だ答案は全部出来ていなかった。出るわけにはいかなかった。その旨監督の教師に言って、途中で便所へ行かせて貰うことも考えたが、実行しかねた。人とは違って自分にはそんなことを要求出来ない子供だと、日頃から何か諦めていたのである。どうにも我慢が出来ず、書きかけの答案を提出して、試験場を出てしまおうか。しかし、そうすれば、落第だ。彼は下腹を押えたままじっとこらえていた。そわそわして問題の意味もろくに頭にはいらなかった。こんなことでは駄目だと、頭を敲きながら、答案用紙にしがみついていると、ふと下腹から注意が外れた。いきなり怖いような快意に身を委ねて、ええ、もうどうでもなれ。坐尿してしまった。あと周章てて答案を書き、机の上へ裏がえしに重ねて、そわそわと出て行く拍子に、答案用紙が下へ落ちた。濡れたのである。
 試験中三時間も子供たちを閉じこめて置くので、こんなことは屡※(二の字点、1-2-22)あることだから、監督の教師は無表情な顔で坐尿の場所へ来た。教師は黙って拾い上げた。机の上へ置いて、また教壇の方へ戻って行った。しかし、豹一は、教師は俺の顔と答案用紙の番号を見較べた、と思った。途端に落第だと諦めた。
 ところが運良く合格した。つまり難なく中学生になったのである。すると、改めて坐尿のことが苦しくなって来た。入学式の時、誰かあのことを知っているだろうかと、うかがう眼付きになった。試験の時だったからお互いに未だ顔を見知っていなかったが、一人二人素早く見覚えていた奴はあるに違いないと思った。その時の監督の教師は国語を担当していて、豹一の教室へも一週間に四度やって来た。そのたびに、豹一は身を縮めて、ばらされやしないかと冷やひやしていたのである。
 もう一つ、こんなことがあった。同級生間で、誰がどんな家に住んでいるか見届けようと、放課後探偵気取りで尾行することが流行した。ある日、豹一にも順番が廻って来た。家の構えはともかく、高利貸の商売をしているのを知られるのがいやで、尾行つけられたと気付くと、蒼くなって曲り角からどんどん逃げた。家へ駈け込むとき、軒先へ傘を置き忘れた。果して、
「毛利君! 毛利君! 出て来い」表で呶鳴る声が聴えた。豹一は二階で犯人のように小さく息をこらしていた。顔を両手の中に埋め、眼を閉じていた。表札が「野瀬」となっていることも辛かった。
 そんなことがあって見れば、箔をつける必要も充分あった。しかし、よりによって許嫁があるなどと言い触らしたのはなんとしたことか。許嫁があると言い触らすことによって、家庭的に恵まれている風に見せたかったのだが、未だ一年生の同級生を相手では、効果はなかった。許嫁を羨しがる早熟な者もいなかったのである。やがて、だんだんに馬鹿にされていると気がつくと、もう首席にでもなるよりほかに、自尊心の保ちようがないと思った。
 豹一は顔色が変る位勉強した。自分の学資をこしらえる為に夜おそく迄針仕事をしている母親のことを考えれば、いくら勉強しても足りない気持だった。試験前になると、お君は寝巻のままでお茶と菓子を盆にのせて机の傍へ持って来てくれた。そんな風にされるのが豹一には身に余って嬉しいのである。たとえそれが母親にしろ、夜おそく人にお茶を沸かして貰えようとは夢にも希んでいなかったのだ。階下から聴える安二郎の乱暴な鼾もなぜか勉強に拍車を掛けるのに役立った。もう寝ようと、ふと窓の外を見ると、東の空が紫色に薄れて行き、軒には氷柱が掛り、屋根には霜が降りていた。さすがにしんみりとした気持になるのだった。
 二年に進級する時、成績が発表された。首席になっていた。豹一はかなり幸福な気持になった。しかし、全く幸福だと言っては言い過ぎだった。何かの間違いだろうという心配があったからである。からかわれているのではないかと、身体を見廻す眼付になるのだった。自分の頭脳にはひどく自信がなかったからである。クラスの者は少くとも彼の暗記力の良さだけは認め、怖れを成していたのだが、豹一には人から敬服されるなど与り知らぬことだった。まして首席という位置は、日頃諦めている運命には似つかわしくなかったのである。
 だから、自分でも屡※(二の字点、1-2-22)首席だという事実を顧る必要があった。言い触らした。いつか「首席」が渾名になってしまった。いわば首席の貫禄がなかったのである。ふと、母親のことや坐尿のことを想い出すと、
「こんどめは誰が二番になるやろな」クラスの者を掴えて言うのだった。
 これは随分鼻についた。クラスの者はうんざりし、豹一がそんな風に首席に箔をつけたがるので、いつかそれをメッキだと思い込んだ。
「あいつはたかが点取虫だ」
 一学期の試験の前日、豹一は新世界の第一朝日劇場へ出掛けた。マキノ輝子の映画を見、試験場へそのプログラムの紙を持って来て見せた。
 そのことが知れて豹一は一週間の停学処分を受けた。一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
 やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
 沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
 いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
 三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。豹一は二十分程奮闘したが、結局無暴だった。鼻を警戒していたが、いつの間にか猛烈に鼻血を吹き出し、そして白い眼をむいた。それから間もなく、二学期の試験がはじまった。泡喰って問題用紙に獅噛みついているクラスの者の顔をなんと浅ましいと見た途端、いきなり敵愾心が頭をもたげて来て、ぐっと胸を突きあげた。沼井の方を見ると、沼井もしきりに鉛筆の芯をけずっているのだ。沼井は点取虫だということになっていた。
(ところが俺も点取虫と言われたことがある。沼井と同じ様に思われてたまるものか)
 豹一は書きかけの答案を周章てて消した。そして、つかつかと教壇の下まで行って、提出した。余り豹一の出し方が早いので、皆はあっ気にとられて、豹一の顔を見上げた。
「なんやこれ?」監督の教師は外していた眼鏡を掛けて覗き込んだ。
「白紙です」そして、わざと後も向かず、ざまあ見ろと胸を張って、教室を出た。はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。しかしその満足がもっと完全になるまで、もう三月掛った。翌年の三月、白紙の答案を補うに充分なほどの成績を取って進級するところを見せる必要があったのである。その三月は永かった。それだけに進級した時の喜びはじっと自分ひとりの胸に秘めて置けぬほどだった。気候も良かった。桜の花も咲き初めて、生温い風が吹くのである。豹一はまるで口笛でも鳴らしたい気持で、白紙の答案を想い出した。クラスの者は当分の間彼の声をきいてもぞっとした。なかには落第した者もいるのである。
 そんな風だから豹一はもう完全にクラスの者から憎まれてしまった。しかし、彼の敵愾心は最初から彼等を敵と決めていたから、憎まれてかえってサバサバと落ち着いた。美貌に眼をつけた上級生が無気味な媚で近寄って来ると、かえってその愛情に報いる術を知らぬ奇妙な困惑に陥るのだった。
 三年生の終り頃、ローマ字を書いた名を二つ並べ、同じ字を消して行くという恋占いが流行った。教室の黒板が盛んに利用され皆が公然おおぴらに占っているのを、除け者の豹一はつまらなく見ていたが、ふと誰もが一度は水原紀代子という名を書いているのに気がついた途端、眼が異様に光った。豹一は最も成績の悪い男を掴え、相手にはまるで何を訊こうとしているのかわからぬ廻りくどい調子で半時間も喋り立てた挙句、水原紀代子に関する二、三の知識を得た。大軌電車沿線S女学校生徒だと知ったので、その日の午後、授業をサボって周章てて上本町六丁目の大軌構内へ駈けつけた。が、余り早く行き過ぎたので、緑色のネクタイをしめたS女学校の生徒が改札口からぞろぞろ出て来るまで、二時間待った。そして、やっと紀代子の姿を見つけることが出来た。教えられた臙脂の風呂敷包と、雀斑はあるが、非常に背が高くスマートだという目印でそれと分ったのだが、そんな目印がなくとも、つんと澄まして上を向いている表情は彼女になくてかなわぬものだと、豹一は思った。げらげらと愛想の良い女なら、二時間も待つ甲斐がなかったのである。
(しかし、なにがS女学校第一の美女だ。笑わせるではないか)
 けれども、大袈裟に大阪中の中学生の憧れの的だと騒がれている点を勘定に入れて、美人だと思うことにした。一般的見解に従ったまでだが、しかし澄み切った両の眼は冷たく輝いて、近眼であるのにわざと眼鏡を掛けないだけの美しさはあった。そんな事を咄嗟の間に考えていると、紀代子は足早に傍を通り過ぎようとした。豹一は瞬間さっと蒼ざめた。話し掛ける言葉がなぜか出て来ない口惜しさだった。
(この一瞬のために二時間を失うてはならない)
 この数学的な思い付きでやっと弾みつけられて、いきなり帽子を取って、
「卒爾ながら伺いますが、あなたは水原紀代子さんですか」
 月並でない、勿体振った言い方をと二時間も考えていた末の言葉だったから、紀代子も一寸呆れた。しかし、紀代子にしてみれば、こんな事はたびたびあることだ。大して赧くもならずに、
「はあ」そして、どうせ手紙を渡すならどうぞ早くという眼付きで、豹一を見た。そんな事務的な表情で来られたので、豹一はすっかり狼狽してしまい、考えていた次の言葉を忘れてしまった。いきなり逃げ出して、われながら不様ぶざまだった。
 不良中学生にしてはなんと内気なと、紀代子は嗤って、振り向きもしなかったが、彼の美貌だけは一寸心に止っていた。(誰それさんならミルクホールへ連れて行って三つ五銭の回転焼を御馳走したくなるような少年やわ)ニキビだらけのクラスメートの顔をちらと想い泛べた。(しかし、私は違う)彼女は来年十八歳で卒業すると、いま東京帝国大学の法学部にいる従兄と結婚することになっており、十六の少年など十も下に見える姉さん面が虚栄の一つだった。
 それ故、その翌日から三日も続けて、上本町六丁目から小橋おばせ西之町への舗道を豹一に尾行られると、半分は五月蠅いという気持から、
「何か用ですの」いきなり振り向いて、きめつけてやる気になった。三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気を苦しんでいた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られたために、本来の面目を取り戻した。
「あんたなんかに用はありませんよ。己惚れなさんな。ただ歩いているだけです」
 すらすらと言葉が出た。その言葉が紀代子の自尊心をかなり傷つけた。
「不良中学生! うろうろしないで、早くお帰り」
「勝手なお世話です」
「子供の癖に……」と言い掛けたが、巧い言葉も出ないので、紀代子は、
「教護聯盟に言いますよ」
 近頃校外の中等学生を取締るために大阪府庁内に設けられた怖い機関を持ち出して、悪趣味だった。
「言いなさい。何なら此処へ呼びましょうか」そう言う不逞な言葉になると、豹一の独壇場だった。
「強情ね、あんたは。一体何の用なの」
「用はない言うてまっしゃろ。分らん人やな、あんたは……」大阪弁が出たので、少し和かになって来た。紀代子はちらと微笑し、
「用もないのに尾行るのん不良やわ。もう尾行んときね。学校どこ?」大阪弁だった。
「帽子見れば分りまっしゃろ」
「見せて御覧」紀代子はわざと帽子に手を触れた。それくらい傍に寄ると、豹一の睫毛の長さがはっきり分るからだった。
「K中ね。あんたとこの校長さん知ってんのよ」
「言いつけたら宜しいがな」
「言いつけるわよ。本当に知ってんねんし。柴田さん言う人でしょ?」
「スッポンいう綽名や」
 いつの間にか並んで歩き出していた。家の近くまで来ると、紀代子は、
「さいなら。今度尾行たら承知せえへんし」
 そして、別れた。
 その間、豹一は、(成功だろうか、失敗だろうか?)とその事ばかり考えていた。結局別れ際に、「承知せえへんし」と命令的な調子でたたきつけられて、返す言葉もなく別れてしまった事から判断して、完全な失敗だと思った。しかし、失敗ほど此の少年を奮起せしむるものはないのである。
 翌日は非常な意気込で紀代子の帰りを待ち伏せた。紀代子は豹一の姿を見ると、瞬間いやな気持になった。昨日はちょっと豹一に好感を持ったのだが、こうして今日もまた待ち伏せられてみると、此の少年も矢張りありきたりの不良学生かと思われたのである。
 紀代子は素知らぬ顔で豹一の傍を通り過ぎた。豹一は駈寄って来て、真赧な顔で帽子を取ってお辞儀をした。すると、紀代子は、
(今日こそ此の少年を思う存分やっつけてやろう。昨日は失敗したが……)
 こんな事を自分への口実にして、並んで歩いてやることにした。実は豹一の真赧な顔が可愛かったのである。ところが、豹一はまるで一人で歩いているみたいに、どんどん大股で歩くのだった。真赧になった自分に腹を立てていたのである。紀代子は並んで歩くにも、歩きようがなかった。
「もう少しゆっくり歩かれへんの?」われにもあらず、紀代子は哀願的になった。
「あんたが早よ歩いたらよろしいねん」
(こいつは上出来の文句だ)と豹一は微笑んだ。紀代子はむっとして、
「あんた女の子と歩く術も知れへんのやなあ。武骨者だわ」嘲笑的に言うと、豹一は再び赧くなった。女の子と歩くのに馴れている振りを存分に装っていた筈なのである。
(此の少年は私の反撥心が憎悪に進む一歩手前で食い止めるために、しばしば可愛い花火を打ち揚げる)文学趣味のある紀代子はこう思った。なお、(此の少年は私を愛している)と己惚れた。それを此の少年の口から告白させるのは面白いと思ったので、紀代子は、
「あんたうちが好きやろ」
 豹一はすっかり狼狽した。こんな質問に答えるべき言葉を用意していなかったのである。また彼は小説本など余り読まなかったから、こんな場合何と答えるべきか、参考にすべきものがなかった。無論、「はい好きです」とは言えなかった。第一、彼は少しも紀代子を好いていないのである。心にもないことを言うのは癪だった。暫く口をもぐもぐさせていたが、やっと、
「嫌いやったら一緒に歩けしまへん」という言葉を考え出して、ほッとした。
「けったいな言い方やなあ。嫌いやのん。それとも好きやの。どっちやの。好きでしょ?」さすがに終りの方は早口だった。豹一は困った。好きでない以上、嫌いだと答えるべきだが、それでは余り打ちこわしだ。
「好きです」小さな声で、「好き」という字をカッコに入れた気持で答えた。紀代子ははじめて、豹一を好きになる気持を自分に許した。
 しかし、豹一は「好きです」と言ったために、もう紀代子に会うのが癪だと思っていた。翌日は日曜だったので、もっけの倖いだと思った。紀代子を獲得するまで毎日紀代子に会うべしと、自分に言い聴かせていたのだった。豹一は千日前へ遊びに行った。楽天地の地下室で、八十二歳の高齢で死んだという讃岐国某尼寺のミイラが陳列されていた。「女性の特徴たる乳房その他の痕跡歴然たり。教育の参考資料」という宣伝に惹きつけられて、こそこそ入場料を払ってはいった。ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢な好奇心からだった。
 自虐めいたいやな気持で出て来た途端、思い掛けなくぱったり紀代子に出くわした。(変な好奇心からミイラを見て来たのを見抜かれたに違いない)豹一はみるみる赧くなった。近眼の紀代子は豹一らしい姿に気がつくと確めようとして、眼を細め、眉の附根を引き寄せていた。それが眉をひそめていると、豹一には思われた。胃腸の悪い紀代子はかねがね下唇をなめる癖があり、此の時も、おや花火を揚げている、と思ってなめていた。そんな表情を見ると、もう豹一は我慢が出来なかった。いきなり、逃げ出した。
(あんな恥しいところを見られた以上、俺はもう嫌われるに違いない)豹一は簡単にそう決めてしまった。すると、もう紀代子に会う勇気を失うのだった。もう彼は翌日から紀代子を待ち伏せしなかった。
 ところが、紀代子は豹一が二、三日顔を見せないと、なんとなく物足りなかった。楽天地の前で豹一が逃げ出した理由も分らぬのである。
「何故逃げたのだろうか?」そのことばかり考えていた。つまり、豹一のことばかり考えるのと同じわけである。(嫌われたのではないだろうか?)己惚れの強い紀代子にはこれがたまらなかった。(あんなに仲良くしていたのに……)
 やがて十日も豹一の顔を見ないと、彼女はもはや明らかに豹一を好いている気持を否定しかねた。(なんだ! あんな少年……)
 紀代子は豹一を嫌いになるために、随分努力を図った。彼女は毎日許嫁の写真を見た。許嫁は大学の制帽を被り、頼もしく、美丈夫だと言っても良い程の容貌をしていた。彼女はそれを見ると、豹一の影も薄くなるだろうと、毎日眺めていた。が、余り屡※(二の字点、1-2-22)眺め過ぎて、許嫁の顔も鼻に突いて来た。(此の顔はひねている。髭の跡も濃い!)彼女はそんな無理なことを考えた。なるほど豹一はおずおずとうぶ毛を見せた少年なのである。しかし、許嫁から度々手紙が来て、東京の学生生活などを書いた文句を見ると、豹一などとは段違いの頼もしさがあった。
 二週間ほど経って、豹一を嫌いになる考えが大体纒り掛けたある日、紀代子は大軌の構内でばったり豹一に出会った。思わずあらと顔を赧くした。彼女は豹一が自分を待っていてくれたと思ったのである。
(やっぱり病気だったのやわ)この考えは一縷の希望として秘めて置いたのだった。彼女は微笑を禁じ得なかった。豹一を嫌いになる考えを咄嗟に捨ててしまった。ところが、豹一は、しまったと、半分逃げ腰だった。実は、彼は紀代子に会うのが怖くて、ずっと大軌の構内を避けていた。学校から帰り途だったが、わざと廻り道をしていた位である。ところが、今日は、うっかりと大軌の構内を通り抜けたのであった。つまり、もう紀代子のことは半分忘れ掛けていたからである。
 いきなり逃げ出そうとした。その足へ途端に自尊心が蛇のようにするする頭をあげて来て、からみついた。(ここで逃げてしまっては、俺は一生恥しい想いに悩まされねばならない。名誉を回復しなければならない)豹一は辛くも思い止った。しかし、名誉を回復するのはどういう風にして良いか分らなかった。まさか紀代子を相手に決闘も出来なかった。豹一はただまごまごしていた。そして、そんな決心にもかかわらず、紀代子の顔もろくによう見なかった。横を向いていた。
 紀代子は豹一が自分の顔を見てくれないのが、恨めしかった。つと寄り添うて、
「どないしてたの? なんぜ会ってくれなかったの? 病気していたの?」
 恨み言を言った。が、豹一は答える術を知らなかった。そして、答える術を知らない自分にむっと腹を立てていた。そんな顔を見ると、紀代子は、やっぱり嫌われたのかと、不安になって来た。それで一層豹一を好いてしまった。例の如く並んで歩いたが、豹一はわれにもあらずぎこちなかった。別れしな、
「今夜六時に天王寺公園で会えへん?」紀代子の方から言い出した。その頃、宵闇せまれば悩みは果てなしという唄が流行していた。約束して別れた。
 豹一はわざと約束の時間より半時間遅れて行った。紀代子は着物を着て、公園の正門の前にしょんぼり佇んでいた。臙脂色の着物に緑色の兵児帯をしめ、頬紅をさしていた。それが、子供めいても、また色っぽく見えた。
「一時間も待ってたんやわ」と紀代子は半泣きのまま、寄り添うて来た。
 並んで歩いた。夜がするすると落ちて、瓦斯燈の蒼白い光の中へ沈んで消えていた。美術館の建物が小高い丘の上に黒く聳えていた。グランドではランニングシャツを着た男がほの暗い電燈の光を浴びて、影絵のように走っていた。藤棚の下を通る時、植物の匂いがした。紀代子は胸をふくらました。時々肩が擦れた。豹一にはそれが飛び上るような痛い感触だった。
(女と夜の公園を散歩するなんて、いやなことだ)
 彼はこの感想をニキビの同級生に伝えてやろうと思った。紀代子にそれと分る位露骨に、つと離れて歩いた。そんな豹一が紀代子には好ましかった。(此の少年は恥しがりで、神経質だわ)しみじみと見上げると、豹一の子供じみた顔の中で一個所だけ、子供離れしたところがあった。広い額に一筋静脈が蒼白く浮き出しているのだ。それが物想いに悩む少年らしく見えた。(きっと私のことで思い悩んでいるのだわ!)
 しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)
 豹一はふっと泪が出そうになった。が、その眼を素早くこすると、また考え続けた。(この女は俺が坐尿したことを知ったら、もう俺と歩きはしまいだろうな)だからこそ、この娘を獲得することは自尊心を満足さすことになるのだと、豹一は漸く紀代子と歩いている自分の役割に気がついた。
(何か喋らなければならない)
 豹一は急に周章て出した。が、どんなことを喋って良いか分らなかった。恋愛小説など読んだことがないのである。獲得だと大それたことを考えてみたところで、それがどんな実際の言動を意味しているものかも分らなかったのである。今更のように、われながらぎこちなく黙々としている状態に気がつくと、もう豹一は紀代子と歩いているのが息苦しくなった。何か気の利いたことを言おう、はっきりと自分の目的に適ったことを言おうと思いながら、少しもそんな言葉の泛んで来ない自分にいら立っていた。彼はだんだん気持が重くなって来て、随分つまらぬ顔をしていた。(お前は女と口を利く術を知らないのではないか?)そんな自分が紀代子の眼にどんな風にうつるだろうかと考えて見た。彼はもう少しで紀代子に軽蔑されるだろうという心配を抱くところだった。が、紀代子の頬紅をつけた顔を見て、僅にその心配だけは免れた。紀代子の日頃の勝気そうな顔は頬紅をつけているので、今日はいくらか間が抜けて見えたのである。(俺はなんという不調法な男だろう)豹一は自嘲していたが、この不調法という言葉が気に入って、やや救われた。しかし彼はそんな心配をする必要もなかったのだ。紀代子は口をひらけば必ず傲慢な、憎たらしいことを言う豹一よりも、おずすおずと黙っている豹一の方が好きなのである。一つには、彼女は苦しいほど幸福といっても良い気持をもて余して、豹一に口を利かす余裕も与えないくらい、ひとりで喋り出したからである。
 文学趣味のある紀代子は、歯の浮くような言葉ばかり使った。豹一が意味を了解しかねるような言葉や、季節外れの花の名も紀代子の口から飛び出した。もし豹一が紀代子の使う言葉の意味が分らない自分を恥しく思い、俺は何と無学だろうと自分に腹を立てているのでなければ、もう少しで欠伸が出るところだった。
(中学生の俺よりも女学生の紀代子の方がむずかしいことを知っているのは、中学校の教育が悪いからだ)
 紀代子がもし聴いたらうんざりするような、そんな無味乾燥なことを考えながら、豹一は退屈をこらえていた。
 紀代子の「気の利いた」文学趣味のある言葉は、しかしそう永くは続かなかった。知っている限りの言葉を言い尽してしまったからである。
 道が急に明るくなって、いつか公園を抜けて、ラジウム温泉の傍へ来ていた。
 毒々しい色の電燈がごたごたとついている新世界の外れだった。
「俗悪やわ。引き返しましょう」
 そして彼女自身もひどく散文的な気持になってしまって、紀代子は豹一の友達が彼女に下手な文章の恋文を送った話などをした。すると、急に豹一の眼は輝いた。
「誰とどいつが送ったんや?」と訊いて、その名前を確めると、もう豹一は退屈しなかった。はじめて自尊心が満足された。豹一は恋文を見せて貰われへんやろかと、熱心に頼んだ。紀代子は即座に承知した。
「そんならあした見せたげるわね」
 それで翌日の約束が出来てしまった。

      二

 そんな交際が三月続いた。が、二人の仲は無邪気なものだった。もし仮りに恋愛とでもいうべきものに似たものがあるとすれば、紀代子が豹一に綿々たる思いを書きつらねた手紙を手渡したぐらいなものだった。つまり、紀代子は彼女の文学趣味を喋るだけでは満足出来ず、文章にして見せたかったのである。手渡したのは、その場で読んで欲しかったからだったのと、さすがに許嫁のある身で、郵送するのははばかられたからである。豹一は紀代子と喋るだけでも相当気骨の折れる仕事だったから、手紙など書いてみようとすら思わなかった。だいいち、それが証拠品となって誰かに嗤われる種となるかも知れないと、警戒したのである。どんな場合でも、彼のそんな警戒心は去らない。
 しかし、彼の自尊心は紀代子から手紙を貰ったことで、かなり満足されていた。自分に課した義務からもう解放されても良い頃だった。少くとも、紀代子への恋文を送った同級生の前では、どんな無茶なことでも言えるのだ。だから、もうあとの交際は半分惰性のようなものだった。実は、少しうんざりしていたのである。ただ、いやな父親の顔を見ているよりは、紀代子と会っている方が気が楽だった位のものである。それともう一つ、豹一にも案外気の弱い、しおらしいところがあって、理由もないのに約束をすっぽかすことが済まなく思われたからである。
 そんな風だったから、二人の仲は三月も続いたが、あとで紀代子が自分に言って聴かせたように、「手一つ握り合わなかった清い仲」だった。豹一にそれ以上のものを求める理由もなかったからだった。紀代子にもたいして恋愛の経験はなく、また生れもよかったから慎しみ深かった。豹一と言えば全く少年だった。それに、豹一にはそんな真似を自ら進んでして、嗤われるだろうという心配があった。そんな臆病な自分を、しかしののしったこともある。
(紀代子がどんな顔をするか、いやがるかどうかを試してみる必要があるかも知れない)
 しかし、もし豹一がその必要をもっと激しく感じたとしたら、元来が向う見ずな男だから、もっと大胆な行動に訴えたかも分らぬ。ところがそれだけは如何なる破目に陥っても出来ぬわけがあった。集金人の山谷からいつか聴いた話が心の底に執拗く根を張っていたから、そのようなことを想い泛べるだけで胸がかきむしられるのだった。
 そんな風に三月続いたのだが、いきなり紀代子は豹一から離れてしまった。まるで何の先触れもなかったのである。豹一は訳が分らなかった。彼はつまらぬ顔をして、毎日そのことを考えた。が、ふと、つまりこれは紀代子のことを考えている勘定になるのではないかと、いまいましくなった。紀代子が鹿の眼のようだとうっとりしていた豹一の眼は、にわかに持ち前の険しい色を泛べ出した。(もっけの幸じゃないか)しかし、それだけでは釈然と出来ぬわけがあった。つい最近彼は紀代子と回転焼屋へ行った。いつも紀代子が勘定を払っていたが、その日に限って彼は、ふと虫の居所の関係で、(お前はこの女に施しを受ける気か?)という気になって自分で勘定を払おうとした。途端に、ズボンから銅貨が三十個ばかり三和土の上へばらばらと落ちた。二銭銅貨が二個あるほかは一銭銅貨ばかりで、白銅一つなかった。彼はみるみる赧くなった。もし落さなかったら、彼は「どや、銅貨ばっかりやろ」とわざとふざけて言って、勘定をすますところだった。それなら如何にも中学生らしいのである。ところが、落してみると、にわかにあのお君の息子となってしまった。紀代子ははッと豹一の顔を見たが、彼を愛していたから、直ぐ膝まずいて、一つ一つ拾ってくれた。そのため豹一は一層恥しい想いをしたのだった。母親がその一枚をこしらえるのにもどれだけ苦労したか分らぬその金を、のんきに女と二人で行った回転焼屋で落した。というだけでも辛かったのに、紀代子にそんな風にされると、もう彼は死ぬ程辛かった。
 だから、そのことはなるべく想い出さぬようにしていた。想い出すたびに、ぎゃあーと腹の底から唸り声が出て来るのだ。しかし、紀代子が自分から去ったかと考えると、否応なしにそこへ突き当らざるを得ない。
(あのために俺は嫌われたのだ)
 しかし、序でに言えば、紀代子はその時真赧になって半泣きの表情を泛べていた豹一の顔ほど、可愛いと思ったことはなかった。従兄と結婚してからも、この時の豹一の顔だけは想い出した位である。
 つまり、紀代子は卒業の、即ち結婚の日が迫って来たのだった。正式の結納品が部屋に飾られたのを見た途端、紀代子はまるであっさりと心が変ってしまった。もともと彼女は、年齢よりも老けた気持をもっており、同級生の中でもいちばん早く結婚するのを誇りにしていたのだった。言わば、それが彼女の美貌を証拠だてるというわけである。豹一の魅力を以てしても、結婚を迎える胸騒がしい彼女の気持に打ち勝つことは出来なかった。それに、もともと豹一にはたった一つの魅力が欠けていた。つまり、「手一つ握り合わなかった清い仲」だったのである。
 紀代子が結婚をするため自分と会わなくなったのだと知ると、豹一はついぞこれまで経験しなかった妙な気持になった。狂暴に空へ向って叫び上げたい衝動にかられたかと思うと、いきなり心に穴があいたようなしょんぼりした気持になったりする。まるで自分でも不思議な、情けない気持だった。彼は未だ嫉妬という言葉を知らなかった。知っていれば、もっと情けなくなったところだった。時にはうんざりした紀代子との夜歩きも、いまは他の男が「独占」しているのかと思うと、しみじみとなつかしくなるのだった。その顔も知らないのがせめてもだった。もし、行きずりにでも見たとすれば、豹一のことだから、一生記憶を去らずに悩まされたところだ。
 豹一は自分が紀代子をたいして好いていなかったことを想い出して、僅に心を慰めた。しかし、今は紀代子の体臭などが妙に想い出されて来るのだった。

      三

 谷町九丁目から生玉いくたま表門筋へかけて、三・九の日「えのきの夜店」の出る一帯の町と、生玉いくたま表門筋から上汐町六丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと七、八十あった。生玉筋から上汐町通りへ 」の字に抜けられる八十軒長屋の路地があり、また、なか七軒はさんでUの字に通ずる五十軒長屋の路地があり、入口と出口が六つあるややこしい百軒長屋もあった。二階建には四つの家族が同居していた。つまり路地裏に住む家族の方が表通りに住む家族よりも多く、貧乏人の多いごたごたした町であった。
 しかし不思議に変化の少い、古手拭のように無気力な町であった。角の果物屋は何代も果物屋をしていた。看板の字は既に読めぬ位古びていた。酒屋は何十年もそこを動かなかった。風呂屋も代替りをしなかった。比較的変遷の多い筈の薬屋も動かなかった。よぼよぼ爺さんが未だに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾っているのだった。八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店にぺたりと坐った一文菓子を売る動作も名人芸のような落着きがあった。相場師も夜逃げをしなかった。
 公設市場が出来ても、そんな町のありさまは変らなかった。普請の行われることがめったになかった。大工はその町では商売にならなかった。小学校が増築される時には、だから人々は珍らしそうに毎日普請場へ顔を見せた。立ち退きを命ぜられた三軒のうち、一家は息子を新聞配達に出し、年金で暮している隠居だったが、自分の家のまわりに板塀を釘づけられても動かなかった。小さな出入口をつけて貰ってそこから出入した。立のき料請求のためばかりではなかったのである。
 全く普請は少かった。路地の長屋では半分崩れかかった家が多かった。また壁に穴があいて、通り掛った人が家の中を覗きこめるような家もあった。しかし、大工や左官の姿も見うけられなかった。最近では寿司屋が近頃テン銭寿司が南の方で流行して商売に打撃をうけたので、息子が嫁を貰ったのを機会に、大工を一日雇って店を改造し、寿司のかたわら回転焼を売ることになったことなどが目立っている。
 ところが、野瀬安二郎が大工を五日も雇ったので、人々はあの吝嗇漢しぶちん[#ルビの「しぶちん」は底本では「しぶんち」]の野瀬がようもそんな気になったなと、すっかり驚かされた。転んでもただでは起きぬ野瀬のことやから、なんぞまたぼろいことを考えとるのやろと言うことになった。その通りである。
 安二郎の隣に万年筆屋が住んでいた。一間間口の小さな家だったが、代々着物のしみ抜き屋だったが、中学校を出たそこの息子の代になると、万年筆屋の修繕兼小売屋へハイカラ振って商売替えすることになり、安二郎にその資本三百円の借用を申し込んだ。安二郎はその家が借家ではなく、そこの不動産だと確かめると、それを抵当に貸し付けた。その金がいつの間にか二千五百円を出る位になった。隣近所でも容赦はせぬと、安二郎は執達吏を差し向けて、銭湯へ出掛けた。万年筆屋が銭湯へ呶鳴り込んで来たが、安二郎は、「あんた、人の金ただ借りれると思たはりまんのか」と頭にのせた手拭をとってもう一つ小さく畳むと、また頭の上にのせた。その晩万年筆屋は立ち退いた。安二郎はこの間口一間の家を改造するために、大工を雇ったのである。
 先ず二階の壁を打っ通して扉をつくり、自分の家の二階とそこの四畳半の部屋との間を廊下伝いに往来出来るようにした。階段はそのままに残して置き、店の間の土間にはただテーブルを一個と椅子二個ならべ、テーブルの上にはベルをそなえつけて、「御用の方はこのベルを押すこと」と、無愛想な文句をかいた紙きれをはりつけた。入口には青い暖簾をかけて、「金融野瀬商会」
 べつに看板を掛けた。それには、
「恩給・年金立て替え
 貯金通帳買います
 質札買います」
 恩給・年金の立て替えはべつとして、あとの二つは目新しい商売だった。貯金通帳を買うとは、つまり例えば大阪貯蓄などに月掛けしているものが、満期にならないうちに掛けられなくなったり、満期になったが、金を取るまでの日数を待ち切れなくなった場合、安二郎がそれを相当の値で買いとってやるのである。掛け金の額からは無論がちんと差引くから、あとでゆっくり安二郎が手続きして金をとればぼろい儲けになると、かねがね目をつけていた商売だった。
 質札の方は、ただの二円、三円で買いとってやるのである。それをもって安二郎がうけ出しに行き、改めて古着屋や古道具屋へ売る。質札の額面五円の着物ならば、古着屋へは十二、三円から十五円、二十円にも売れる故、質屋へ払う元利と質札を買った金を差引いても、残りの利益は莫大だった。貧乏人の多い町で、よくよく金に困って、質草もなくただ利子に追われている質札ばかり増えるのを持て余している者がちょっとやそっとの数ではあるまい。だから目先のことだけ考えれば、どうせうけ出しも出来ぬ質札が金になるときけば有難がってやって来るだろう。その足許を見て二束三文で買いとってやるのだと、随分前から安二郎は此の商売をやりたがっていたのである。
 ところが現在の家ではさすがにその商売は出来なかった。高利貸めいてひっそりと奥深く、見知らぬ人の出はいりにもじろりと眼を光らせねばならぬしもたやでは出来ぬ商売だった。そんなところへ安二郎の言葉を借りて言えば、「運良く隣の家がいた」のである。
 東西屋も雇わず、チラシも配らず、なんの風情もなくいきなり店開きをしたのだが、もうその日から、質札を売りに来た。ベルの音が隣の家まで通ずる仕掛になっている。安二郎はのっそりと腰を上げて廊下伝いに新店の二階へ出て、階段を降り、夏の土用以外に脱したことのない黒い襟巻を巻いた顔をぬっと客の前へ出すのだった。じろりと客の顔を見て椅子に腰を掛け、客には坐れとも言わずに質札を虫眼鏡で仔細に観察してから、質屋の住所と客の住所姓名を訊く。終ると、「金は夕方取りに来とくなはれ」と無愛想に言って、腰を上げると、取つく島のない気持でぽかんとしている客の顔を見向もしないで階段を上り、再び廊下伝いにもとの部屋に帰ってしまうのである。
 豹一は学校から帰ると、その応待をやらされた。実はこんどの二階の部屋は豹一の部屋になったのである。安二郎の鼾が聴えて来ないことは有難かったが、ベルの音には閉口した。勉強の途中でも立たなければならなかったのである。そして客から質札を受け取ると、安二郎に見せに行く。それがたまらなくいやだった。どうしても安二郎と物を言わなければならぬからだった。なるべく安二郎とは口を利かぬようにしていたのである。
(自他ともにその方が得だ)と考えていた。自分も不愉快だから、安二郎も自分と口を利くのは不愉快だろうと、彼は口実をつけていた。しかし、安二郎は豹一をただお君が連れて来た瘤ぐらいに考えていたから、豹一の子供だてらの恨みなどには無縁だった。少くとも豹一が考えているほどには、豹一の気持など深く考えていなかった。自分の事をどう思っていようと、飯はあんまり食わぬようにしてくれさえすれば、べつに文句はないのである。中学校での行状がどうであろうとも、学資を出してやっているわけではない。ただ近頃はやっと家の用事に間に合うようになって、「猫の子よりまし」なのである。例えば、客の応待はしてくれる。質屋への使いに行ってくれる。
 その質屋への使いだけは勘弁してくれと、豹一は頼みたかった。が、そのためには安二郎に頭を下げる必要がある。それがいやだった。豹一はむっとした顔で、渋々質屋へ行った。丁度運悪く紀代子のことですっかり悄気てしまい、自尊心の坐りどころを失っていた時だった。道を歩いていても、すれ違う人のすべてが自分を嘲笑しているように思えた。質屋の暖簾が見えるところまで来ると誰か見てへんやろかと、もう警戒の眼を光らせた。
(お前の母親はお前の学資を苦面するために、この暖簾をくぐったのだぞ)そう自分に言い聴かせて、はじめて暖簾をくぐることが出来た。それでも質屋の子供かなんぞのような顔をつくろってはいった。質屋の丁稚は、
「野瀬はんとこがすばしこい商売をやらはんので、わての方は上ったりですわ。わてらは流して貰わな商売にならへんのに、あんたとこが流れをくい止めはんねん。まるで堤みたいや」とこんなことを早熟た口で言った。なお、
「あんたところはぼろいことしはって、良家ええしやのに、んがこんな使いせんでもよろしおまっしゃろ」
 豹一はむっと腹を立てた。ただ、丁稚が主に安二郎の悪口を言ってみるのだという理由で、僅に食って掛るのを思い止った。蔵から品物が出されて来るのを待っている間、ちらとそこの娘が顔を出し、丁稚を叱りつけるような物の言い方をして、尻を振りながらすっとはいって行った。豹一はキラキラ光る眼でその背中を見送った。品物を用意してきた風呂敷に包み、
「胸に一物、背中に荷物やな」と、丁稚に言われて、帰る道は風呂敷包みをもっているだけ、往く道より辛かった。(胸に一物やぞ!)と、豹一は心の中で叫び、質屋の娘の顔をちらと頭に描いた。
(あの娘は俺をからかう為にのこのこ顔を出しやがったんだ。なるほど中学生の質屋通いは見物だろう)
 奥へはいって行く時、兵児帯の結び目が嘲笑的にぽこぽこ揺れていたのを想い出した。(なんて歩き方だろう? 紀代子はあんな不細工な歩き方をしなかった)ひょんなところで、豹一は紀代子のことを想い出した。すると自尊心の傷がチクチク痛んで来るのだった。(あの娘を獲得する必要がある)思わずそう決心した。それよりほかに、今のこの情けない心の状態を救う手がないと思った。しかし、豹一はそんな莫迦げた決心を実行に移さずに済ますことが出来た。もっと気の利いた方法で自尊心を満足さすに足ることが起って来たからである。
 ある日、豹一は突然校長室へ呼びつけられた。
「蛸を釣られる」のだろうと、度胸を決めて、しかしさすがに蒼い顔をして行くと、校長は、
「君に相談があるのや。掛け給え」と言った。風向きが違うぞと豹一は思い、もし風紀係にでもなれという相談だったら断ろうという覚悟を椅子にどっかりと乗せていると、
「君高等学校へ行く気はないか」
 と意外なことを訊かれた。つい最近も教室で上級学校志望の調査表を配られた。四年生になると、もう卒業後の志望を決めて置く必要があるのだった[#「あるのだった」は底本では「あるのだつた」]。彼は上級学校へ行く希望はない旨、書き入れて置いた。中学校を卒業させてくれるだけで精一杯の母親のことを考えると、行きたくても行けぬところだったのである。
「はあ、べつに……」と答えた。
「なぜかね?」校長が訊いたが、豹一は答えられなかった。自分の境遇を説明出来なかった。
「なんででも、行きたいことないんです」
「そりゃ惜しいね」と校長は言い、「実は……」と説明したのはこうだった。ある篤志家があって、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。無論、条件がある。品行方正の秀才で四年から高等学校の試験に合格した者に限る。それも入学試験のむずかしい一高と二高と三高だけに限り、合格した者は東京、京都のそれぞれの塾へ合宿させる。そんな条件に適いそうな生徒があったら推薦してくれと、府下の中学校へ申込んで来た。その候補の一人に豹一が選ばれたのである。
(すると、俺は貧乏人の子だと太鼓判を押されたわけだな)と豹一は思った。どうして校長がそれを知っているのだろうと考えて、思い当るところがあった。
(俺が授業料滞納の選手権保持者だということを知っているんだな)豹一はみるみる赧くなり、逃げ出したい位の恥しさだった。と同時にむっとした。(俺はそんな施しは御免だ! 四年から一高か三高へはいれた秀才に限るだなんて、まるで良種の犬か競走馬を飼うつもりでいやがる)
 豹一は腹を立てたが、しかしそんな候補に選ばれたことは少くとも成績優秀だと校長に認められたことになるのだと、些か慰まるものがあった。そんな豹一の心にまるで拍車を掛けるように、校長は、
「君が行きたくないということは、実に惜しいことだ。他にも候補者はいるけれど、自校うちでは四年から一高か三高へ大丈夫はいれるのは君ぐらいだからな」と言った。豹一の自尊心は他愛もなく満足された。思わず微笑が泛んで来るぐらいだった。が、豹一は周章てて渋い顔になると、
「候補者は誰と誰ですか?」と訊いた。
「君のクラスの沼井と、それから四年F組の播摩だ」
 沼井と聴いたからにはもう豹一は平気で居られなかった。いきなりぶるっと体が顫えた。
(なあんだ。沼井も学資を施して貰うのか。沼井が落第して、俺が合格するとなればこんな気持の良いことはない)そう思うと、元来が敏感に気持の変り易い彼はふと高等学校へ行ってみようかという気になった。母親に学資を苦面させるわけではない。それに、どうせ中学校を出ても、家でこき使われるか、デパートの店員になるよりほかはないのだ。(塾へはいれば安二郎の顔を見なくても済むのだ)それで肚が決った。しかし彼は即座に、じゃあ、そうさせていただきますとは言わなかった。行きたくないと言って置きながら、直ぐ掌をかえすように、行かせて貰いますと飛びつくのは余りに不見識で、浅ましい。
「校長先生のお言葉ですし、一ぺん家の者に相談してみます」こう言った。ここらに豹一が余り人から好かれないところがある。しかし、本当に母親だけに相談する義務はあった。
「そうか。じゃあ相談してみたまえ。なるべく行くよう。中学校だけで止めるのは惜しいからね」
「僕もそう思います」
 帰って母親に、「人の施しを受けて高等学校へ行く可きかどうか」と真剣な顔で相談した。お君は、「あて如何どないでも良え。あんたの好きなようにし」しかし、「あんまり遠いところへ行かんといてや」
 京都の三高へ行くことに決めた。翌日校長先生に呼ばれると、
「校長先生のお言葉ですし、K中学校の名誉のために見事合格して見よう思います」こんないや味な返事をした。が、その言葉は概して校長の気に入った。
「君はあんまり品行方正とは言えんが、とにかく出来るから推薦したのだ。しっかりやってくれ給え」
 豹一は沼井が三高を受けるのか、一高を受けるのかとそのことばかり考えていたので、校長の言葉も不思議に苦にならなかった。
 豹一はその日から猛勉強をした。心に張りがついた。彼の自尊心はその坐り場所を見つけることが出来たのである。(俺が高等学校の帽子を被る日に、一ぺん紀代子に会っても良い)と、思った。(しかし、紀代子は俺の学資の出所を見抜くかも知れない)
 豹一は翌年の四月、三高の文科へ入学したが、だから紀代子にだけは未だ会わす顔はなかった。

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