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青春の逆説(せいしゅんのぎゃくせつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:05:30  点击:  切换到繁體中文


      三

 凍てついた道を寒風が吹き渡っていた。豹一は寒そうに身を縮めたしょんぼりした恰好で、街から街へ就職口を探して空しく、歩きまわっていた。
 昭和十六年の常識からはちょっと考えられぬところだが、当時は、大学出の青年が生活に困って紙屑屋を開業したと、新聞に写真入りの、いわば失業時代だった。たとえば、ある日、
「社会部見習記者一名募集」、「応募者ハ本日午前九時履歴書ヲ携帯シテ本社受付マデ。鉛筆持参ノコト東洋新報」
 そんな三行広告が新聞に出ている朝、豹一が定刻より一時間早く北浜三丁目の東洋新報の赤い煉瓦づくりのビルへ行ってみると、もうまるで何ごとか異変の起ったような人の群が一町も列を成して続いていた。一名採用するというのに、この失業者の群はなんということかと、豹一はそんな世相をひとごとならず深刻に考えるまえに、そうした列に加わることに気恥しく屈辱めくものを感じた。よっぽど帰ろうかと思ったが、しかし、ここを逃しては、当分就職口はあるまい。どさくさまぎれの気持で、しょんぼり列のうしろに並んだ。
 無意味に待たされて、その列は一時間ほどじっと動かなかった。寒さと不安に堪えかねて、ひとびとはしきりに足踏みしていた。九時過ぎにやっと動きだしたが、摺足で歩くほど、のろい進み方だった。前の方から伝って来た「情報」によると、先ず一人一人履歴書を調べられているらしく、それを通過したものだけが直ぐあとで筆記試験を受けることになっているらしかった。中学校卒業程度以下の学歴の者は文句なしにはねられるらしいと、いいふらす者もあった。(すると中学校も案外出て置くべきだな)あまり感心の出来ない調子で、豹一は呟いた。
 筆記試験へ残った者は百人ばかりあった。豹一もその一人だった。三階の講堂へ詰めこまれると、豹一はわざと出口に近いいちばん後列の席に坐った。嫌気がさした時、試験の最中にすぐ飛び出せるための用意で、なかなか手廻しが良かった。席に就いてから半時間待たされた。豹一は苛苛として来た。
(どうせ、今登って来た階段の数は何段あったかなんていう問題を出されるに決っているのだ)試験の結果に就いては前以て全く諦めていた豹一は、腹立ちまぎれに、そんなことを考え、そのため一層苛立っていた。(「歩数だけ」と答を書いてやろうかな。但し二段一度に登ったところもあり、正確を期待しがたい――か。ケッ、ケッ、ケッ!)それでちょっと慰まった。
 やがて、背の高い痩せた男が長い頭髪をかきむしりながらはいって来て、壇上に立った。
「えらいお待たせしまして、申訳ありません。えー、実は今日の筆記試験の係の男が、急に姿を消してしまいまして、えー、お茶でも飲みに行ったのやろかと思いまして心当りあちこち探しにやっているのでありますが、どこへ逐電しましたのか皆目見当がつかない状態でありますので、とりあえず私が代役することになりました」笑い声が起ったが、しかし直ぐ止んだ。「――えー、そういう訳で、大変お待たせしまして、恐縮です」
 その時給仕があわててはいって来て、壇上の男に何か耳打ちした。
「えー、いまその男から電話が掛って来たそうであります。実は食事に行っているそうでありましてそれがまたとても暇の掛る店と見えまして、当分帰れそうにないから、誰か代ってやってくれということであります。とにかく私が代役するぶんには変りありません」
 豹一はこのふざけた「演説」に腹を立てるべきかどうかちょっと考えた。しかしずり落ちそうな眼鏡のうしろで眼をしょぼつかせているその男の印象はそんなに悪くなかったから、豹一はわざわざ席を立つこともしなかった。
「いま給仕が問題用紙を配ります。余白に答案を書いて下さい。時間の制限はありません。しかし、夕方まで掛ったりされますと、私が大いに迷惑します。――答案が出来ましたら、ここへ持って来て下さい。そして帰って下すってよろしいです。結果は追って――」いい掛けて、大声で、「おい、そうだな?」と給仕に問うた。給仕はうなずいた。「――結果は追って通知することになっています。えー、それから煙草は御自由に」
 豹一は三本目の煙草を吸っていた。
 問題用紙が配られた

一、作文「新聞の使命に就て」
二、左の語を解説せよ
 Lumpen
 室内楽
 A la mode
 Platon

 そんな問題だった。横文字を読むために問題用紙を横に動かす音が、サラサラと鳴った。豹一の傍の席でしきりに鉛筆を削っていた男が、暫く問題を見つめていたが、いきなり立上って、
「こら帰った方が得や。一人しか採れへんのに出来もせん試験を受けても仕様があらへん」豹一にきこえるように言って、こそこそと出て行った。すると、これを見ならうように、つづいて三人出て行った。
 豹一は居残って答案を書くことに、ちょっと拘泥った。なんだか出て行った人に済まないとも思われた。が、いま出て行っては、あいつは答案が書けないのだと軽蔑されるおそれがあると思い、辛うじて席に止った。答案を書いていると、ふっとかぎ屋のお駒や紀代子や喫茶店の女の顔が思い掛けず甘い気持で頭に泛んだ。それほど講堂のなかの空気が息苦しく思われたのだ。一刻もじっとしていられない気持で、豹一はまるで逃馬のように卒然となぐり書きして、あっという間に答案を提出してしまった。むろん、読み返しもしなかった。たとえ二人のうち一人採用されるにしても、自分は不採用に決っていると、新聞記者になることにすっかり見切りをつけてしまった。ところが、そんな風に早く提出してしまったことが、豹一に幸したのだった。
 実は全部提出するまで根気よく待っていた壇上の試験係には随分気の毒な話だが、編輯長の方針では、採点する答案は最初に提出した十人だけと、あらかじめ決っているのである。そのあとから提出した答案は一束に没籠にほうり込まれてしまったのだ。どんなに良く出来た答案でも、永い時間掛って書くようなのは、新聞記者としては失格だという編輯長の意見だった。新聞記者の第一条件は、文章が早く書けるということ、しんねりむっつり文章に凝るような者やスロモーは駄目だというわけだった。
 ところで、その十人の答案は大半出来がわるかった。編輯長は答案を調べながら屡※(二の字点、1-2-22)吹きだした。編輯次長はわざわざ編輯長の部屋へ呼ばれた。
「傑作があるぜ、これどないや。Lumpen(ルンペン)を合金ペンと訳しとるねんや」
「だいぶ考えよったですな」
「まだある。やっぱり同じ男や。Platon(プラトン)はインクの名前やいうとるねや」
「文房具で流したところは、なかなか凝ってますな。まだありませんか。傑作は――」
「室内楽を麻雀やぬかしとる」
「こら良え。なるほど麻雀やったら、部屋のなかで鳴りますな」
「部屋の中の楽しみやと考えよったのやろ」
「A la mode(アラモード)に傑作がありまっしゃろ」
「あるぜ。献立表というのがある。あ、そう、そう、これはどないや。モーデの祈りとはどないや」
「新聞記者にするのは惜しいですな」
「吉本興業に頼んでやると良えな」
 結局、豹一の答案がいちばん出来が良かった。たとえば、ルンペンを「独逸語で屑、襤褸の意、転じて社会の最下層にうごめく放浪者を意味する。日本では失業者の意に用う。しかしルンペンとは働く意志のない者に使うのが正しいから、たとえばこの講堂へ集った失業者はルンペンではない」と、編輯長自身にも書けない立派な答案だった。しかも皮肉ったエスプリが出ている。それに、提出の順序も一番だった。早速、豹一のところへ面会の通知が速達された。

      四

 豹一は他人に与える自分の印象に就いては全然自信がなかったので、面会の通知が来たときもすっかり喜び切ることは出来なかった。面会の時の印象がわるくて不採用になるかも知れないと、かなり絶望的に考えたのである。己れを知るものといえるわけだ。
 実際豹一が学校にいた頃、教授達の豹一に対する批評は「態度不遜だ」ということに一致していた。しかしここで豹一のために弁解するならば彼自身教授に対して個人的に不遜な態度をとった覚えはないつもりだった。ただ、教室を軽蔑していた。そしてまた些かの未練も残さずに中途で退学してしまった。つまるところは、「光輝あるわが校の伝統を軽蔑している」ことになったのである。しかし、それにしてもある教授のように、「毛利豹一はおれを莫迦にしている」とむきになるのはいうならば余りに豹一的で、つまり些か大人気ないことではなかろうか。豹一はただ慇懃な態度が欠けていたのだ。他人に媚びることをいさぎよしとしない精神が、彼を人一倍、不遜に見せただけのことである。
 ところが、銀行や商事会社なら知らず、新聞社では慇懃な態度はあまり必要とされないのである。少くとも外勤の社会部の記者には必要ではない。もっとも、社内にあって良い地位を虎視眈眈とねらっている連中ならば、たとえば編輯長の前ではあくまで慇懃であってもらいたいものだが、しかし先ず新参の見習記者には用のない話だ。面会に来て、どんな頭の下げ方をするだろうかなど、編輯長の頭には全然なかった。
「えらい威勢の良い奴ちゃな」――でも構わなかったのである。それどころか、新聞記者には威勢の良いのは、うってつけである。苛々と敏感に動く豹一の眼を見て、編輯長は、(こいつは鋭いところがあるぞ)と、すっかり気に入った。(ちょっとぐらい社のタイピストと問題を起しよっても、構へんやろ。この男前はなかなか使い道があるぞ)と、編輯長は思った。
「どんな方面の仕事が担当したいねん、言うてみ。カフェー廻りはどないや。それともダンスホールか」カフェーやダンスホールの評判記でかなりの読者を獲得している新聞だったのだ。ところが、豹一の言葉は編輯長をがっかりさせてしまった。
「僕の性質としましては、あまり人なかに出るのは適当じゃないと思いますので、なるべく社内でやるような仕事をしたいと思います」正直な言葉だった。
「内勤か?」編輯長は不機嫌に口をとがらした。
「内勤はいま一杯ふさがっとる。校正やったら一人欠員があるけど――」校正と聞いて、豹一はぞっとした。畳新聞社で二年間毎日やっていた校正の辛さが想出された。豹一はあわてて言った。
「外勤でも結構です」
「――そうか。そんならひとつ気張ってやってんか。――そんなら今日はこれで帰って良えぜ。あした朝九時に来てんか。いま皆外へ出てるよって、あした皆に紹介することにしよう」
 豹一ははっとした。じつは面会の時間は九時と通知されていたのだが、例の癖で一時間以上遅れたのである。それを一言も咎めなかった編輯長に、豹一は好感をもった。
「じゃあ、あした来ます。九時ですね」
「そうしてエ」
 局長室を出た途端に、豹一は、「やあ」と、声を掛けられた。筆記試験の時壇上で妙な演説をやった男だった。
「君、入社したんですか」
「はあ」
「今日は用事ないんでしょう?」
「はあ」
「あったって構わん。お茶のみに行こう」男はさっさと階段を降りて行った。豹一もうしろからついて行った。
 社の表に一人の男が空を仰いで突っ立っていた。
「今日の天気はどないです?」豹一の連れの男はそう声を掛けた。
「さあ、雪でんな」空を仰いでいた男が言った。
「降りますかね」
「降りまんな」
 社の近くの喫茶店に落着くと、男は、
「いまの男は販売部長や。天気予報の名人やと自称しとるらしいが、満更当らんわけでもない。毎日空模様を見て、その日の印刷部数をきめるのがあの人の仕事でね。雨が降ると、立売が三割減るからね、なかなか販売部長も頭を悩ますよ。雪か。雪なら四割減るかな。――君傘は? ……傘いるよ」と、ひとりで喋った。「何をのむ?」
「珈琲で結構です」
「遠慮しなさんな、君に払わさんというわけでもないからね」にやりと笑って、「おい、珈琲二つと、トーストパン二つ!」と、注文した。
 珈琲とパンが来ると、男は、
「やり給え」あっけにとられて豹一が珈琲を啜っていると、「不味いだろう? ここの女の顔もそうだがね」
 そんな男の調子に圧倒されそうになったので、豹一はわざと図太い態度で、じろじろ女の顔を見廻し、なるほどねという顔をした。すると、いきなり、
「そうじろじろ見るなよ」男の声が来た。豹一ははっと赧くなったが、実は豹一に言ったのではなかった。
「おい、美根ちゃん、そんなにおれの顔を見ないでくれ!」
「まあ、失礼!」
「監視せんでも良えぞ。勘定はこの人が払ってくれる。食逃げはせんからね。いつものようには……」
 そして、豹一に、「君、勘定を払ってもらった上にはなはだ恐縮だが……」しかし、ちっとも恐縮しているような態度は見せず、にやにやと顎をなでていたが、いきなり、「金を貸してくれ」と、言った。
 ずり落ちそうな眼鏡のうしろで、細い眼をしょぼつかせている外観から想像も出来ない、まるで斬り捨てるような言い方だったから、豹一はあっと駭いたが、しかし、さすがに直ぐに言葉をかえして、「いくら?」と、訊いた。
「五十銭で良えです」しかし豹一が財布をあけるのを見て、「一円にして貰おうかな」
 結局三円とってしまうと、男は、
「金を借りたからというわけではないが、とにかく自己紹介して置こう。僕は社会部の土門です。土に門と書く。ツチカドとよむのが正しいが普通ドモンとよばれている。どもならんというわけやね」下手に洒落のめした。豹一は土門の言葉の隙間へ、
「僕毛利です。どうかよろしく」と、小さく挨拶を割り込ませた。
「あ、毛利君ですね? 払いますよ毛利君この金は……。但し一年以内に……。時々催促して下さい」にこりともせず土門は言った。豹一は莫迦にされているような気がしてむっとしたが、しかし相手はそんな表情を、可愛い若武者だとながめながら「僕は君が気に入ったよ君の貸しっ振りはなかなか良いところがあるよ」一層豹一を怒らせてしまった。「いや、実際の話が、何が気持良いといっても、金を借りる時相手に気前よく出されるほど気持の良いものはないね。たとえ五十銭の金にしたところがだね、気持よく、ああ、あるよと出された五十銭ってものは、あんた、なんですよ、九十八円ぐらい遊んだほどの値打があるからね」
「金の話はよしましょう」豹一はだしぬけに言った。高利貸をしている安二郎のことが頭に泛んだせいもあった。
「あ、そう」土門はあっさりとしたもので、「じゃ、仕事の話をしようではないか。君は社会部だね。じゃ、僕と同じだ。どうせ、僕が当分君の仕事を見てあげることになるんだろうが、――なんといっても僕は社会部では古参だからね。部長よりも古い。というのは、つまり僕は部長になる資格がなかったという意味になるが、実はその意志がなかったんだ。序でに言っとくと、僕は副部長待遇です。君、いいだろう? 『待遇』ってのは……。嬉しいじゃないか。え、へ、へ。そこでだね。君に教える第一のことは、先ず名刺をつくることだ。名刺を持たない新聞記者ってものは余っ程怠け者か、――この僕の如き――それとも余っ程腕利きのどちらかで、まあ、とにかくぶん屋には名刺が要るもんだね。といったって、べつに聞屋が威張って良いというわけじゃないよ。聞屋の威張れるのは火事場だけだ。そう思って置けば、間違いないね」
「僕もそう思います」豹一は我が意を得たという顔で言った。
「そら良え現象や。ところが、威張る新聞記者は佃煮にするほどいますわい。なるほど、威張ろうと思えば、威張れるがね。しかし威張って良い理由はどこにも無いんだ。たとえば、よく使われる例だが、失業した新聞記者は水をはなれた魚のようにみじめなんだ。してみるとだね、てめえらが威張れたのは、てめえら自身の、――変ないい方だが、――人格ではなくて、実は背景になっている新聞のおかげだ。つまり、虎の威を借りている、といっては月並かな。君あれだよ、つまるところ新聞記者という特権を濫用しているんだよ」
 特権という言葉が出たので、豹一は土門の考えにすっかり共鳴してしまった。もっとも土門はその言葉をいうとき、ニキビをつぶしていた。いや、つぶす真似をしていた。
「咽喉が乾いた。珈琲もう一杯のもう」土門は新しい珈琲が来るとまた喋り続けた。「しかしまあ、とにかく名刺を作ることだね。君のような可愛い顔をした男が、半鐘が鳴って火事場に駆けつけても、名刺が無ければ通してくれないからね。八百屋お七が変装して吉三に会いに来たと思われるぜ。――失敬、失敬、そう怖い顔をするなよ。いや実際君の顔は可愛いよ。おれに変態趣味があれば、君に申込むね。全く、君はにくらしいほど美少年だ。僕は僕の少年時代を想い出すね。君とそっくりだった」
 豹一は危く噴きだすところだった。なにも豹一は自分を美少年と想っているわけではなかったが、しかし、不細工だと形容するほかの無い土門のそんな言葉には、さすがにあきれてしまった。土門はなおも洒蛙々々と続けた。
「君、用心すると良いよ。君のような美少年は危い。相手が女だとあれば、君も大いにやに下っても良いが、しかし、男に目をつけられるのは、目もあてられないからね、不気味ではあるな。いまはこの風潮は大いにすたったが、しかし昔は盛んだったね。いや、全くの話が、プラトンかソクラテスかどっちかが言っているように、男の肉体というものは女の肉体より綺麗だからね。彫刻を見ればわかるじゃないか。だから美意識の異常に発達した、たとえばうちの編輯長の如きが大いにこの趣味を解するのも無理はないね。君、編輯長に気をつけ給え。いや、これは臆測に過ぎんがね。しかし、どうもあの編輯長は臭いね。というのは、全然女に興味がないらしいんだ。それがあやしい。社の創立当時のことだがね、丁度夏だったもんで、奴さん褌一つで駆けずりまわる――のはおかしいか。駆けずりまわるときはさすがに洋服は着込んでいたらしいが、さて社で記事を書くときは褌一つだったんだ。まあ、それほど大車輪で目覚しかったんです。ところが、当時社長の女秘書がいたんだ。これがまた頗る美人で、おまけに名門の出だもんで、例の遊ばせ言葉と来てるんだ。じつは、結婚してたんだが、亭主が小間使に手を出したてんで、飛び出して尖端を切った職業婦人になったという代物なんだがね。この秘書女史が編輯長と同じ部屋にいたんだが、ある日、この女史が社長にいきなり辞意を表明したと、思い給え。その理由がなんだと思う……? うふふ」土門は嬉しそうに笑った。「――その理由ってのは、君、あれだよ。うふふふ……。編輯長さんの越中をなんとかしてもらえんか――って、そんな言い方はしなかっただろうが、ともかくまあそんな意味のことをやわりやわり社長に言ったんだね。社長もさすがに弱って、結局編輯長を呼びつけて曰くだ、――君、褌は困るね。せめて汚れない奴を着用してくれんか。――あははは」土門はまるで転げまわっていた。「――というわけで、問題はけりがついたが、ともかく美人の秘書の前で汚れた褌一つで平気でいるところを見ると、奴さん女には全然興味がないと見てまあ差支えないだろう? 少しでも興味があればだね、少くともステテコ位は穿いたろう。まあ、そう言ったわけで、女に興味が無いとすれば、残るのは美少年だ。どうだ、君、僕の推理は……? わりに筋が通ってるだろう? だからさ、まあ君は大いに編輯長に気をつけることだね。え、頼みまっせ。けっ、けっ、けっ」土門は口の泡を噛みながら笑った。
 いったい言葉の乱れている、――たとえば標準語と大阪弁がちゃんぽんになっているような男には、健全な精神が欠けていると見てたぶん間違いはないが、この土門のような男はその代表的なものである。ことに土門は言葉が乱れているばかりでなく、その言い方が真面目に見えたり不真面目に見えたり、つまり、底抜けにふざけていて、いってみればデカダンスのにおいが濃いというわけだった。
 こういう男は得てして生真面目な男を怒らせるものなのだが、豹一は自分で思っているほどには人から生真面目に思われない男だったから、莫迦にされてるような気はしたものの、すっかり腹を立てるまでには到らなかった。それに突拍子もないところへ大阪弁が飛び出したりして、土門の態度に案外気取りのないところが、いくらか気に入っていたのである。
 もうひとつには豹一は土門の話よりも、土門の煙草を吸う動作にすっかり気を取られていたので、腹を立てる余裕などは無かったのだ。土門の煙草の吸い方はあきれるほど早かった。三分ノ一ほどせわしく吸うと、もう新しい煙草に火をつけている。それが休む暇もないのである。マッチをつけるのがもどかしいらしく、煙草から煙草へ火を吸い移すのだ。瞬く間に一箱を平げてしまうその早さに、一日掛って一箱がやっとの豹一はあきれてしまった。が、豹一が注意をそそられたのは、そのことだけではない。よく見ると、土門は必ず煙草の端をやたらに濡らすのである。そして、濡れたところをしきりに手でもみほごす。しまいにはそこをひき千切ってしまって、そして、ペッペッと煙草の葉を吐き出す。すると、もうそれを吸うのがいやになったらしく、やに色に焦げた指先で新しい煙草を取り出して火を吸い移している。話しっ振りの飄々たるに似合わぬ、なにか苛々とした焦燥がその吸い方に現われていたのである。なお注意して見ると、土門は話しながら、しきりに煙草の箱を千切っているのだ。瞬く間にテーブルの上が紙屑で一杯になってしまうのだった。千切るのは煙草の箱だけではない。マッチ、メニュー、――手当り次第だった。
 話しっ振りも動作もどちらも行儀がわるいと言ってしまえば、いちばん分り易かったが、しかし、豹一はなぜかその土門の苛々した態度になんとなく奇異なものを感じたのだった。
 土門はなおも喋り続けた。しかし、どうやら勤務時間をサボっての閑あかしらしい土門の気焔をここに写すのは、これぐらいに止めて置こう。どうせ土門と豹一はその夜また会うことになっているのだ。
「どや、今晩つきあわんかね?」土門にすすめられて、豹一は断り切れなかったのである。
「債権者の方から逃げる手はないぞ!」一応断ると、土門はそう言った。豹一は土門のような男には尻込みしたさまを見せたくないと思った。たとえ地獄へ一緒に行こうというのであっても……。また、土門が天国へ行こうという筈もないわけだ。それだからこそ、一層尻込みしたくなかったのである。

      五

 その日、夕方の六時に豹一は弥生座の前で土門と落ち合うことになっていた。
 豹一は約束の時間より少し早目に弥生座の前に立っていた。冬の日は大急ぎで暮れて行った。六時を過ぎても土門は姿を見せなかった。しょんぼり佇んで千日前の雑閙に注意深く眼を配っていると、なにか新社員のみじめさといったものが寒々と来た。道頓堀の赤玉のムーラン・ルージュが漸くまわり出して、あたりの空を赤く染めた。待たされている所在なさに、ぼんやり赤い空を仰いでいると、いきなり若い女の体臭が鼻をかすめた。レヴュガールが三人、ぽかんと突っ立っている豹一の前を通り過ぎたのだった。弥生座へはいって行くその後姿を見て、豹一はふとそのなかの一人が靴下も穿かぬ足を寒そうに赤くしているのに、心を惹かれた。
 土門はなかなか現れなかった。豹一にとっては気の毒な話だが、土門は約束の時間を守らないことで定評があった。遅れて来ることもあれば、むやみに早く来ることもある。早く来た時は、相手の来ぬ間にしびれを切らして帰ってしまうので、結局来ないのと同じ結果になるのだった。今日は遅れて来るつもり――いや、土門に「つもり」などがあろうか、ともあれ遅れて来るらしい。当分豹一は待たねばならない。
 土門が来るまでに、大急ぎで土門に就いて述べて置こう。
 土門は自分では五十歳だといいふらしているが、本当は三十六歳である。しかし、如何にも三十六歳らしい顔をしている土門の印象を捉えることは容易ではない。つまり非常に老けて見えたり若く見えたりするのだ。土門は自分自身の印象を変えるために、随分苦心していると、思われる節がある。たとえば豹一が見たのは頭髪をむやみに伸ばして眼鏡を掛けたところだったが、一月経てば、丸坊主になり、眼鏡を外してしまっていないとは保証出来ないのである。夏にスキー帽を被って、劇場へ現われたりする。毎年一回昇給するその翌日は、必ず洋服を着変えて出社し、「おかげをもちまして質受け出来ました」と真夏にわざと冬服である。そして、そういった尻から同僚に金を借りている。
「月給があがったんだろう! 貸し給え」
 以前はそういうことはなかった。むだな冗談口ひとつ敲くようなことはなかったのだ。無口だが、しかしたとえば編輯会議などでは、糞真面目な議論をやったものである。観念的だとか弁証法的だとか、妥協を知らぬ過激な議論をやっていたものである。なんでも学生時代からある社会運動に加っていたとかいうことで、そういえばたしかにそんな理窟っぽい口吻があった。
 ところが、急に変りだしたのである。実にふざけた男になってしまったのだ。ある日、退社時刻の六時が来ると、いきなり眼覚し時計が鳴り出した。驚き、かつ笑いながら社員たちが音のする方を見ると、土門は悠々と自分の机の上にある眼覚し時計の音を停め、さっさと帰ってしまった。――その日から、土門は変ったと見られた。
 まず第一に、土門は社に不平があるのだろうと噂された。退社時刻に眼覚し時計を鳴らすのは、何かのあてこすりだろうということになったのだ。丁度、土門の後輩が部長に昇進して、創立以来の古参の土門には気の毒なことだともっぱら同情されていた矢先だったから、この観察も無理はなかった。その頃土門はしきりに、「俺は五十歳だ。もはや老朽だ」といいふらしていた。五十歳だとすると、つまり土門は二十年間東洋新報に勤めている勘定になるのだが、じつは東洋新報は創立以来まだ十年にしかならぬ。してみると、土門は五十歳だといいふらすことで、わざと自分の古参を自嘲しているというわけになる。いわばやぶれかぶれの五十歳なのだと、穿った観察をする者もいた。もっとひどいのになると、土門がかつていつの編輯会議にも、所謂進歩的な意見を吐いていたのは、部長になりたいばっかりの自己主張であったというのだ。しかし、それは少し酷だ。部長になり損ねたために人間が変ってしまったとは、余りに浅薄な見方ではなかろうか。が、それならば土門の変った原因はなんであるか――他人にはむろん土門自身にもはっきりわからなかった。
 とにかく土門は変ったのである。入社当時の所謂過激な議論はとっくに収っていたものの、たとえば「人間の幸福は社会の進歩にある」とか、「文化が進むことによってわれわれは幸福になれるのだ」ぐらいのことはいっていた。ところが、それすらも言わなくなったどころか、「猿に毛が三本増えたって猿が幸福になれるもんか。そのでんで文化が進歩したって、人間が幸福になれると思うのは、大間違いだ」かつての自分の意見を否定し、おまけにその口調がふざけたものになってしまった、「文化人になりたいか? よし、五十銭出せ! 文化人にしてやる!」若い記者がしきりに映画論をやっているのを見ると、必ずそんな意味のいやがらせを言った。
 土門は社会面の特種以外に映画批評も担当していたが、「キングコング」のような荒唐無稽な映画だけを褒めた。なお、飛行機や機関銃の出て来ない映画は、土門の批評によればつまらないというのだった。日本の映画では大都映画をしきりに褒めていた。レヴューが好きで、弥生座のピエロ・ガールスのファンだった。今日土門が豹一と弥生座の前で会うことにしたのも、じつはピエロ・ガールスを見るためであった。
 七時過ぎになってやっと土門はひょろ長い姿を見せた。
「さあ、はいろう、はいろう」待たして済まなかったとも言わず、さっさと弥生座のなかへはいって行った。豹一は切符をどうするのかとちょっと迷ったが、そのまま土門のあとに随いてはいった。「お切符は……?」豹一は入口でそうきかれた。赧くなった。
「金を取る気か! 取るなら、取れ! 但し、子供は半額だろう?」土門は済ました顔で、入口の女の子にそう言った。
「ああ、お連れさんですか?」女の子は豹一が土門の連れだとわかると、「お二階さん御案内!」と、わざと大きな声で言った。
「いや。階下で結構です。階下の方がなんとなくよく見えますからね」
 土門はそう言って、黒い幕のなかへはいった。舞台では「浪人長屋」という時代物の喜劇がはじまっていた。
 土門は豹一と並んで席に就くと「ぴんちゃん!」と呶鳴った。すると、おそろしく長い顔をした浪人者が、舞台の上からきょろきょろ客席の方を見廻した。そして、土門の顔を見つけると、いきなり頭に手をあてて、あっという間に鬘を取ってしまった。観衆はどっと笑った。浪人者は済ました顔で鬘を被り、芝居を続けた。
「あれは中井ぴんというんだ。顔が長いだろう? だから、長井ぴんとよぶ奴もある。僕の親友です」土門は豹一にそう説明した。そして、また呶鳴った。「森ぼん!」
 ひどくしょんぼりした顔の小柄な浪人者が、横眼で土門の方を見て、ウインクした。豹一が土門の横顔を見ると、土門は生真面目な顔をしていた。
「親友です」
 バンドがタンゴの曲を伴奏すると、中井一と森凡はのろのろと立ち廻りをはじめた。急に笑い声がおこったので、なにがおかしいのかと、気をつけてみると、彼等浪人者は立ち廻りしながらタンゴのステップを踏んでいた。「もはや、これまで! さらばじゃ!」中井一はすたこらと逃げ去ってしまった。倒れていた森凡はのっそり立ち上ると、「後を慕いて!」言いながら、着物の裾をからげた。赤い腰巻が見えた。「これは失礼」森凡は裾を下した。途端に幕が降りた。
 豹一はわれを忘れてげらげらと笑った。腹が痛くなるほどだった。ふと土門の顔を横眼で見ると、土門は案外つまらなそうな顔をしていた。豹一はすかされたような気になった。(面白くないのだろうか?)しかし、根っからの大阪人である土門に、以前なら知らず、この喜劇の底抜けの面白さがわからぬという筈はなかった。が、じつは土門はこの幕をもうかれこれ十日間も打っ続けに見ているのである。否応なしに見せられているのである。土門の目的は次の幕のレヴューにあった。
 やがてレヴュー「銀座の柳」の幕があいた。土門はわざと腕組みなどしていたがなにかそわそわと落ちつかなかった。
「後列右から二番目の娘に惚れるなよ」土門は豹一に囁いた。
 豹一は何気なく後列の右から二番目の踊子を見た。途端にどきんとした。足に見覚えがある。
 先刻弥生座の前で土門を待っていた時、鮮かな印象を風のなかに残してさっと通り過ぎた少女にちがいはない。顔はしかと見覚えなかったが、痛々しいほど細いその足が心に残っていた。その時三人いたのだが、その少女だけ靴下を穿かず、むき出した足が寒そうに赤かった。
「なんという子ですか?」豹一は思わず訊いた。土門は答えた。
「東銀子」
 ずんぐりと太い足にまじっているために、なよなよしたその細い足は一層目立っていた。病身の少年のように薄い胸だった。削りとったような輪郭の顔に、頬紅が不自然な円みをつけていた。耳の肉が透いて見えそうだった。睫毛の長い眼が印象的だった。
 にこりともせずに、固い表情で踊っていた。つんとした感じを僅かに救っているのは、おちょぼ口をした可愛い唇であった。済まし込んで踊っているのだと、見れば見られたが、豹一はふっと泣きたそうな表情を銀子の顔に見たように思った。きびしい甘さに心を揺すぶられる想いで、豹一は銀子の顔から眼を離すのが容易でなかった。
 ふと傍の土門をうかがうと、土門はなにか狼狽したありさまを見せていた。「おかしい。どうもおかしい!」唸るように土門は言った。顎のあたりが蒼くなっていた。土門はそわそわと東銀子の顔を見ていたが、やがて、なに思ったか、
「帰ろう」と、言い、いきなり席を立って、出口の方へさっさと歩いて行った。豹一は後を追った。
 土門は出口のところで、立ち止った。そして振りかえって、舞台をちらと見た。土門の口から溜息のような声が出た。「あかん!」そして豹一の手を引っ張って、弥生座を出た。

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