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徳川氏時代の平民的理想(とくがわしじだいのへいみんてきりそう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-31 10:58:16  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1974(昭和44)年6月5日
入力に使用: 1985(昭和60)年11月10日初版第15刷
校正に使用: 1977(昭和52)年4月20日初版第7刷

 


     (第一)

 焉馬、三馬、源内、一九等の著書を読む時に、われは必らず彼等のうちに潜める一種の平民的虚無思想のいとに触るゝ思あり。就中なかんづく一九の著書「膝栗毛ひざくりげ」に対してしかく感ずるなり。戯文戯墨の毒弊は世俗の衆盲を顛堕せしのみかは、作者自身等をも顛堕し去んぬ。しかれども其罪は之を独り作者に帰すべきにあらず。当時の時代、あに作者の筆頭を借りて、其陋醜ろうしうを遺存せしものにあらずとせんや。
 徳川氏の封建制度は世界に於て完全なるものゝ一と称せらる、然れども武門の栄華は平民に取りて幸福を剥脱はくだつする秋霜なり、盆水一方に高ければ、他方に低からざるを得ず、権力の積畳せきでふせし武門におのづからなる腐爛生じ、しかして平民社界もた敗壊し終れり、一方は盛栄の余にすたれ、他方は失望の極に陥落せしなり、自然の結果ほど恐るべきものはあらじ。
 道徳の府なる儒学も、平民の門をたゝくことは稀なりし、高等民種のうちにすら局促たる繩墨じようぼく覊絆きはんを脱するに足るべき活気ある儒学に入ることを許さゞりしなり。精神的修養の道、一として平民をあがむるに適するものあらず、たま/\、俳道の普及は以て彼等を死地に救済せんとしけるも、彼等は自ら其粋美を蹴棄したり。
 禅味飄逸へういつなる仏教は屈曲して彼等の内に入れり。彼等は神道家の如くに皇室を敬崇することを得ず、孔教を奉じて徳性を育助することもあたはず、ればとて幽玄なる仏界の菩薩に近づく事も、彼等の為し得るところにあらず、悲しいかな仏教のうちにも卑近なる教派のみ彼等の友となり、迷信は彼等を禁籠する囚宰しうさいとなり、弱志弱意は彼等を枯死せしむる荒野あれのとなり、彼等をして人間の霊性を放擲はうてきして、みづから甘んじて眼前の権勢に屈従せしむるに至りぬ。
 自由は人間天賦の霊性の一なり。極めて自然なる願欲の一なり。然るに彼等は呱々こゝの声のうちより既にこの霊性をうしなへるを自識せざる可らざる運命に抱かれてありたり、自然なる願欲は抑へて、不自然なる屈従を学ばざる可らざるタイムの籠に投げられてありたり。人誰れか全くタイムの籠に控縛こうばくせらるゝを心地よしとするものあらむ、人誰れか天賦の霊性を自殺せしむべき運命を幸福なりとするものあらん。沙翁、人間に斯般しはんの一種の煩悶はんもんの抜く可からざるものあるを見て、通解してへらく、

For who would bear the whips and scorns of time,
The oppressor's wrong, the proud man's contumely, etc.

 まことに人間は自由を享有すべき者なるよ。今日までの歴史を細閲すれば、自由を買はんとて流せし血のあたひと煩悶せし苦痛の量とはいかばかりぞや。

And thus the native hue of resolution
Is sicklied o'er with the pale cast of thought ; etc.

 徳川氏末世の平民、実にこの煩悶をたもつこと少なからざりしなり、この煩悶の苦痛にへがたかりしなり、こゝに於てか権勢家の剛愎がうふくにして暴慢なる制抑を離れて、別に一種の思想境を造り、以て自らほしいまゝにするところなきを得ず。この思想境は余が所謂いはゆる一種の平民的虚無思想の聚成しゆうせいしたるところなり。而して十返舎一流の戯墨は実に、この種の思想境より外に鳴り出でたる平民者流の自然の声にあらずして何ぞや。
 民友子さきつ頃「俗間の歌謡」と題する一文を作りて、平民社界に行はるゝ音楽の調子の低くしてけんなるを説きぬ。民友子は時勢を洞察して、歎慨の余りに此語を吐けり、われは日本の文学史に対してこの一種の虚無思想の領地の広きを見て、痛惻にへざるなり、彼等は高妙なる趣致ある道徳を其門にこばみ、韻調の整厳なる管絃を謝して容れず、卑野なる楽詞をて飲宴の興を補ひ、放縦なる諧謔かいぎやくを以て人生を醜殺す。三絃の流行は彼等のうちあかしをなせり、義太夫常磐津ときはづより以下短歌はうた長歌ながうたこと/″\く立ちて之れが見証者たるなるべし。われは彼等の無政府主義なりしや極端なる共和主義なりしや否やを知らず、然れども政治上に於て無政府主義ならずとも、共和主義ならずとも、思想上に於ては彼等は純然たる虚無思想を胎生したりしことを疑はず、あはれむべし人生の霊存スピリチユアル・エキジスタンスを頭より尾まで茶にしてかゝりたる十返舎も、一個の傲骨がうこつ男児なりしにあらずや、青山をいだいて自由の気を賦せしシルレルと、わが好傲骨かうがうこつ男子と、其揺籠の中にありし時の距離いくばくぞや。
 女学子は時勢に激するところありて「膝栗毛」の版をかんといへり。われは女学子の社界改良の熱情に一方ならぬ同情をたもつものなり。然れどもわれはむしろ十返舎の為になかざるを得ざる悲痛あり、彼の如き豪逸なる資性を以て、彼の如きゼヌインのウイットを以て、而して彼の如くに無無無陋巷ろうかうに迷ひ、無無無の奇語を吐き、無無無の文字をろうして、遂に無無無の代表者となつて終らしめたるもの、そもそも時代の罪にあらずして何ぞや。

(本論は次号にうつりて、我が畏敬する天知子と愛山生の両兄によりて評論界を騒がしたる「遊侠」の問題に入り、更に「粋」といふ題目に進みて卑見を吐露すべし。)

 

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