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天草四郎の妖術(あまくさしろうのようじゅつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 6:12:31  点击:  切换到繁體中文

 

春の弥生の暁に
四方の山辺を見渡せば
花盛りかも白雲の
かからぬ峰こそなかりけり

 繰り返えし繰り返えし三遍まで娘は唄って舞い澄ます。
 と見ると老人は眠っています。ゴロリと草の上に横になり軽い鼾さえ立てています。
「おや、お爺さんは寝入っているよ」
 娘は急に舞を止め手を叩いて笑い出しました。
「こんな事はめったに無い。出した物をうっちゃって置いて寝入って了うなんて迂濶でしょう」
 娘は面白そうに叫んだものです。

     四

「ちょいとちょいと可愛らしい坊ちゃん」
 斯う云い乍ら急に娘は四郎の側へ参りましたが如何にも早熟ませた物腰で四郎の手を堅く握りました。
わたしね、貴郎を待っていましたのよ。ずっとずっと昔からね。遂々逢えたのね、嬉いわ。……貴郎増田四郎さんでしょう。妾の名を聞かせてあげましょうか。妾ずっとずっとの大昔猶太ユダヤという遠い国の熱い沙漠にいた頃は聖母マリアと云われていましたの。そうして今も聖母マリアよ。でもね、日本の人達は妾を大変虐めますのよ。だから迂濶々々歩けないの隠れていなけりゃならないの。……だから貴郎にお願いします。妾を自由にして下さい。隠れ場所から出して下さい」
「だって何処に隠れているの?」――四郎は不思議そうに尋ねました。
「それはね、人の胸の中に」
「マリアお姫さん。斯ういう名ね?」
「ええ、そうよ。そういう名よ。〈神の子エス・キリストの母〉斯う云ってもよいのですよ」
「大変長い名なんですね」
「愛。――斯う云ってもよいのですよ。〈人々よ互に愛し合えよ〉妾は日本の人達に斯ういう教えを説いているのですからね」
「そのお爺さんは何う云う人?」
「森宗意軒て云う人です。大変偉い人なのです。そうして妾達親子の者――エス・キリストとマリアとを大変信仰しているのですよ」
「その人、魔法を使うんですね」
「あれは切支丹伴天連の法よ」
「ああいう事って見たいなあ」
「ええええ貴郎にも出来ますとも。もっと不思議なことが出来ますよ。貴郎の美しさは神のようです。その貴郎の美しさは選ばれた人の美しさです。妾はどんなに貴郎のような美しい人を待っていたでしょう。妾は貴郎の美貌を使って妾達の持っている宗教を世間に拡めなければなりません」
 斯う云い乍ら其娘は懐中から十字架を取り出しましたが夫れを四郎の首へ掛けました。
 と其瞬間から四郎の人物はガラリ一変致しまして近代科学で説明しますれば所謂性格転換とでも云おうか、怜悧聰明並ぶもの無い麒麟児となったのでございます。が併し夫れは後で説くとして、此時眠っていた老人が――即ち森宗意軒が眠りから醒めて起き上がりましたが、
「ややこれは迂濶千万。出し放しとは気がつかなかった」斯う云い乍ら酔眼を拭り、皿や火鉢を取り上るとポンポン口の中へ抛り込みましたが、最後に娘を引き寄せると膝の上へ抱き上げました。と其体が小さくなる。夫れを口中へ抛り込む。そうして其儘行きかけましたが、何気無く四郎を認めますとハッとばかりに大地へ坐り両手を土へ突きました。
「天童降来。天童降来。ははッ、お目見得を仰せつかり忝けのう存じます[#「忝けのう存じます」は底本では「恭けのう存じます」]」斯う云って平伏したのです。
 すると、四郎は其瞬間から、自分を天より遣わされたる天使であると思い込みました。
「おお其方は森宗意軒か」言葉迄も全然変り「私は宗旨を拡めるため天から遣わされた童児であるぞ」
「尊い尊い天の童児様! 尊い尊い天の童児様!」
「見ろ、私は義軍を起こし、キリストとマリアとを守るであろう!」
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」宗意軒は斯う云って十字を切りました。
「……われは命のパンなり。われに来たる者は飢えず。我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん。……」突然四郎は立ち上がり斯う威厳を以て叫びましたが、是は聖書の文句なのです。しかし四郎は白痴でした。曾て其様な聖書などを読んだことなどは無い筈です。
 と、四郎は手を上げて、
「月よ、血の如く赤くなれよ! そのキリストの血に依って!」こう大声で呼びました。忽然、今まで澄んでいた橙色の春の月が、血色に変ったではありませんか。第一の奇蹟の成功です。
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」
 と、其間も森宗意軒は讃美の声を絶とうとはせず、繰返えし繰返えし唱えるのでした。
 それは誠に神秘壮厳の一幅の絵画と云うべきでした。黒い森。赤い月。仙人のような白髪の翁。そうして総る人界の美を一身に集めた稀有の美童。……ハライソという神寂びた声!
 夜はもう半ばを過ぎてしまった。

     五

 斯ういうことがあってから、天草、島原、長崎などで、「天童降来、教義布衍」こういう言葉が流行し圧迫され又虐げられていた切支丹宗徒に力を付けましたが、翌、寛永十四年に果然世に云う天草一揆が先ず天草に勃発し次いで島原の原ノ城に籠もり幕府に抗するようになりました。
 男女合わせて三万余人が籠城したのでございます。
 大将は即ち天草時貞。四郎のことでございまして、主立った部将の面々は、森宗意軒、葦塚忠右衛門、同じく忠太夫、同じく左内、増田甚兵衛、同じく玄札、大矢野作左衛門、赤星宗伴、千々輪五郎左衛門、駒木根八兵衛。
 寄手、主立った大名は、板倉内膳正を初めとし、有馬、鍋島、立花、寺沢、後には知恵伊豆と謳われた松平伊豆守が総帥として江戸からわざわざ下向した程で総勢合わせて十万と称され、城を囲むこと一年になっても尚陥落そうにも見えませんでした。
 それは三万の信徒達が四郎を天童と思い込み天帝の擁護ある限り最後に勝つと信じているからです。
 で、宗徒軍の強さ加減は例えるに物の無い有様でした。然に不思議の事には、それほど難攻不落であった其原ノ城が翌年の正月他愛も無く陥落たではありませんか。それは次の様な理由からです。

 或夜、珍らしく従者も連れず、天草四郎時貞は城内を見廻わって居りました。宿直とのいの室の前まで来ますと、「四郎が。……四郎が」と無礼にも呼び捨てにしているものがあるので不思議に思って立ち止まり板戸の隙から覗いて見ますと、森宗意軒と葦塚忠右衛門とが、くつろいだ様子で話しています。四郎四郎と云っているのは宗意軒でありました。
「四郎め、すっかり天童気取りで、悠々寛々と構えているので、城中の兵ども安心して、かく防戦するでは無いか。迷信の力ほど恐ろしいものは無い」
「三月何うかと案じていたのに、一年の余も持ち堪えているとは、農民兵とて馬鹿にならぬ。天童降来して宗徒を護ると斯う信じ切って居ればこそ、望みの無い戦にも勇気を落とさず健気に防戦するであろうぞ」
「それも皆四郎のおかげじゃ」
「いやいやお前の才覚のためじゃ。あの白痴の四郎めをお前の手品でたぶらかし、天帝の子と思い込ませたのが、今日の成功をもたらせたのじゃよ」
「いや、あの時は面白かった」宗意軒は浩然と笑いました。「要するに俺の催眠術で彼奴の精神を眠らせて了い、いろいろ様々の形を見せ、彼奴をして天童じゃと思わせた迄さ。予想外に夫れが利いて、四郎め天童に成り済ましたのじゃからの。計画図にあたりと云うものさ」
「老後の思い出天下を相手に斯ういう芝居が打てたかと思うと、全く悪い気持はしないの」
「お互、小西の残党なのだが、憎い徳川を向うに廻わし是だけ苦しめたら本望じゃ」
「江戸で家光め地団太踏んでいようぞ」
「長生きするとよいものじゃ。いろいろのことが見られるからの」
「が、此度が打ち止めであろうぞ。後詰めする味方があるではなし」
「豊臣恩顧の大名共、屈起するかと思ったが是だけはちと当てが外れた」
「そうは問屋が卸ろさぬものじゃ。もう是迄に卸ろし過ぎている。ワッハッハッ」
「ワッハッハッ」
「ああ夫れでは此私は天の使いではなかったのか」
 二人の話を立聞きしていた四郎時貞は余りの意外に仰天しましたが、次に来たものは絶望でした。
 その絶望が劇しかったためか、転換した彼の性格が忽然旧に復して了い、一個白痴の美少年増田四郎となって了ったのは止むを得ない運命と云うべきでしょう。翌日、彼は止るを聞かず、緋威ひおどしの鎧に引立て烏帽子、胸に黄金の十字架をかけ、わざと目立つ白馬に乗り、敵の軍勢へ駈け入りましたが、身に三本の矢を負って城中へ取って返した頃には既に虫の息でありました。城中悉く色を失い、寂然と声を飲んだ其折柄、窓を通して射し込んで来たのは落ち行く太陽の余光でした。
 その華かにも物寂しい焔のような夕陽を浴びて四郎は静かに寝ていましたが、
「われ渇く」と呟きました。
 すぐに葡萄酒が注がれました。
「事畢りぬ」と軈て云った時には首を垂れて居りました。魂が天に帰ったのでした。白痴にして英雄児摩訶不可思議の時代の子は斯うして永久世を去ったのでした。臨終に云った二つの言葉は、エス・キリストが十字架の上で矢張り臨終に叫んだ言葉と全く同じだったのでございます。
 主将と信仰とを同時に失った原ノ城の宗徒軍が一度に志気を沮喪させたのは寧ろ当然と云うべきでしょう。翌日城は陥落ました。老弱男女三万人、一人残らず死んだのは惨鼻の極と云うべきか壮烈の限りと云うべきか、世界的有名な宗教戦は四郎の運命と終始して、起り且つ亡びたのでございます。





底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年1月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
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