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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:29:12  点击:  切换到繁體中文

底本: 昭和文学全集 第4巻
出版社: 小学館
初版発行日: 1989(平成元)年4月1日
入力に使用: 1989(平成元)年4月1日初版第1刷
校正に使用: 1989(平成元)年4月1日初版第1刷


底本の親本: 露伴全集 第十六巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1978(昭和53)年

 

大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊のくちばしといえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村にんで居た一夜庵いちやあんの宗鑑のはだえして、そして宗鑑におこりをわずらわせ、それより近衛このえ公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔かぎゃくを発せしめ、しがたって宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧はいかい連歌れんがの歴史の巻首を飾らせるに及んだ。はえといえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅せいようは肉汁を好んでおぼれ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々いまいましいことはそうの欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字をすに至らしめ、其のえば逃げ、逃げてはまた集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵になぞらえて、流石さすがの伊達政宗をしてこうべして兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡りょうけんを定めしめた。微物凡物も亦かくの如くである。本より微物凡物をかろんずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。のみのような男、しらみのような女が、何様どう致した、彼様こうつかまつった、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、もっとも千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎あまろうばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子ししや虎のようなもの、鰐魚わに鯱鉾しゃちほこのようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人わいじんや普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者ですぐれた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行はやる流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめでまりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰牢固ろうこの代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなってたぎりきった湯のような代もある、黴菌ばいきんのうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様どんなものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯かんれんして、天正十八年、陸奥むつ出羽でわの鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷がもううじさとを中心とする。
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家ととらわれてしまうのもうるさい。考証家、穿鑿せんさく家、古文書いじり、紙魚しみの化物と続西遊記にののしられているような然様そういう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直こねなおして、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気せんき筋に引張りまわして変な牽糸傀儡あやつりにんぎょうを働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八まんぱちを無遠慮に加えず、斯様こうも有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇うちわふるって放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤ちからこぶを出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁ほるいを造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服なりをさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、ひどい目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕とうこんを談ずるようならちも無いことで、何も彼も滅茶めちゃ滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱のちまたとなった。当時の武士、喧嘩けんか商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬をき鷹をひじにして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落しゃれた遊技を知っているほど怜悧れいりでも無い奴は、他に智慧が無いから博奕ばくちを打ってひまつぶす。いくさということが元来博奕的のものだからたまらないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行はやる。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者はける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きてもめられない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々いよいよ負けてまた取られて終うと、ついには賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一勝負したいと、それでは乃公おれは土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕ぶんどりして渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有けうでは無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無くが地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。斯様こういう民衆の態度や料簡方りょうけんかたは、今では一寸想像されぬが、中々手強てごわいものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに葛西かさい大崎の地に一揆いっきが起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之をたすけて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々しゅくじゅくの農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒しゅんきょした。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守ろうしゅしている。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩もあだもある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗ひょうとう的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、こと足利あしかが氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽れきじんさせられている。ひとり明智光秀が小栗栖おぐるす長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又手苛てひどい領主や敵将に出遇であった日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられてしまう。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜へちまも有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直こうのもろなおに取っては臣下の妻妾さいしょうは皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様そういうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶めちゃくちゃなことの好きなものには実に好い世であった。
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐だいごの醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆ゆうひつに、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、たとえば乱れあかづいた髪を歯のあらい丈夫なくしでゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くってもかまうものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆たいはいの下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯にしたがって解けなければ引ッコ抜かれるか※(「てへん+止」、第3水準1-84-71)ひっちぎられるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家をけた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠をえて大森に向い、相馬弾正大弼だんじょうたいひつと畠山右京亮義継うきょうのすけしつぐ、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒せんぽうになろうと父に請うた位に気嵩きがささかしかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読たんどくしたり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様どうであろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻していつ返しつして、次第次第に斬勝きりかって、既に西は越後境、東は三春、北は出羽にまたがり、南は白川を越して、下野しもつけの那須、上野こうつけの館林までも※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)いえんは達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。ことに去年蘆名義広との大合戦に、流石さすがの義広を斬靡きりなびけて常陸ひたちに逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津あいづを乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々いよいよ南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等がおおいに城を築き塁を設けて、根を深くしへたを固くしようという議を立てたところ、流石は後に太閤たいこう秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんなしらみッたかりの魂魄たましいとは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、馬烟うまげむりときの声、金鼓きんこの乱調子、焔硝えんしょうの香、鉄と火の世の中に生れて来たすぐれた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々としてむに已まれぬ※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)もうえんを噴き出し白光を迸発ほうはつさせているのだ。言うまでも無くが光を以て天下をおおおう、天下をして吾が光を仰がせよう、といきり立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙へんぴ欝々うつうつとして蟠居ばんきょしようや、時を得、機に乗じて、奥州駒おうしゅうごまひづめの下に天下を蹂躙じゅうりんしてくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思いの夢魂七三しちさんにへばりつくのとはちと違って居た。
 諸老臣の深根固蔕こたいの議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところが此の火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より滾転こんてん殺到して来た。命に従わずちょうかろんずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊うかつに取片付けられる者では無かった。其他は碌々ろくろくの輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りて居たが、北条氏は兎に角八州に手が延びて居たので、ムザとは圧倒され無かった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金を沢山持って武者修行、悪く云えば漂浪して来た伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せては段々と自分の処へ出入するさむらいどもを手なずけてついに伊豆相模に根を下し、それから次第に膨脹ぼうちょうしたのである。此の早雲という老夫おやじも中々食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が檐端のきばかや引抽ひきぬいて焚付たきつけにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、すさまじい聡明そうめいな先生だった。が、金貸をしたというのはけだし虚事ではなかろう。地生じおいの者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。うそ八百万両も貸付けたら小人島こびとじまの政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に焚付たきつけを作ることまで知った長氏に起って、生の麦をすぐに炊けるものだと思っていた氏政に至って、もうみゃくはあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打たちうちが出来るものでは無い。関白が度々上洛じょうらくを勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張からいばりで、弓矢でこいなぞと云ったからたまらない。待ってましたとばかりに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田さなだを山道より先鋒せんぽうとして、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、上総かずさ下総しもうさ安房あわの諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰もみつぶさせて、小田原へ取り詰めた。
 最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤せんしょうなどを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北条氏はろくに踏出しても居ず、まるで様子が違っている。勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えていた。然し北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも無理は無い。又政宗も朝命を笠にて秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨も何も無い北条攻めに参会せよというのには面白い感情を持とう筈は無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てて降伏的態度に出る必要は無いし、かつ北条が敵し得ぬにしても長く堪え得るようならば、火事は然程さほどに早くひさしへ来るものでは無い、と考えて、狡黠こうかつには相違無いが、他人交際づきあいの間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二心抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促にもかしこまり候とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた。一ツは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされて居たかどもあろうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無く降伏の形を取るのを忌々いまいましくも思ったろう。
 然し政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった。少くも己を知り又彼を知ることに注意をって居た。秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と徳川氏との長湫ながくて一戦後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才無い家康は勿論それより前に使を政宗に遣わして修好して居る。家康は海道一の弓取として英名伝播して居り、且秀吉よりは其位置が政宗に近かったから、政宗もおよそ其様子合を合点して居たことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居る。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方から先手を打って、政宗を引付けようというにあったこと勿論である。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時がせまって来た。其年の九月には家康から使が来、又十二月には玄越というものを遣わして、関白の命をこうむって仙道の諸将との争を和睦わぼくさせようと存じたが、承れば今度和議が成就した由、今後また合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉ちしつされているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意をすいすれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すをよろこばざること分明であることが、政宗の※中きょうちゅう[#「匈/月」、1015-上-9]に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広をへこませ、とうとう会津を取ってしまったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近将監しょうげんや施薬院玄以に書を与えて、何様どんなものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名はねてより通聘つうへいして居るのに、貴下が勝手に之をい落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云ってよこした。もう此時は秀吉は小田原の北条をほふって、所謂いわゆる「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽をやいばに血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐のみぎりは兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院りょうがくいんという者を京都へ遣った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書をもたらさしめ、守屋守柏しゅはく小関おぜき大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心勃々ぼつぼつで、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡きりなびけようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々いよいよ北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬のひづめの音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成瓢箪せんなりびょうたんに又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏三鱗みつうろこの旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手ゆんでに取り絞って、ギロリと南の方を睥睨へいげいした。
 たぎり立った世のさむらいに取ってずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。其中先ず第一は「聞怯ききおじ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた何某なにがしが向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に辟易へきえきして闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡りょうけんが傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛鷙悍しかんの威勢を望み見て、こいつはかなわないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である。「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しはじょすべきものである。「不鍛煉ふたんれん」は「不覚」が、心掛のたぎり足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。聞怯ききお[#ルビの「ききお」は底本では「ききおじ」]、見崩れする奴ほど人間のくずは無いが、さて大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸ドイツのホラアフク博士が地球と彗星すいせいが衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭するたぐいは、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、斯様こういう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出してしまった。あの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭声べんせい粛々夜河を渡ったの猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るようにどっと斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、流石さすがは信玄勢のウムとこらえたところは豪快淋漓りんりで、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度の明らかにさわやかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力をって居たので、彼の南部の九戸くのへ政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が然様そう手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸ぼんてんまるの幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して物羞ものはじをするような児で、野面のづら大風おおふうな児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端うちばで人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、かえって早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には屹度きっと成って居たに疑無い立派な人物だが、其烱眼けいがんは早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子わこ様である、と云ったという。二本松義継の為ににわかに父の輝宗がさらい去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺されたが義継をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象うぞうむぞう等の信書や言語が何を云って来たからと云って、とりの羽音、あぶの羽音だ。そんな事に動く根性骨では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである。自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積ってから何様どうとも決めようという料簡だ、向背の決着に遅々としたとて仕方は無いのだ。
 そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共を沢山に派出したことは猜知すいちせられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜は何程でも有ったろうというものだ。で、関白は愈々いよいよ小田原攻にかかり、事態は日にせまって来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰って来た。

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