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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:29:12  点击:  切换到繁體中文


 さて話は前へ戻る。かくの如き忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取って居たか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石もしくは十八万石であったというから、其後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少しそれ以上ぐらいで有ったろう。然るに小田原陣の手柄が有って後に会津にめらるるに就ては、大沼、河沼、稲川、耶摩やま猪苗代いなわしろ、南の山以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河、石川、岩瀬、安積あさか、安達、二本松以上六郡、都合十二郡一庄で、四十二万石に封ぜられたのだ。十八万石程から一足飛に四十二万石の大封を賜わったのだから、たとい大役を引受けさせられたとは云え、奥州出羽の押えという名誉を背負い、目覚ましい加禄かろくを得たので、家臣連のよろこんだろうことは察するに余りある。これは八月十七日の事と云われている。
 丁度仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷は独り書院の柱にって物を思って居た。天は高く晴れ渡って碧落へきらくに雲無く、露けき庭の面の樹も草もしっとりとして、おもむきの有る夜の静かさに虫の声々すずしく、水にも石にも月の光りが清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐も動く可き折柄の光景だった。北越の猛将上杉謙信が「数行過雁月三更」と能登の国を切従えた時吟じたのも、霜は陣営に満ちて秋気清き丁度斯様こういう夜であった。三国の代の英雄の曹孟徳が、百万の大軍を率いて呉の国を呑滅どんめつしようとしつつ、「月明らかに星まれにして、烏鵲うじゃくみんなみに飛ぶ」とさくを馬上に横たえて詩を賦したのも丁度斯様いう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本無双ぶそうの大国たる出羽奥州、藤原の秀衡や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然と黙々として居る。侍座して居たのは山崎家勝というものだった。如何に深沈な人とは云え、かかる芽出度き折に当って何か考えに沈んで居る主人の様子を、いぶかしく思ってひそかに注意した。すると是は又何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝は直ちに看て取ってあやしんだ。が、たちまちにして思った、是は感喜の涙であろうと。かにこうらに似せて穴を掘る。仕方の無いもので、九尺梯子くしゃくばしごは九尺しか届かぬ、自分の料簡りょうけんが其辺だから家勝には其辺だけしか考えられなかった。然しそれにしては何様どうも様子が腑に落ち兼ねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君には御落涙遊ばされたと見受け奉ってござるが、殿下の取分けての御懇命、会津四十二万石の大禄をかずけられたまいし御感ぎょかんの御涙にばし御座おわすか、と聞いて見た。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷は一寸嘆息して、ア、其様なことに思われたか、我はずかしい、と云ったが、一段と声を落して殆んど独語のように、然様そうでは無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折には如何ようなる働きをも為し得て、旗を天下に吹靡ふきなびかすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川遥に隔たりて、王城を霞の日に出でても秋の風にたもとを吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の辺鄙ひなに在りては、日頃の本望も遂げむことは難く、我がやりも太刀も草叢くさむらに埋もるるばかり、それが無念さの不覚そぞろの涙じゃ、今日より後は奥羽の押え、贈太政大臣信長の婿たる此の忠三郎がよし無き田舎武士いなかざむらい我武者がむしゃ共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命はめに立至ったが忌々いまいましい、と胸中のうつをしめやかにらした。無論家勝もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今にわかに関白に楯突たてつこうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らばが主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴あっぱれ立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然せいぜん惻然そくぜんとして家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。
 氏郷が会津四十二万石を受けてよろこばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞はなくそほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて嚊殿かかあどのに誇るような極楽蜻蛉ごくらくとんぼ菜畠蝶々なばたけちょうちょうに比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も流石さすがに氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が絳灌樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)こうかんはんかいの輩とを為すをじたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)だって立派な将軍だが、「生きてすなは※(「口+會」、第3水準1-15-25)等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱にりかかって月に泣いた此の涙には片頬かたほえみが催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長のむすめで好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが位牌いはいに操を立てて尼になってしまった程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。
 天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の刷毛はけついでに武威を奥州に示して一撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角くわえた大きな鴨をこれから※(「口+敢」、第3水準1-15-19)おうとしてよだれまで出したところを取上げられて終った犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰って終って見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めて居るのだが、仕方が有るから手が出したくなる。然し氏郷という重石おもしは可なり重そうである。氏郷は白河をば関右兵衛尉うひょうえのじょう、須賀川をば田丸中務少輔なかつかさしょうゆう阿子あこしまをば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、伊南いなみを蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も迂闊うかつに手を掛ける訳にはゆかぬ。斯様なると暴風雨は弱い塀にたたる道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸ばされ出した。木村父子は武辺も然程さほどでは無く、小勢でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生は之を捨てて置く訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とは其間遥にへだたって居るけれども必ず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何程も有ろう、木村蒲生に味噌を附けさせれば好運は自然に此方へ転げ込んで来る理合だ、という様な料簡は自も存したことであろう。政宗方の史伝に何も此様こういう計画をしたという事が遺って居るのでは無いが、前後の事情を考えると、邪推かは知らぬが斯様こう思える節が有るのである。又木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったに就ては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても法度はっと厳正に之を取締れば差支無いが、元来地盤が固く無い処へ安普請をしたように、規模が立たんで家風家法が確立して居ないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニ此の奥州の田舎者めと侮って不道理を働くことも有勝なことで、然様そうなれば然無さなきだに他国者の天降あまくだり武士を憎んで居る地侍の怒り出すのも亦有り内の情状であるから、そこで一揆いっきも起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と和睦わぼくし難いような事情が起ると、第三者がひそかに其下に助力して其主権者を逐落おいおとし、そして其土地の主人となってしまうのである。或はことに利をくらわせて其下をして其上にそむかせて我にこころを寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦かくの如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事をおこさせるのが「嘱賂そくろを飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にもかみにもしもにも互に有ることで、戦乱の世の月並でめずらしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信をわれに内通させて氏家吉継とともに大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか何様どうだかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政ひせいが有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又手強てごわかった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田にった駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙けせんの方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の登米とめ郡の登米とよまという北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の小牛田こごた駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ、一揆の方はあらかじめ作戦計画を立てて居たものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取れというのでたちま攻陥せめおとして終った。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離は直接にすれば然のみへだたって居らぬとは云え、然程に近い訳でも無いのに、かくの如く手際く木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒のように本拠を奪われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てて居て、思う壼へ陥れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子はりょの文に所謂いわゆる鳥其巣をかれた旅烏、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、何共なんともせん方ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門にかえったすけられる形となって、佐沼の城へ父子共立籠たてこもることになった。
 西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人はかねての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大崎、胆沢いさわを与えたのはちと過分であった。何様も秀吉の料簡りょうけんが分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とが何様どんなイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。一旦自分に対して深刻の敵意をさしはさんだ狼戻こんれい豪黠ごうかつの佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が藩屏はんぺいとなるので有り、又成政がドジを踏めば成政を自滅させて終うに足りるというので、ついに成政は其の馬鹿暴ばかあらい性格の欠陥により一揆の蜂起ほうきを致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うて終った。木村父子は何も越中立山から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃する相談をした内蔵介くらのすけ成政ほどの鼬花火いたちはなびのような物狂わしい火炎魂をった男でも無いし、それを飛離れた奥地に置いた訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うのはかりごとで、の様な弱武者の木村父子を活餌いきえにして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば此畜生こんちくしょうめと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が法衣ころもを着とおすならば物のわかる狼だから其儘そのままにして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼のいわやそばに遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書がし然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。
 又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の呉々くれぐれも訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概草臥くたびれた狼をちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで捻合ねじあって居たら危気無しに背面から狼を胴斬どうぎりにして終う分の事、という四本のくじれが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛ってにかわけたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)んでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。
 一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことはごうも敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような偏倚へんき性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方はいささか無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈と思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りで丁度宜いであろう。氏郷が秀吉にこころひそかに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで、人品骨柄の中々立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。然し小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師に命じて、白綾しらあや小袖こそでに、左の手には扇、右の手には楊枝ようじを持ったる有りの儘の姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野左近将監繁仍しげよりの妻で、もと鶴千代丸の時の乳母だった者に、此絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々いまいましきことをせさせ玉う君かな、御年も若うおわしながら何の為にかかる事を、と泣いたと云うはなしが伝わっている。戦の度毎に戦死と覚悟してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、一寸おかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、又然程さほどに深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵を氏郷の造らせたということを聞いて感涙をおとしたというのも、何だか一寸考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてに於て想察のまとまるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠さんがいがさ馬幟うまじるしを氏郷が請うて、熊の棒という棒鞘ぼうざやに熊の皮を巻付けたものに替えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、且は驍勇ぎょうゆうの名をとどろかした成政の用いたものを誰もはばかって用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたか何様どうか、有らずもがなの事だった。然し勿論そんな些事さじ歯牙しがに掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇するに別に何も有った訳では無い、ただことに之を愛するというまでに至って居らずにいささか冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談だが、忠興が別に咎立とがめだてもされず此の難い役を辞したとすれば、忠興は中々手際の好い利口者である。
 氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じ様に、織田信雄のぶかつは小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の駿遠参すんえんさんに封ぜられた。ところが信雄は此の国替をよろこばなくて、強いて秀吉の意にさからった。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民をやしなう器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、我儘わがままに任せてが言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀なか二万石にしてしまった。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されてじき和睦わぼくして終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉にわれたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、しかと名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、怯儒きょうだで遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々はかばかしいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、ついで出羽の秋田へちっせしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へへんしたのも余りひどかった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄がかくの如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれどもちと酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということをしきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、かねても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。
 木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気がはげしくても棄てては置けぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍ふくてつを踏んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文郷可さとよし、小倉豊前守、上坂兵庫助、関入道万鉄、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔をめて置くことにした。政宗の方の片倉備中守びっちゅうのかみが三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、さて自分は一番先手さきてに蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に五手組いつてぐみ、梅原弥左衛門、森民部丞みんぶのじょう、門屋助右衛門、寺村半左衛門、新国上総介にっくにかずさのすけ、四番には六手組、細野九郎右衛門、玉井数馬助、岩田市右衛門、神田清右衛門、外池とのいけ孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与ななてぐみ、蒲生将監、蒲生主計助かずえのすけ、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野主水佑もんどのすけ、六番には寄合与よりあいぐみ、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施次郎右衛門、建部たけべ令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水勝左衛門、八番には手廻てまわり小姓与こしょうぐみ、九番には馬廻、十番には後備あとそなえ関勝蔵、都合其勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族けんぞく、多年恩顧の頼み頼まれた武士、又は新規召抱ではあるが、家来は主の義勇を慕い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄をでいつくしめる者共、皆各々言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金の味、胆魂きもだましいの程を地侍共に見せ付けて呉れんという意気を含んだ者を従えて真黒になって押出した。其日は北方奥地の寒威早く催して、会津山おろし肌にすさまじく、白雪紛々と降りかかったが、人の用いはばかりし荒気大将佐々成政の菅笠すげがさ三蓋さんがい馬幟うまじるしを立て、是は近き頃下野の住人、一家惣領そうりょうの末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三左靹絵ひだりどもえの紋の旗を吹靡ふきなびかせ、凜々りんりんたる意気、堂々たる威風、はだえたゆまず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒もいささひるんだろう。そこを流石さすがは忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気がえているようでは宜しく無いから、諸手もろての士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は直膚すぐはだよろいばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、にしきや練絹などで出来ているものをる。はかま短く、裾やそで括緒くくりおがあって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは直垂ひたたれであるから、鎧直垂とも云う。漢語の所謂いわゆる戦袍せんぽうで、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように犢鼻褌ふんどし一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし斯様こういう大将で有って見れば、士卒もけかえってふるえて居るわけには行かぬ、力肱ちからひじを張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にしてべて仕合せな事である。
 冗談は扨置さておき、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の蜂起ほうきは思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、かなわせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし畢竟ひっきょうは如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の施為しいが、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は何様どういう人で有ろうと怖畏ふい憂虞ゆうぐの眼を張ってうかがって居た人民に、安堵あんどしたがって親愛の念をいだかせた故であったろう。

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