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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:29:12  点击:  切换到繁體中文


 氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監もいささか危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を右手めてに見て、其湖の北方なる猪苗代城にとどまるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とはことに親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷をやかたに入れまいらせてから、ひそか諫言かんげんたてまつって、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬もつかれて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、としきりに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬にはるのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一はむしろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆いっきは少しでも早く対治してしまって其の根を張り枝を茂らせぬ間に芟除かりのぞき抜棄てるのを機宜きぎの処置とする。且又信雄が明智乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼もいかろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシとわが胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、何様どう然様そうは成りかねる、仮令たといつたなく時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全くすたる、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、御尤ごもっともの御仰と承わりました、然らばそれがし一期いちごの御奉公、いさぎよく御先を駈け申そう、と皺腕しわうでをとりしぼって部署に就く事に決した。斯様こういう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよくたぎり切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)かえんを燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀のつかに手を掛けて居る恐ろしい境界きょうがいに、毅然きぜんたる立派な態度を何様して保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦にはまさった遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々こまやかな味のある戦であり、やり、刀、血みどろ、大童おおわらわという大味な戦では無いのである。
 ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某なにがし天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の髑髏どくろに生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ出鱈目でたらめを申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生り代りなどとは余り作意が奇抜でむし滑稽こっけいだが、宋の蘇東坡そとうばは戒禅師の生れ代り、明の王陽明は入定僧にゅうじょうそうの生れ代り、陽明先生の如きは御丁寧にも其入定僧の屍骸しがいじきに対面をされたとさえ伝えられている。二生にしょうの人というのは転生を信じた印度に行われた古い信仰で、大抵二生の人は宿智即ち前生修行の力によって聡明そうめいであり、宿福即ち前世善根の徳によって幸福であり、果報広大、甚だたっとぶべき者とされて居る。政宗の生るる前、米沢の城下に行いすまして居た念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左のたなごころに満海の二字を握って誕生した。だから政宗は満海の生れ代りであろうと想われ、そして梵天丸という幼名はこれに因りて与えられた。梵天は此世の統治者で、二生の人たる嬰児えいじの将来は、其の前生の唱名不退の大功徳によって梵天の如くにあるべしという意からの事だ。満海の生れ代りということを保証するのは御免こうむりたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕では無く、又其名が梵天帝釈たいしゃくに擬した祝福の意であったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には陸奥介行宗むつのすけゆきむねおくりなが念海、大膳太夫持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海のはなしも何か夫等それらから出た語り歪めではあるまいか。べての奇異な談は大概浅人妄人無学者好奇者が何か一寸した事を語り歪めるから起るもので、語り歪めの大好物な人は現在そこらに沢山転がっている至っておやすいしろ物であるから、奇異な談は出来傍題ほうだいだ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎の如き傑物に属望されて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔の淵は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前では澄ましかえったが、其の底知れぬ深さの蒼い色をたたえた静かな淵には、馬も呑めば羽をも沈めようという※(「さんずい+回」、第3水準1-86-65)まきを為して居るのである。不気味千万な一怪物である。
 此の政宗は確に一怪物である。然し一怪物であるからとて其の政宗を恐れるような氏郷では無い。※(「さんずい+回」、第3水準1-86-65)の水の巻く力はすさまじいものだが、水の力には陰もあるおもてもある、吸込みもすれば湧上りもする。く水を知る者は水を制することをして水に制せらるることを為さぬ。魔の淵で有ろうとも竜宮へ続く渦で有ろうとも、怖るることは無い。いわんや会津へ来た初より其政宗に近づくべく運命を賦与されて居るのであり、今はまさに其男に手を差出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が棘々満面とげとげだらけの手だろうが粘滑油膩ぬらぬらあぶらの手だろうがうろこの生えた手だろうがみずかきの有る手だろうが、何様どんな手だろうが構わぬ、ウンと其手を捉えて引ずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷政宗に命令して置いた。新規平定の奥羽の事、一揆いっき騒乱など起ったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に切鎮きりしずめよ、という命令を下して置いた。で、氏郷は其命の通り、サア案内に立て、と政宗に掛らねばならぬのであった。其の案内人が甚だ怪しい物騒千万なもので、此方から差出す手を向うから引捉ひっつかんで竜宮の一町日あたりへ引込もうとするか何様かは知れたもので無いのである。此の処活動写真の、次の映画幕はの様な光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面冠者の藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払った代り一等席に淀君よどぎみ御神酒徳利おみきどくりかなんかで納まりかえって見物して居るのであった。しかも洗って見れば其の観覧料も映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんから実は巻上げたものであった。
 木村伊勢領内一揆蜂起ほうきの事は、氏郷から一面秀吉ならびに関東押えの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺は殿下のかねての教令により出陣征伐あるべし、と通牒つうちょうして置て、氏郷が出陣したことは前に述べた通りであった。五日は出発、猪苗代泊り、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷の山脈を越えてヌッと出て来た。其の兵数は一万だったとも一万五千だったとも云われて居る。氏郷勢よりは多かったので、兵が少くては何をするにも不都合だからであることは言うまでも無い。板谷山脈を越えればすぐに飯坂だ。今は温泉場として知られて居るが、当時は城が有ったものと見える。政宗は本軍を飯坂に据えて、東のかた南北に通って居る街道を俯視ふししつつ氏郷勢を待った。氏郷の先鋒せんぽうは二本松から杉目、鎌田と進んだ。杉目は今の福島で、鎌田は其北に在る。政宗勢も其先鋒は其辺まで押出して居たから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。然るに伊達勢が本気になって案内者の任を果し、先に立って一揆いっき対治に努力しようと進む意の無いことは、氏郷勢の場数を踏んだ老功の者の眼には明々白々に看えた。すべて他の軍の有して居る真の意向を看破することは戦に取って何より大切の事であるから、当時の武人は皆これを鍛錬して、些細ささいの事、機微の間にも洞察することをつとめたものである。関ヶ原の戦に金吾中納言の裏切を大谷刑部ぎょうぶが必ず然様そうと悟ったのも其の為である。氏郷の前軍の蒲生源左衛門、町野左近将監等は政宗勢の不誠実なところを看破したからおおいに驚いた。一揆討伐に誠意の無いことは一揆方に意を通わせて居て、そして味方に対して害意をっているので無くて何で有ろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へせさせて政宗の異心謀叛むほん、疑無しと見え申す、其処に二三日も御逗留とうりゅうありてなお其体をも御覧有るべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞して之に従うかと思いのほか、大に怒って瞋眼しんがんから光を放った。ここは流石さすがに氏郷だ。二人をにらみ据えて言葉も荒々しく、政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松を出でたれ、何方いずくにもあれ支えたらば踏潰ふみつぶそうまでじゃ、明日あすは早天に打立とうず、とののしった。総軍はこれを聞いてウンと腹の中にこたえが出来た。
 政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者は勿論有るし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光って居たに違無い。見ると蒲生勢はりんとしている、其頃の言葉に云う「たたかいを持っている」のである。戦を持っているというのは、何時でも火蓋ひぶたを切って遣りつけて呉れよう、というのである。コレハと思ったに違いない。
 氏郷は翌日早朝に天気の不利を冒して二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城に着いた。政宗遅滞するならば案内の任を有っている者より先へも進むべき勢を氏郷が示したので、政宗も役目上仕方が無いから先へ立って進んだ。氏郷は其後から油断無く陣を押した。何の事は無い政宗は厭々いやいやながら逐立おいたてられた形だ。政宗は忌々いまいましかったろうが理詰めに押されて居るので仕方が無い、何様どうしようも無い。氏郷は理に乗って押して居るのである。グングンと押した。大森辺から北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順に云えば伊達郡、苅田かった郡、柴田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡であって、黒川郡から先が一揆叛乱地はんらんちになって居るのである。其間随分と長い路程であるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬ訳にゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗がしも途中で下手へたに何事か起した日には、が領分では有るし、勝手は知ったり、大軍では有り、無論政宗に取って有利の歩合は多いが、吾が領内で云わば関白の代官同様な氏郷に力沙汰に及んだ日には、まぬかるるところ無く明白に天下に対して弓をいた者となってしまって、自ら救う道は絶対に無いのである。そこを知らぬ政宗では無いから、振捩ふりもぎろうにも蹴たぐろうにもすべ無くて押されている。又そこを知り切っている氏郷だから、業を為るなら仕て見よ、と十分に腰を落して油断無くグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢を得ている。でも押す方にも押される方にも、力士と力士との双方に云うに云われぬ気味合が有るから、寒気もひどかったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、叛乱地の境近くに至るまでに十日もかかって居る。
 此かん政宗は面白く無い思をしたであろうが、其代り氏郷もひどい目にあっている。それは此十日の間に通った地方は政宗の家の恩威が早くから行われて居た地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠あたりが切従えたのだから、中頃之を失ったことが有るにせよ、今又政宗に属しているので、土豪民庶皆伊達家贔屓びいきであるからであった。本来なら氏郷政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜をば政宗領の者も提供すべき筋合であるが、前に挙げた如く人民は蒲生勢を酷遇した。寒天風雪の時に当って宿を仮さなかったり敷物を仮さなかったり、薪や諸道具を供することを拒んだ。朧月夜おぼろづきよにしくものぞ無き、という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人でありわびの味知りの茶人である氏郷でも、下風したかぜは寒くして頬に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心し無かったろう。桑折こおり、苅田、岩沼、丸森などの処々、斯様こういう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事をののしっているのも道理である。
 押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きてようやく目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領の殆んど尽頭はずれの黒川の前野に陣取った。前野とあるのは多分富谷から吉岡へ至る路の東に当って、今は舞野というところで即ち吉岡の舞野であろう。其処で其日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴のいおり、何の風情も無く侘しうは候が、何彼なにかと万端御意を得度く候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たる可く、粗茶進上仕度つかまりたく候、という慇懃いんぎんなものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈かんか弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜の沸音にえおと、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣も深く味も遠く、何という楽しくも亦嬉しいことであろう。然し相手が相手である、伊達政宗である。おつな手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠に御懇志かたじけのうこそ候え、明朝参りて御礼を申そうず、というのであった。
 イヤ驚いたのは家来達であった。政宗謀叛むほんとは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれてにじり上りから其茶室へ這入はいろうというのである。し彼方に於てあらかじめ大力手利てききの打手を用意し、押取籠おっとりこめて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人若し打たれては残卒全からず、何十里の敵地、其処そこの川、何処のはざまで待設けられては人種ひとだねも尽きるであろう。こは是れ一期いちごの大事到来と、千丈の絶壁に足を爪立て、万仞ばんじんの深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をして呉れたものだと、怨みもし呆れもし悲みもした事であろう。然し忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆したに当る、機に臨みて身を扱おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間暇はいらぬ、立寄って政宗が言語ものいい面色つらつきをも見て呉りょう、というのであったろう。政宗の方には何様いう企図が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌ちゃえんに招いたのは、まさに氏郷を数寄屋すきやの中で討取ろう為であったと明記して居る。然しそれは実際然様そうだったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出して居る事実が無いから、蒲生方で然様思ったという証拠にはなるが、政宗方で然様いう企を仕たという証拠にはならぬ。又万一然様いう企をしたとすれば、鶺鴒せきれいの印の眼球めだまで申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至って何様どうともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは目睫もくしょうの間であるから、或は一揆方いっきがたの剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起って其者共を其場で切殺して口を滅してしまおう、という企をしたというのならば、其の企もいささかは有り得もす可きことになる。も無くば政宗にしてはちと智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。但し蒲生方の言も全く想像にせよあたって居るところが有るのでは無いかと思われる所以ゆえんは幾箇条もあり、又ずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動で一寸うかがえるような気のすることがある。それは後に至って言おう。此処では政宗に悪意が有った証は無いというのを公平とする。が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌ちゃえんに赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の疑懼ぎくの念をいだいたのも無理ならぬことであった。氏郷が其の請を拒まないで、何程の事やあらんとおそも無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟鮫室こうしつの中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らない胆ッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田孝高よしたかは城井谷鎮房しずふさを酒席で遣りつけて居る世の中であるに。
 夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗をうた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装は何様であったか記されたものが無い。如何にこれから戦に赴く途中であるとしても、皆具かいぐ取鎧とりよろうて草摺長くさずりながにザックと着なした大鎧おおよろいで茶室へも通れまいし、又如何に茶に招かれたにしてもただちに其場より修羅のちまたに踏込もうというのにはかま肩衣かたぎぬで、其肩衣の鯨も抜いたようななりも変である。利久高足と云われた氏郷だから、必ずや武略では無い茶略を然るべく見せて、工合の宜い形で参会したろうが、一寸想像が出来ない。是は茶道鍛錬の人への問題に提供して置く。氏郷の家来達は勿論甲冑かっちゅうで、やり薙刀なぎなた、弓、鉄砲、昨日に変ること無く犇々ひしひしと身を固めて主人に前駆後衛した事であろう。やがて前野に着く。政宗方は迎える。氏郷は数寄屋の路地へ潜門くぐりを入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷にしたがって来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間玄蕃が弟と聞えた佐久間久右衛門、同苗どうみょう舎弟しゃてい源六、綿利わたり八右衛門など一人当千の勇士の面々、火の中にもあれ水の中にもあれ、死出三途さんず主従一緒と思詰めたる者共がたまり兼ねてツツと躍り出た。伊達の家来は狼籍ろうぜきに近き振舞と支え立てせんとした。制して制さるる男共であればこそ、右と左へ伊達の家来を押退け押飛ばして、たてに取る門の扉をもメリメリと押破った。氏郷の相伴つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門まかり通る、蒲生忠右衛門罷り通る、町野左近将監罷り通る、罷り通る、罷り通る、と陣鐘じんがねのような声もあれば陣太鼓のような声も有る、陣法螺じんぼら吹立てるような声も有って、あわい隔たったる味方の軍勢の耳にも響けかしに勢いたけく挨拶して押通った。茶の道に押掛の客というも有るが、これが真個ほんとの押掛けで、もとより大鎧罩手こて臑当すねあての出で立ちの、射向けのそでに風を切って、長やかなる陣刀のこじりあたり散らして、寄付よりつきの席に居流れたのは、鴻門こうもんの会に※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかいが駈込んで、怒眼をつぶらに張って項王をにらんだにも勝ったろう。外面そともは又外面で、士卒各々かぶとの緒をめ、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀たちを取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応えようと振い立っていた。これでは仮令たとい政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。
 茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。然し主人と臣下とを如何に茶なればとて同列にすることは其の主に対しては失礼であり、其の臣下に対しては※上せんじょう[#「にんべん+(先+先)/日」、1038-下-25]に堪うるあたわざらしむるものであるから、織田有楽うらくの工夫であったか何様であったか、客席に上段下段を設けて、膝突合わすほど狭い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐せしむるようにした席も有ったとおぼえている。主従関係の確立して居た当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物柔らかに其他意無きを示して、書院で饗応きょうおうでも仕たろうが、鎧武者よろいむしゃを七人も八人も数寄屋に請ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、御免こうむったろう。さて政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談取交とりまぜて、むしろ軍事談の方を多く会話したろうが、此時氏郷が、佐沼への道の程に一揆いっきの城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へは是より田舎町(六町程)百四十里ばかりにて候、其間に一揆のこもりたる高清水と申すが佐沼より三十里此方こなたに候、其の外には一つも候わず、とはかるところ有る為に偽りを云ったと蒲生方では記している。殊更に虚言を云ったのか、くわしく情報を得て居なかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。候わば今日道通りの民家を焼払わしめ、明日は高清水を踏潰ふみつぶし候わん、と氏郷は云ったが、目論見もくろみ齟齬そごした政宗は無念さの余りに第二の一手を出して、毒を仕込み置いたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むとじきに死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に血反吐ちへどを出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒、少くとも二三日後になって其効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪しいと思わぬことは無かった。然し茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じてすすめる茶を飲まぬという其様そんな大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面にたたえて怡然いぜんとして之を受け、茶味以外の味を細心に味いながら、然も御服合おふくあい結構の挨拶の常套じょうとうの讃辞まで呈して飲んで終った。そして茶事が終ったから謝意を叮嚀ていねいに致して、其席を辞した。氏郷の家来達もしたがって去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。
 氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互に見交わす眼と眼に思い入れ宜しくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御済ましありしか、飲ませられしか、如何に、如何に、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯ひきょう余瀝よれきも余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急にはしって馬柄杓ばびしゃくに水を汲んで来る。其間に氏郷は印籠いんろうから「西大寺」(宝心丹をいう)を取出して、其水で服用し、彼に計謀はかりごとあれば我にも防備そなえあり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早くたちまちにカッと飲んだ茶を吐いて終った。
 以上は蒲生方の記するところに拠って述べたので、伊達方には勿論毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座に又は陰密に人を除いて終うことは恐ろしい世には何様しても起り、且つ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害はかえってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、しらみッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人かんじん小人妬婦とふ悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは耻辱ちじょくを受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしもじょすべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心もしたがって存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠いんろうの根付にウニコールを用いたり、緒締おじめ珊瑚珠さんごじゅを用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。さて此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗はいたく器量が下がる。但し果して事実であったか何様どうかは疑わしい。

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