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華厳滝(けごんのたき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:50:09  点击:  切换到繁體中文


     六

 ふたゝび艇へ戻つて寺ヶ崎のはなを廻り、上野島かけて大日崎の方を走ると、艇の位置が變るにつけて四圍の山々も動き、今までは見えなかつた山が姿をあらはしたり、今まで見えた山が隱れて行つたり、青山せいざん翠巒すゐらん應接にいとまがない。その中に足尾方面の山だけが、その鑛毒にされて焦枯やけがれた林木の見るも情ない骨立こつりつした姿を見せてゐる。あれだけに育つた木々だから、何とかしたらば繁茂をつゞけられるのだらうが、二十世紀的、資本的、ドシ/\バタ/\的に無遠慮に採鑛精煉の事業をやられては、自然も破壞潰裂くわいれつさせられるのを如何いかんともし難い。地獄變相へんざうの圖の樣な景色が出來ても是非に及ばないが、何人にも詩人的情緒は有るから、生氣にちた青々あを/\とした山々の間に、鬼々おに/\しくなつた枯木の山を望んでは黯然としてこれを哀しまないものは無い。段々走つて白岩あたりに行くと、岸のさま湖のさまも物さびて、巨巖危ふく水に臨み、老樹びて巖にるさまなど、世ばなれてうれしい。仰げばかさを張つたやうな樹の翠、うつむけば碧玉をいたやうな水のあを、吾が身も心も緑化するやうに思はれた。
 千手が濱から赤岩、丁度白岩に對してゐるが、岩こそ赭色なれ、こゝも宜い景色である。千手が濱で艇を出て、アングリング・エンド・カウンツリー・クラブの養魚場を見たが、舟から上つて平地の林の中へ入つて行く感じは眞に平和な仙郷へでも入るやうで、甚だ人に怡悦いえつの情を味はしめた。緑蔭鮮かなるところ、小流れの清水を一區畫一區畫的に段々たゝへて、川マス、ニジマス、ブルトラウト、スチールヘッド等の各種鱒族の幼魚を養つてある。水清く魚すこやかに、日光樹梢を漏りてかすかに金をふるふところ、梭影さえい縱横して魚はしるさま、之を視て樂んで時の經つのを忘れしむるものがある。
 菖蒲ヶ濱にも養魚場がある。これは帝室關係のもので、野趣は少い代り堂々たる設備で、養魚池もひろく、鱒も二尺位になつてゐるのが數多く見えた。釣魚もおもしろいが養魚はなほさら佳趣の多いことで、二ヶ所の養魚場を見て、自分も一閑地を得たら魚を養ひたいナアと、羨み思ふをまぬかれなかつた。莊惠觀魚さうけいくわんぎよの談このかた、魚を觀るのは長閑のどかな好い情趣のものに定つてゐるが、やがて割愛して、今度は艇を捨て、自動車で龍頭りゆうづの瀧へと向つた。
 龍頭の瀧もまた別趣を有してゐる好い瀧である。水はなゝめに巨巖の上を幾段にも錯落離合してほとばしり下るので、白龍きそひ下るなどと古風の形容をして喜ぶ人もあるのだが、この瀧の佳い處はたゞ瀧の末のところに安坐して、手近に樂々と見ることと、巖石の磊※らいか[#「石+可」、166-上-15]たるをば眼前にする所にある。
 路は男體山の西へ廻り込んで、さしたる傾斜もない野を知らず識らずに上つて戰場ヶ原にかゝる。古は湖底か沮洳地そじよちででもあつたかと思はれるのが戰場ヶ原である。なり濶い面積の平野に躑躅や山菖蒲が咲いてゐて高原氣分を漂はせてゐる荒寞の景が人を襲ふが、此處こゝは雪がまだ山々にむらぎえむら殘りの頃か、さなくば秋の夕べの物淋しい頃が、最も人にみ入る情趣をもつところで、日光や中禪寺の人々が「よろこびの花」といふよしの躑躅花(この花が咲けばやがて多くの遊覽者が入込んで土地がにぎやかに潤ふ)が咲いてゐる、今はむしろ特有の持味をみなぎらせてゐないのを遺憾とする。
 車はやがて湯元に着いた。湯のうみは左手にその幽邃味の溢るゝばかりなすがたを、沈默のうちに見せてゐる。湯元は山奧の突き當りのやうな感じのする地であり、古風の湯宿と今樣いまやうの旅館とが入り交つてゐる温泉の高い小さな村であるが、何となく人をゆつたりと沈着おちつかせてしまふやうなところが、實際山奧の湯村の氣分でもあらう。
 一浴して晝餐を取ると、村の人々が東京日日に對する好感を表示して訪うてくれた。その人々に擁されて、ことに仕立ててくれた※(「戔+りっとう」、第3水準1-14-63)てこぎぶね二隻に分乘して、湯の湖を廻つた。湖は中禪寺湖より遙に小さいが、周圍の樹木の鬱々と茂つて、その枝も葉も今まさに水に入らんとするほど重げに撓々たわ/\に湖面に蔽ひかぶさつてゐるところや、藻の花が處々にれ咲いたり、杉木賊すぎとくさといふ杉菜の如く木賊の如き一種の水草が淺處にすく/\としてゐたりするさまは、まるで繪の如く小じんまりしてゐて、仙人の庭の池では無いかと思はれるやうな氣がする。南岸には石楠花しやくなげが簇生してゐて、今は花はすがれてゐるが、花時の美しさは思ひ遣られる。兎島といふ半島的突出の北部の灣形に入り込んだところなどは、何樣どう見ても茶人的の大庭の池の甚だ寂び古びたやうな感じで、幽雅愛すべきである。この景色を取入れて別莊を設けた人の無いのが不思議な位である。

    七

 三十七八年前になる。自分は湯元から金精峠こんじやうたうげを越えて沼田の方へ出たことがあるが、今はその頃よりは甚だ開けて、西澤金山などがその後開けたために、又群馬の方の菅沼等も遊覽地になつたために、道路は北へも西へも通じてゐて、實際に突きあたりの地では無くなつたのである。しかし自動車で行ける路でも無いので、昔日の健脚、今の寢足ねあし、しかた無いからまた中禪寺へ歸つた。
 湯瀧は湯の湖より落つる水である。たきといふ語の通りに、眞白になつて岩の傾斜面をたぎり落つるのである。兒童こどものすべり臺を水が落ちると思へば間違ひはない。今に遊戲的にこの瀧を落下する設備をする人があるかも知れない、といふのは戲諢談おどけばなしだが、ほんとにさういふことをしたら、可なり突飛なことの好きな人を滿足させ得るだらう。
 車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖水なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然ふと見る湖岸に漣波さゞなみが立つて赤腹といふ小魚が群騷いでゐる。産卵のために雌魚雄魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「クキル」とこれをいふ。北海道では今、群來の二字をてるが、古は漏の字を充てゝゐる。にしんのくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆、かずの子を以てかずの子鍍金めつきをされてしまふ位である。今雜魚はその生殖期の特徴たる赤い線を身側に鮮かにして、騷ぎまはつてゐる。と見るや否や土地の人は忽ち車を止めさせた。人々はなぎさに歩み寄つて、各※(二の字点、1-2-22)手取りにせんとした。安成子も早速に水の中へ手を突つ込んで首尾よく手づかみにしたのは、時に取つての無邪氣な餘興であつた。宿へ歸つて鹽燒にさせて、先生大得意で天賜の佳肴に一盞の麥酒ビールを仰いだところは如何にも樂しさうであつた。但しその魚の大さ三尺五寸也、十倍にして。
 十一日。人力車をやとひて馬返しまで下る。途中、かごの岩、屏風岩など、いづれも他所にあつては名を高くするに足りるものであると賞した。馬返しより自動車を頼んで日光へ下り、東照宮大猷廟たいいうべうその他は今囘は遙拜のみして、稻荷川を渡つて霧降の瀧へと向つた。瀧見臺の茶屋まで車で行ける樣になつてゐるので勞は無い。そこから細徑ほそみちを少し行くと、俄然として路は巖端いははなに止まつて、脚下は絶壁の深澗になり、眼前のむかひの巖壁に霧降の麗はしいすがたは見えた。華嚴は男性美、霧降は女性美、一は直條的、一は曲折的、一は太い線、一はほそい線、巖の樣子もまた二者の間に相應した差があつて、霧降の瀧の美しさは、瀑布の形容によく素練それんなどといふ字を使ふが、素練などといつたのでは端的にそのじつは寫し得ない。しなやかに細い多くの線をなして麗はしく輝やかしく落下おちくだる美しさは、恰も纖く裂いたぬめを風にさらして聚散させたを觀るやうな感じである。雄偉は華嚴にとゞめをさす、妍麗は霧降を首位とする。わざ/\鑑賞するだけの價値は十分にある。
 日光の美の中で、他にまだ看過かんくわし難いものがある。それは街道の杉並木である。平泉澄氏の撰の東照宮志にこの並木の事は詳しく出てゐる。並木といへば何でも無いもののやうであるが、實に此も亦人のたことの美しい一つである。で、今市までその並木の下を走らせて、わが國人の心の姿であり、神の愛したまふ相である正直其物の杉の樹蔭に、翠影甚だ濃く凉氣おのづから湧くすが/\しさを十分に味はつた。神路山かみぢやまの山路、日光の例幣使街道、春日かすがの參道、芳野の杉山、いかりせきの杉山、いづれも好い心持のところであるが、ことに此處は好い。たゞ行末齒の脱けたやうにならぬことを望むのみである。
 今市より北折して會津へ至る道も、神々かう/\しさは餘程缺けるが同じく杉並木が暫くは續く。田舍ゐなかびて好い路で、菅笠かぶつた人でも通りさうな氣がする。大谷川がもう恐ろしく發達して大きな河原になつてゐるのを越して、車はひた走りに大桑といふを過ぎると、やがて稀有なる好景に出會した。それは石壁の岸高きが下に碧潭深く湛へてゐる一大河にかゝつてゐる橋が、しかもたゞちに對岸にかゝつてゐるのでは無く、河中の一大巨巖が中流に蟠峙ばんぢして河を二分してゐる其巨巖に架つてゐるので、橋は一旦巖上に中絶した如くなつて後に、また新に對岸にわたされてゐるのである。丁度東京の相生橋あひおひばしと同じやうな状であるが、其の中島が素ばらしい大きな一つ巖であるのが、目ざましくもめづらしい景色をなしてゐる。自分は初めてこの路を通つたのであるが、こゝに差掛かると同時に、これが鬼怒川きぬがはの中岩であるなと心付いて車を止めさせた。舊い頃ではたちばな南谿なんけいと共に可成り足跡そくせきが廣く、且又同じく紀行(漫遊文草)を遺した澤元※(「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59)たくげんがいが、この中岩を稱して、その上で酒など飮んでゐる事がその文によつて記臆に存してゐたからである。車を下りて靜かに四方を見ると、鬼怒川が北から來つてこの巖にせかれて、分れて深潭をなし、※(「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-16)えいくわいして悠揚せまらず南に晴れやかに去る風情はまことに面白く、兩岸の巖壁沙汀のさまも好く、松や雜樹ざふき畫意ゑごゝろ簇立むらだつてゐるのもうれしい。安成子は河原へ下り立つて寫眞をつた。

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