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平将門(たいらのまさかど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:59:54  点击:  切换到繁體中文


 将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事をあへてせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未なほいまだ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公にじゆんずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原かづらはら親王と申す一品いつぽん式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子高望王たかもちわうが平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾ひたちだいじよう上総介かづさのすけ等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力をつるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、※(「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20)よしより、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名良望よしもちけだし長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥むつ大掾、下総介しもふさのすけ、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に※(「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20)よしよりは上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家※(二の字点、1-2-22)の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田をさだの祖である。次に良茂は常陸少掾ひたちせうじようである。
 さて将門は良将の子であるが、長子かといふに然様さうでは無い。大日本史は系図につたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚みくりや三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものははやく消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝のむすめである。此の犬養春枝はけだし万葉集に名の見えてゐる犬養浄人きよひとすゑであらう。浄人は奈良朝に当つて、下総しもふさ少目せうさくわんを勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠ばんきよしてゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁いんねんに疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様かういふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅きんまさ公連きんつら、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持むねもち、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟いとこを有した訳である。
 此の中で生長した将門は不幸にして父の良将をうしなつた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、けだし十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じてわたくしをしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門がやうやく加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙※(二の字点、1-2-22)と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓てづるを得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人※(二の字点、1-2-22)技倆骨柄ぎりやうこつがらを認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允さまのすけとなつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟いとこ同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息いきのかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところがをかしいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪くうはさするとかならば、※(「女+冒」、第4水準2-5-68)嫉猜忌ばうしつさいきの念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様さういふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様どう斯様かうのしたといふことは無くて、かへつて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
 勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼あきかねの撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯様かうである。将門の在京中に、貞盛がかつて式部卿敦実あつざね親王のところにいたつた。丁度其時に将門もまた親王の御許おんもと伺候しこうして帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方かなたがジロリと見れば、此方こちらもギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴きやつは天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚はなはだしいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃をぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者てふじやをして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く/\は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香のせがれは将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤かつとうが既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋ははやく此の辺から始まつてゐるのである。
 将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるにれば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議はいて、将門と貞盛の家とは、中睦なかむつまじく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。
 今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁いんねんのもつれであるだけは明白である。護は常陸のさき大掾だいじようで、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波つくばの西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子のたすく、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨さが源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番すゑなのであらう。
 将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家がことに将門をにくんで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾ふんきうした事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護のむすめを得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋のかなはぬ焦燥せうさうから、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何いかに将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚てひどく将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁につらなる一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌※(二の字点、1-2-22)しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬なでぎりにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条ひとすぢの事ではあるまい、可なり錯綜さくそうした事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋のかなつた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様どうも情理が桂馬筋けいますぢに働いて居るやうである。
 故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想けさうして之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで※(「女+冒」、第4水準2-5-68)ばうしつの念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力をあはせて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬のおびただしい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比ひごろから彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃してうらみを散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、るところの無い想像では無い。
 要するに委曲ゐきよくの事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕ざんけつであつて、生憎発端のところが無いのだから如何いかんとも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家のむすめを得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故なぜといへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところのくだりの文に、「かくの如く将門思惟す、およそ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈をたづぬるにうとからず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦にたとふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物のそし遠近をちこちに在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭きゆうせんをとつて相見あいまみゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間さき大掾だいじよう源護の告状に依りて、くだんの護並びに犯人平将門及び真樹まき等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田わびた真樹で、国香の属僚中の※(二の字点、1-2-22)さうさうたるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。

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