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平将門(たいらのまさかど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:59:54  点击:  切换到繁體中文


 興世王は経基が去つて後も武蔵に居たが、経基の奏によつておのづから上の御覚えはくなかつたことだらう、別に推問を受けた記事も見えぬが、あらたに興世王の上に一官人が下つて来た。それは百済貞連くだらさだつらといふもので、目下の者とさへむつぶことの出来なかつた興世王だから、どうして目上の者と親しむことが成らう、たちまち衝突してしまつた。ところが貞連は意有つてか無心でか知らぬが、まるで興世王を相手にしないで、庁に坐位をも得せしめぬほどにした。上には上があり、強い者には強いものがぶつかる。興世王もこれには憤然ふんぜんとせざるを得なかつたが、根が負け嫌ひの、恐ろしいところの有る人とて、それならきさまも勝手にしろ、乃公おれも勝手にするといつた調子なのだらう、官も任地も有つたものでは無い、ぶらりと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に「居てやるんだぞぐらゐな居候ゐさふらふ」になつた。「王の居候」だからおもしろい。「置候おきさふらふ」の相馬小次郎は我武者に強いばかりの男では無い、幼少から浮世の塩はたんとめて居る苦労人くらうにんだ。田原藤太に尋ねられた時の様子でも分るが、ようございますとも、いつまででも遊んでおいでなさい位の挨拶でこゝろよく置いた。誰にでも突掛つゝかかりたがる興世王も、大親分然たる小次郎の太ッ腹なところはしやうに合つたと見えて、其儘そのまゝ遊んで居た。多分二人で地酒ぢざけ大酒盃おほさかづきかなんかで飲んで、都出みやこでの興世王は、どうも酒だけは西が好い、いくら馬処うまどころの相馬の酒だつて、頭の中でピン/\ねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ、なんのかのとくだでも巻いてゐたか何様どうか知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩けんくわもせずに暮して居た。
 大親分も好いが、縄張なはばりが広くなれば出入でいりも多くなる道理で、人に立てられゝば人の苦労も背負つてやらねばならない。こゝに常陸の国に藤原玄明はるあきといふ者があつた。元来がこれれ一個の魔君で、余りしやうの良い者では無かつた。図太づぶとくて、いらひどくて、人をあやめることを何とも思はないで、公にそむくことを心持が好い位に心得て、やゝもすれば上には反抗して強がり、下には弱みに付入つておびやかし、租税もくすねれば、押借りもようといふたちで、丁度幕末の悪侍わるざむらひといふのだが、度胸だけはうんこたへたところのある始末にいかぬ奴だつた。善悪無差別の悪平等あくびやうどうの見地に立つて居るやうな男だが、それでも人の物を奪つて吾が妻子に呉れてやり、金持の懐中ふところしぼつて手下にはうるほひをつけてやるところが感心な位のものだつた。で、こくめいな長官藤原維幾は、玄明がわたくしした官物を弁償せしめんが為に、度※(二の字点、1-2-22)移牒いてふを送つたが、斯様かういふ男だから、横道わうだうかまへ込んで出頭などはしない。末には維幾も勘忍し兼ねて、官符を発して召捕るよりほか無いとなつて其の手配をした。召捕られてはかなはないから急に妻子を連れて、維幾と余り親しくは無い将門が丁度ちやうど隣国に居るをさいはひに、下総の豊田、即ち将門の拠処に逃げ込んだが、行掛ゆきがけの駄賃にしたのだか初対面の手土産てみやげにしたのだか、常陸の行方なめかた河内かはち郡の両郡の不動倉のほしひなどといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚かつさらつて、常陸の国ばかりに日は照らぬとめ込んだ。勿論これだけの事をしたのには、維幾との間に一通りで無いいきさつが有つたからだらうが、何にせよ悪辣あくらつな奴だ。維幾は怒つて下総の官員にも将門にも移牒いてふして、玄明を捕へて引渡せと申送つた。ところが尋常一様の吏員の手におへるやうな玄明では無い。いつも逃亡致したといふ返辞のみが維幾の所へは来た。維幾も後にはごふを煮やして、下総へひそかに踏込んで、玄明と一合戦して取挫とりひしいで、叩きるか生捕るかしてやらうと息巻いた。維幾も常陸介、子息為憲もきかぬ気の若者、官権実力共に有る男だ。斯様かうなつては玄明は維幾に敵することは出来無い。そこで眼も光り口もける奴だから、将門よりほかに頼む人は無いと、将門のところへ駈込んで、何様どうぞ御助け下さいと、しきりに将門を拝み倒した。元来親分気のある将門が、首を垂れ膝を折つて頼まれて見ると、あまかんばしくは無いと思ひながらも、仕方が無い、口をきいてやらう、といふことになつた。居候の興世王は面白づくに、親分、すがつて来る者を突出す訳にはいかねえぢや有りませんか位の事を云つたらう。で、玄明は気が強くなつた。将門は常陸ひたちもとから敵にした国ではあり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、貞盛だつて今に維幾のすその蔭かそでの蔭に居るのであるから、うつかり常陸へは行かれない。興世王はじめ皆相談にあづかつたに相違ないが、好うございますは、事と品とによれば刃金はがねつばとが挨拶あいさつを仕合ふばかりです、といふ者が多かつたのだらう、とう/\天慶二年十一月廿一日常陸の国へ相馬小次郎郎党らうだうひきゐて押出した。興世王ばかりではあるまい、平常むだ飯を食つて居る者が、桃太郎のお供の猿や犬のやうな顔をして出掛けたに違無い。維幾の方でも知らぬ事は無い、十分に兵を用意した。将門は、くだんの玄明下総に入つたる以上は下総に住せしめ、踏込んで追捕すること無きやうにありたいと申込んだ。維幾の方にも貞盛なり国香なりのいちまきが居たらう。維幾は将門の申込に対して、折角の御申状おんまをしじやうではあるが承引致し申さぬ、とかう仰せらるゝならば公の力、刀の上で此方心のまゝに致すまで、と刎付はねつけた。らば、然らば、を双方で言つてしまつたから、論は無い、後は斫合きりあひだ。揉合もみあひ押合つた末は、玄明の手引てびきがあるので将門の方が利を得た。大日本史や、記に「将門撃つて三千人を殺す」とあるのは大袈裟おほげさ過ぎるやうだが、敵将維幾を生捕いけどりにし、官の印鑰いんやくを奪ひ、財宝を多く奪ひ、営舎をき、凱歌がいかげて、二十九日に豊田郡の鎌輪かまわ、即ち今の鎌庭に帰つた。いきほひといふ条、こゝに至つては既にり過ぎた。大親分もいけれども、奉行ぶぎやうや代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴こやつめといふので生捕りにして、役宅やくたくを焚き、分捕りをしてかへつたといふのでは、余り強過ぎる。
 玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のためにうながされて都へ出て、糺問きうもんされねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以いはれか知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼りやくだつふんせうを敢てし、言はず語らず一国を掌握しやうあくしたのは、相馬小次郎も図に乗つてあばれ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒いけどりし、国庫に入るき財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口やりくちを大規模にしたのである。将門猶未なほいませんせずといへども、すでに叛したのである。純友の暴発もけだ此様かういふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守さきのあきのかみ伴光行、飛騨守ひだのかみ藤原辰忠、上野介かうづけのすけ藤原厚載、武蔵守むさしのかみ高向利春などいふものも、けだし維幾が生擒いけどりされたやうな状態であつたらう。孔孟こうまうの道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行はやつたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世祈祷きたうのみ盛んで、事実に於て神祠巫覡しんしふげきの徒と妥協だけふを遂げ、貴族に迎合げいがふし、はなはだしく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてがかけをしてひとの妻を取るほど博奕ばくち思想は行はれ、官吏はただ民に対する誅求ちゆうきうと上に対する阿諛あゆとを事としてゐる、かゝる世の中に腕節うでふしの強い者の腕が鳴らずに居られよう。此の世の中の表裏をて取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無はつむ邪正の感情に不知不識しらずしらずおちいつて居た者も所在にあつたらう。将門があたか水滸伝すゐこでん中の豪傑が危い目に度※(二の字点、1-2-22)つてつひに官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。ことに長い間引続いた私闘の敵方荷担人かたうどの維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目にふのだらう。玄明をかくまつた行懸ゆきがゝりばかりでは無い、自分のくびにも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引くびひきをして、そして敵をのめらせてたゝきつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東気質かたぎで、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山にへる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工だいくさんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差ながわきざしの侠客も大抵たいてい利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道しんだう徳次は小貝川のそば飯岡いひをかの助五郎、笹川の繁蔵、銚子てうしの五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様かういふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でもことなつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵押領使あふりやうし、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸ゆきがゝりり、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう/\火事は大きな風にあふられて大きな燃えくさにはなはだしいほのほげるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門にむかつて、一国を取るも罪はゆるさるべくも無い、同じくば阪東をあはせて取つて、世の気色を見んにはかじと云ひ出すと、如何いかにも然様さうだ、と合点してしまつた。興世王は実にい居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭をそびえさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所でぬすみ酒をするやうな居候とは少し違つて居た。しかし此の居候のお蔭で将門は段※(二の字点、1-2-22)罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝えんせう沢山たくさんこもつて居た大筒おほづゝだから、口火がついては容赦ようしやは無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利さつていり苗裔べうえい三世の末葉である、事をぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づたなそこに八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室ぶんやの好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所うまばしよさむらひだ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元だいげんが猛威をふるつたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力ふたんりよくに於て歩兵に※(「くさかんむり/徙」、第4水準2-86-65)ばいしするから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮さまれう御牧貢馬地みまきこうばちとして、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省ひやうぶしやう諸国馬牛牧式ぼくしきを見ると、高津たかつ牧、大結牧、本島もとじま牧、長州牧など、沢山なまきがあつて、兵部省へ貢馬こうばしたものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。ことに将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。
 天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威※(二の字点、1-2-22)りん/\と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易へきえきした。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人※(二の字点、1-2-22)へられたが、斯様かういふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰いんやくを差出してくだつてしまつた。前司の大中臣おほなかとみ全行まさゆきも敵対し無かつた。国司のやかたも国府もこと/″\虜掠りよりやくされて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐあたはず、すご/\と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰いんやくを奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門をはじめ興世王、藤原玄茂等堂※(二の字点、1-2-22)と居流れた。(玄茂も常陸の者である、けだし玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等しくは何人かの使嗾しそうに出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩はちまんだいぼさつの使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、くらゐ蔭子いんし将門に授く、左大臣正二位菅原道真朝臣みちざねあそん之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍きんきじやくやくした。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、こぞつて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。

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