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平将門(たいらのまさかど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:59:54  点击:  切换到繁體中文


 相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐるおそれのある常陸へと出馬して鎮圧につとめた。丁度都では此時参議右衛門督うゑもんのかみ藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、まさに食事をしてゐたが、命を聞くと即時にはしを投じて起つて、節刀せつたうを受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。なまぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、こぶしを握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮をののみや大臣をのろつたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈なかくじ両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処ありかを申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤原氏どもに捕へられるほど間抜まぬけでも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江ひるまえで捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼ひぬである。
 前には将門の妻がとらへられ、今は貞盛の妻がとらへられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取はぎとられて、みじめなさまになつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪るらうの女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣一襲ひとかさねを与へて放ちかへらしめ、つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花のにほひの散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌をみかけられて返しをせぬと、七生おしにでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁いんねんにでもこじつけると、古い浄瑠璃作者がのどを鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石さすがに平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻をはづかしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることはかなはぬが、何様どうも李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つてくださへ巻かなかつたらば、うぢは異ふが鎮西ちんぜい八郎為朝ためとものやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
 戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様どうしたらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものかうか分らぬが、「おもつて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡ひんぼ雌雄が引分けられてもいつかたがひに尋ねあてゝ一所いつしよになる。銀杏いてふの樹の雄樹と雌樹とが、五里六里離れて居てもやはり実を結ぶ。漢の高祖の若い時、あちこちと逃惑つて山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏がいつでも尋ねあてた。それは高祖の居るところに雲気が立つて居たからだといふが、いくら卜者ぼくしやの娘だつて、こけの烏のやうに雲ばかりを当にしたでは無からう。あれ程の真黒焦の焼餅やきな位だから、吾が夫のことでヒステリーのやうになると、忽ちサイコメトリー的、千里眼になつて、「吾が行へをぬ夢に見る」で、あり/\と分つて後追駈けたものであらうかも知れぬ。貞盛の妻もこゝでは憂き艱難しても夫にめぐりひたいところだ。やうやくめぐり遇つたとするとハッとばかりに取縋とりすがる、流石さすがの常平太も女房の肩へ手をかけてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の模様を語る。柔らかいしつとりとした情合の中から、希望の火が燃え出して、さては敵陣手薄なりとや、いで此機をはづさず討取りくれん、と勇気身にあふれて常平太貞盛が突立上つゝたちあがる、チョン、チョ/\/\/\と幕が引けるところで、一寸おもしろい。が、何の書にもかういふところは出て居ない。
 然し実際に貞盛は将門の兵のすくないことをば、何様どうして知つたか知り得たのである。将門精兵八千と伝へられてゐるが、此時は諸国へ兵を分けて出したので、旗本ははなはだ手薄だつた。貞盛はかねて糸を引きはかりごとを通じあつてゐた秀郷ひでさとと、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。将門の兵は千人に満たなかつたが、副将軍春茂(春茂は玄茂か)陣頭経明遂高かつたか、いづれも剛勇を以て誇つてゐる者どもで、秀郷等を見ると将門にも告げずに、それ駈散らせと打つてかゝつた。秀郷、貞盛、為憲は兵を三手みてに分つて巧みに包囲した。玄明等大敗して、下野下総ざかひより退いた。勝に乗じて秀郷の兵は未申ひつじさるばかりに川口村に襲ひかゝつた。川口村は水口村みづくちむらあやまりで下総の岡田郡である。将門はこゝで自から奮戦したが、官と賊との名は異なり、多とくわとのいきほひきそは無いで退いた。秀郷貞盛は息をつかせず攻め立てた。勝てば助勢は出て来る、負ければ怯気おぢけはつく。将門の軍は日に衰へた。秀郷の兵は下総の堺、即ち今の境町まで十三日には取詰めた。敵を客戦の地に置いて疲れさせ、吾が兵の他から帰り来るを待たうと、将門は見兵けんぺい四百を率ゐて、例の飯沼のほとり、地勢の錯綜さくそうしたところに隠れた。秀郷等は偽宮を焼立てゝ敵の威を削り気をくじいた。十四日将門は※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)島郡の北山にのがれて、く吾が軍来れと待ち望んで居た。大軍が帰つて来ては堪らぬから、秀郷貞盛は必死に戦った。此の日南風急暴に吹いて、両軍共にたてをつくことも出来ず、皆ばら/\と吹倒されてしまつた。人※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)相望むやうになつた。修羅心しゆらしんは互に頂上に達した。牙をみ眼をいからして、しのぎを削りつばを割つて争つた。こゝで勝たずに日がたてば、秀郷等はかへつて危ふくなるのであるから、死身になつて堪へ堪へたが、風は猛烈で眼もあけられなかつたため、秀郷の軍はつひに利を失つた。戦の潮合しほあひを心得た将門は、くつわつらね馬を飛ばして突撃した。下野勢は散※(二の字点、1-2-22)駈散けちらされて遁迷ひ、余るところは屈竟くつきやうの者のみの三百余人となった。此時天意かいざ知らず、二月の南風であつたから風は変じて、急に北へとまはつた。今度は下野軍が風の利を得た。死生勝負此の一転瞬の間ぞ、と秀郷貞盛は大童おほわらはになつて闘つた。将門も馬を乗走らせて進み戦つたが、たま/\どつと吹く風に馬がおどろいて立つた途端、猛風を負つて飛んで来たは、はつたとばかりに将門の右の額に立つた。憐れむべし剛勇みづからたのめる相馬小次郎将門も、こゝに至つて時節到来して、一期三十八歳、一燈たちまえて五彩皆空しといふことになつた。
 本幹すでに倒れて、枝葉まつたからず、将門の弟の将頼と藤原玄茂とは其歳相模国でられ、興世王は上総へ行つて居たが左中弁将末に殺され、遂高玄明は常陸で殺されてしまひ、弟将武は甲斐かひの山中で殺された。
 将門のむすめ地蔵尼ぢざうにといふのは、地蔵菩薩ぼさつを篤信したと、元亨釈書げんかうしやくしよに見えてゐる。六道能化のうげの主を頼みて、父の苦患くげんを助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、かへつて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田しのだの二郎将国まさくにといふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田しのだ」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸こぼくの味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人※(二の字点、1-2-22)の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎先生せんじやう義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。
 将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人※(二の字点、1-2-22)故平将門のなんの京に入ることをふと。そこで右衛門督朝忠に勅して、検非違使をしてさがし求めしめ、又延光をして満仲みつなか、義忠、春実はるざね等をして同じくうかがひ求めしむといふことが、扶桑略記の巻二十六に出てゐる。馬鹿※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)ばか/\しいことだが、此の様な事もあつたかと思ふと、何程都の人※(二の字点、1-2-22)が将門におびえたかといふことが窺知うかゞひしられる。菅公におびえ、将門に魘え、天神、明神は沢山に世にまつられてゐる。此中に考ふべきことが有るのではあるまいか。こんな事は余談だ、余り言はずとも「春は紺より水浅黄よし」だ。

(大正九年四月)




 



底本:「筑摩現代文学大系3 幸田露伴 樋口一葉集」筑摩書房
   1978(昭和53)年1月15日初版第1刷発行
   1984(昭和59)年10月1日初版第3刷発行
入力:志田火路司
校正:林 幸雄
2002年1月25日公開
2004年3月2日修正
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●表記について
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  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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