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石の思ひ(いしのおもい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:53:38  点击:  切换到繁體中文

底本: 坂口安吾全集 04
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年5月22日
入力に使用: 1998(平成10)年5月22日初版第1刷
校正に使用: 1998(平成10)年5月22日初版第1刷


底本の親本: 光 LACLARTE[#「E」はアキュートアクセント付きE、1-9-32] 第二巻第一一号
出版社:  
初版発行日: 1946(昭和21)年11月1日

 

私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であつたが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あつてもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違ふ。だから私の友人達が子供と二十五か三十しか違はないので子供達と友達みたいに話をしてゐるのを見ると変な気がするので、私と父にはさういふ記憶が全くない。
 私の父は二三流ぐらゐの政治家で、つまり田舎政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらゐ代議士に当選して地方の支部長といふやうなもの、中央ではあまり名前の知られてゐない人物であつた。しかし、かういふ人物は極度に多忙なのであらう。家にゐるなどといふことはめつたにない。ところが私の親父は半面森春涛門下の漢詩人で晩年には「北越詩話」といふ本を三十年もかゝつて書いてをり、家にゐるときは書斎にこもつたきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであつた。女中が旦那様がお呼びですといつて私を呼びにくる、用件は分つてゐるのだ、墨をするのにきまつてゐる。父はニコリともしない、こぼしたりすると苛々いらいら怒るだけである。私はたゞしやくにさはつてゐたゞけだ。女中がたくさんゐるのに、なんのために私が墨をすらなければならないのか。その父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、その外の場所では年中顔を見るといふこともなかつた。
 だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考へるであらうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらゐ呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言はれて腹を立てゝ引上げてくるだけで、父の愛などと云へば私には凡そ滑稽な、無関係なことだつた。幸ひ私の小学校時代には今の少年少女の読物のやうな家庭的な童話文学が存在せず、私の読んだ本といへば立川文庫などといふ忍術使ひや豪傑の本ばかりだから、さういふ方面から父親の愛などを考へさせられる何物もなかつた。父親などは自分とは関係のない存在だと私は切り離してしまつてゐた。そして墨をすらされるたびに、うるさい奴だと思つた。威張りくさつた奴だと思つた。そしてともかく父だからそれだけは仕方がなからうと考へてゐたゞけである。
 子供が十三人もゐるのだから相当うんざりするだらうが、然し、父の子供に対する冷淡さは気質的なもので、数の上の関係ではなかつたやうだ。子供などはどうにでも勝手に育つて勝手になれと考へてゐたのだらうと思ふ。
 たゞ田舎では「家」といふものにこだはるので、「家」の後継者である長男にだけは特別こだはる。父も長兄には特別心を労したらしいが、この長兄は私とは年齢も違ひ上京中で家にはをらなかつたから、その父と子の関係もよく知らない。たゞ父の遺稿に、わが子(長男)を見て先考を思ひ不孝をわびるといふやうな老後の詩があり、親父にそんな気持があつたかね、これは詩の常套の世界にすぎないのだらうと冷やかしたくなるのだが、然し、父の伝記を読むと、長男にだけはひどく心を労してゐたことが諸家によつて語られてゐる。父の莫逆ばくげきの友だつた市島春城翁、政治上の同輩だつた町田忠治といふやうな人の話に、長男のことを常に呉々くれぐれも頼んでをり、又、長男のことを非常によく話題にして、長男にすゝめられて西洋の絵を見るやうになつたとか、登山に趣味を持つやうになつたとか、そんなことまで得々と喋つてゐるのであつた。これは私にとつては今もつて無関係の世界であり、父はともかく「家」として兄に就て考へてをつたが、私にとつては、父と子の関係はなかつた。私にとつては、父のない子供より父が在るだけ父に就て無であり、たゞ墨をすらせる不快な老人を知つてゐただけであつた。
 私の家は昔は大金満家であつたやうだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言はれたさうだが、父が使ひ果して私の物心ついたときはひどい貧乏であつた。まつたくひどい貧乏であつた。借金で生活してゐたのであらう。尤も家はひろかつた。使用人も多かつた。出入りの者も多かつたが、それだけ貧乏もひどかつたので、母の苦労は大変であつたのだらう。だから母はひどいヒステリイであつた。その怒りが私に集中してをつた。
 私は元来手のつけられないヒネクレた子供であつた。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセてゐて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしてゐた。私が生れたとき、私の身体のどこかゞ胎内にひつかゝつて出てこず母は死ぬところであつたさうで、子供の多さにうんざりしてゐる母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもつたやうだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。
 私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでゐた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでゐるのではないので、書いてあることが面白いから熟読してをり、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載つてゐた。私は小説は読まなかつた。面白くなかつたのだ)を読み、角力すもうの記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいつてをり、この絵がひどく魅力であつたのを忘れない。私は小学校時代は一番になつたことは一度もない。一番は必ず山田といふお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫といふ左翼の評論家か何かになつた人である)といふ人で、私はたいがい横山にも負けて三番であつたやうに記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであつた。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用ひるから、いつも憎まれ、着てゐる着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のやうな破れた着物をきてゐた。そして、夜になつて家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合ふことであつた。
 私の母を苦しめたのは貧乏と私だけではないので、そのころは母に持病があつて膀胱結石といふもので時々夜となく昼となく呻り通してゐる。そのうへ、私の母は後妻で、死んだ先妻の子供に母といくつも年の違はぬ三人の娘があり(だから私の姉に当るこの三人の人達の子供、つまり私には姪とか甥に当る人達が実は私よりも年上なのである)この三人のうち上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持つて遊びにくる、私の母が半気違ひになるのは無理がないので、これがみんな私に当ることになる。私は今では理由が分るから当然だと思ふけれども、当時は分らないので、極度に母を憎んでゐた。母の愛す外の兄妹を憎み、なぜ私のみ憎まれるのか、私はたしか八ツぐらゐのとき、その怒りに逆上して、出刃庖丁をふりあげて兄(三つ違ひ)を追ひ廻したことがあつた。私は三つ年上の兄などは眼中に入れてゐなかつた。腕力でも読書力でも私の方が上である自信をもち、兄のやうな敬意など払つたことがなかつた。それほど可愛らしさといふものゝない、たゞ憎たらしい傲慢なヒネクレ者であつた。いくらか環境のせゐもあつても、大部分は生れつきであつたと思ふ。そのくせ卑怯未練で、人の知らない悪事は口をぬぐひ、告げ口密告はする、しかも自分がそれよりも尚悪いことをやりながら、平然と人を陥入れて、自分だけ良い子になり、しかも大概成功した。なぜなら、子供のしわざと思へぬほど首尾一貫し、バレたときの用心がちやんと仕掛けてあり、大概の人は私を信用するのであつた。私は大概の大人よりも狡猾であつたのである。
 八ツぐらゐの時であつたが、母は私に手を焼き、お前は私の子供ではない、貰ひ子だと言つた。そのときの私の嬉しかつたこと。この鬼婆アの子供ではなかつた、といふ発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいつたとき、どこかにゐる本当の母を考へていつも幸福であつた。私を可愛がつてくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであつた。それは後年、母の口からきいて分つた。母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変つたのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛してゐた子供はなかつたのである。母のためには命をすてるほど母を愛してゐた。その私の気質を昔から知つてゐたのは先妻の三番目の娘に当る人で、上の二人は母を殺さうとしたが、この三番目は母に憎まれながら母に甘えよりかゝつてゐた。その境遇から私の気質がよく分り、私が子供のとき、暴風の日私が海へ行つて荒れ海の中で蛤をとつてきた、それは母が食べたいと言つたからで、母は子供の私が荒れ海の中で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた。

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