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石の思ひ(いしのおもい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:53:38  点击:  切换到繁體中文


          ★

 私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部分が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じてゐた。私は父を知らなかつた。そこで私は伝記を読んだ。それは父の中に私を探すためであつた。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。父に就て長所美点と賞揚せられてゐることが私にとつては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであつた。
 父は誠実であつた。約をまもり、嘘をつかなかつた。父は人のために財を傾け、自分の利得をはからなかつた、父は人に道をゆづり、自分の栄達をあとまはしにした。それは全て父の行つた事実である。そしてそれは私に於てその逆が真実である如く、父に於ても、その逆が本当の父の心であつたと思ふ。父は悪事のできない男であつた。なぜなら、人に賞揚せられたかつたからである。そしてそのために自分を犠牲にする人であつたと私は思ふ。私自身から割りだして、さう思つたのである。
 私は先づ第一に父のスケールの小さゝを泣きたいほど切なく胸に焼きつけてゐるのだ。父は表面豪放であつたが、実はうんざりするほど小さな律義者でありながら、実は小さな悪党であつたと思ふ。
 私がなぜ殆ど私の無関係なこの老人をスケールの小さゝで胸に焼きつけてゐるかといふと、私は震災のとき、東京にをり、父はもう死床に臥したきり動くことができなかつた。私は地震のときトラムプの一人占ひをやつてゐると、ガタ/\ゆれて壁がトラムプを並べた上へ落ちた。立上つて逃げだすと戸が倒れ、唐紙、障子が倒れ、それをひよろ/\とさけながら庭へ下りると瓦が落ちてくる、私は父を思ひだして寝室へはいると、床の間の鴨居が落ちてをり、そこで父の枕元の長押なげしを両手で支へてゐたことを覚えてゐる。
 その翌日であつたと思ふ。私は父に命ぜられて火事見舞に行つた。加藤高明と若槻礼次郎を訪れたのである。若槻礼次郎邸では名刺を置いてきたゞけだつたが、加藤高明のところでは招ぜられて加藤高明に会ひ、一中学生の私に丁重極まる言葉で色々父の容態を質問された。私はもう会話も覚えてをらぬ。全てを忘れてゐるが、私はこの大きな男、まつたく、入道のやうな大坊主で、顔の長くて円くて大きいこと、海坊主のやうな男であつたが、ひどく大袈裟な物々しい男のくせに、私と何の距てもない心の幼さが分るやうであつた。私の父は頑固で物々しく気むづかしく、そのへんの外貌は似たところもあつたが、私の父の方がもつと子供つぽいところがあつた。然し私の父の本当の心は私と通じる幼さは微塵もなかつた。父は大人であつた。夢がなかつた。加藤高明には、妙な幼さが私の心にやにはに通じてきた。私はすぐホッとした気持になつてゐた。そして私の父のスケールの小さゝを痛切に感じたのである。私はそのとき十八であつた。
 父は客間に「七不堪」といふ額をかけて愛してゐたが、誰だか中国人の書いたもので、七の字が七と読めずに長の字に見え、誰でも「長く堪へず」と読む。客がさう読んで長居をてれるからをかしいので父は面白がつてゐたが、今では私がたつた一つ父の遺物にこれだけ所蔵して客間にかけてゐる。又父はその蔵書印に「子孫酒に換ふるもまた可」といふのを彫らせて愛してをり、このへんは父の衒気げんきではなく多分本心であつたと思ふが、私も亦、多分に通じる気持があり、私にとつてもそれらが矢張り衒気ではないのだが、決して深いものではなく、見様によつては大いに空虚な文人趣味の何か気質的な流れなので、私はいつも淋しくなり、侘しくなり、そして、なさけなくなるのである。
 私の父は代議士の外に新聞社長と株式取引所の理事長をやり、私慾をはかればいくらでも儲けられる立場にゐたが全く私慾をはからなかつた。又、政務次官だかに推されたとき後輩を推挙して自分はならなかつた。万事やり方がさうで、その心情は純粋ではなかつたと思ふ。本当の素直さがなかつたのだと私は思ふ。その子供のそしてさういふ気質をうけてゐる私であるゆゑ分るのだ。私の父は酒間に豪快で、酔態淋漓りんり、然し人前で女に狎れなかつたさうであるから私より大いに立派で、私はその点だらしがなくて全く面目ないのだが、私は然し酒間に豪放磊落らいらくだつたといふ父を妙に好まない。
 私は父の伝記の中で、父の言葉に一つ感心したところがあつて、それは取引所の理事長の父がその立場から人に言ひきかせたといふ言葉で、モメゴトの和解に立つたら徹夜してでも一気に和解させ、和解させたらその場で調印させよ、さもないと、一夜のうちに両方の考へがぐらつき又元へ逆戻りするものだ、と言ひきかせてゐたさうだ。私は尾崎士郎と竹村書房のモメゴトの時、私が間に立つて和解させたが、その場で調印を怠つたために翌日尾崎士郎から速達がきて逆戻りをし、親父の言葉が至言であるのを痛感したことがあつた。そして私は又しても親父の同じ道を跡を追つてゐる私を見出して、非常に不愉快な思ひがしたものであつた。
 父の伝記の中で、私の父が十八歳で新潟取引所の理事の時、十九歳で新潟新聞の主筆であつた尾崎咢堂がくどうが父のことを語つてゐる話があり、私の父は咢堂の知る新潟人のうち酔つ払つて女に狎れない唯一の人間だつたさうだが、それにつけたして「然し裏面のことはどうだか知らない」と咢堂は特につけたしてゐるのである。咢堂といふ人は何事につけても特にかういふ注釈づきの見方をつけたさずにゐられぬ人で、その点政治家よりも文学者により近い人だ。見方が万事人間的、人性的なので、それを特につけたして言ひ加へずにゐられぬといふ気質がある。私の親父にはそれがない。ところが私にはそれが旺盛で、その点では咢堂の厭味を徹底的にもつてゐる。自分ながらウンザリするほど咢堂的な臭気を持ちすぎてゐる。そして私は咢堂によつて「然し裏面のことは知らない」とつけたされてゐる父が、まるで私自身の不愉快な気質によつて特に冒涜されてゐるやうで、私は父に就て考へるたびに咢堂の言葉を私に当てはめて思ひ描いて厭な気持になるのであつた。だから私は、私自身の体臭を嫌ふごとくに咢堂を嫌ふ気持をもつてゐる。私の父は咢堂の辛辣さも甘さも持たなかつた。咢堂が二流の人物なら、私の父は三流以下のボンクラであつた。
 私は父の気質のうちで最も怖れてゐるのは、父の私に示した徹底的な冷めたさであつた。母と私は憎しみによつてつながつてゐたが、私と父とは全くつながる何物もなかつた。それは父が冷めたいからで、そして父が、私を突き放してゐたからで、私も突き放されて当然に受けとつてをり、全くつながるところがなかつた。
 私は私の驚くべき冷めたさに時々気づく。私はあらゆる物を突き放してゐる時がある。その裏側に何があるかといふと、さういふ時に、実は私はたゞ専一に世間を怖れてゐるのである。私が個々の物、個々の人を突き放す時に、私は世間全体を意識してをり、私は私自身をすら突き放して世間の思惑に身売しようとする。私は父がさうであつたと思ふ。父は私利、栄達をはからなかつたとき、自分を突き放して、実は世間の思惑に身売りしてゐたやうに思ふ。私の親父は田舎政治家の親分であり、そしていゝ気になつてゐた。

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