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二合五勺に関する愛国的考察(にごうごしゃくにかんするあいこくてきこうさつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 6:12:33  点击:  切换到繁體中文

底本: 坂口安吾全集 04
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年5月22日
入力に使用: 1998(平成10)年5月22日初版第1刷
校正に使用: 1998(平成10)年5月22日初版第1刷


底本の親本: 女性改造 第二巻第二号
出版社:  
初版発行日: 1947(昭和22)年2月1日

 

元和寛永のころというと、今から三百二三十年前のことだが、切支丹キリシタンが迫害されておびたゞしい殉教者があったものだ。幕府の方針は切支丹を根絶しようというのだが、みんな殺そうというのではないので、転向すれば即座にかんべんしてくれるのだから、ひところの共産党の弾圧よりもらくだ。転向してもまだ何年か牢屋に入れておくということはやらぬ。そのかわり転向しないと必ず殺す。懲役二十年、十五年などとこまかく区別はつけず、例外なしに殺すのだから、全部か皆無か、さっぱりしていて、われわれの常識では、もっとも大いにあっさりと転向したろうとおもうと、そうではない。何万かの人間がもっとも大いによろこんで殺されたというから、勝手がちがうのである。
 この殺しかたにもいろいろとあって、はじめは斬首であったが嬉々として首をさしのべ、ハリツケにかければゼススさまとおなじ死にかただと勇みたつ始末だから、火あぶりにした。苦しめて殺してやれというので、すぐ火に焼けて死なゝいように一間ぐらいはなして薪をつんで火をつけ、着物に火がつくと消してやって長く苦しめるというやりかただが、苦しむのが一時間から数時間、死にいたるまで朗々と祈祷をとなえるもの、観衆に説教するもの、子をだく母は子供だけは苦しめまいとかばいながら、我慢をおし、今にゼススさま、マリヤさまのみもとへゆけるのだからとわが児に叫ぶ。その荘厳には、観衆にまぎれて見物の信徒はますます信教の心をかため、縁のない観衆も死刑執行の役人どもまで、感動してかえって信仰にはいるものが絶えないという始末であった。
 温泉岳の熱湯ぜめといって、噴火口の熱湯へ縄にくゝってバチャンと落してひきあげ、また、落し、また、ひきあげる。背中をさいて熱湯をそゝぐというのもある。熱湯のかわりに煮えた鉛をそゝぐのもある。鋸で、手と足を一本ずつひき落して、最後に首をひくというのもある。手の指を一本ずつ斬り、つぎに耳を、つぎには鼻をそぐという芸のこまかいのもある。蓑踊りと称するのは、人間を俵につめ、首だけださせて、俵に火をつける。俵のなかのからだが蓑虫のようにビクビクもがくところから蓑踊りと称したという。
 最後に穴つるしというのを発明した。手足を特別な方法で後方に縛して穴の中へ吊りさげるもののようだが、具体的な方式は各人各説、ハッキリしていないようだ。これをやると三四日から一週間ぐらい生きている。そして、へんなふうにもがきつゞけている。妙チキリンなもがきかたで、見ていると、おかしくなり、ばかばかしくなるばかりで、第一、例の祈祷を唱え、説教するための荘厳なるこえがでない。異様に間抜けた呻きごえがもれるばかり、およそ死の荘厳というものがみじんもないから、見物の信徒もうんざりしてしまう。そのために、この穴吊しの発明以来、信徒がめっきりと減り、たちまちにして切支丹は亡びてしまったという。もっとも転向のふりをして踏絵をふみ、家にかえってマリヤ観音にお詫びをするという潜伏信徒は、明治にいたるまでつゞいていたのである。
 つまり穴つるしという発明によって刑死の荘厳を封じたのが、信教絶滅の有力な原因だったといっぱんに解釈せられているのである。時間の問題もあったであろう。時間に勝ちうる人の心はありえないから。しかし、穴つるしがその時間を早めたことも事実ではあった。

          ★

 こういう異常な殉教の事実をふりかえると、まるでわれわれは別人種の壮烈な信仰と魂を見るような、手のとゞかない感じがする。
 ところが幕末になって、欧米との交渉が再開し、日本在住の外人のために天主堂の建設が許されて、第一に横浜に、つぎに長崎の大浦に天主堂ができた。横浜のはなくなったが、大浦のは現存し(もっとも戦争でどうなったかは私は知らない)、日本最古の教会、また、洋風の美建築として国宝に指定せられている。
 この教会は日本在住の外人のためにのみ建てられたもので、日本人の信仰は、依然許されていなかった。もっとも見物は許されて、もの好きな日本人のことだから連日見物人のあとを絶つことがなかったが、それらの日本人にむかって神父の説教は厳禁せられていた。
 ある日、十何人かの老幼男女の一団がやってきた。あちこち堂内を見物していたが、ほかに見物人のいないのを見ると、突然プチジャン神父のもとへ歩み寄って、マリヤさまはどこ? ときく。マリヤの像の前へ案内すると、あゝ、ほんとにマリヤさま、ゼススさまをだいていらっしゃると、なつかしげに叫んだが、やがてみなみなひざまずいて祈りはじめてしまった。
 彼らがプチジャン神父の問いに答えて告げたことは、彼らは浦上のものであり、浦上の村民のほゞ全数は元和寛永のむかしから表むき踏絵をふみ、仏徒のふりをしながら、ひそかにマリヤ観音を拝み、二百余年の潜伏信仰をつたえている、ということだった。話の途中、見物人のくる気配につとはなれて、なにくわぬふうをして、かえっていったという。これが日本における切支丹復活の日だ。
 この日から、神父と浦上部落とに熱烈な関係ができたのはいうまでもない。そのうちに明治となり、この事実が発覚した。明治政府はまだ信仰の自由を許しておらぬ。例の王政復古というやつで、宗教は神道ひとつ、仏教もつぶしてしまえという反動時代だったから、切支丹の復活を許すだんではなかった。何千という浦上部落の信徒が老幼男女一網打尽となり、多すぎて牢舎の始末もつかぬから、いくつかの藩に分割して牢にこめられ、とり調べをうけ、棄教をせまられる。
 寒ざらし、裸にして雪の庭へ坐らせるなどとそうとうの拷問もあったようだ。ところが拷問によっては、いっかな棄教せぬ。例の祈祷を唱え、痛苦に堪え、痛苦の光栄に陶酔するものゝごとくますます信仰をかためるというぐあいである。こゝまでは、元和寛永のむかしとかわらぬ。
 ところが、こゝに、意外なことが起った。肉体に加えられる残虐痛苦に対してますます信念をかためるごとき彼らが、たわいもなく何百人、一時に棄教を申しでるというおもわぬことが起って、役人をまごつかせたのである。
 ことの起りは空腹に堪えかねたのだ。そして悲鳴をあげてしまった。身に加わる残虐痛苦にはその荘厳と光栄がかえって彼らを神に近づけてくれたが、無作意な、なんの強要もない食糧の配給に、そして、その量のたくまざる不足に、強要せられずして神からはなれてしまったのである。その食糧は決して少い量ではなかった。彼らの配給は正確に一人一日あたり三合であった。役人たちは食物によって棄教せしめることなど空想もしていなかったので、規定どおりの三合を与え、頭をはねたりはしなかった。今とちがって、米のない時世ではなかったから。そして、雪の上へ裸で坐らせて、そっちの方法で棄教させようと大汗を流していたのであった。

          ★

 農民は一升めしが普通だという。切支丹農民でもやっぱり一升めしの口であったのだろう。それにしても、拷問に屈せぬ彼らが三合の配給に神をうらぎったとは夢のようだ。しかし、みじんも嘘ではない。『浦上切支丹史』に書かれている事実だ。
 二合五勺配給のわれわれはどうにも信じようがなくなるのは無理もない。われわれはついさきごろまでは二合一勺だの、そのうえ、その欠配が二十日もつゞいていたのだから。しかるにわれわれは暴動も起しておらぬ。拷問よりも三合の米に降参したという浦上切支丹の信仰が、だらしがなかったのではなかろう。要するに、戦争というものが、信仰などより、ケタちがいに深遠巨大な魔物であるからに相違ない。われわれは、このふしぎさを自覚していないだけだ。勝手に戦争をはじめたのは軍部で、勝手に降参したのも軍部であった。国民は万事につけて寝耳に水だが、終戦が、しかし、自分の意志でなかったという意外の事実については、おゝむね感覚を失っているようである。
 国民は戦争を呪っていても、そのまた一方に、もっと根底的なところで、わが宿命をあきらめていたのである。祖国の宿命と心中して、自分もまた亡びるかも知れぬ儚さを甘受する気持になっていた。理論としてどうこうということではない。誰だって死にたくないにきまりきっている。それとは別に、魔物のような時代の感情がある。きわめて雰囲気的な、そこに論理的な根柢はまったく稀薄なものであるが、ぬきさしならぬ感情的な思考がある。
 家は焼かれ、親兄弟、女房、子供は焼き殺されたり、粉みじんに吹きとばされたり、そういう異常な大事にもほとんど無感覚になっている。人ごとではない。自分とて今日明日死ぬかも知れず、いな、昨日死なゝかったのがふしぎな状態を眼前にしながら、その戦争をやめたいとみずから意志することは忘れていたのである。
 忘れていたのではない、その手段がありえなかったからあきらめていたのだといっても、おなじことで、要するにあきらめていた。勝手に戦争をやめ、降参したのは、まさしく天皇と軍人政府で、国民の方はおゝむね祖国の宿命と心中し、上陸する敵軍の弾丸、爆弾、砲弾の隙間をうろうろばたばた、それを余儀ないものにおもっていたのだ。
 もとよりそれは本心ではない。人間の本心というものは、こればかりはわかりきっているのだから。曰く、死にたくない、ということ。けれども、本心よりも真実な時代的感情というものがある。人の心には偽りがあり、その偽りが真実のときは、真実が偽りでありうることもある。人の心は儚い。心の真実というものが儚いのだ。
 戦争中のわれわれは、たゞ宿命の子供であったから、それで二合一勺ぐらいの配給に不足もいわず、芋だの豆の差引だの、欠配だの、そういうことに不平や呪いがあるにしても、同時にあきらめていたのである。不平や呪いは自我のこえであるが、自我はすでに影であり、宿命の子供が各人ごとの心に誕生して、その別人が思考し、生活していたからであった。

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