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二合五勺に関する愛国的考察(にごうごしゃくにかんするあいこくてきこうさつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 6:12:33  点击:  切换到繁體中文


          ★

 戦争は終った。しかし、戦争の宿命の子供はまだわれわれの自我と二重の生活をしており、主としてわれわれはまだ今日も宿命の子供で、ほんとうの自我ではないらしい。それは当然の話で、われわれの周囲は焼け野原であり、交通機関はヨタヨタし、要するに、バクダンはなくなったが、まだわれわれはまったく戦争の荒廃の様相のなかにいるからだ。われわれはあきらめているのだ。いな、われわれ自身が考えるさきに、われわれの心のなかで、別人があきらめてしまっている。戦争に負けた。ない袖はふれぬ。二合五勺の、それに芋がまじっても、しかたがない、と。
 戦争中そうであったごとく、われわれは今もなお、自我よりもむしろ宿命の子供であり、祖国の悲劇的な宿命にみずから殉じているのである。だからわれわれは二合五勺に芋がまじっても、暴動も起さない。われわれすべてが、殉国者である。
 残虐無慙な拷問に堪え、嬉々として命をさゝげた魂が、三合の配給で神をうらぎったという。拷問のかずかずとその殉教のはげしさ、その歴史的断片だけをきりはなすと、われわれのぐうたらな生身のからだは手がとゞかなくなるのだけれども、実は彼らにも、やっぱり、ぐうたらな生身のからだがあったのである。
 そしてわれわれの世代には、信教のためではなく、祖国のために、何百万かの人々が死んだ。彼らは必ずしも嬉々としては死ななかったに相違ない。あるものは大いに祖国を呪いながら死んだかも知れぬ。それはおそらく切支丹の殉教の際も同様であったに相違ない。なかには神を呪いつゝ死んだものもありえたはずだ。そして彼らがもし生き残れば、復員してヤミ屋となったり、泥坊になったかも知れず、それが切支丹の場合であっても同様に棄教してなにものになったかわからない。
 三合の空腹に神を売った何百人かも、もし食物に困らなければ、拷問に死んで殉教者となったかも知れぬ。しかし、われわれが、現に二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国をうらぎっておらぬことだけはまちがいがない。つまりわれわれは過去の歴史が物語るもっとも異常、壮烈な殉教者よりも、さらにはなはだしく、異常にして壮烈な歴史的人間であった。
 しかしわれわれはその異常さも壮烈さも気づきはしない。なぜならわれわれの日常はぐうたらで、ヤミの買出しにふんづかまってドヤされたり、電車のなかで突きとばしたり、突きとばされたり、三角くじを何枚買ってもタバコがあたらず女房になぐられ、その日常の生活からは、異常にして壮烈なる歴史的人格などは、いっこうに見あたるよしもないからである。
 しかし、われわれが日本カイビャク以来の異常児であり、壮烈児であることはまちがいがない。なぜなら、切支丹は三合で神を売ったが、われわれは二合一勺の、そのまた欠配つゞきでも、祖国を売らなかったからである。この事実は、すべてが公平な歴史となったときに、後世が判定してくれるはずである。
 歴史と現実とは、かくのごとくに、まったく質がちがっている。現実というものは、いかなるときでも、いっこうにみずからの歴史的な機会のごときものを自覚しておらず、つねに居眠ったり、放尿したり、飲んだくれたりするたゞの人間であることを免れず、ぐうたらで、だらしがないものだ。歴史の人物は歴史のうえで、歴史的にしか生活していないが、現実の人間というものは、主として夫婦喧嘩だの、三角くじの残念無念だの、酔っぱらって怪我をしたのと、あさましいことばかりで、二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国を売らなかった歴史的美談のごときは、みずから意志した気魄のあらわれではなかった。彼らは配給の行列で配給係のインチキを呪ったり、ときには大いに政府の無能を痛罵して拍手カッサイしている自分の方を自分だとおもっており、カイビャク以来の大奇怪事を黙認して、二合一勺のそのまた欠配だの、焼けだされの無一物に暴動も起さぬ自分を自覚してはいない。そしてかゝる無自覚な面が歴史的に復活しておもいもよらないカイビャク以来の愛国者になるであろうということなどは、もとより夢にもおもわない。
 現実はかくのごとく不安定ではあるが、また、不逞にして、ぐうたらで、健康なものだ。歴史は病的なものであり、畸形で、歪められているのである。すなわち、歴史的事実だけで独立して存し、特殊な評価を強いている。
 それは歴史のみのカラクリではなく、現実もまた歴史化することが可能だ。軍神などゝいうものをデッチあげて、歴史化する。美談はおゝむね歴史化であり、偉人も悪党も、なべて同時代の人間の語りぐさもあらかたそうであり、ぐうたらで、だらしがないのは自分とその環境だけ、そして環境をではずれると、現実もまた、歴史的にしか実在していないものだ。

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 私は本来世に稀れなぐうたらもので、のんだくれで、だらしがないから、切支丹の殉教の気魄などには大いに怖れをなして、わが身のつたなさを嘆いていたのであったが、この戦争によって、にわかに容易ならぬ自信をえた。それは要するに、例の二合一勺と切支丹の三合に瞠目した結果にほかならぬのだが、私といえども、二合一勺のそのまた欠配つゞきでも祖国を売らなかったカイビャク以来の歴史的愛国者であることを自覚したからであった。
 おもえば私はおもしろがって空襲を見物して、私自身も火と煙に追いまくられて逃げまわったり、穴ボコへ盲滅法とびこんで耳を押え、目を押えて突然神さまをおもいだしたり、そういうことも実際はさして身につまされておらず、戦争中も相かわらずつねにぐうたらで、だらしがなかった。
 それにもかゝわらず、戦争というやつは途方もない歴史的な怪物、カイビャク以来の大化けものであったに相違なく、諸方の戦地で何百万の人々が死んだが、私自身の周辺でも、四方の焼跡で、たぶんさほど祖国も呪わず宿命的、いわば自然的にたゞ焼け死んだ大きな焼鳥のような無数の屍体も見たのである。吹きちぎられた手も足も見たし、それを拾いあつめもした。まったく無感動に、今晩の夕食の燃料のために焼跡の枯木を盗みにゆくよりもはるかに事務的な無関心で、私は屍体を見物し、とりかたづけていたのである。
 そのこと自体がカイビャク以来の大事であり、私自身が歴史的な一大異常児であることを、そのときどうして気づきえたであろうか。私はたゞ、ぐうたらな怠けもので飲んだくれで、同胞の屍体の景観すらも酒の肴にしかねない一存在でしかなかった。その私すら、しかし、歴史的に異常にして壮烈な愛国者として復活しうるという、歴史のカラクリと幻術を、私は今、私自身について信じることができる。
 私はしかし歴史の虚偽を軽蔑しようとはおもわない。知識ほど不安定なものはないからである。文化人よりも未開人の方が安定しているに相違ない。都会人よりも農村人の方がより少ししか戦争の雰囲気や感情にまきこまれなかったに相違ない。そのかわり終戦後の変化にも、都会人はすぐ同化しえても、農村人はなかなか同化しないに相違ない。文化的に未開なものほど安定しているものなのだ。
 歴史も知識の所産であって、したがって不安定で、必ずしも歴史的に安定するという絶対性をもつことはできぬ。その意味において、歴史的虚偽は虚偽なりに、われわれの現実とも相応しているからであった。そしてわれわれの現実は、これまた、安定してはおらぬ。知識はつねに不安定で、つねに定まる実体がない。
 私はしかし、そういう屁理窟はとにかくとして、私がカイビャク以来の愛国者で、二合一勺のそのまた欠配つゞきに暴動ひとつ起さなかった歴史的人格の一人であったという発見に大いに気をよくしているのである。
 そればかりではない。私は今もあいにく生きているゆえに天下に稀れなぐうたらものであるけれども、三四年前戦地にあれば殉国の愛国者でありえたかも知れぬ。いな、必ずありえたはずである。私は今朝の新聞に、カラフトの郵便局の九人の女事務員が、ソビエト軍の攻げきに電信事務を死守し、いよいよ砲弾が四辺に落下しはじめたとき、つぎつぎに服毒しておのおのの部署に倒れていったという帰還者の報告を読んだ。もしも殉国の九人の彼女らが今日もなお生きていたなら、今日なにものとなっているか、その想像を怖れる必要はないのだ。人間はそういうものだ。歴史的美談を怖れる必要もなく、また、われわれの現実のぐうたらを怖れる必要もない。すべてはおなじもの、人間、たゞ、それだけなのである。
 だから私は近ごろでは、もう切支丹の殉教の気魄などにはいっこうにおどろかず、善人だの忠臣だのにおどろかず、あべこべにたいへんな鼻息で、ときには御機嫌のあまり、『日本の悲惨なる敗北と、愛国者坂口安吾氏の偉大なる戦記』などゝいう一大叙事詩をものしてやろうかなどゝ途方もない料簡を起したりする。
 算術の達人があらわれて、浦上切支丹の三合と、私の二合一勺との歴史的価値の差異軽重について意外な算式と答を見つけだしても、私はいっこうに悪びれないのは、私は算術の公式にない詭弁の心得があるからで、曰く、私は私だ、ということ、つぎに、すべては、たゞ人間だ、ということ、これである。
 されば今日二合一勺のそのまた欠配に暴動を起さなかった諸嬢諸氏すべて偉大なる殉国者であり、その愛国の情熱はカイビャク以来のものであることを確信し、今日諸嬢諸氏の現身がいかほどぐうたらでだらしなくとも、断々乎として、自信、自愛せられんことを。げに人間はぐうたらであり、偉大であります。





底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「女性改造 第二巻第二号」
   1947(昭和22)年2月1日発行
初出:「女性改造 第二巻第二号」
   1947(昭和22)年2月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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