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旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)05 第五話 三河に現れた退屈男

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 10:22:45  点击:  切换到繁體中文


       二

「伸びたか。面倒なことになりそうじゃな」
 同時に退屈男もそれと知るや、早くも事のもつれそうなのを見てとって、手にしていた釣竿をゆらりゆらりとしなわせながら、のっそりと立ち上がりました。まことにまたこの位、面倒なことになってはなるまいと願っても、ならないではいられない出来事というものもないのです。一方は農夫、一方は切捨御免、成敗勝手次第のお武家である上に、挑みかかった方が、また一刀両断、無礼打ちにされても文句の言えぬその農民の農馬であってあれば、結果は元より歴然。――だが不審なのは、それまで殊のほか温順だった黒鹿毛が、なにゆえにかくも狂おしく弾(はず)み出したか、その原因が謎でした。不思議に思ってのっそり歩みよりながら、よくよく見眺(なが)めると、無理ない。まことに天地自然玄妙(げんみょう)摩珂(まか)不思議、畜生ながら奴等もまた生き物であって見れば甚だ無理がないのです。竿立ちになって躍(おど)り上った二頭の早馬は、なんと剛気なことにも、二頭共々々揃いに揃って、あやかに悩(なや)ましい牝馬(めうま)なのでした。しかも挑みかかった黒鹿毛がまた、いちだんと不埒(ふらち)なことには、かしこのあたりも颯爽として、いとも見事な牡馬(おうま)なのです。
「わははははは、左様か左様か。畜生共に恋風が吹きおったかい。わははは、わははは。道理でのう、道理でのう、いや、無理もないことじゃ、牝と牡なら至極無理もないことじゃ」
 カンカラと声を立てて退屈男は、傍若無人に笑いました。しかし、笑っていられないのはふり落された二人です。退屈男のその大笑いを、己れ達に加えられた嘲笑とでも勘違いしたのか、果然その満面に怒気を漲らせると、身も心もないもののように只おろおろと打ち慄えていた若者の近くへ、大刀をひねりひねり歩みよりながら、鋭くあびせかけました。
「出いッ、百姓! 前へ出い!」
「相すみませぬ。ご勘弁なすって下さいまし。これがわるいのです、この、黒めが、黒の奴がわるいのです。お許し下されまし。どうぞ御勘弁なすって下さいまし……」
「馬、馬、馬鹿を申すなッ。馬のせいにするとは何ごとじゃ! 己れが乗用致す馬が暴れ出さば、御する者がこれを制止すべきが当り前、第一下民百姓の分際で、武士が通行致す道先に、裸馬など弄ぶとは無礼な奴じゃ! 出い! 出い! 前へ出い! 覚悟があろう! 神妙に前へ出い!」
「そ、そ、そこをどうぞ御勘弁なすって下さいまし。このような下郎風情を斬ったとても、お刀の汚れになるばかりでござります。以後充分に気をつけますゆえ、お許し下さいまし。不憫(ふびん)と思うてお見のがし下さいまし……」
「ならぬわッ。武士にかような恥掻かした上は、下郎なりともその覚悟がある筈じゃ! 泣きごと言わずと前へ出いッ、潔よう前へ出いッ」
 どうでも無礼討ちに成敗せねば、醜態を演じた己れ達の面目が立たぬと言わぬばかりに、蟀谷(こみかみ)のあたりをぴくぴくさせて、プツリと鯉口切りながらにじり出たのを、片手にふわりふわりと長い釣の道具を打ち握ったままで、笑い笑い割って這入ったのはわが退屈男です。
「飛んだお災難でござったな。何とも御愁傷(ごしゅうしょう)の至りでござる。わははは、わははは、黒めがなかなか味を致しましたわい。どうでござるな、御怪我はござらなかったかな」
「………?」
「いや、お気にかけずに、お気にかけずに。身共笑うたのは尊公方の落馬ぶりが見事でござったゆえではない。あれなる黒めが、人前も弁(わきま)えず怪しからぬ振舞い致そうとしたのでな、それがおかしいのじゃ。尊公方もとくと御覧じ召されよ。自然の摂理と申すものは穴賢(あなかしこ)いものじゃ。黒めが、やわか別嬪(べっぴん)逃(の)がすまじと、ほら、のう、あの通り今もなおしきりと弾(はず)んでいるわ、わはははは、わはははは、のう、どうじゃ、畜生のあさましさとはまさしくあれじゃわ。はははは、わはははは」
「なにがおかしいかッ。われら笑いごとでござらぬわッ。嘲笑がましいことを申して、おぬしは一体何者じゃ」
「身共かな、身共は、ほらこの通り――」
 打ち笑みながら、ずいと突き出したのはあの刀傷です。
「のう、御覧の通りの、ま、いわば兇状持ちじゃ。これなる眉間の傷を名乗り代りの手形に致して、かように釣の道具を携(たずさ)えながら、足のむくまま、気のむくままに、退屈払い探し歩く釣侍と思えば当らずとも遠からずじゃ、時に、いかがでござるな。御怪我はござらなかったかな」
「からかいがましいこと申すなッ。おぬしなぞ対手でござらぬ! 憎いはその百姓じゃ! 己れの罪を素直に詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]たらまだしも格別、馬のせいに致すとは何ごとじゃッ。出い! 出い! 是が非でも打(ぶ)った斬ってつかわすわッ。隠れていずと前へ出いッ」
「いや、そこじゃて、そこじゃて。馬のせいに致したと大分御立腹のようじゃが、これなる若者、身共はいっそほめてやりたい位のものじゃ。見かけによらずなかなか学者でござるぞ。尊公方もまあ、よう考えてみい。男女道に会って恋心を催す、畜生と雖も生ある限り、牡、牝を知って、春意を覚ゆるは、即ち天地自然陰陽の理に定むるところじゃ。のう、いかがでござるな。甚だ理詰めの詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]と思うが、それにても馬のせいに致したは御勘弁ならぬと仰せあるかな」
「つべこべ長談義申さるるなッ、われら、そのような屁理屈(へりくつ)聞く耳持たぬわッ。たとえ陰陽の摂理とやらがどうであろうと、先に挑んだはそちらの馬じゃ。ならば、乗り手に罪がある筈。――それともうぬが対手になろうとの所存かッ」
「うぬとは言葉がすぎる! 控えおろうぞ!」
「なにッ」
「とまあ叱って見たところで初まらぬと申すものじゃ。尊公はこちらの馬が先に挑みかかったゆえ、勘弁ならぬと仰せのようじゃが、肝腎かなめ、きいてうれしいところもそこじゃて、そこじゃて。夫(それ)、婦女子は慎しみあるを以て尊しとす。女、淫に走って自ら挑むは即ち淫婦なり、共に天を戴かずとな、女庭訓(おんなていきん)にも教えてあることじゃ。さればこそ、あれなる黒めも物の道理よく心得て、恋は牡より仕掛くるものと、花恥かしげに待ちうけた牝馬共に進んで挑みかかったのは、甚だうい奴と思うがどうじゃな。よしんば挑んだことが行状よろしからざるにしても、そこはそれ畜生じゃ。罪は決してこれなる若者にないと思うがいかがじゃな。身共も少し学問がありすぎて、御意に召さぬかな」
 召すにも召さないにも、こうやんわりと不気味に、しかも一向恐れ気もなく釣竿を肩にしたまま、大手搦(から)め手両道から説き立てられては、いかに気負いの藩士でもぐッと二の句に詰ったのは当り前です。だが、返す言葉に詰ったからとて、今さらすごすごと引ッ込まれるわけのものではない。中の気短そうなひとりが、癇癪筋(かんしゃくすじ)に血脈(ちみゃく)を打たせながらせせら笑うと、退屈男のその言葉尻を捉えて、噛みつくように喰ってかかりました。
「ならば貴公、罪なき者は斬ってならぬ。罪あらば何者たりと斬っても差支えないと申すかッ」
「然り! 士道八則にも定むるところじゃ。斬るべしと知らば怯(ひる)まずしてこれを斬り、斬るべからずと知らば忍んでこれを斬らず、即ち武道第一の誉(ほまれ)なりとな。これもやはり御意に召さぬかな」
「かれこれ申すなッ、ならば目に物見せてやるわッ」
 罵り叫びざまに、さッと大刀抜き払うや否や、もろ手斬りに斬り払ったのは、若者と思いきや、挑みかかった黒鹿毛のうしろ脚です。
「か、可哀そうに! なにをなさります! なにをむごいことなさります!」
 打ちおどろいて、言う声もおろおろと若者が涙ぐんだのを、
「ざまをみろ! 罪あらば斬って差支えないと申したゆえ、罪ある馬を成敗したのじゃ。勝手に吠えるといいわッ」
 憎々しげに言ってすてると、ひらりと馬の背に打ち跨りながら一散走りでした。
「まてッ。馬鹿者! 待たぬかッ。馬鹿者!」
 同時に退屈男が呼び叫びながらそのあと追いかけていったが、もう遅い。対手は小憎らしいことにも馬上なのです。並木の松に砂塵を浴びせながら、すでにもう遠く街道の向うでした。
「ヘゲタレよ喃。あれこそまさしく京できいたヘゲタレじゃ」
 苦(に)が笑いしながらとって返すと、血の海の断末魔の悲しい嘶(いなな)きをつづけながら、のたうち苦しんでいる愛馬の首を、わが子のようにしッかと抱きかかえて、声も絶え絶えと嘆き悲しんでいた若者へ、詫びる[#「詫びる」は底本では「詑びる」と誤植]ように呼びかけました。
「許せ、許せ、身共の扱いようがわるかった。あのような情知らずの奴等と分らば、手ぬるく致すではなかったに、馬鹿念押して馬を成敗致すとは、奴なかなかに、味をやりおったわい。さぞ無念であろうが、嘆いたとて詮ないことじゃ。これなる馬の代りは、身共がもそッと名馬購(あがな)い取ってつかわそうゆえ、もう泣くのはやめい。のう、ほら、早う手を出せ、足りるか足りぬかは知らぬが十両じゃ、遠慮のう受取ったらよかろうぞ」
「………」
「なぜ手を出さぬ。これでは足りぬと申すか」
「滅、滅相もござりませぬ。恵んで頂くいわれござりませぬゆえ、頂戴出来ませぬ……」
「物堅いこと申す奴よ喃。いわれなく恵みをうけると思わば気がすまぬであろうが、これなる黒鹿毛、身共に売ったと思わば、受取れる筈じゃ。早う手を出せ」
「いえ、なりませぬ。くやしゅうござりまするが、無念でもござりまするが、それかと言うて見も知らぬお方様から、そのような大金頂きましては、先祖に――、手前共先祖の者に対しても申しわけありませぬ」
「なに、では、その方の先祖、由緒深い血筋の者ででもあると申すか」
「いいえ、只の百姓でござります。家代々の水呑み百姓でござりまするが、三河者(みかわもの)は権現様(ごんげんさま)の昔から、意地と我慢と気の高いのが自慢の気風(きふう)でござりまする。それゆえ頂きましては――」
「いや、うれしいぞ、うれしいぞ、近頃ずんとまたうれしい言葉を聞いたものじゃわい。三河者は意地と我慢と気の高いが自慢とは、五千石積んでもきかれぬ言葉じゃ。なにをかくそう、身共の先祖も同じこの国育ち、そうきいては意地になっても取らせいではおかぬ。早う手を出せ」
「では、あの、お旦那様も――」
「そうよ。権現様御自慢の八万騎旗本じゃ」
「そうでござりましたか。道理でちッと――」
「ちッといかが致した」
「類のない御気性のお方と、男惚れしていたのでござります」
「男惚れとは申したな、いや話せるぞ、話せるぞ。ならばこれなる十両、惚れたしるしに取ると申すか」
「頂きまするでござります。頂きませねばお叱りのあるのは必定、それがまた三河育ちの御殿様達が御自慢の御気風でござりましょうゆえ、喜んで頂戴いたしまするでござります」
「いや申したな、申したな、なかなか気の利いたことを申す奴じゃ。ついでにもう十両遣わそう。そちらの十両は馬の代、こちらの十両は身共もそちへ惚れたしるしの結納金じゃ。これで少し胸がすッと致したわい。だが、それにつけても――」
 心憎いは今の二人です。
「目ざした先はまさしく東(あずま)じゃ。今より急いで追わばどこぞの宿(しゅく)で会うやも知れぬが、いずれの藩士共かな」
「薩摩の方々でござります」
「なに! 島津の家中(かちゅう)じゃと申すか」
「はっ。たしかにそれに相違ござりませぬ」
「とはまた、どうして知ってじゃ」
「どうもこうもござりませぬ。今日その島津様が参覲交替でお江戸入りの御道中遊ばします筈にござりまするゆえ、よく存じているのでござります。いいえ、手前ばかりではござりませぬ。何と申しまするか、御大藩の御領主様と申すものは兎角わがまま育ちでいられますのか、島津のお殿様がこの街道をお通りの折は、なにかと横道(おうどう)なお振舞いを遊ばしまして、お手討ちになったり、通行止めをされたり、ここらあたりの百姓共は毎度々々むごい迷惑をうけておりますゆえ、厄病神(やくびょうがみ)の御通りだなぞ申して、誰も彼もみんなお日どりから御時刻までもよう存じているのでござります。それゆえ、わたくしもまたつまらぬ災難に会うてはと存じまして、あのように急いで馬を洗いましたのに、とんだ悲しいことになったのでござります」
「ほほう、左様か。いかにもな、七十三万石と申さばなかなかに大禄じゃからな。島津の大守も大禄ゆえにいささか御慢心と見ゆるな。いや、そう承わっては――鳴って参った。急に血鳴りが致して参ったわい。家臣の不埒は即ち藩主の不埒じゃ。七十三万石何するものぞ。ましてや塵芥(ちりあくた)にも等しい陪臣共(またものども)が、大藩の威光を笠に着て、今のごとき横道な振舞い致したとあっては、よし天下のすべてが見逃そうとも、早乙女主水之介いち人は断じて容赦ならぬ。いや、面白いぞ、面白いぞ。島津が対手ならば、久方ぶりに肝(きも)ならしも出来ると申すものじゃ。街道の釣男、飛んだところで思わぬ大漁に会うたわい。では、追っつけ薩摩の行列、練って参るであろうな」
「はっ、恐らくあともう四半刻とは間があるまいと存じます。それゆえ今の二人も、うちの殿様の御容子がどんなか、こっそりと探りに飛んでいったに相違ござりませぬ」
「何のことじゃ、不意に異なこと申したようじゃが、うちの殿様とは、どなたのことじゃ」
「わたくし共長沢村の御領主様でござります」
「はてのう、一向に覚えないが、どなたのことじゃ」
「ぐずり松平のお殿様でござります」
「なに! ぐずり松平のお殿様とな! はてのう、きいたようでもあり、きかぬようでもあるが、その殿の御容子を探りに参るとは、一体どうした仔細じゃ」
「どうもこうもござりませぬ。ぐずり松平のお殿様と言えば、この街道を上り下り致しまするお大名方一統が頭の上らぬ御前でござります。ついこの先の街道わきに御陣屋がござりまするが、三代将軍様から何やら有難いお墨付とかを頂戴していられますとやらにて、いかな大藩の御大名方もこの街道を通りまする析、御陣屋の御門が閉まっておりさえすれば、通行勝手、半分なりとも御門が開いておりましたならば、御挨拶のしるしといたして御音物(ごいんもつ)を島台に一荷、もしも御殿様が御門の前にでもお出ましでござりましたら、馬に一駄の御貢物(おみつぎもの)を贈らねばならぬしきたりじゃそうにござります。それゆえ、今の二人も慌てて早馬飛ばしましたあたりから察しまするに、御陣屋の容子探りに先駆けしたに相違ござりませぬ」
「なるほどのう、それで分った。それで分った。漸く今思い出したわい。さては、ぐずり松平の御前とは、長沢松平(ながさわまつだいら)のお名で通る源七郎君(ぎみ)のことでござったか。いや、ますます面白うなって参ったぞ。御前がこのお近くにおいでとは、ずんときびしく退屈払いが出来そうになったわい。素敵じゃ、素敵じゃ。島津七十三万石と四ツに組むには、またとない役者揃いじゃ」
 退屈男は目を輝かして打ち喜びました。無理もない。まことぐずり松平の御前とは知る人ぞ知る、この東海道三河路の一角に蟠居(ばんきょ)する街道名物の、江戸徳川宗家にとっては由々しき御一門御連枝(ごれんし)だったからです。即ち始祖は松平三河守親則公(かわのかみちかのりこう)とおっしゃったお方で、神君家康公にとっては、実にそのお母方の血縁に当る由緒深い名家なのでした。それゆえにこそ、家康海内を一統するに及んで兵馬の権を掌握するや、長沢松平断絶すべからずとなして、御三男忠輝公(ただてるこう)を御養子に送ってこれを相続せしめ、長沢の郷二千三百石をその知行所に当てた上、これを上野介(こうずけのすけ)に任官せしめて、特に格式三万石の恩典を与えました。即ち、その内実は二千三百石の微々たる御陣屋住いに過ぎないが、いざ表立ったところへ出る段になると、上野介の官位が物を言い、三万石の城持ち大名と同じその格式権威が物を言うと言う有難い恩典なのです。ところが、結果から言って、その恩典が、実は長沢松平家にとっては甚だ有難迷惑なものとなりました。と言うのは、なまじ格式ばかり三万石の恩典を与えられたために、世上の付き合い、道中の費用なぞ、いたずらに三万石並の失費が嵩(かさ)むばかりで、実際の収入はその十分の一の三千石にも足らない微禄だったところから、次第次第にふところ工合が怪しくなり出しました。しかしそれかといって、東照権現家康公のお母方につながる徳川御連枝中の御連枝なる名家が、まさかに無尽(むじん)を作って傾きかけた家産を救うことも出来ないところから、思い余ってその窮状を三代将軍家光公に訴えました。公は至っての御血筋思い、甚だこれを不憫(ふびん)に思召されて、忽ち書き与えたのが次のごとき御墨付です。
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「長沢松平家は宗祖(そうそ)もこれをお目かけ給いしところ、爾今諸大名は、東海道を上下道中致す場合、右長沢家に対して、各その禄高に相当したる挨拶あって然る者也。――諄和(じゅんな)、奨学両院(しょうがくりょういん)の別当、征夷大将軍、源家光」
[#ここで字下げ終わり]
 という物々しい一札(さつ)なのです。まことにどうもこのお墨付の、相当したる挨拶というその挨拶の二字くらい、おびただしく意味深長な文字はない。征夷大将軍が城持ち大名に対(むか)って特に挨拶せいとのお声がかかったのであるから、今日は、さようなら、また会いましょう、失敬、なぞのなまやさしい挨拶では事が済まないのです。十万石は十万石並に、五十万石は五十万石並に、それぞれふところ工合に応じた挨拶をしなければならないのであるから、喜んだのは長沢松平家でした。いわゆる西国大名と名のつく大名だけでも、優に百二三十藩くらいはあるに相違ないのであるから、参覲交替(さんきんこうたい)の季節が訪れると共に、街道を上下の大名行列が数繁(かずしげ)くなるや、忽ち右の「挨拶」が御陣屋の玄関に山をなして、半年とたたぬうちに御金蔵が七戸前程殖えました。しかし、人窮すれば智慧が湧く、言わば迷惑なそのお墨付に対して、だんだんと智慧を絞り出したのは街道を上下の西国大名達です。道中するたびにいちいち行列をとめて、わざわざ乗物をおりたうえ、禄高に応じた手土産音物(いんもつ)を献上してのち、何かと儀式やかましい御機嫌伺いの挨拶をするのが面倒なところから、中の才覚達者なのが考えついて、通行の一日前とか乃至は半日前に音物だけをこっそりと先に贈り届け、陣屋の御門を閉めておいて貰って、乗り物を降りる手数の省(はぶ)けるような工風を編み出しました。それが次第に嵩(こう)ずるうちに、大名共、だんだんと狡猾(こうかつ)になって、お墨付には別段音物付け届け手土産の金高質量を明記してなかったのを幸いに、いつのまにか千両は五百両にへり、五百両は二百両に減って、年ごとにその挨拶の相場が下落していったために、窮すれば人また通ず、甚だ小気味のいい妙計を案じ出したのが松平家です。それまでは一枚のお墨付を虎の子のように捧持して、子々係々居ながらに将軍家公許の通行税頂戴職を営んでいたが、上手(うわて)をいってこれを積極的に働かすことを案じ出し、分相応の付け届けを神妙に守る大名には門(かど)を閉めてやって通行勝手たること、少し足りないと思う者には、半分位門をあけておいて、もう一度挨拶金を追加させ、特に目立って、吝嗇(けち)な大名は、その行列が通行する頃を見計らって、松平の御前自(みずか)ら何ということなく門前のあたりを徘徊(はいかい)しながら、いち段とやかましく礼儀をつくさせて、挨拶手土産献上品を程よく頂戴するように、巧みなお墨付利用法を編み出しました。就中(なかんずく)、当代源七郎君は、生来至っての御濶達(ごかったつ)。加うるに高貴の御血筋とも思えぬ程の飄逸(ひょういつ)な御気象に渡らせられたところから、大名共の手土産高を丹念な表に作り、これを道中神妙番付と名づけ、上から下へずっと等級をつけておいて、兎角、音物(いんもつ)献上品(けんじょうひん)を出しおしみ勝ちな大名が通行の際は、雨の日風の日の差別なく、御陣屋前の川に糸を垂れてこれを待ちうけながら、魚と共に大名釣を催されるのが、しきたりだったために、誰言うとなく奉ったのが即ちこの、世にも類稀(たぐいまれ)なぐずり松平の異名(いみょう)です。いかさま見様に依っては、その異名のごとくぐずることにもなったに違いないが、しかし、同じぐずりであったにしても、一国一城の主人(あるじ)を向うに廻してのことであるから、まことにやることが大きいと言うのほかはない。しかもぐずり御免のその御手形が、先の征夷大将軍家光公、お自ら認めて与えたお墨付たるに於ては、事(こと)自(おのずか)ら痛快事たるを免れないのです。それゆえにこそ、退屈男もまたこの際この場合、二人と得難きぐずり松平の御前が近くにおいでときいて、これぞ屈竟(くっきょう)の味方と、目を輝かしつつ打ち喜んだのは無理からぬことでした。まことに鬼に金棒、徳川御一門の松平姓を名乗るやんごとない御前をそのうしろ楯に備えておいたら、いかに島津の修理太夫が、七十三万石の大禄に心奢(おご)り、大藩領主の権威を笠に着たとて、ぐずり御免のそのお墨付に物を言わせるまでもなく、葵(あおい)の御紋どころ一つを以てこれを土下座せしめる位、実に易々たる茶飯事だったからです。
「わははは、面白いぞ、面白いぞ、さては何じゃな、今の二人が陣屋の雲行(くもゆ)き、探りに参ったところを見ると、島津の太守、つね日頃より松平の御前の御見込みがわるいと見ゆるのう。そうであろう。どうじゃ、そのような噂聞かぬか」
「はい、聞きましてござります。いつもいつも献上品を出し渋り勝ちでござりますとやらにて、道中神妙番付面では、一番末の方じゃとか申すことでござります」
「左様か、左様か、いやますます筋書がお誂え通りになって参ったわい。然らば一つ馬の代五千頭分程も頂戴してつかわそうかな。御陣屋は街道のどの辺じゃ」
「ついあそこの曲り角を向うに折れますとすぐでござります」
「ほほう、そんなに近いか。では、早速に御前へお目通り願おうぞ。そちも早うこの馬弔うておいて、胸のすくところをとっくりと見物せい」
 若者に教えられて、御陣屋目ざしながら出かけようとしたとき、いかさま容子探りに行ったのが事実であるらしく、足掻(あが)きを早めながら駈け戻って来たのは先刻のあの二人です。パッタリ顔が合うや否や、馬上の二人は、退屈男の俄かに底気味わるく落ち付き払い出した姿をみとめて、ぎょッと色めき立ちました。だが、今はもう退屈男にとっては、名もなき陪臣(またざむらい)の二人や三人、問題とするところでない。目ざす対手は、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)、日向(ひうが)三カ国の太守なる左近衛少将島津修理太夫(さこんえしょうしょうしまずしゅりだいふ)です。
「びくびく致すな、その方共なぞ、もう眼中にないわ。七十三万石が対手ぞよ。行け、行け、早う帰って忠義つくせい」
 皮肉にあしらいながら馬上の二人をやりすごしておくと、五十三次名うての街道をわがもの顔に、のっしのっしと道を急ぎました。

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