您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 三遊亭 円朝 >> 正文

業平文治漂流奇談(なりひらぶんじひょうりゅうきだん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-7 10:54:35  点击:  切换到繁體中文

底本: 圓朝全集 巻の四
出版社: 近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
初版発行日: 1963(昭和38)年9月10日


底本の親本: 圓朝全集 巻の四
出版社: 春陽堂
初版発行日: 1927(昭和2)年6月28日

 


 むかしおとこありけるという好男子に由縁(ゆかり)ありはらの業平文治(なりひらぶんじ)がお話はいざ言問わんまでもなく鄙(ひな)にも知られ都鳥の其の名に高く隅田川(すみだがわ)月雪花(つきゆきはな)の三(み)つに遊ぶ圓朝(えんちょう)ぬしが人情かし[#「し」に「本ノマヽ」と注記]ら有為転変(ういてんぺん)の世の態(さま)を穿(うが)ち作れる妙案にて喜怒哀楽の其の内に自ずと含む勧懲の深き趣向を寄席(よせせき)へ通いつゞけて始めから終りを全く聞きはつることのいと/\稀(ま)れなるべければ其の顛末(もとすえ)を洩さずに能(よ)く知る人はありやなしやと思うがまゝ我儕(おのれ)が日ごろおぼえたるかの八橋(やつはし)の蜘手(くもで)なす速記法ちょう業(わざ)をもて圓朝ぬしが口ずから最(い)と滑らかに話しいだせる言の葉をかき集めつゝ幾巻(いくまき)の書(ふみ)にものしてつぎ/\に発兌(うりだ)すこととはなしぬ
 明治十八年十一月   若林※藏識

  一

 此の度(たび)お聞きに入れまするは、業平文治漂流奇談と名題(なだい)を置きました古いお馴染(なじみ)のお話でございますが、何卒(なにとぞ)相変らず御贔屓(ごひいき)を願い上げます。頃は安永年中の事で、本所(ほんじょ)業平村(なりひらむら)に浪島文治郎(なみしまぶんじろう)と云う侠客(きょうかく)がありました。此の人は以前下谷(したや)御成街道(おなりかいどう)の堀丹波守(ほりたんばのかみ)様の御家来で、三百八十石頂戴した浪島文吾(なみしまぶんご)と云う人の子で、仔細あって親諸共(もろとも)に浪人して本所業平村に田地(でんじ)を買い、何不足なく有福に暮して居(お)りましたが、父文吾相果てました後(のち)、六十に近い母に孝行を尽し、剣術は真影流(しんかげりゅう)の極意を究め、力は七人力(にんりき)あったと申します。悪人と見れば忽(たちま)ち拳(こぶし)を上げて打って懲らすような事もあり、又貧乏人で生活(くらし)に困ると云えば、どこまでも恵んでやり、弱きを助け強きを挫(くじ)くという気性なれども、至極情(なさけ)深い人で無闇に人を打(ぶ)つような殺伐の人ではございません。只今の世界にはございませんが、その頃は巡査と云う人民の安寧(あんねい)を護(まも)ってくださる職務のものがございませんゆえに、強いもの勝ちで、無理が通れば道理引込(ひっこ)むの譬(たとえ)の通り、乱暴を云い掛けられても、弱い者は黙って居りますから文治のような者が出て、お前の方が悪いと意見を云っても、分らん者は仕方がありませんゆえ、七人力の拳骨(げんこつ)で打って、向うの胆(きも)を挫(ひし)いでおいて、それから意見を加えて悪事を止(や)めさせ善人に仕立るのが極く好(すき)で、一寸(ちょっと)聞くと怖いようでございますが、能(よ)く/\見ると赤子も馴染むような美男(びなん)ですから、綽名(あざな)を業平文治と申しましたのか、但(たゞ)しは業平村に居りましたゆえ業平文治と付けたのか、又は浪島を業平と訛(なま)って呼びましたのか、安永年間の事でございますから私(わたくし)にもとんと調べが付きませんが、文治は年廿四歳で男の好(よろ)しいことは役者で申さば左團次(さだんじ)と宗十郎(そうじゅうろう)を一緒にして、訥升(とつしょう)の品があって、可愛らしい処が家橘(かきつ)と小團治(こだんじ)で、我童(がどう)兄弟と福助(ふくすけ)の愛敬を衣に振り掛けて、気の利いた所が菊五郎(きくごろう)で、確(しっか)りした処が團十郎(だんじゅうろう)で、その上芝翫(しかん)の物覚えのよいときているから実に申分(もうしぶん)はございません。文治が通りますと近所の娘さんたちがぞろ/\付いて参りまして、
 娘「きいちゃん、一寸今業平文治さんと云う旦那が入らしったから御覧なはいよ、好(い)い男ですわ、アラ今横町へ曲って行(ゆ)きましたわ、此方(こっち)のお芋屋の前を抜けて瀬戸物屋の前へ出れば逢えますよ」
 と云って娘子供が大騒ぎをするから、お婆(ばあ)さんも煙(けむ)に巻かれて、
 婆「此方(こっち)へ参れば拝めますかえ」
 と遊行様(ゆぎょうさま)と間違えるくらいな訳であります。これはその筈(はず)で、文治は品行正しく、どんな美人が岡惚(おかぼ)れをしようとも女の方は見向きもしないで、常に悪人を懲(こら)し貧窮ものを助ける事ばかりに心を用いて居ります。その昔は場末の湯屋(ゆうや)は皆入込(いれご)みでございまして、男女(なんにょ)一つに湯に入るのは何処(どこ)かに愛敬のあるもので、これは自然陰陽の道理で、男の方では女の肌へくっついて入湯を致すのが、色気ではござりませんが只何(なん)となくいゝ様な心持で、只今では風俗正しく、湯に仕切りが出来まして男女の別が厳しくなりましたが、近頃までは間が竹の打付格子(ぶっつけごうし)に成って居りまして、向うが見えるようになって居りますから、左の方を見たいと思うと右の頬(ほゝ)ばかり洗って居りますゆえ、片面(かたッつら)が垢(あか)で斑(ぶち)になっているお人があります。其の頃本所中(なか)の郷(ごう)に杉の湯と云うのがありました。家(うち)の前に大きな杉の木がありますから綽名して杉の湯/\と云いますので、此の湯へ日暮方になって毎日入湯に参りますのは、年のころ廿四五で、髪は達摩返(だるまがえ)しに結いまして、藍(あい)の小弁慶の衣服(きもの)に八反(はったん)と黒繻子(くろじゅす)の腹合(はらあわせ)の帯を引掛(ひっか)けに締め、吾妻下駄(あづまげた)を穿(は)いて参りますのを、男が目を付けますが、此の女はたぎって美人と云う程ではありませんが、どこか人好きのする顔で、鼻は摘みッ鼻で、髪の毛の艶(つや)が好(よ)くて、小股(こまた)が切上(きれあが)って居る上等物です。此の婦人に惚れて入湯の跡を追掛(おいか)けて来て入込みの湯の中で脊中(せなか)などを押付(おっつ)ける人があります。その人は中の郷の堺屋重兵衞(さかいやじゅうべえ)と云う薬種屋(きぐすりや)の番頭で、四十二になる九兵衞(くへえ)と云う男で、湯に入る度(たび)に変な事をするが、女が一通りの奴でないから、此奴(こいつ)は己(おれ)に岡惚れをしているなと思い、態(わざ)と男の方へくっついて乙な処置振りをしますから、男の方は尚更増長致します。丁度九月二日の事で、常の如く番頭さんが女の方へ摺寄(すりよ)って来るとき、女の方で番頭の手へ小指を引掛(ひっか)けたから、手を握ろうとすると無くなって仕舞うから、恰(まる)で金魚を探すようで、女の脊中を撫でたりお尻(しり)を抓(つね)ったりします。彼(か)の女は悪党でございますから、突然(いきなり)に番頭の手拭を引奪(ひったく)って先へ上って仕舞いましたゆえ、番頭は彼(あ)の手拭を八つに切って一ツはお守へ入れてくれるだろうと思っていると大違いで、女は衣類(きもの)を着て仕舞い、番台の前へ立ちましたが、女の癖に黥(いれずみ)があります。元来此の女は山(やま)の浮草(うきくさ)と云う茶見世へ出て居りました浮草(うきくさ)のお浪(なみ)という者で、黥再刺(いれなおし)で市中お構いになって、島数(しまかず)の五六度(たび)もあり、小強請(こゆすり)や騙(かた)り筒持(つゝもた)せをする、まかな[#「まかな」に傍点]の國藏(くにぞう)という奴の女房でございますからたまりません、
 浪「一寸(ちょっと)番頭さん」
 番「へい、なんでございます」
 浪「あの少し其処(そこ)ではお話が出来ないから此処(こゝ)へ下りておくれよ、毎晩私に悪戯(いたずら)をする奴があるよ、私の臀(しり)を抓ったり脊中を撫でたりするのはいゝが、今日は実に腹が立ってたまらないから、其奴(そいつ)を此処へ引摺り出しておくれ、私も独身(ひとりみ)じゃアなし、亭主(ていしゅ)もあるからそんな事をされては亭主に対して済みません、引出しておくれよ」
 番「誠にお気の毒様でございますが、込合う湯の中でございますから、あなたがその人の顔を覚えて入らっしゃらないでは、此処へ出ておくんなさいと云っても、誰(たれ)も出る者はありませんから分りません、へい」
 浪「さア証拠のない事は云わないよ、其奴の手拭を引奪って来たから手拭のない奴を出しておくれ」
 番「へい、誰方(どなた)ですか、そんな悪戯をして困りますなア、どうか皆さんの中(うち)で手拭のない方はお出なすって下さい」
 男「おい番頭さん己(おれ)は手拭を持ってるよ」
 番「宜(よろ)しゅうございます」
 男「己のもあるよ/\」
 番「宜しゅうございます」
 と云って皆(みん)な出て仕舞ったが、中に一人九兵衞さんと云う人ばかりは出られませんから、窃(そっ)と柘榴口(ざくろぐち)を潜(くゞ)って逃げようと思うと、水船の脇で辷(すべ)って倒れました。
 男「おい/\番頭さん見てやれ/\、長く湯に入(へえ)っていたものだから眼が眩(まわ)って顛倒(ひっくりかえ)ったのだろう」
 番「誰方(どなた)様ですな」
 と云いながら頭からザブリッと水を打掛(ぶっか)けましたから、
 九「あゝ/\有難うございます、余り長く入って居りましたものですから湯気に上(あが)りました」
 番「何(ど)う云う御様子でございます、大丈夫ですか」
 九「お前さんは湯屋(ゆうや)の番頭さんなら内証(ないしょ)で手拭を持って来ておくんなさい、お願いです」
 番「へー、それではお前さんは手拭がありませんか」
 と番頭はおかしさを堪(こら)えながら、
 番「それでは今窃(そっ)と持って来て上げますからお待ちなさいまし」
 と云うのをお浪が見てツカ/\ッと側へ来て、
 浪「おゝ此奴(こいつ)だ、さア此方(こっち)へ来ねえ」
 と云いながらズル/\ッと引摺って来て箱の前へ叩きつけました。
 九「あゝ申し誠に相済みません、どうぞ御勘弁を願います」
 浪「御勘弁じゃアないよ、呆れかえって物が云えないよ、斯様(こん)なお多福でも亭主のあるものに彼(あ)んな馬鹿な事をされちゃア亭主に済まねえ、お前(めえ)の家(うち)へ行くから一緒に行きねえ」
 九「実はあんたによう似たお方があるので、そのお方だと思うて、実に申そうようない事をいたし、申し訳がありまへん、どうぞ御勘弁を」
 浪「なんだえ、人違いだえ、巫山戯(ふざけ)た事を云っちゃアいけねえぜ、毎日(めえにち)人違(ひとちげ)えをする奴があるかえ、さア主人のある奴なら主人に掛合うし、主人がなけりゃアお前(めえ)だって親か兄弟があるだろう、一緒に行きなよ」
 と云いながら平ッ手でピシャーリ/\と打(ぶ)ちます。寒い時に板の間へ長く坐って慄(ふる)えて居る処を打たれますから、身体へ手の跡が真赤につきます。表へは黒山のように人が立ちまして、
 男「なんです/\」
 乙「なんだか知りませんが苛(ひど)い女ですなア」
 丙「なんでも盗賊(どろぼう)でございましょう、残らず取られて裸体(はだか)になったようですなア」
 甲「何を取られました」
 丙「何(な)んでも初めは手拭を取られたんだそうですが、仕舞には残らず取られたと見えて素裸(すっぱだか)になって、男の方で恐入(おそれい)ってヒイ/\云って居ますなア」
 甲「へーそれでは取った女が取られた人を打(ぶ)って居るのですか」
 丙「そうですなア、成程それにしちゃア妙ですなア、何(なん)でも評判の悪人でございましょう、女でこそあれズウ/\しい奴でしょう」
 丁「なアに、そうじゃアありません、全くはお湯の中へ灰墨(へいずみ)を流したのだそうですが、大方恋の遺恨でございましょう、灰墨を手拭へくるんで湯の中へ流して、手拭がないから彼奴(あいつ)に違いないと云っているんでしょう」
 戊「なアに、そうじゃありません、小児(あかんぼ)の屎(うんこ)を流したんだって」
 乙「へーそうですか」
 癸「なに、そうじゃありません、湯の中でお産をしたんだそうです」
 などといろ/\評議をしているが、何(なん)だか訳が分りません。処へ参ったのは業平文治で、姿(なり)は黒出(くろで)の黄八丈(きはちじょう)にお納戸献上(なんどけんじょう)の帯をしめ蝋色鞘(ろいろざや)の脇差(わきざし)をさし、晒(さらし)の手拭を持って、ガラリッと障子を開けますと、
 番「へー旦那(だんな)いらっしゃいまし」
 文「はい、何か表へ人立(ひとだち)がして居るが間違いでもあったのか」
 番「どうかお構いなく、文庫へお脱ぎなさいまし」
 文「いや/\、人立がすれば往来の者も困りますし、お前も困るだろうが、一体どうした間違いだえ」
 番「旦那様、山の浮草に出て居たお浪と云う悪党女と知らない者ですから、堺屋の番頭さんが湯の中で度々(たび/\)冗談を致し、今日も怪(け)しからん事を致したものですから、番頭さんの手拭を引奪って置いて、番頭さんが湯から上るのを待っていて、彼(あ)の通り詫(わび)るのを聴かないで主人へ掛合うと云うから、主人が五六十両も強借(ゆす)られて、番頭さんも追出されますのでしょう」
 文「それは気の毒な事だ、私(わし)が中へ入って詫をしてやりましょう」
 番「旦那様が中へ入って下されば宜しゅうございますが、若(も)し貴方(あなた)の御迷惑になるといけませんから、お止(よ)しなすった方が宜しゅうございます」
 文「いや/\入って見ましょう」
 と云いながらツカ/\とお浪の側へ参り、
 文「おい/\姉さん何だか悉(くわ)しい訳は知りませんが、聞いていれば此の人は人違いでお前さんに悪戯(じょうだん)をしたのだそうだから、腹も立とうが成り替って私(わし)が詫びましょうから、勘弁して此の人を帰して下さい、そうお前さんのように無闇に人を打(ぶ)つものではありません」
 浪「どなたか知りませんが手を引いて下さい、私も亭主のある身で、姦通(まおとこ)でもしていると思われては困ります、私の亭主も男を売る商売ですから、どんなに怒(おこ)って私を女郎に売るか何だか知れません、亭主に対して打捨(うっちゃっ)て置けませんから手を引いておくんなさい」
 文「そういうことをすりゃア御亭主が無理というもの、湯の中で何程の事が出来るものではない、それを怒って女郎にするのなんのと云えば、それ程大切な女房なら、入込みの湯へ遣(よこ)さなければいゝというようなものだから、まア/\そんな事を云わないで堪忍してやっておくんなさい」
 浪「おい、何をいやアがるのだ、湯に遣そうが遣されめえがお前(めえ)の構った事じゃアねえ、生意気な事を云わねえで引込(ひっこ)んでろい」
 文「ホイ/\堪忍しておくれ、私(わし)が粗忽を云いました」
 浪「これさ、お前(めえ)なんだ生若(なまわけ)え身で耳抉(みゝっくじ)りを一本差しゃアがって、太神楽(だいかぐら)見たような態(ざま)をして生意気な事を云うねえお前(め)ッちゃア青二才(せい)だ、鳥なら未(ま)だ雛児(ひよっこ)だ、手前達(てめえたち)に指図を受けるものか、青い口喙(くちばし)でヒイ/\云うな、引込んでろい」
 文「はい/\悪い処は重々詫をしますが、大の男が板の間へ手をついて只管(ひたすら)詫をすれば御亭主の御立腹も解けましょうから幾重にも当人に成替(なりかわ)って」
 浪「いけねえよ、愚図々々口をきかねえで引込みなせい」
 と云いながらズッと番頭を引立(ひきた)てに掛るから、
 文「あゝ待ちなさい/\、それでは是程云っても聞き入れませんかえ」
 浪「聴かれませんよ」
 文「愈(いよ/\)聴かれなければ此方(こっち)にも了簡(りょうけん)がある」
 浪「聴かなければどうする」
 文「聴入(きゝい)れなければ斯様(かよう)致す」
 と云いながら突然(いきなり)お浪の髻(たぶさ)を取って引倒(ひきたお)し、拳骨(げんこつ)を固めて二ツ打(ぶ)ちましたが、七人力ある拳骨ですから二七十四人に打たれるようなもので、痛いの何(な)んのと申して、悪婆(あくば)のお浪も驚きました。なれども急所を除(よ)けて打ちます。
 文「これ、汝(われ)は不届(ふとゞき)ものだ、手前の亭主はお構い者で、聞けば商人(あきんど)や豪家へ入り、強請(ゆすり)騙(かた)りをして衆人を苦しめると云う事は予(かね)て聞いて居(お)ったが、此の文治郎が本所に居(お)る中(うち)は捨置(すてお)く訳にはいかん、それに此の文治の事を青二才などと云おうようなき悪口(あっこう)を申したな、手前のような奴を活(い)かして置いては大勢の人の難儀になるから打殺(ぶちころ)すのであるが、女の事ゆえ助けてやる、早く家(うち)へ帰って亭主の國藏という奴に、己(おれ)は業平橋に居る浪島文治郎と云うものだから、打(ぶ)たれたのを残念と思うならいつでも仕返しに来いと屹(きっ)と申せよ」
 と云いながらトーンと障子を明けて、表へ突き出したから、お浪は倒れて眼が眩(くら)みましたが、漸(ようや)くの事で這(は)うようにして家(うち)へ帰って、國藏に此の事を話そうと思うと、其の晩は帰りませんで、翌日の昼時分に帰って来まして、
 國「お浪今帰(けえ)ったよ、寝てえちゃアいけねえ、火も何も消えて居るじゃアねえか」
 浪「起きられやしねえよ、頭が割れそうだア」
 國「なんだ頭が割れそうだ、頭が痛けりゃア按摩(あんま)でも呼んで揉(も)んで貰いねえナ」
 浪「拳骨(げんこつ)で廿ばかり打(ぶ)たれたよ」
 國「なに打たれて黙って帰(けえ)って来るような手前(てめえ)じゃアねえじゃねえか、何奴(どいつ)が打ったのだ」
 浪「夕べお前が帰(けえ)って来たらば直(す)ぐに仕返(しけえ)しに行こうと思っていたが、いつでも杉の湯に来る奴が来たから、お前(めえ)に教わった通りにして、向うへ強請に往(い)こうと思うと、業平橋にいる文治と云う奴が来て、突然(いきなり)に私を打って、打殺して仕舞(しまう)んだが助けてやるから家(うち)へ帰(けえ)って亭主の國藏と云う奴に云って、いつでも仕返(しけえ)しに来いと云って、人を蚰蜒(げじ/\)見たように摘(つま)み出しゃアがったよ、悔しくって/\仕様がねえから、仕返しに往っておくれよ」
 國「静かにしろい、業平文治と云う奴は黒い羽織を着ている奴だな、結構だ」
 浪「何が結構だ」
 國「寒さの取付(とっつ)きに立派な人に打(ぶ)たれて仕合せよ、悪い跡はいゝやい」
 と云いながら落着き払って出て行(ゆ)きましたが、何処(どこ)で買ったか膏薬(こうやく)を買って来まして、お浪の身体へベタ/\と打(ぶ)たれもしない手や何かへも貼付け、四つ手(で)駕籠(かご)を一挺(いっちょう)頼んで来て、襤褸(ぼろ)の※袍(どてら)を着たなりで、これにお浪を乗せ業平文治の玄関へ参りまして、
 國「お頼み申します/\」
 男「オヽイ」
 と返事をして台所の方から来たのは、本所の番場で森松(もりまつ)と云う賭博兇状持(ばくちきょうじょうもち)で、畳の上では生きていられないのが、文治の意見を聞いて改心して、今では文治の所にいる者です。
 森「だれだえ」
 國「えゝ浪島文治郎様のお宅はこちらですか」
 森「此方(こちら)だがお前(めえ)はなんだえ、/\」
 國「少し旦那にお目に懸ってお話し申したいことがあって来ました」
 森「生憎(あいにく)今日は旦那はいねえや、何(なん)の用だか知らねえが日暮方にでも来ねえ」
 國「旦那がお留守なら御新造(ごしんぞ)さんにでもお目に懸りたいもんです」
 森「御新造さんはねえや、お母(っか)さんばかりだ」
 國「お母(ふくろ)さんでも宜しゅうございます、へい、これは病人でございますから、おい/\ソーッと出ねえといけねえよ、骨が逆に捻(ねじ)れると不具(かたわ)になって仕舞うよ」
 森「おい/\己(おら)の処は医者様じゃアねえよ、これは浪島文治郎さんと云う人の宅だよ」
 國「そりゃア存じて居ります、おい若衆(わけいしゅ)さん帰(け)えってもいゝよ」
 と駕籠屋を帰し、お浪の手をとりまして、
 國「少し此処(こゝ)へお置(おき)なすっておくんなせえ」
 森「おい、少し待っていねえ、お母(ふくろ)さんに話すから」
 と奥へ参り、
 森「申しお母(ふくろ)さんえ、何(なん)だか知れませんが膏薬だらけの女を連れて旦那にお目に懸りてえと云って来ましたから、旦那が留守だと云ったら、お母(ふくろ)さんにお目に懸りたいと申しますが、何(ど)うしましょう」
 母「此方(こちら)へお通し申せ/\」
 森「さア兄イ此方(こっち)へ来ねえ」
 國「えゝお初(はつ)うにお目に懸りました、私(わっち)は下駄職國藏と申すものでごぜえやすが、お見知り置かれまして此の後とも御別懇に願います」
 母「はい、私(わたくし)は文治郎の母でございますが、生憎今日は他出致しましたが、誠に年を取って居りますから悴(せがれ)が余所(よそ)様でお交際(つきあい)を致しましたお方は一向存じませんから、仰(おっ)しゃりおいて宜しい事ならどうか仰しゃりおきを願います」
 國「些(ちっ)とあなたのお耳へ入れては御心配でございましょうが、彼処(あすこ)に寝て居りますのは私(わっち)の嚊(かゝあ)で、昨晩間違いが出来ましたと云うのは、湯の中で臀(けつ)を撫でたとかお情所(なさけどころ)を何(ど)うとかしたと云うので、亭主のある身でそんな真似をされちゃア亭主の前(めえ)へ済まねえと云って、其の男に掛合って居る処へ、此方(こちら)の旦那が来て私(わっち)の嚊を拳骨(げんこつ)で廿とか三十とか打(ぶ)って、筋が抜けたとか骨が折れたとか、なアにサ、何(なん)だかこんな事を申しやすと強請騙りにでも参った様に思召(おぼしめ)すだろうが、そう云う訳ではありませんが、お恥しい話ですが、其の日/\に下駄を削って居ります身分ですから、私(わっち)が看病をすれば仕事をする事が出来ねえ、仕事をする事が出来なけりゃア食う事が出来ねえが、此方(こちら)は御身分もありお宅も広うございやすから、どうかお台所の隅へでも女房を置いて重湯でも飲ましておいてくれゝば、私(わっち)も膏薬の一貼(ひとはり)位(ぐれ)えは買って来ますから、どうかお預りを願います」
 母「はい/\、それは誠にお気の毒様な訳で、嘸(さぞ)御立腹な訳でございましょう、仮令(たとえ)どのような事がありましても人様(ひとさま)の御家内を打擲(ちょうちゃく)するとは怪(けし)からん訳でございます、若年の折柄(おりから)人様に手を掛ける事が度々(たび/\)ありまして意見もしましたが、どうも性分で未(ま)だ直りません、どのようにも御看病もしとうございますが、私(わたくし)も寄る年で思うようにも御看病が届きませんと、御病人の癇(かん)が起りますものでございますから、お医者も此方(こちら)からお附け申しましょうし、看病人も附けましょう、又あなたがお仕事をお休みになれば日々どれだけのお手間料が取れますか知りませんが、お手間料だけは私(わたくし)の方から」
 國「いえ/\飛んでもねえ事を仰しゃる、此方からお手当を戴き嚊を宅(うち)へ置いて看病をすると、私(わっち)も堅気の職人ですから、そんな事が親方の耳へでも入(へえ)れば、手前(てめえ)は遊(あす)んでいて他から銭を貰う、飛んでもねえ奴だ、向後(きょうこう)稼業(かぎょう)を構うと云われては困ります、何も銭金をお貰い申しに参った訳ではありませんから、当期此方の台所(だいどこ)の隅へ置いて下さい、五年掛るか十年掛るか知れませんが、どうか癒(なお)るまでおいておくんなせえ」
 母「御立腹でもございましょうが、そんな事を仰しゃらないでお手当は十分に致しますからお連れ帰りを願います」
 國「いえなに、銭金は入りません、医者も私(わっち)が頼んで来ます」
 母「どうかそう仰しゃらないで」
 と只管(ひたすら)頼めど悪党の強請騙りをすることをもくさん[#「もくさん」に傍点]と申して、安い金では中々云う事を聞きませんから、
 森「兄イ兄イ…お母(っか)さん黙っておいでなさい…兄イ此処(ここ)じゃア話が出来ねえから台所へ往って話をしよう、己(おれ)は番場の森松と云う者で、悪い事は腹一杯(いっぺえ)やって、今は此方の旦那の家(うち)に食客(いそうろう)だ、旦那は無闇に弱い女や人を打(ぶ)つような方じゃアねえ、お前(めえ)の処(とこ)の姐御(あねご)が何か悪い事をしたのだろうが、銭を貰っちゃア親方に済まねえと云うが、そんな事を幾ら云っても果てしはつかねえ、サックリ話をするから台所へ来ねえ」
 國「何もお前(めえ)さんに云うのじゃアありませんから手を引いておくんなせえ」
 森「手を引くも引かねえもねえや、己も番場の森松だ、お前(めえ)の帰りはのいゝようにして遣(や)るから云う事を聞きねえな、己も是れ迄そんな事は度々(たび/\)やった事があるんだナ」
 國「おい、訝(おか)しな事を云いなさるぜ、お前(めえ)さんはこんな事が度々ありましたか、私(わっち)ア骨の折れる程嚊を打(ぶ)たれたのは初めだ、お前(めえ)さんは森松さんか何か知らねえが、お母様(ふくろさん)に願っているのにお前(めえ)さんのような事を云われると、私(わっち)ア了簡が小(ちい)せえから屈(すく)んで仕舞って、ピクーリ/\として何(なんに)も云えないよ」
 森「おい、大概(たいげい)にしねえな、そんな事をいつまで云っても果(はて)しが付かねえから、おいこう、まア台所へ来ねえって事よ」
 母「森松黙っていな」
 森「まアお待ちなさい、お前(まえ)さんは知らないのだから、おい兄イそんな事を云っても仕方がねえ、人間を打殺して下手人になっても人が入(へえ)れば内済(ねえせい)にしねえものでもねえから、お前(めえ)の方へ連れて往(い)けば話の付くようにするから台所へ来な」
 國「おい兄さん、人を擲殺(たゝッころ)して内済(ねえせい)で済みますかえ、そりゃア済ます人もあるか知れませんが、私(わっち)アいやだ、怖(おっ)かねえ事を仰しゃるねえ、お母(ふくろ)さん、こんな事を云われると私(わっち)ア臆病(おくびょう)ものですからピクーリ/\としますよ」
 森「台所へ来いよ/\」
 と森松は懊(じ)れこんでいくらいっても動きません。其の筈で森松などから見ると三十段も上手(うわて)の悪党でござりますから、長手の火鉢(ひばち)の角(すみ)の所へ坐ったら挺(てこ)でも動きません。処(ところ)へ業平文治が帰って来まして、
 文「森松此処(ここ)を片付けろ」
 と云うから、森松は次の間の所へ駆出(かけだ)して、
 森「あなたは大変な事をやりましたねえ」
 文「何を」
 森「杉の湯で國藏の嚊を打擲(ぶんなぐ)りましたろう」
 文「来たか、昨夜(ゆうべ)打擲った」
 森「打擲ったもねえものだ、笑い事じゃごぜえやせん、彼奴(あいつ)は一(ひ)ト通りの奴じゃアありませんから、襤褸褞袍(ぼろどてら)を女に着せて、膏薬を身体中へ貼り付けて来て、動(いご)けねえから此方(こっち)の家(うち)へおいて重湯でも啜(すゝ)らせてくれろと云って、中々手強(てごわ)いことを云ってるから、四五両では帰(けえ)りませんぜ、四五十の金は取られますぜ」
 文「宜しい、心配するな」
 森「宜しいじゃありませんやね」
 文「お母(っか)さんが御心配だろうな」
 森「お母さんは無闇に謝まってばかりいますから、猶(なお)付込みやアがるのさ」
 文「お母さんを此方(こっち)へお呼び申しな」
 と云うから小声で、
 森[#「森」は底本では「母」と誤記]「お母さん/\、此方へ/\」
 と云って親指を出して知らせると、母も承知して次の間へ参りまして、
 母「お前飛んだ事をおしだねえ」
 文「あなたのお耳へ入れて誠に相済みません」
 母「済まないと云って無闇に人を打(ぶ)つと云う法がありますか、先方様(さきさま)は素直に当家へ病人を引取って看病さえしてくれゝば宜しいと云うから、どうも仕方がないわな」
 文「彼奴(あいつ)は悪い奴ですから只今私(わたくし)が話をして直(すぐ)に帰します、誠に相済みません、あなたは暫(しばら)くお居間の方へいらっしゃいまし」
 母「おや/\あれは悪党かえ」
 森「申し、お母さんは知らないのだがね、彼奴は悪党で、私(わっち)が何か云うといやにせゝら笑やアがるから、小癪(こしゃく)にさわるから擲(なぐ)り付けようと思いましたがね、今こゝで彼奴を打(ぶ)つとウーンと云って顛倒(ひっくりけ)えって仕舞うから、私(わっち)も堪(こら)えていたのです。お母さん心配しないで此方(こっち)へおいでなさい」
 と隠居所の方へ連れて往(ゆ)きまして、
 森「もし旦那え彼奴(あいつ)を打擲(ぶんなぐ)ると顛倒(ひっくり)かえるから、そうすると金高(きんだか)が上(のぼ)りますよ」
 文「宜しい/\」
 と云って脇差(わきざし)を左の手へ提げて座敷へ入って参りまして、
 文「初めてお目に懸ります、私(わし)は浪島文治郎と云う者です、只今母から聞きましたが、昨夜お前の御家内を打擲した処、今日其の御家内を連れて来て、此方(こっち)で看病をしてくれろとのお頼み、又母が連れ帰ってくだされば金子(きんす)は何程(なにほど)でも差上げると云うと、お前は親分や友達に済まんと云えば、いつまでもお話は押付(おっつ)かんが、打(ぶ)った処は文治郎が重々悪いから、飽くまで詫びたならばお前も男の事だから勘弁するだろうね、勘弁してくれたら互に懇意になり、懇意ずくなら金を貸してもお前の恥にも私(わし)の恥にもならないから、心が解けたら懇意になって懇意ずくでお内儀(かみ)さんの手当となしに金を五十両やるからそれで帰って下さいな」
 國「へゝ、こりゃアどうも、もし旦那え、お前(めえ)さんのようにサックリと話をされちゃア何も云えない、と申すのは、貴方(あなた)のような立派な方が私(わっち)のようなものに謝まると仰しゃれば、宜しいと云わなければなりません、そうなれば懇意ずくで金を貸せば恥になるめえから五十両やると云う、実に何とも申そうようはござえません、実はお母さんのお耳へ入れまいと思ったが、つい貧乏に暮していますから苦しまぎれに申上げたのでございます、それではどうか五十両拝借したいものでございます」
 文「五十両でいゝかえ」
 國「宜しゅうございます/\」
 と云うと文治は座を正して大声(たいせい)に、
 文「黙れ悪人、其の方(ほう)は此の文治を欺き五十両強請ろうとして参ったか、其の方は市中お構(かまい)の身の上で肩書のある悪人でありながら、夫婦連(づれ)にて此の近傍(かいわい)の堅気の商家(あきんど)へ立入り、強請騙りをして人を悩ます奴、何処(どこ)ぞで逢ったら懲(こら)してくれんと思っていた処、幸い昨夜其の方の女房に出会いしにより打殺そうと思ったが、お浪を助けて帰したは手前を此の家(うち)に引出さん為であるぞ、其の罠(わな)へ入って能くノメ/\と文治郎の宅へ来たな、さア五十両の金を騙り取ろうなどとは申そうようなき大悪人、兎(と)や角(かく)申さば立処(たちどころ)に拈(ひね)り潰して仕舞うぞ」
 と打(う)って変った文治郎の権幕(けんまく)は、肝に響いて、流石(さすが)の國藏も恟(びっく)り致しましたが、
 國「もし旦那え、それじゃア、からどうも弱い者いじめじゃアありませんか、私(わっち)の方で金をくれろと云ったわけじゃアありません、お前(めえ)さんの方で懇意ずくになって金を貸すと云うから借りようと云うのだが、又亭主に無沙汰(ぶさた)で人の女房を打(ぶ)って済みますかえ、其の上私(わっち)を打殺すと云やア面白い、さアお打ちなせえ、私(わっち)も國藏だア、打殺すと云うならお殺しなせえ」
 文「不届き至極な奴だ」
 と云いながら、突然(いきなり)國藏の胸(むな)ぐらを取って、奥座敷の小間へ引摺り込みましたが、此の跡はどう相成りましょうか、明晩申し上げます。

  二

 男達(おとこだて)と云うものは寛永(かんえい)年間の頃から貞享(ていきょう)元禄(げんろく)あたりまではチラ/\ありました。それに町奴(まちやっこ)とか云いまして幡隨院長兵衞(ばんずいいんちょうべえ)、又は花川戸(はなかわど)の戸澤助六(とざわすけろく)、夢(ゆめ)の市郎兵衞(いちろべえ)、唐犬權兵衞(とうけんごんべえ)などと云う者がありまして、其の町内々々を持って居て、喧嘩(けんか)があれば直(すぐ)に出て裁判を致し、非常の時には出て人を助けるようなものがございましたが、安永年間には左様なものはございません。引続きお話申します業平文治は町奴親分と云うのではありません、浪人で田地(でんじ)も多く持って居りますから活計(くらし)に困りませんで、人を助けるのが極く好きです。尤(もっと)も仁を為せば富まず、富を為せば仁ならずと云って、慈悲も施し身代(しんだい)も善くするというは中々むずかしいことでありますが、文治は身代もよく、人も助け、其の上老母へ孝行を尽します。兎角(とかく)男達に孝子と云うは稀(まれ)なもので、成程男達では親孝行は出来ないだろう、自分の身を捨(すて)ても人を助けるというのであるから、親に対しては不孝になるだろうと仰しゃった方がありましたが、文治は人に頼まれる時は白刃(しらは)の中へも飛び込んで双方を和(なだ)め、黒白(こくびゃく)を付けて穏便(おんびん)の計(はから)いを致しまする勇気のある者ですが、母に心配をさせぬため喧嘩のけの字も申しませず、孝行を尽して優しくする処は娘子(むすめっこ)の岡惚れをするような美男でございますが、怒(いか)ると鬼をも挫(ひし)ぐという剛勇で、突然(いきなり)まかな[#「まかな」に傍点]の國藏の胸ぐらをとりまして奥の小間に引摺り込み、襖(ふすま)をピッタリと建(た)って國藏の胸ぐらを逆に捻(ねじ)って動かさず、
 文「やい國藏、汝(われ)は不届な奴である、これ能(よ)く承われ、手前(てめえ)も見た処は立派な男で、今盛りの年頃でありながら、心得違いをいたし、人の物を貪(むさぼ)り取り、強請騙りをして道に背き、それで良いものと思うか、官(かみ)の御法を破り兇状を持つ身の上なれば此の土地へ立廻る事はなるまい、然(しか)るに此の界隈で悪い事を働き、官の目に留れば重き処刑になる奴だに依(よ)って、官の手を待たずして此の文治郎が立所(たちどころ)に打殺(うちころ)すが、汝(われ)は親兄弟もあるだろうが、これ手前(てまえ)の親達(おやたち)は左様な悪人に産み付けはせまい、どうか良い心掛けにしたい、善人にしたいと丹誠(たんせい)して育てたろうが、汝(わりゃ)ア何か親はないかえ、汝(われ)は天下の御法を破り、強請騙りを致すのをよも善い事とは心得まいがな、手前のような奴は、何を申し聞かせても馬の耳に念仏同様で益(やく)に立たんから、死んで生れ替って今度は善人に成れ、汝(われ)は下駄屋職人だそうだが、下駄を削って生計(くらし)を立てゝも其の日/\に困り、どうか旦那食えないから助けて下さいと云って己(おれ)の処へ来れば米の一俵位は恵んでやる、然(しか)るを五十両強請(ゆすろ)うなどとは虫よりも悪い奴である、汝(われ)の親に成代(なりかわ)って意見をするから左様心得ろ、人間の形をしている手前だから親が腹を立てゝ打(ぶ)つ事があろう、其の代りに折檻(せっかん)してやる」
 と云いながら拳骨を固め急所を除(よ)けてコーンと打(ぶ)ちました。
 國「あゝ痛(いた)た」
 文「さア改心しなければ立所に打殺(ぶちころ)すぞ、どうだ」
 國「どうか助けて下さいまし」
 文「イヽヤ元より殺そうと思うのだから助けはせん、手前も命を賭けて悪事をするのじゃアないか、畳の上で殺すのは慈悲を以てするのだ」
 と云いながら又胸ぐらを締上げたから、
 國「ア痛た/\、改心致しやすから助けて下せえ、改心します/\」
 文「弱い奴だなア、改心するなどと申して此の場を逃延(にげの)びて、又候(またぞろ)性懲(しょうこ)りもなく悪事をした事が文治郎の耳に入れば助ける奴でない、天命と思って死ね」
 國「ア痛た/\、そう締めると死んで仕舞います、屹度(きっと)改心しますから何卒(どうぞ)放して下せえ/\」
 文「屹度改心致すか、改心致せ」
 と云って突放(つきはな)された時は身体が痺れて文治の顔を呆気に取られ暫く見て居りましたが、
 國「旦那え/\お前(めえ)さんは噂にゃア聞いて居りやしたが、きついお方ですねえ、滅法な力だ、私(わっち)も旧悪のある國藏で、お奉行(ぶぎょう)がどんな御理解を仰しゃろうと、箒(ほうき)じりで破綻(ひゞだけ)のいるほど打(ぶ)たれても恐れる人間じゃアねえが、お前(めえ)さんの拳骨で親に代って打(う)つと云う真実な意見の中(うち)に、手前(てめえ)は虫よりも悪い奴だ、又堅気の下駄屋で稼いでいて足りねえと云えば米の一俵ぐれえは恵んでやると云う言葉が嘘で云えねえ言葉だ、成程そう云われて見れば虫より悪い事をしやした、旦那え、実ア私(わっち)ア寒さの取付(とっつ)きで困るから嚊をだしに二三両強請ろうと思って来たんだが、お前(めえ)さんの拳骨で打たれた時は身体が痺れて口も何も利けなくなったが、妙な所を打つんだねえ、どうも変に痛いねえ、旦那え、屹度これから改心して國藏が畳の上で死なれるようになった時にゃア旦那へ意趣返しのしようはねえが、私(わっち)が改心した上で鼻の曲った鮭(しゃけ)でも持って来たらば、お前(めえ)さんも些(ちっ)とア胆魂(きもったま)が痛かろうと思うが、其の時は何(なん)と仰しゃいますえ」
 文「これは面白い事を云う、其の時は無闇に人を打擲して済むものでないから、文治が土間へ手を付いて重々悪かったと云って屹度謝ろうが、善人になってくれるか」
 國「そりゃア屹度善人になりやす」
 文「大悪(だいあく)のものが改心すれば反(かえ)って善人になると云うから屹度善人になってくれ、併(しか)し手前(てまえ)が善人になると云っても借金があって法が付くまい、爰(こゝ)に廿両あるからこれで借金の目鼻を付けた上で、稼いでも足りぬ時は手前を打(ぶ)った印に生涯(しょうがい)でも恵んでやるから、これを持って往って稼げ」
 國「旦那それじゃア此の金を私(わっち)にくれますかえ、豪(えら)いなア、どうも驚いた、私(わっち)を悪(にく)んで打(ぶ)ったのだから、大抵の者ならくれた処が五両か七両、それを廿両遣(や)るから善人になれと云うお前(めえ)さんの気象に惚れた、これから屹度改心して仕事を致します」
 文「能く云ってくれた、就(つ)いては手前に能く申し聞けて置く事があるが、悪人と云うものは、善人になると口で云って、其の金を持って往って、博奕場(ばくちば)へでも引掛(ひっかゝ)り、遣果(つかいはた)して元の國藏のように悪事をすれば文治は許さぬぞ、うっかり持って往(ゆ)くな、香奠(こうでん)にやるのだ、手前の命の手付にやるのだからそう心得ろ」
 國「怖(おっ)かねえ、死んでも忘れません、向後(きょうこう)悪事はふッつりと」
 と横に首をふり、「あゝ痛い/\首を振りゃア頭へ響けて痛いねえ、お浪や/\こけへ来て旦那様へお礼を申せ」と云ったが、どうしてお浪は國藏の打(ぶ)たれるのを見て、疾(とっ)くに跣足(はだし)で逃出(にげだ)して仕舞って居りませんから、國藏は文治に厚く礼を述べて立帰(たちかえ)りましたが、此の國藏が文治の云う事を真に感じ、改心致して、後に文治の為に命を惜まず身代りに立つのでございます。これは九月の三日の事で、これから十二月の三日の夜(よ)の事でございます。文治が助けた田舎の人が、江戸へ来て文治に馳走をすると云うので浅草辺で馳走になって帰る途中、チラリ/\と雪が降出(ふりだ)しましたから、傘(かさ)を借り、番場の森松と云う者が番傘を引担(ひっかつ)いで供をして来ますと、雪は追々積って来ました。
 文「大層降って来たなア」
 森「大層降り出して来ましたねえ」
 文「一面の銀世界だなア」
 森「へい、銀が降って来ましたか」
 文「なアに好(い)い景色(けしき)だと云う事よ」
 森「雪が降りますと貧乏人は難渋しますなア」
 文「だがのう、雪は豊年の貢(みつぎ)と云って、雪の沢山降る年は必ず豊年だそうだ」
 森「へー法印様がどうしますとえ」
 文「なアに雪が降ると麦作が当るとよ」
 森「八朔(はっさく)に荒れがないと米がとれやすとねー、どう云う訳でしょうなア、雨が氷っているのを天でちっとずつ削り落すのかね」
 文「馬鹿云え、下(くだ)り飴(あめ)じゃアあるまいし、これは天地積陰(せきいん)温かなる時は雨ふり寒なる時は雪と成る、陰陽凝(こっ)て雪となるものだわ、それに草木の花は五片(ごひら)雪の花は六片(むひら)だから六(むつ)の花というわさ」
 森「なんだかむずかしくって分らねえが、今日の客は気の利かねえ奴だ、帰(けえ)る時に大きい物でグーッと飲ませればいゝに、小さいもので飲ませたから直ぐ醒めて仕舞って仕様がありゃアしねえ、あれだから田舎者は嫌いだ」
 文「これ、人の御馳走になっていながら悪口(あっこう)を云ってはいかんよ」
 森「成程こいつアわるかった、時々失策(しくじ)りますなア」
 と話をしながら天神の所まで来ますと、手拭を被(かぶ)って女が往ったり来たりしているから、
 文「森松や、彼処(あすこ)に女が居るようだなア」
 森「へー雪女郎(ゆきじょうろ)じゃアありませんかえ」
 文「なアに雪女郎は深山(しんざん)の雪中(せっちゅう)で、稀(まれ)に女の貌(かお)をあらわすは雪の精なるよしだが、あれは天神様へお百度でも上げているのだろう」
 森「それじゃア大方縁遠いのでしょう」
 文「何故え」
 森「寝小便か何かして縁付く事が出来ないから、それでお百度を上げているんでしょう」
 と云う中(うち)にプーッと垣際へ一(ひ)と吹雪吹き付けますると、彼(か)の娘は凍えたと見えまして、差込んで来る癪(しゃく)に、ウーンと云って胸を押えて、天神様の塀(へい)の所へ倒れましたから、
 文「あれ/\女が倒れたな」
 森「うっかり側へ往って尻尾(しっぽ)でも出すといけませんぜ」
 文「おゝ是は冷えたと見えて、可愛そうに、何所(どこ)ぞへ往って温ためてやればいゝだろう、手前の傘をつぼめて己(おれ)の傘を差掛けろ、彼(あ)の女を抱いて往ってやろう」
 森「お止しなさい、掛合(かゝりあ)いにでもなるといけませんぜ」
 文「なアに捨置く訳にはいかん」
 と云って力は七人力あるから軽々と其の娘を抱いて立花屋(たちばなや)と云う小料理屋へ来ました。
 文「森松や、起して呉れ」
 と云うからトン/\トン/\と戸を叩き、
 森「おい立花屋さん起きねえか/\オイ/\」
 文「これ/\そんなに粗末に云うなよ」
 森「粗末たって起すんでさア、オイ/\火事だ/\」
 料「はい/\/\」
 と計(ばかり)云って居ります。
 森「恰(ちょう)ど馬を追っているようだ」
 料「何方(どなた)か知りませんがねえ、此の雪でお肴がありませんから、どうか明日(みょうにち)になすって下さい」
 文「私だよ、業平橋の文治郎だア」
 亭「はい/\明けますよ、これ婆さん、旦那様だよ、これサ寝惚けちゃアいけねえぜ、行燈(あんどん)を提げてぐる/\廻っちゃアいけねえって事よ」
 と云いながら戸を開けて、
 亭「おー大層降りましたなア」
 文「余程(よっぽど)積った」
 と云うのを見ると女を抱いて来ましたが、平常(ふだん)堅い文治の事だから変だと思ったが、
 亭「へゝゝゝゝ御心配はありませんから、奥の六畳は伊勢屋(いせや)の蔵の側で彼処(あすこ)は誰にも知れませんから彼処にしましょう」
 森「フム何を云うのだ、いま女が雪の中へ顛倒(ひっくりけえ)っていたのを、旦那が可愛そうだと云って連れて来たのだ、出合いじゃアねえぜ」
 亭「左様ですか、それじゃアさア/\此方(こっち)へ/\」
 と間の悪そうな顔をして座敷へ案内を致しまして、これから娘の介抱致すと、元より凍えたのですから我に返って目を開き、側を見ると燈火(あかり)が点(つ)いて、見馴れぬ人計りいるから、恟(びっく)りしてキョト/\して居りますのを文治が見ると、年齢(としごろ)十六七で、目元に愛敬のある色の白い別嬪(べっぴん)ですが、髪などは先々月の六日に結(ゆ)った儘(まゝ)で、それも髪結(かみゆい)さんが結ったのではない、自分で保(もち)のよいように結ったのへ埃(ごみ)が付いた上をコテ/\と油を付け、撫付(なでつ)けたのが又毀(こわ)れましたから鬢(びん)の毛が顔にかゝり、湯にも入らぬと見えて襟垢(えりあか)だらけで、素袷(すあわせ)一つに結(むすび)っ玉の幾つもある細帯に、焼穴(やけあな)だらけの前掛を締めて、穢(きた)ないとも何(なん)とも云いようのない姿(なり)だが、生れ付の品と愛敬があって見惚(みと)れるような女です。
 文「美(い)い女だのう」
 森「なぜ此の位(くれえ)な顔を持っていて、穢ない姿(なり)をしているでしょう、二月(つき)しばり位(ぐれえ)で妾(めかけ)にでも出たらば好(よ)さそうなものですなア」
 文「姉さん心配しちゃアいけません、此処(ここ)は立花屋と云う料理屋で、私(わし)はつい此の近辺の者で浪島文治郎と云う者だが、お前が天神様の前に雪に悩んで倒れている所へ通り掛って、お助け申して来て、介抱した効(しるし)があって漸々(よう/\)気がついて私(わし)も悦ばしゅうございますが、決して心配をなさいますなよ」
 森「おい姉さん、本当に旦那が介抱してやったのだから、有難いと云って礼を云いな」
 文「なぜそんな事を云うのだ、恩にかけるものじゃないわサ、もしお前さんは何処(どこ)のお方だえ」
 と問われて娘は「はい」と羞(はず)かしそうに顔を上げて、
 娘「私(わたくし)は本所松倉町(まつくらちょう)二丁目に居ります者でございます」
 文「お前さんは此の雪の中を何の願掛(がんがけ)に行(ゆ)くのだえ、よく/\の事だろうね」
 森「姉さんなんで願掛をするんだえ、縁遠いのかえ」
 文「黙っていろよ……してどう云う訳か知らないが夜中に娘一人で斯(こ)う云う所へ来るのは宜しくないよ」
 娘「はい、親父(おやじ)が長々の眼病で居りまして、お医者様にも診(み)て貰いましたが、迚(とて)も療治は届かないと申されましたから、切(せ)めて片方(かた/\)だけでも見えるように致したいと思って御無理な願いを天神様へ致しました、それ故に寒三十日の間、毎晩お百度に参りますのでございます」
 文「へー感心な事だねえ、嘸(さぞ)御心配だろうね……それ見ろ森松、お父(とっ)さんがお眼が悪いのだって、感心じゃアないか」
 森「眼の悪いのなら多田(たゞ)の薬師が宜(よ)かろうに、天神様が眼に利きますかえ」
 文「姉さん、お前さんが斯うしてお百度に出なさる間お父さんの看病は誰がしますか、お母(っか)さんでもありますかえ」
 娘「いゝえ親一人子一人でございます、長い間の病気で薬代や何かの為に何もかも売り尽しまして、只今では雇人も置かれません故、親父を寝(ねか)しつけておいて一人で参ります」
 文「それじゃ一人のお父さんを寝かしてお前一人で此処(こゝ)へ来るのかえ、そりゃア孝行が却(かえ)って不孝になる、お前の留守にどんな非常の事があるまいものでもない、若(も)し其の裏から火事でも出たらどうするえ、中々お前が余所(よそ)から駈付けても間にあうまい、其の時お長屋の方(かた)が我(わが)荷物は捨置き、お前のお父さんを助け出す人はなかろう、混雑の中だからどんな怪我がないものでもない、さすれば却って不孝になりますよ、神仏(かみほとけ)と云うものは家(うち)にいて拝んでも利益(りやく)のあるものだから、夜中に来てお百度を踏むのは止したほうがよろしい、未(ま)だそればかりじゃアない、お前さんのような容貌(みめ)よい女中が、深夜にあんな所に居て、悪者に辱(はず)かしめられたらどうするえ、又先刻(さっき)のように雪に悩んで倒れていて誰も人が来なかったらどうするえ、それ故どうかお百度に出るだけは止して下さい、信心ばかりで親父(おとっ)さんの眼は治らん、名医にかけて薬を服(の)ませなければならんから、薬を服まして信心をするが宜しい、何処(どこ)のお医者に診て貰ったえ」
 娘「はい、荒井町(あらいまち)の秋田穗庵(あきたすいあん)さんと云うお医者様に診て戴きましたが、真珠の入る薬を付ければ治るけれども、それは高いお薬で貧乏人には前金(ぜんきん)でなければ遣(や)られないと仰しゃいましたけれど、四十金もなければなりませんそうでございます」
 文「フム、それでは四十金で必ず治ると医者が受合いましたかえ、それじゃア爰(こゝ)に四十金持合せがありますから、これをお前さんに上げましょう」
 森「旦那、何をするのです、およしなせえ、おまえさんは知らないが斯う云うものには贋物(にせもの)が多い、貧乏人の子供が表に泣いていて、親父(ちゃん)もお母(かあ)もいない、腹がへっていけねえと云ってワーッと泣くから、可愛そうだと思って百もやると材木の間に親爺(おやじ)が隠れていて、此方(こっち)へ来い/\と云って、又人が来ればワーッと泣き出す奴があります、又躄(びっこ)だと思った乞食(こじき)が雨が降って来ると下駄を持って駈出(かけだ)しやす、世間にはいくらもある手だから、これも矢張(やっぱ)り其の伝でしょう、お止しなせえ/\」
 文「まア宜しい、黙っていろ、姉さん爰に四十金あるからこれをお前に上げましょう、其の代りお百度に出る事はお止め申すよ」
 娘「はい、どう致しまして、見ず知らずの方に四十金と云う大金を戴く事は出来ません」
 亭「折角(せっかく)だから戴いて行(ゆ)きな、これは業平橋にお住居(すまい)なさる文治様と云う旦那だよ」
 娘「有り難うございますが、親父が物堅うございますから、仮令(たとえ)手拭一筋でも人様から謂(いわ)れなく物を戴いて参ると直(すぐ)に持って往って返えせと申しますくらいでございますから、金子などを持って往(ゆ)けば立腹致して私(わたくし)を手打にすると申すかも知れません、戴きたい事は山々でございますが、私(わたくし)が持って帰っては迚(とて)も受けませんから、お慈悲序(つい)でに恐れ入りますが、貴方が持って往って直(じか)に親父にお渡し下されば親子の者が助かります、眼さえ治れば直(すぐ)にお返し申しますから何卒(どうぞ)そう為すって下さいまし」
 文「はい/\これはお前さんに遣るのは悪るかった」
 森「これは真物(ほんもの)ですなア、贋物なら直(すぐ)に持って往(ゆ)くのだが、こりゃア真物だ」
 文「姉さんお前は何処(どこ)だえ」
 娘「はい、松倉町二丁目でございます」
 文「それは聞いたがお前の家(うち)は松倉町の何(ど)の辺だえ」
 娘「はい、葛西屋(かさいや)と云う蝋燭屋(ろうそくや)の裏でございます」
 森「フム、けちな蝋燭屋だ」
 文「お父さんは何をしておいでだえ」
 娘「筆耕書(ひっこうかき)でございます」
 森「なんだとシッポコかきだとえ」
 文「なアに版下(はんした)を書くんだ、お父さんの御尊名は何と仰しゃいますえ」
 娘「はい小野庄左衞門(おのしょうざえもん)と申します」
 文「何処(どちら)の御藩中ですか」
 娘「中川山城守(なかがわやましろのかみ)の藩中でございます」
 文「士気質(さむらいかたぎ)ではうっかりお受取(うけとり)なさいますまいから、明日(みょうにち)私が持って往って上げましょう、気を付けてお帰んなさいよ」
 娘「有難うございます、左様なら」
 文「此処にお茶受に出たお菓子があるから持っておいで、あれさ、食物(たべもの)は宜しい」
 と紙へ沢山包んで、
 文「さアお持ちなさい」
 と出された時は孝行な娘だから親に旨い物を食べさせたいが、窮して居りますから何一つ買って食べさせられないから、
 娘「有難うございます」
 と云って手に取って貰う時に、始めて文治の顔を見ますと、美男の聞えある業平文治でござります、殊(こと)に見ず知らずの者に四十金恵んで下さるとは何たる慈悲深い人だろうと、我を忘れて惚れ/″\と見惚(みとれ)て居りまして、思わず知らず菓子の包みをバタリッと下に落しました。
 森「姐(ねえ)さん落しちゃアいけねえぜ、折角お呉れなすッたのだから」
 娘「はい」
 と云って羞かしいから真赤になって立上るを、
 文「姉さん、帰るんならどうせ通道(とおりみち)だから送って上げよう、大きに御厄介(ごやっかい)になりました、明日(あした)来て奉公人や何かへ詫(わび)をしましょう」
 亭「どう致しまして、明日(みょうにち)またお母様(っかさま)へお肴を上げますから」
 文、森「左様なら」
 と娘と連れ立って松倉町の角(かど)まで来ました。
 娘「有難うございます」
 文「それでは明日(あした)往(ゆ)きますよ」
 娘「有り難うございます/\」
 と云って幾度も跡を振り返って見ますのは、礼が云いたいばかりではない、文治の顔が見たいからでございます。
 娘「有り難うございます/\」
 と云いながら曲り角などはグル/\廻りながら礼を云いますから、
 森「旦那美(い)い女ですなア」
 文「貴様は女の美いのばかり賞(ほ)めているが、顔色容貌(かおかたち)ばかりではない、親に孝行をすると云う心掛が善(い)いなア」
 森「そうですなア、心がけがいゝねえ」
 文「どうも屋敷育ちは違うなア」
 森「屋敷育ちは違いますなア」
 文「金も受けない所がえらい」
 森「金を受けないところがえらい」
 文「感心だ」
 森「感心だ」
 文「同じ事ばかり云うな」
 と話をしながら橋を渡って来ると、向うから前橋(まえばし)竪町(たつまち)の商人(あきんど)が江戸へ商用で出て来て、其の晩亀戸(かめいど)の巴屋(ともえや)で友達と一緒に一杯飲んで、折(おり)を下げていたが酔っているから振り落して仕舞って、九五縄(くごなわ)ばかり提げ、相合傘(あい/\がさ)で踉(よろ)けながら雪道の踏堅めた所ばかり歩いて来ますが、ヒョロリ/\として彼方(あっち)へ寄ったり此方(こっち)へ寄ったり、ちょうど橋詰まで来ると、此方から参ったのは剣術遣(つか)いのお弟子と見えて奴(やっこ)蛇(じゃ)の目(め)の傘をさして来ましたが、其の頃町人と見ると苛(ひど)い目に合わせます者で、
 士「さア除(ど)け/\素町人(すちょうにん)除け」
 と云うから見ると士(さむらい)だから慌てゝ除(よ)けようと思うと、除ける機(はずみ)にヒョロ/\と顛(ころが)ります途端に、下駄の歯で雪と泥を蹴上(はねあ)げますと、前の剣術遣いの襟(えり)の中へ雪の塊が飛込みましたから、
 士「あゝ冷たい、なんたる奴だ、あゝ冷たい/\、これ町人倒れたぎりで詫を致さんな、無礼至極な奴だ、何(なん)と心得る、返答致せ」
 と云われ漸(ようや)く頭を挙げて向うを見てもドロンケンだから分りません。
 商「誠に大変酔いまして、エー何(なん)とも重々恐れ入りやした、田舎者で始めて江戸へ参(めえ)りやして、亀井戸(かめいど)へ参詣して巴屋で一杯(ぺい)傾けやした処が、料理が佳(い)いので飲過ぎて大酩酊(おおめいてい)を致し、足元の定(さだま)らぬ処から無礼を致しやして申し訳がありやせん、どうか御勘弁を願いやす」
 士「なんだ言訳に事を欠いて巴屋でやり過ぎたとはなんだ」
 商「些(ち)とやり過ぎやした、どうも巴屋はなか/\旨く食わせやすなア」
 士「言訳をするのに巴屋はなか/\旨く食わせるなどとは不埓(ふらち)な申分(もうしぶん)、やい其処(そこ)に転がっているのは供か連れかなんだ」
 商「ヒエイ」
 と頭は上げましたが舌が少しも廻りません。
 商「エーイ主人がね此方(こっひ)へ除(よ)えようとすう、て前(もえ)も此方(ほっひ)へ除(お)けようとする時に転(ほろ)がりまして、主人の頭と私(うわし)の頭と打(ぼつ)かりました処が、石頭(ゆいあさま)で痛(いさ)かった事、アハア冷(しべ)てえや」
 士「こんな奴は性(しょう)のつくように打切(ぶったぎ)った方が宜しい、雪へ紅葉(もみじ)を散してやりましょう」
 士「それが宜しい、遣って仕舞いましょう」
 と云う声を聞いて両人(ふたり)とも真青になって、雪の中へ頭を摺り付け、
 商「何卒(どうぞ)御勘弁なすって下さいまし/\」
 士「勘弁はならん、切って仕舞う」
 と云うのを文治が塀のところで見て居りましたが、
 文「森松悪い奴だのう」
 森「何(なん)です、雪の中へ紅葉とは何の事です」
 文「彼(か)の二人を切ると云うから己(おれ)が鳥渡(ちょっと)詫びてやろう」
 森「お止しなさい/\」
 文「どうも見れば捨置く訳にはいかんから」
 と織色(おりいろ)の頭巾(ずきん)を猶(な)お深く被(かぶ)って目ばかり出して士(さむらい)の中へ入り、
 文「えー御両所、此の者どもは二人共酔って居りますから、どうか免(ゆる)してやって下さい、そんなに人を無闇に切るものでは有りません」
 士「貴公はなんだ、捨ておけ、武士に向って不礼(ぶれい)至極、手打に致すは当然(あたりまえ)だわ、それとも貴公は此の町人の連(つれ)か」
 文「いゝえ通り掛りの者ですが、此の者どもを切るのは人参(にんじん)や大根を切るより易(やす)いではござらぬか、夜中(やちゅう)帯刀して此の市中を歩いて、無闇に刀を抜いて人を切るなどと云う事を仰しゃれば、先生のお名前にも係(かゝわ)りましょうから、サッサとお宅へお帰んなさい」
 士「無礼至極、不届至極な事を云う奴だ」
 文「何が不届です、斯様(かよう)な弱い奴を切るのは犬を切るのも同じ事でござる、士(さむらい)と云う者は弱い者を助けるのが真の武士、お前さん方は犬でも切って歩きそうな顔付だ」
 士「最前から聞いて居れば手前は余程(よっぽど)付け上って居(お)るな、此の町人は謂(いわ)れなく切るのではない、余り無礼だに依(よ)って向後(きょうこう)の戒(いましめ)の為切捨(きりすて)るのだ、然(しか)るに手前は仲人(ちゅうにん)のくせに頭巾を被って居(お)るとは失礼な奴だ、頭巾を取れ」
 文「お前さんが頭巾を取って宜しかろう、仲人が来(きた)らば先(ま)ず其方(そっち)から頭巾を取って斯様々々な訳で有るからと話をすれば、仲人も頭巾を取るが、喧嘩の当人の方で被っているから仲人の方でも被っているのは当然(あたりまえ)だ」
 士「不届至極な奴だ、素町人を切るより此奴(こやつ)を切ろう」
 士「それが宜しい」
 文「これは面白い、私(わし)を代りに切って此の両人を助けて呉れゝば切られましょう、さア/\田舎のお方、早く行(ゆ)きなさい/\」
 と云うと生酔(なまよい)も酔が覚め、腰が抜けて迯(に)げる事が出来ませんで、這(は)いながら板塀の側に慄(ふる)えておりますと、剣術遣いはジリ/\ッと詰寄って参ったから、文治は油断をしませんでプツリッと長脇差の鯉口(こいぐち)を切って、
 文「さア代りに切られますが、今の両人と違って切るのは些(ちっ)とお骨が折れましょう、手が二本足が二本あって動きますから気を付けて切らんと貴方(あなた)の方の首が落ちましょう」
 士「やア此奴(こいつ)悪々(にく/\)しい奴だ、此方(こっち)で切ろうとも云わないに切られようとする馬鹿な奴だなア」
 文「さア切れる腕があるなら切って見ろ」
 士「さア切るぞ」
 と彼(か)の士が大刀の※(つか)へ手を掛けて詰め寄りますから、文治は半身(はんしん)下(さが)って身構えを致しましたが、一寸(ちょっと)一(ひ)と息吐(つ)きまして直(すぐ)に後(あと)を申し上げます。

 

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]  ... 下一页  >>  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家: 没有了
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告