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断崖の錯覚(だんがいのさっかく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-20 9:27:14  点击:  切换到繁體中文


        三

 二三日ぶらぶらしているうちに、私にも、どうやら落ちつきが出て来た。ただ、名前を変えたぐらい、なんの罪があるものか。万が一、見つかったとしても、冗談だとして笑ってすませることである。若いときには、誰しもいちどはやることなのにちがいない。そう思って落ちついた。しかし、私の良心は、まだうずうずしていた。大作家の素質に絶望した青年が、つまらぬ一新進作家の名をかたって、せめても心やりにしているということは、実にみじめで、悲惨なことではないか、と思えば、私はいても立っても居られぬ気持であった。けれども、その慚愧ざんきの念さえ次第にうすらぎ、この温泉地へ来て、一週間目ぐらいには、もう私はまったくのんきな湯治客になり切っていた。新進作家としての私へのもてなしが、わるくなかったからである。私の部屋へ来る女中の大半は、私に、「書けますでしょうか。」とおそるおそる尋ねるのだった。私は、ただなごやかな微笑をもってむくいるのだった。朝、私が湯殿へ行く途中、逢う女中がすべて、「先生、おはようございます。」と言うのだった。私が先生と言われたのは、あとにもさきにもこのときだけである。
 作家としての栄光の、このように易々やすやすと得られたことが、私にとって意外であった。窮すれば通ず、という俗言をさえ、私は苦笑しながら呟いたものであった。もはや、私は新進作家である。誰ひとり疑うひとがなかった。ときどきは、私自身でさえ疑わなかった。
 私は部屋の机のうえに原稿用紙をひろげて、「初恋の記」と題目をおおきく書き、それから、或る新進作家の名前を――いまは私の名前を、書き、それから、二三行書いたり消したりして苦心の跡を見せ、それを女中たちに見えるように、わざと机のうえに置きっぱなしにして、顔をしかめながら、そとへ散歩に出るのだった。
 そのようなことをして、私はなおも二三日を有頂天になってすごしたのである。夜、寝てから、私はそれでも少し心配になることがあった。し、ほんものがこの百花楼へひょっくりやって来たら、と思うと、流石さすがにぞっとするのであった。そんなときには、私のほうから、あいつは贋物だと言ってやろうか、とも考えた。少しずつ私は図太くなっていたらしいのである。不安と戦慄せんりつのなかのあの刺すようなよろこびに、私はうかされて了ったのであろう。新進作家になってからは、一木一草、私にとって眼あたらしく思えるのだった。海岸をステッキ振り振り散歩すれば、海も、雲も、船も、なんだかひと癖ありげに見えて胸がおどるのだった。旅館へ帰り、原稿用紙にむかって、いたずらがきして居れば、おのれの文字のひとつひとつが、額縁に収めるにふさわしく思えるのだった。文章ひとつひとつが、不朽のものらしく感じられるのだった。そんなゆがめられた歓喜の日をうかうかと送っているうちに、私は、いままでいちども経験したことのない大事件に遭遇したのである。

        四

 恋をしたのである。おそい初恋をしたのである。私のたわむれに書いた小説の題目が、いま現実になって私の眼の前に現われた。
 その日私は、午前中、原稿用紙を汚して、それから、いらいらしたような素振りをしながら宿を出た。赤根公園をしばらくぶらついて、それから、昼食をたべに街へ出た。私は、「いでゆ」という喫茶店にはいった。いまは立派な新進作家であるから、むかしのように、おどおどしなかった。じっさい、私にとって、十日ほどまえの東京の生活が、十年も二十年ものむかしのように思われていたのである。もはや私は、むかしのような子供でなかった。
「いでゆ」には、少女がふたりいた。ひとりは、宿屋の女中あがりらしく、大きい日本髪をゆい、赤くふくれた頬をしていた。私は、この女には、なんの興味も覚えなかったのであるが、いまひとりの少女、ああ、私はこの女をひとめ見るより身内のさっと凍るのを覚えた。いま思うと、なんの不思議もないことなのである。わかい頃には、誰しもいちどはこんな経験をするものなのだ。途上ですれちがったひとりの少女を見て、はっとして、なんだか他人でないような気がする。生れぬまえから、二人が結びつけられていて、何月何日、ここで逢う、とちゃんときまっていたのだと合点する。それは、青春の霊感と呼べるかも知れない。私は、その「いでゆ」のドアを押しあけて、うすぐらいカウンタア・ボックスのなかに、その少女のすがたを見つけるなり、その青春の霊感に打たれた。私は、それでも新進作家らしく、傲然ごうぜんとドア近くの椅子に腰かけたのであるが、膝がしらが音のするほどがくがくふるえた。私の眼が、だんだん、うすくらがりに馴れるにしたがい、その少女のすがたが、いよいよくっきり見えて来た。髪を短く刈りあげて、細い頬はなめらかだった。
「なにになさいます?」
 きよらかな声であると私は思った。
「ウイスキイ。」
 私は、誰かほかのお客がそう答えたのだと思った。しかし、客は私ひとりなのである。そのときは、流石さすがに慄然とした。気が狂ったなと思った。私は、うつろな眼できょろきょろあたりを見まわした。しかし、ウイスキイのグラスは日本髪の少女の手で私のテエブルに運ばれて来た。
 私は当惑した。私はいままで、ウイスキイなど飲んだことがなかったのである。グラスをしばらく見つめてから、深い溜息とともにカウンタア・ボックスの少女の方をちらと見あげた。断髪の少女は、花のように笑った。私は荒鷲あらわしのようにたけりたけって、グラスをつかんだ。飲んだ。ああ、私はそのときのほろにがい酒の甘さを、いまだに忘れることができないのである。ほとんど、一息に飲みほした。
「もう一杯。」
 まったく大人のような図太さで、私はグラスをカウンタア・ボックスの方へぐっと差しだした。日本髪の少女は、枯れかけた、鉢の木の枝をわけて、私のテエブルに近寄った。
「いや、君のために飲むのじゃないよ。」
 私は追い払うように左手を振った。新進作家には、それぐらいの潔癖があってもいいと思ったのである。
「ごあいさつだわねえ。」
 女中あがりらしいその少女は、品のない口調でそう叫んで、私の傍の椅子にべったり坐った。
「はっはっはっは。」
 私はひとくせありげに高笑いした。酔ぱらう心の不思議を、私はそのときはじめて体験したのである。

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