五
伊右衛門は喜兵衛の家から帰って来た。伊右衛門は喜兵衛の家へ礼に往ったところで、たくさんの金を眼の前へ積まれて、一家の者から、
「ぜひとも聟になってくれ」
と云われたので、
「お岩と云う、れっきとした女房があり、それに児まであるから」
と云って、ていさいのいいことを云った。するとお梅が帯の間から剃刀を出して自害しようとするので、驚いていると、今度は喜兵衛が、
「伊右衛門殿、わしを殺してくだされ」
と云って、お梅の可愛さのあまり、伊右衛門とお岩の仲を割くために血の道の妙薬と云って、顔の容の変わる毒薬をお槇に持たせてやったと云った。
伊右衛門はそこでお梅を女房にすることにして帰って来たところであった。伊右衛門は上へあがってお岩の寝ている蚊帳の傍へ往った。嬰児に添乳をしていたお岩は気配を感じた。
「油を買ってきたの」
お岩は伊右衛門の留守に、油を買いに往った宅悦が帰って来たのだと思った。伊右衛門は顔をさし出すようにした。
「おれだよ」
お岩は其の声で伊右衛門だと云うことを知った。
「伊右衛門殿」
「うむ、今帰ったが、さっきの薬を飲んだか」
「はい、彼のお薬を服むと、其のまま熱が出て顔が痛うて」
「そうか、顔が」
「痺れるようでござりました」
お岩はそう云いながら蚊帳の裾をめくって出て来た。伊右衛門は其の顔に注意した。お岩の顔は紫色に脹れあがっているうえに、左の瞼が三日月形に突き潰したように垂れていた。それは二目と見られない物凄い顔であった。伊右衛門はさすがに驚いた。
「や、かわった、かわった」
お岩はさっき宅悦が己の顔を見て驚いたと同じように、伊右衛門が驚いたので不思議でたまらなかった。
「私の顔に、何か変わったことでも」
伊右衛門はあわててそれを遮るようにした。
「な、なに、ちょっとの間に、おまえの顔色がよくなったから、やっぱり彼の薬がきいたと見える」
お岩は何かしら不安であった。
「顔色がよくなっても、私はなんだか」と云いかけて、急にしんみりして、「もし私が死んでも、此の子のために当分後妻をもたないように頼みます」
お岩は醜くなった眼に涙を浮べた。伊右衛門はかんで吐き出すように云った。
「後妻か、そりゃ持つさ、一人でいられるものか。おまえが死んだら、すぐ持つつもりじゃ」
「え」
「そんなことは、あたりまえじゃないか」
「まあ、なんと云う薄情な」
「どうせおれは薄情だ、こんな薄情者にいつまでもくっついてないで、佳い男でも持って、親仁の讐を打ってもらうがいいよ」
伊右衛門は今夜喜兵衛がお梅を伴れて来ることになっているので、それまでに何とかしてお岩を追いだすようにしなくてはならなかった。お岩は歯をくいしばった。
「何と云う情ないことを、こんな可愛い児まであるに」
「何が可愛い、そんなに可愛けりゃ、くれてやるから伴れて往け。きさまのような不義者は、一刻もおくことはできん、さっさと出て往ってくれ」
「何と申します、いつ私が不義をいたしました」
「しらばくれてもだめだ、きさまは彼の按摩と不義をしているのだ」
「あんまりな、そりゃ、あんまりでござります」
お岩は泣きくずれた。伊右衛門はふと思い出したことがあった。
「そうは云っても、我鬼まで出来たことじゃ」きろきろと四辺へ眼をやり、落ちている櫛を見つけてそれを取り、「良いものがある、これでも持って往こうか」
お岩は其の手にすがりついた。
「あ、それは母さんの、形見の櫛、そればっかりは、どうぞ」
伊右衛門はじろりと見た。
「いけねえのか」
「そればっかりは、どうぞ」
お岩は一所懸命であった。伊右衛門はしかたなく櫛を投げだした。
「それじゃ、何か出せ、急に金のいることができた」
出せと云っても金になるような物は、これまで全部持ち出しているのであった。お岩は暫く考えていたが、思いだしたようにして起ちあがった。
「それでは、私の」
お岩は帯を解き、襦袢一枚になって、泣く泣く其の衣服を伊右衛門の前へさし出した。伊右衛門はそれをひったくるようにした。
「これだけじゃ、しょうがない。そうじゃ、蚊帳がある」
お岩はあきれた。
「其の蚊帳を持って往かれては、坊やが」
「我鬼なんかどうでもいい、蚊がくうなら、親のやくめじゃ、追ってやれ」
伊右衛門はさっさと蚊帳をはずして、泣きしずむお岩を尻眼にかけて出て往った。
六
お岩は苦しい体をひきずるようにして、台所から亀裂の入った火鉢を出して来た。そして、それに蚊遣りをしかけながら宅悦を見た。
「いくらなんでも、あんまりじゃないか、こんなに蚊がいるのに」
宅悦はお岩の鬼魅のわるい顔を避けながらもじもじしていた。
「ひどいことをするものだ、男のわしでさえ愛憎がつきた。もし、お岩さん、あんな薄情な男と、何時までいっしょにいねえで、いっそわたしと」
宅悦はお岩の手を執って引き寄せた。お岩は驚いて其の手を揮り払った。
「あれ滅相な、其の方は、まあ武士の女房に」
宅悦はいやしい笑いかたをした。
「いくら、おまえさまばかりが操をたてても、伊右衛門さまの心は、とうから変っております。今のうちに、わたしの云うことを聞く方が、おまえさまのためでござります」
「いくら所天がどうあろうとも、私は私、けがらわしい。女でこそあれ武士の娘、不義を云いかけるとはもってのほか」
お岩はいきなり小平のさしていた刀を執って脱いた。宅悦はうろたえた。
「あ、あぶない」
宅悦はお岩に飛びかかって、其の刀をもぎ取ろうとした。お岩はそれを取られまいとして争っているうちに、どうした機か刀が飛んで欄間の下へ突きささった。お岩はよろよろとなった。
「は、はなして」
お岩は刀の方へ駈け寄ろうとした。宅悦はあわてた。
「ま、まあ、静にしてくだされ、今云ったのは、皆嘘でござります。いくら私が好奇でも、其のお顔では」
「え、私の顔がどうかなって」
「可哀そうに、何も知らずに服んだ彼の薬は、血の道の妙薬どころか、まあ、これを見なさるがよい」
宅悦は櫛畳から鏡を出した。お岩は急いで鏡に手をかけて己の顔を映したが、己の顔とは思われないので後を見た。
「何人ぞ後に」後には何人もいなかった。「こりゃ、わしかいの、ほんまにわしの顔かいの」
お岩は身をふるわせて泣きだした。宅悦は真箇のことを云わなくてはならなかった。
「いやがるわたしをおどしつけて、みだらなことをさしたのも、今夜喜兵衛の孫娘と内祝言をするために、おまえさまを追いださなくては、つごうがわるいからでござりますよ」
お岩はこれを聞くと狂人のようになった。
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、鉄漿の道具をそろえておくれ、早う、早う」
宅悦はふるえていた。
「産後のおまえさまが、鉄漿をつけては」
「大事ない、早う、早う」
宅悦はお岩が狂人のようになっているので、何とかして止めようとしたが止められなかった。宅悦はしかたなく鉄漿の道具を持って来た。お岩は体をふるわしながら鉄漿を付け、それから髪を櫛きにかかったが、櫛を入れるたびに毛が脱けて、其の後から血がたらたらと流れた。
「やや、脱毛から滴る生血は」よろよろと起きあがって、「一念貫さでおくべきか」
宅悦は泣きだした嬰児を抱いていた。
「これ、お岩さま、もし、もし」
宅悦はお岩の傍へよって片手を其の肩へかけた。お岩の体はよろよろとなって倒れかかった。其処には鴨居に刺さっていた刀が落ちかかっていたので、お岩の咽喉は其の刀へ往った。
「う、う」
どす黒い血がお岩の顔から体を染めた。宅悦はふるえあがった。
「た、たい、へんだ、たいへんだ」
其の時何処からともなく一匹の猫が来た。
「こん畜生、死人に猫は禁物だ」
宅悦は猫を追った。其の途端に欄間の上から大きな鼠が猫を咬えて出て来たが、すぐ畳の上へ落とした。宅悦は嬰児を寝かすなり表へ走り出た。門の外には伊右衛門が裃をつけて立っていた。
「按摩か、首尾はよいか」
宅悦は夢中になっていた。
「たいへん、たいへん、たいへん、お岩さまがたいへんだ。それに、大きな鼠が、猫が」
宅悦は狂人のようになって走った。伊右衛門は訳が判らなかった。
「なんだ、鼠がどうしたのだ。鼠、鼠と云って逃げやがったが、首尾がわるいのか。それでは、彼の中間奴を姦夫にするか」それから内へ入って、「お岩、お岩」
足もとで嬰児が泣きだした。伊右衛門はびっくりした。
「あ、もうすこしで、踏み殺すところじゃ。お岩は何処へ往った、おい、お岩」
其の時また彼の大きな鼠が何処からともなく走って来て、泣き叫ぶ嬰児に咬みついた。
伊右衛門はすばやく嬰児を抱きあげて、きょろきょろと四辺を見た。其処にお岩の死骸があった。伊右衛門は駈けよった。
「や、こりゃお岩が死んでおる」刀を見つけて、「こりゃ小平めの赤鰯じゃ、そんなら彼奴が殺したか」
伊右衛門は一方の襖をあけた。其処には小平が昼のままの姿で押しこめられていた。伊右衛門はいきなり小平を引きずり出して、縛を解き猿轡を除った。
「やい、小平、よくもよくも汝は、お岩を殺したな」
「めっそうな、たった今まで、両手も口も結わえられておりましたに」
「それでも、それそれ、両手が動くじゃないか。さあ、云え、なんでお岩を殺した」
「そう云わっしゃるなら、わたしがお岩さまを殺した下手人になりますから、どうか彼のソウセイキを」
「べらぼうめ、彼の唐薬は、さっき質屋へ渡したのだ」
「それでは、あれは、彼の質屋に」
小平が走って往こうとする後から、伊右衛門は刀を脱いて斬りつけた。
「お岩の仇」
其処へ秋山長兵衛と関口官蔵が入って来た。長兵衛は眼をみはった。「民谷氏、ぜんたいこれは」
伊右衛門は小平をずたずたに斬りきざんでいた。
「不義者を成敗したのだ」
伊右衛門はそれから長兵衛と官蔵に頼んで、お岩と小平の死骸を神田川へ投げこました。
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