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踊る地平線(おどるちへいせん)10長靴の春

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-27 7:02:20  点击:  切换到繁體中文


     6

 ホテルの私の部屋で、電話のベルが私を驚かしたのは、その日の午後だった。
 電話は、女の声だったので、私は、紳士として、部屋着の襟を合わせた。
 接続線の向端むこうはしに、アストラカンの外套がちらついているような気がした。どうして私が、それを感知したのか、また、いかにして彼女が、私のホテルを突き止めたのか、これらは、完全に私の理解の外部にある。とにかく、それは、国際裸体婦人同盟の熱心な会員でもあり、同時にまた、反ファシスト派の巴里パリー機関紙「黄色い嘴ベッコ・ジャロ」の論説部員として、今朝けさ死を賭して、この「久遠の街イタアナル・シティ」へ潜り込んだのだと信ずるに足る、あの、彼女からの、あわただしい電話だった。
 受話機から、昨夜ゆうべの声がこぼれて、私の足許へ散らばった。
『私は、尾行されています。いま、何よりも男の方の守護が必要なのです。』
 そして、直ぐに私に、国民大街ヴィア・ナツォナレはずれの、第二回万国自動車展覧会会場インテルナツォナアレ・アウトモビイレ・サロネへ来るように、と言うのだ。
 私は、不思議にも、若いルセアニア人のことなぞは、すっかり忘れていた。そして、敵地にいる彼女から、こうして私に、こんな命令的な呼出しが来るのは、何だか当然至極のことのように思えた。私は、それを早晩来べきものとして、予期していたような気さえした。
 間もなく、羅馬ローマの雑沓が私のタキシの左右に後退していた。
 到るところに、噴水と憲兵が立っていた。彫刻と、大石柱の並立とがあった。史的色調と、民族の新しい厳則デサイプリンとが、どこの露路からも、二階の窓からも、晴々しく覗いていた。
 料理店では、食慾がマカロニを吸い込んでいた。それが、私を見て、手を振った。
 英吉利イギリスの小都会からの観光団が、案内者の雄弁に引率されて、国民経済省の建物を見上げていた。それを、子供と写真帖アルバム売りが、遠巻きにしていた。
 軍楽隊が来た。
 黒装束に、腰の革帯に短刀を一本挟んだきりの、フュウメ決死隊の一人が、軍旗といっしょに、先頭だった。それに続いて、青灰色の軍服の行列が、重い靴で、鋪道を鳴らした。
 私のタキシは、徐行した。運転手は、右腕を真直ぐに伸ばして、前方へ斜め上に突き出す礼をした。これは、昔羅馬ローマ武士が、出陣に際して、王と神の前に戦勝を誓った、儀礼の型であり、そして、今は、ムッソリニと彼の仲間が、公式に流行はやらせているいわゆる「羅馬挨拶サルタ・ロマノ」なのだ。
 私の運転手は、ファシストだった。が、いまこの街上に、何とファシストの多いことよ! 老人の手、青年の手、労働者の手、警官の手、通行人の手。
 青物屋は、野菜の車を停めて手を上げ、その野菜の山の上から、青物屋のせがれが手を上げ、軒並みの商店からは、主人と店員が走り出て手を上げ、そして、電車の窓からも自動車の中からも、何本となく手が上がっている。軍旗は、この、手の森林をくぐって、消えた。
 これが、現在の伊太利イタリーの常用礼式なのだ。官庁ででも倶楽部ででも、劇場ででもホテルででも、家庭ででも、こうして手を上げ合っている人々を、見るであろう。羅馬ローマは、いや、伊太利イタリーは、このとおりファシストで一ぱいである。ファシストにあらずんば、人にあらず――。
 正規には、これに、ファシスト式の万歳エイルの高唱が加わるのだ。

Eja ! Eja ! Alala !
えや! えや! あらら!
えや! えや! あらら!

 第二回万国自動車展覧会場の入口に、いつもの宣伝用の「服装」をアストラカン外套で隠した、国際裸体婦人同盟員が、私を期待していた。
 ところが、彼女は、先刻さっきの電話の声で示したかなりの恐怖と狼狽を、どこかに置き忘れて来ていた。
 私は、第一に、誰が彼女を尾行しているのかと、訊いてみた。
 が、彼女は、もうその問題を、まるで他人事のように考えているのである。
『尾行者は、美少年だったり、落葉だったりします。何者だか解りませんが、ただ私の読心術テレパセイが、しきりに私の尾行されていることを私に警告しています。』
 彼女は、この読心術テレパセイという言葉を、何にでも代用して使うことが、好きらしかった。私は、ルセアニア人のことは、思い出さなかったし、また、どうして彼女が、私のホテルを知ったかという疑点も、別にただそうとはしなかった。彼女が、それをも直ぐに、彼女の「読心術テレパセイ」の能力で片付けるに相違ないことを、私は承知し過ぎていたから。
 私達は、会場を一巡して、戸外へ出た。
 その間、彼女の眼は、陳列してある各会社の、一九二九年の新春型を、機械的に送迎していただけだった。が、彼女の口は、絶えず言語の洪水をみなぎらして、私を溺死させようとした。私は、一体自分は、何のために騎士的感激をもってここへ駈けつけて来たのだろうと、そのことばかり考えていた。
 彼女は、サンパウロ発行の反ファシスト新聞「防禦ラ・ジフェサ」について、多くを語った。そして、その主筆である、元の社会党代議士フランチェスコ・フロラに関して、より多くの呼吸を費やした。殊に、一亡命者としてのフロラが、上陸禁止令を無視して、警戒線を突破した当時のことや、その後の彼を覆った官憲の圧迫には、彼女は、特別に、詳細な知識を所有している様子だった。しかし、私は、彼女の身辺に、今までなかった弱々しいものを感じて、それを、汽車の疲れであろうと判断した。そして、宿所へ帰って休むことを、彼女にすすめてみた。
 すると、彼女は、この私の説を逆証すべく、俄かに努力した。自分は、この通り精力に満ちていると言いたいために、彼女は、歩きながら、針金細工の人形のように手足を張って笑い出した。
 一七六〇年開店フォンダトのキャフェ・グレコが、その金文字入りのドアで、私達に敬礼した。「ワゴン」と呼ばれている、奥まった細長い部屋に、その家の財産の、古い、汚い一個の卓子テーブルがあった。卓子は、マアク・トウェイン、ビョルンソン、ゴウゴル、ゲエテ、グノウ、ビゼエと言った詩人ポエタ達の、手垢と、楽書らくがきと、小刀ナイフの痕とで、有名に装飾されてあった。その上で、彼女は、常食と称して、牛乳に蜂蜜を落して飲み、私は、また、彼女の雑談の続きを食べた。
 配達に来た郵便脚夫を見て、彼女は、私に私語した。
『あの男が、私を尾行しているのです。』と。
 彼女の音盤レコウドは、まだまだ切れなかった。
『選挙の準備と、その妨害の秘密戦は、いよいよ白熱化しつつあります。あなたは、この三月の総選挙が、ファシスト政府の新しい選挙法によって行われる、全く特殊のものであることを、知らなければなりません。まず、一千の地方労働組合から、四百人の準候補者を推薦させて、それを、ファシスト最高幹部会の評議にかけます。ファシスト最高幹部は、五十二人から出来ています。羅馬ローマ進軍当時の四人の将軍、ファシスト革命直後三年間の大臣と次官、一九二二年以後のファシスト事務総長、国民軍指揮官、学士院長、国防特別裁判所長、総組合長シンダカトなどです。そこで、この最高幹部会で、取捨選択して、すっかり定員数の候補者を決めてしまって、その全体を、最後に、いっぱん一千万人の投票に問うのです。人々は、午前七時から午後七時までの間に出かけて行って、投票します。投票紙には、シイノウという二つの実に明白な文字が、印刷してあります。そのどっちかを消して、投票箱へ入れればいいのです。つまり、個々の候補者に投票するのではなくて、既にファシスト最高幹部会で決定した、その全部の顔触れに異存があるかないかを、投票するのです。そして、一体どこに、ファシスト最高幹部会の決議に反対するほどの、好奇な冒険家がいますか?――これは、何という、見事な選挙でしょう! 何という、優れた世紀の冗談でしょう! 何という、天才的な手数の簡略でしょう! あなたは、そうはお考えになりませんか。』
 それきり、私は、彼女に会わないのである。

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