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禹貢製作の時代(うこうせいさくのじだい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:08:31  点击:  切换到繁體中文

支那古代の經濟事情を研究するに就いて、尚書の禹貢が重要なる史料であることは勿論のことである。それ故近頃學者の此研究に力を致す人が追々と出來てゐるやうである。而るに禹貢が如何なる時代に於て作られたかといふことを先づ決めなければ、その内容に關する研究は往々にして沙上に樓閣を築いたと同樣になる恐がある。禹貢は尚書の中で夏書の部類に入つて居るので、普通これを夏の時代の史官が書いたと考ふるのが從來の説である。或ひは更に微細なる點まで區別して、篇首の三句と篇末の二句は夏の史官の辭ではあるが、その中の詳細なること、即ち治水の本末、山川草木、貢賦、土色、山脈、水脈、五服、四至、等の事項は史官が知り得べき處でないから、禹が天子に奏した事柄を史官が之を藏して居つたのに潤色を加へて本となつたのだといふ樣なことを宋儒が唱へた。これ等のことを眞に決する爲には、第一、禹其人が實在の人物であるか、或ひは單に神話中の英雄に過ぎないか、もし實在の人物とするもその當時に果して文字があつたか、文字があつたとしても斯かる雄篇大作を爲すべき程文化が進んで居つたか、等の問題を決めなければならぬのであるが、これは支那の上古史全體に亙る問題であつて、單に禹のことのみを以て之を決めるのは甚だ不便である。今はそれ等の問題には餘りに觸れずして、專ら禹貢の内容に就いて、その中にある所の材料が果してどれ丈け信用すべきものであるかといふことを判斷し得らるゝ材料を提供して、この問題を研究する人の參考に供する丈けに止めて置かうと思ふ。
 禹貢が含んで居る材料は一、九州及び治水の本末、二、山川草木、三、土色、四、貢賦※(「竹かんむり/匪」、第4水準2-83-65)包、五、山脈、六、水脈、七、五服、八、四至、に分類することが出來る。然るにこの全體に就きて研究資料を集めるのは仲々困難でもあり隨分長篇を要することゝなるから、今はその中のある部分丈けに止めようと思ふ。
 第一は九州のことである。禹貢の九州は冀州、※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州となつて居るが、古書に九州のことを記載したものでは、この外に爾雅及び周禮の職方氏の九州がある。爾雅の九州とは冀州、豫州、雍州、荊州、揚州、※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)州、徐州、幽州、營州、となつて居つて、禹貢に比べると青州、梁州なくして幽州、營州が多い。周禮の職方氏は揚州、荊州、豫州、青州、※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)州、雍州、幽州、冀州、并州であつて禹貢に比べると徐州、梁州がなくして并州、幽州が多くなつて居る。從來は禹貢の九州は禹の時代の制度であり、爾雅の九州は殷代の制度であり、職方氏の九州は周代の制度であると解釋して居つたが、この外に尚書に十二州といふものが出て居る。尚書には明かに十二州の州名を擧げてゐないが、禹貢の九州の外に幽、并、營の三州を加へたものだとし、その制度は舜の時の者とせられて居る。禹貢と職方氏との文は初よりその各書にその時代を表はしてゐるが、爾雅の九州は本文には何れの時代とも書いてない。只詩の商頌に九有とか九圍とかいふことがあるので、殷代にも九州があつた證據として爾雅の九州に當て嵌めたにすぎない。この中で疑問の起ることは、爾雅にも職方氏にも梁州がなくして禹貢丈けにあることである。梁州は今の四川、雲南地方であるが、殷代并びに周代の州名になかつた所のものが、それより古い禹貢に丈けあるといふことは一つの疑ふべきことである。又その他の古書から考へても四川雲南地方の地名が初めて出て來たのは尚書の牧誓であつて、其後春秋戰國時代に楚の國が巴若くは濮の地を領したことが見え、秦が昭襄王の時に蜀の地をとつたことが見えてゐるが、それより以前に此地方の地理が詳しく判かり、而かもその西南境の暹羅地方に流るる川の名までが知れてゐるといふことは餘程解すべからざることである。斯くの如き同じ統名の下に異つた内容を有して居り、或ひは同じ事柄が幾種にも傳へられるといふことは、この以下に説くべき各種の問題にも皆あることであつて、丁度戰國頃の時代から漢代までかけて、それ等を各時代別にして説明する傾の多いことに注意しなければならぬ。爾雅、論語、孟子等に屡々夏殷周の三代にかけて一つのことを異つた名を擧げて居ることを何人でも見出すであらうが、時として同じ事柄に就きて異つた内容を有つた例では、漢儒が屡々殷周二代の禮としてこれを分けて説明することがある。これは解釋の困難を省く一種の方便に過ぎないことは朱子なども看破せる所である。九州の説なども當時俄かに發達したる地理の思想と、何事も數にかけて説明する時代思潮とが合して、その間に各種の九州説を出したのであるが、恐らくはその何れも時代とは最初關係がなかつたものであらう。唯その異つたものを巧く説明する便宜から或ものを禹の時代とし、或ものを殷の時代とし、或ものを周の時代としたにすぎないので、初は勿論禹の九州が定められたのであらうが、取り殘された他の種類の九州は後になつて殷周二代に決められたものと思はれる。十二州説の如きはそれよりも更に發達した數の思想であつて、恐らくは九州説よりも遲れて出たので、從つて堯舜に關する州の傳説は禹に關する九州説よりも後に作られたといふことは明らかである。
 その次に四至説に就きて試みに考へて見ると、禹貢には「東漸于海、西被于流沙、朔南曁、聲教訖于四海」とあるが、この四至説も隨分種類が多い。單に禹に關した事でも、呂氏春秋求人篇には別に一説を出して「禹東至搏木之地……南至交趾孫僕續滿之國……西至三危之國……北至人正之國」とあり、淮南子の主術訓には「南至交趾、北至幽都、東至暘谷、西至三危」とありてこれを神農の時代にかけて居る。史記の五帝本紀には黄帝の時代として「東至于海……西至于空桐……南至于江……北合符釜山」と云うて居り、史記及び大戴禮には※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)※(「王+頁」、第3水準1-93-87)の時代として「北至于幽陵、南至于交趾、西至于流沙、東至于蟠木」といふ。管子、小匡篇には齊桓公のことを記して「北至於孤竹山戎穢貉拘秦夏、西至流沙西虞、南至呉越巴※[#「牛へん+羊」、167-18][#「牛へん+可」、167-18][#「瓜へん+長」、167-18]※(「广+臾」、第3水準1-84-13)雕題黒齒荊夷之國」とある。東を缺いで居るのは齊が東海に濱した國であるからである。國語の齊語にも略之に類したことを載せてゐる。爾雅には何れの時代とも云はないが四極の説を載せて「東至於泰遠、西至於※[#「分+おおざと」、168-2]國、南至於濮鉛、北至於祝栗」としてあり又「※(「山+巨」、第4水準2-8-33)齊州以南戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲太平、西至日所入爲太蒙」と記してある。これ等は四至に關する種々の異説で、大體に於いて東は海に至り西は流沙に至ることを知つて居る點は一致して居るものが多い。勿論この中には多少その説の出來た時代の早晩はあらうけれども、要するに大いなる差のない時代に於て行はれたる各種の四至説たることは疑ふの餘地がない。只それを或ものは禹とし、或ものは※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)※(「王+頁」、第3水準1-93-87)又は黄帝、神農などゝ一つ一つに決めて行つたに過ぎない。これ等は何れも當時の支那人が考へた世界の限りを云ひ表はしたる地理學家の言たるに過ぎない。此れを何れの時代の版圖が何處まで行つたといふことに執着して説明するのは學術上無意味なことである。
 山脈に就いては禹貢の外に山海經の如き詳細なるものがあるが、この二つは詳略の程度が餘りに異つて居るので比較し難い。只水脈に關しては隨分古くから研究家があるのであるが、殊に三江に關して禹貢を後世の地理に合せようといふ試みは幾度も行はれたことである。然るに後世北魏の※(「麗+おおざと」、第3水準1-92-85)道元の水經注は東南の諸水に就いてその記載が確實でないと云はれて居る位であるが、假に禹貢を禹の時代とせずして、それより千年若くは千五百年も以後のものとしても、その水脈の記載が悉く後世の地理に合せんことを求むるは無理なる注文である。その上孟子の滕文公篇に記載した水脈、墨子の兼愛篇に記載した水脈などが必ずしも一々禹貢の水脈に符合すると云ひ難い所がある。墨子並びに孟子の編者は何れも尚書を見て居ることは明らかなことであるが、その記載が禹貢に典據したらしい形跡に乏しいのは尤も疑問とすべき所である。これ等も禹の治水に關する説が種々傳へられて居つて、墨子孟子の編者も各々そのある説を傳へ、而して禹貢も亦そのある説を傳へたと見る方が比較的眞に近いものではなからうか。而してその中で禹貢の記載が尤も漢書地理志などに近く、説明し易いのは、寧ろ禹貢が戰國の末年までに於いて尤も發達したる地理學の知識を利用し得たと考ふる方が當つて居るかも知れない。
 禹貢の貢賦類に關する記載は、詳しく云へば田賦、貢、※(「竹かんむり/匪」、第4水準2-83-65)、包、※[#「匚<軌」、169-2]と分けられて居るが、この中で田賦に關しては九州に由りて等級を區別して居る。兎も角耕作した土地からとる租税と考へられて居るので、周禮に云ふ所の賦とはその意義を異にして居る。周禮の賦は人頭税とも云ふべきものである。それを九種に分類して居る。孟子には又夏の時の田賦を貢と名くると書いてあるが、禹貢の云ふ所の貢とは異ふ。然るに禹貢の貢の意義は又却つて周禮の九貢といふ所のものと大體一致して居る。如斯貢賦に關する説は古書に由りて種々一致しないが、この點は九州説などの如く三代に由りて貢賦の名を巧に振り當てゝその説の齟齬を融通するといふ譯には行かない。而かも孟子の如く尚書を多く典據として居る本に禹貢との齟齬のあることは如何にも解すべからざることである。勿論貢の本義から云へば寧ろ禹貢並びに周禮の方が正しいのであつて、説文にも貢獻功也とある。周禮の九貢のことは天官大宰篇に出て居るが、その他夏官職方氏に出て居る貢の意義もやはり同樣であつて、即ち人の手業を加へた産物の意義であるから、田賦とは全く異つたもので、孟子に云ふ所の貢の解釋は決して最初の意義を表はしたものと云ふことは出來ない。唯問題となるのは禹の時代に田賦があり、且つその田賦が禹貢に記載せる如く等級まで明かに分つて居つたかといふことは甚だ疑はしきことであつて、之を他の古書に考へて見るに益々その疑問を深くする。詩では大體に於いて農業の祖を后稷に歸するのであつて、大雅の綿篇、魯頌の※(「門<必」、第3水準1-93-47)宮篇などがそれである。※(「門<必」、第3水準1-93-47)宮篇には后稷は禹の事業を繼いで農業を開いた樣に云うて居る。小雅の信南山篇にも禹が農業を開いた樣に云うて居る所があるが、一方世本を見ると夏の時代の制作者として、禹その他の人々を擧げて居るが、一も農事の制作者たる人を擧げて居らない、多くは家屋、車、武器、の制作者のみである。殷の祖先の中で夏の時代に並んで在るべき人の中では、相土が乘馬を制作し、王亥が服牛を制作したとせられて居るが、服牛の制作に至つて初めて農事といふことを聯想し得る。周の祖先の人々の中には、元祖の后稷並びにその外に公劉が農事に務めた樣に詩の大雅には出て居るが、この傳説を打消すべき材料は、その子孫たる人々に皇僕、高圉、亞圉等の牧畜に關係ある人名の存することである。要するに多くの古書は禹の時代に農業が發達して居つたといふことを聯想せしめる材料が少い。それ故に禹貢の中に存する貢の事實はある程度まで信ぜらるゝとしても、賦に關することは容易に信ぜられない。殊に田字の意義は詩の時代まで尚ほ狩獵の意義を存して居る。これは田字の原義であらうと考へられるから、田より賦を出すといふ意義はその以後餘程發達した時代のことである。禹貢の編成から見ても、田賦の記事丈けは禹貢が出來上つた後に竄入されたものかも知れないといふことは、その篇名を禹貢と稱することに由りても推察し得らるゝのである。
 貢、※(「竹かんむり/匪」、第4水準2-83-65)、包、※[#「匚<軌」、170-8]に關する記載は、その他の草木、土産等の記事と共に禹貢の中でも尤も古質なる文辭であつて、貢※(「竹かんむり/匪」、第4水準2-83-65)は手工を加へられたる産物、包※[#「匚<軌」、170-9]は天産物をいふが如き差異はあるが、大體に於いて射獵時代の産物を多く含んで居つて、その他の土産もこれに近きものである。他の部分には牧畜の記事もあり農業の記事もあるが、斯かるものは後から附け加へられたものと考ふることも出來るので、禹貢の根本の組立ては或ひは古くから傳はつたものであるかも知れないが、それを現在の禹貢の體裁に組立てたことはどうしても農業が發達した以後でなければならぬと思ふ。この記事を研究するに就いて他に參考すべきものは、周禮職方氏に九州の各々に其利、其畜、其穀として地方の産物を擧げてあることであるが、其利といふのは多くは天産物であり、やはり狩獵時代を代表し、其畜は牧畜時代を表はし、其穀は農業時代を表はして居る點は、禹貢よりは極めて規則正しく書いてあるので、同じやうなる材料が禹貢よりも後に編成されたと考ふることが出來るのである。逸周書の王會解並びにそれに附屬せる湯四方獻令といふものも甚だこれに類したもので、各地特有の貢物を夥だしく擧げてある。それ等の中には時とすると漢代でなければ知り得べからざる材料さへも含まれて居るが、大體に於いて戰國から漢初までの間に地理學の一種として産物に關する傳説が漸次に發展してこれ等の各種の記事をなしたといふことは明らかである。
 土色に關することなども戰國から漢初までの間に完成した管子などの中には、これに類したことが含まれて居るので、やはり當時の地理記載の一部分と見ることが出來る。
 以上を通覧すれば、禹貢を編成した材料は古書の中で禹貢特有のものといふことが出來ないのみならず、必ずしも他の材料が禹貢よりも新しいといふことも出來ないので、禹貢が早く存在して居つたが爲に地理學に關する他の記載が皆これを模傚したと斷ずることは出來ない。その類似し共通した他の材料は多くは戰國時代のものであるので、禹貢の中に時として戰國時代よりも古い材料を多少含んで居るとしても、その組み立てた時代並びにその中に含んで居る多くの材料は戰國以前にこれを上せることが難いと考へる。禹貢を研究するには先づこれ等の事柄を充分に知つた上で、これを相當した時代に置いて、然る後に古代經濟事情研究の史料とすることも出來るのである。

(大正十一年二月發行「東亞經濟研究」第六卷第一號)





底本:「内藤湖南全集 第七卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
   1928(昭和3)年4月発行
初出:「東亞經濟研究 第六卷第一號」
   1922(大正11)年2月発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月21日公開
2006年1月8日修正
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    「牛へん+羊」    167-18
    「牛へん+可」    167-18
    「瓜へん+長」    167-18
    「分+おおざと」    168-2
    「匚<軌」    169-2、170-8、170-9


 

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