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日本の肖像画と鎌倉時代(にほんのしょうぞうがとかまくらじだい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:31:03  点击:  切换到繁體中文

我國の繪畫が主として支那に起原せる事は勿論にして、支那の繪畫が時代によりて變遷ある毎に我國にも影響せし事は疑なし。其中に於て、肖像畫も殆んど現存の繪畫の開闢期より既に存在せしが、その肖像畫が日本に於て最も發達し、獨得の技倆を發揮せしは果して何時代の頃なりや、これに就ては、史學者、美術史家等の間に既に議論せられし事なるが、こゝに一己の私見を述べんとす。
 其前に少しく日本の肖像畫の變遷の概略を語る必要あり。肖像畫中、最も古く且つ最も有名なるものは、もと法隆寺の所藏にして現に帝室御物たる唐本の御影と稱する聖徳太子像なり。其畫像は、百濟の阿佐太子の筆と傳へらるゝが、勿論これは確據あるに非ず、たゞこの畫が支那の六朝時代の肖像畫の風を傳ふるものなる事は、近年になりて種々なる材料の發見によりて明かにせられたり。尤も此唐本の御影の現存せる本が眞本なりや摸本なりやは疑問の存する所にして、自分にも多少の意見なきに非るも、今の所論に關係なきを以て省略す。
 支那、福州の林氏の所藏する『唐閻立本帝王圖』なるものあり、其の寫眞版が近頃我國にも渡來せしが、この本は前漢の昭帝より隋の煬帝までの十三人の肖像を集めしものにして、その各帝王像の構圖が頗る聖徳太子像に似たるものあり、即ち聖徳太子像の中央に本人あり、左右に二王子と稱せらるゝものを畫けるは、『閻立本帝王圖』の中、九點までが、みな此と同じ構圖なり。閻立本は唐初の人にして、此等各帝王の時代は數百年に彌れるを以て、此等肖像は單に想像によりて畫きしものならんとの疑を生ずれども、余の所見を以てすれば然らずして歴代の古き肖像畫ありしを摸寫し集成したるものならんと信ず。近年フランスのペリオ氏が敦煌にて寫したる多數の寫眞中にも、これと同樣に三人並び立てる人物像ありしが、多分佛像を供養したる地方の名族等の肖像として畫きしものならん。ともかく、六朝までの肖像畫と聖徳太子像とが相互に關係ある事は明かなり。
 唐の肖像畫が、何時頃に變化を來せしかは明瞭ならざるが、唐代に於て、すべての藝術の一大變遷期が盛唐即ち玄宗皇帝の開元・天寶頃にある事より考へ、且つ繪畫の中にても山水畫の如きが當時王維・呉道玄らによりて變化されし事より考へて、肖像畫も亦其時分に變化したるに非ざるかと思はる。これに就いて參考となるものは、やはり近頃支那にて出版されしものに、『中國歴代帝后像』と言ふ本あるが、此本は、元來清朝の宮中に南薫殿といふ處ありて歴代帝后の像を藏し、それに關して清朝の胡敬が『南薫殿圖像考』を著せしが、其記事と『歴代帝后像』とが、大體に於て一致せる所を見れば、帝后像の寫眞のもとが、南薫殿の原本なる事を推測し得べし。然るに、この『帝后像』には唐より五代までの間の畫像は五枚位にすぎずして、しかも其畫が果して唐代の原圖なりや否やを知りがたし。宋以後のものは確かなるものゝ如し。支那にはまた、從來石刷にて歴代の君臣の像を集めしものあり、自分の所藏する最も古きものは元代のものなるが、それは墨本なり。これも唐以後の分が大體に於て『歴代帝后像』に一致するを見るに、其原本が一なりし事を考へ得べし。墨本の唐以前の分は、やはり閻立本の圖に一致する點あり、これも根據あるものならんが、唐代の肖像の特色を研究する資料としては猶ほ不十分なる點あり。此墨本は其後段々に其數を増加して、古代の伏羲・神農等の帝王を加へしを以て、想像畫と肖像畫との混雜せしものとなれるが、自分の所藏する元代の本はこの想像畫を加へざるも、明初の墨本、及び日本に於て慶長頃に『君臣圖像』として明版より複刻され、更に幾度も翻刻されしものは、皆想像畫を加へあり、ともかくも廣く行はれしものなるが、新舊板を參照して、細心の注意をなせば、肖像畫がどこまで古きものが傳寫されしかを知る材料には供し得べし。
 日本には、唐代の肖像畫を知る上に於ては、此の如き不確かなる材料によるよりも、更に確實なる資料に據る事を得。そは京都の東寺に藏する所の眞言七祖像の中、五祖像にして、唐の李眞の筆に成れるものなり。李眞は支那の所傳によるも當時有名なる畫家にして、しかも大師がその人に請うて畫かしめ、以て將來されしものなる事明かなれば、これを唐代肖像畫の標本として少しも差支なし。此五祖像と太子像とを比較すれば、明かにその相違を見るべし。尤も單に畫面の人物の配置より言へば、閻立本の帝王圖の中にも五祖像に近きものあれども、用筆等の點より見れば、餘程變化を來せるを知る。即ち盛唐頃に一大變化を經たる後の肖像畫の代表的のものとして視ることを得べきものなり。此唐代肖像畫の傳來は、多分當時吾國の肖像畫に影響して、爾來數百年間その風格は繼續したるものならんと思はるゝが、此風の我國製作肖像畫としては、高野山普門院の勤操僧正像等は最も適切なる例なり。
 其後藤原中期頃より一般的に日本の文化は自國の特色を發揮し、文學に於ても國文の全盛となりしと同時に、藝術も我國の特色を現はせしならんが、現存せる遺品によれば、藤原時代の繪畫としては、佛畫を除きては觀るべきものなし。花山天皇などの後意匠より新しき畫風を生ぜしとの傳説はあれども、之を遺品によりて證明することを得ず。藤原末期より鎌倉の初期に入りて、こゝに著しく日本特色の繪畫遺品を多數に見ることを得。即ち繪卷物等これなるが、隨て肖像畫に於ても、新しき日本風の肖像畫といふべきもの急に發達したり。尤も、かゝる時代は過渡期なれば、當時の肖像中にも唐以來相傳の手法によりしものもあり、又新しき手法にて畫きしものもあるは當然の事なるが、新しき手法は即ち最も時代の特色を發揮せるものとして注意すべく、その時代の代表者ともいふべきは藤原隆信なり。
 今日隆信の遺品とさるゝものゝ中、最も有名なるものは、高雄神護寺の後白河法皇・平重盛・源頼朝・光能・文覺上人の肖像畫なり。これ等神護寺所藏のものは、既に鎌倉時代末頃より隆信の筆として、以上の人々の肖像なりと傳へられしものなるが、其畫の主名に關しては頗る疑を插む餘地あり。其點に就ては後に論及すべきが、其中の或物はたしかに唐代肖像畫より全く脱離したる新しき手法のものあることは明かにして、特に重盛・頼朝と稱せらるゝ二幀は此種類に屬す。後白河法皇・文覺上人はこれに比すれば頗る手法の相違あるものにして、前者が隆信の眞蹟とすれば、後者は果して隆信の筆なりや否やを疑はしめ、後者は其手法になほ唐代肖像畫の遺風あるかの如き心地せらる。尤も此等の肖像畫を批評するに就いて、從來の鑑賞家は其服裝に關して議論せるものあれども、それは當を失せり。隆信は當時の「似せ繪」の名人と言はれし人なる事は、九條兼實の『玉葉』にも見ゆる所にして、其長ずる所は人物の面相にあり、服裝等は土佐光長等が畫き足したるものといはる。要するに隆信は日本肖像畫の新時代を形成する人にして、其の子信實又引き續き名人たりしかば、こゝに於て日本肖像畫は獨立せる手法を確かに築き上げたり。尤も或人は頼朝・重盛の二幀の如きも、何れを何れとするも辨別し難き程類似せるものにして、個性の表現に乏しく、これを見たる感じは、たゞ當時代の縉紳の類型と言ふものを思ひ出すに過ぎずと批評すれども、それは頗る誤れる見解にして、例へば田舍者が西洋人を見て、どれも、これも同じ顏に見ゆると評する如く、寧ろ評者の鑑賞能力の足らざるを露はす者といふべし。もし其當時の人より重盛像・頼朝像を見たりとせば、其の間に個性の表現を見出すこと難からず、今日に於ても藝術に敏感なる眼より見る時は、其個性の表現を發見するに難からざるべし。妙法院所藏の後白河院宸影は又隆信筆と傳へらるゝ中最も名迹と稱せらるゝ者なり。
 信實には隨分確かなる遺跡もあれば、また信實と稱せらるゝ種々の繪卷もあり、その中にて水無瀬宮にある後鳥羽法皇の御影の如きは尤も有名なるものなり。又『隨身庭騎圖卷』は筆者の名を失すれども、信實ならんかと言はるゝものなり。此卷の中に現はるゝ人物の面相は、各※(二の字点、1-2-22)當時の實際の人物を摸寫したるものにして、個性の表現は遺憾なく現はされたりと考ふ。此等の畫を見て、單に鎌倉時代のありふれたる下臈らしき顏に過ぎず、個性の表現なしとは言ひ得ざるべし。近く佐竹家の賣出しによりて有名となりし三十六歌仙も又信實の筆と言はるゝが、三十六歌仙の時代は區々なるが故に、各その本人を寫生する事は不可能なり、殊に古き時代に出でし歌人は身分も低き人多く、肖像畫を殘す筈もなきを以て、想像を以て畫く外、他の方法なきが、もしこれが信實の如き名人の手になりしとすれば、彼が常に接觸せる實在の人々より、各歌仙に似附かはしきものを思ひ出して畫きしものなるべく、歌仙の肖像畫には非るも、何かモデルのある寫生には相違なからん。
 信實の子孫の事に就ては『古畫備考』等にも載せられ、最近には粟野秀穗君が、信海の不動明王圖を研究して、信海は信實の四子なる事を論定せられしものあり、又近年西本願寺にて發見せられし親鸞聖人像は、專阿彌陀佛と云ふ信實の子の筆なりと言はる。此の聖人像は顏面のみを簡素にしてしかも生き/\と表現され居り、服裝等の用筆は極めて粗なり。これもやはり其祖父の隆信と同樣に「似せ繪」畫きなりしやも知れず、尤も親鸞聖人も、其の當時の乞食坊主の如き生活は、必ずしも之を畫きて傳へざるべからざる程の服裝を有せざりしやも知れず、この信實より六代目に豪信法印と言ふ肖像畫家あり。豪信法印の筆跡としては花園天皇の宸影殘れり、それに天皇の宸筆にて奧書せられし所と、豪信の系圖として傳はる所との間には、信實の子孫としての代數の相違を見出すも、尊卑分脈によりて其疑問は決せられ得べし。
 豪信につきて彼の最も著しき仕事は、彼の祖先以來畫きし所の肖像畫の編纂をせしものと思はるゝ三種の肖像畫集を殘せし事なり。即ち『歴代帝王宸影』、『攝關影』、『大臣影』是なり。此の三種の肖像畫卷は傳寫本にて流布し居り、歴代帝王宸影は鳥羽院より後醍醐院までありて、其奧書によれば、其内鳥羽院より伏見院までは信實の曾孫なる爲信卿の筆と傳へられ、後伏見院後醍醐院の二代は豪信法印の畫きしものと言はるゝが、勿論爲信卿の筆と言はるゝ十數代の宸影中には、祖先代々の人の畫きしものゝ傳寫を含むものなるべし。此宸影の自分が見たるものは富岡鐵齋翁の所藏さるゝものにして、冷泉爲恭の寫し傳へたるものなり。攝關影は今手許に證據になるものなきが、大臣影は自分もその傳寫本を所藏す、花山院家忠以後八十人の大臣の肖像を集む。この傳寫本の原本は近衞家にありし由、奧書に見えたるを以て、嘗て同家の藏品搜索を乞ひしも、未だ發見せられずして、發見せられしは、傳寫本中の別本なりき。それによりて八十大臣の外に、其後の分を補寫せし本のある事も明かとなれり。勿論、これも隆信以來の描きし肖像を編纂されしならんが、これについて不審なるは、其中にある所の重盛の肖像が、現に神護寺に存在せるものと少しも似ざる事なり。されば神護寺現存の重盛・頼朝の肖像は、當時の何人かの肖像なるには相違なからんも、果して重盛・頼朝なるかは疑問なるべし。但し、それはまた當時新に起りし日本風の肖像畫の代表的のものにはならぬといふ意味には非ず。多分その筆が隆信の畫と言ふ傳來は正しからんも、神護寺の所傳の如く、重盛・頼朝なるかは疑問なるべし。自分はこの三通の肖像集の存在する時代、即ち藤原末期より南北朝初期までの時代を以て、日本肖像畫の高潮期と考ふ。その中にも、隆信、信實は勿論、豪信にしても、其技倆の優れることは、簡單なる用筆の間に精采ありて、その面相なり、風采なりを現はせる所を其特色とすべし。
 鎌倉の中頃より禪宗盛んとなり、宋・元の高僧も渡來し、我國高僧も彼國に渡りて歸國するもの多く、之によつて、自然宋朝の肖像畫の風を傳へたり。支那に於て、宋朝の肖像畫は、唐の肖像畫とは、其風格に相違あることを認むべく、その證は前述せる『歴代帝后像』に現はれたる宋代の帝后像を見ても知るを得るなるが、其の畫風は唐代の畫よりも、用筆・着色共に細密を尚ぶ樣になりたれども、工匠の手法に傾きて、精采は頗る乏しく、大體に於て宋朝の肖像畫は衰退期のものなることは爭ふべからず。尤も日本に宋朝の肖像畫の入りし時は、日本に於ては日本獨得の肖像畫の隆盛期にして、隆信・信實は已に亡せしも、其の餘流の人々も、肖像畫としての精神を失はざりし時代なりしかば、南北朝頃までの我高僧の肖像畫の中には、我國に傳來せる精神によりて宋風の形式に畫き、頗る觀るに足るものありき。此種の肖像畫は、其の形式は宋風を襲へるも、其の傳神の妙處は寧ろ大和畫より得來れる者なるを以て、之を全然宋式肖像畫といふことを得ず。この事實は、我國肖像畫の全盛期が何時頃までにして、其の風格は如何なる者なるやを斷定するに就て、頗る其結果を誤謬に導き易き原因なりとす。

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