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日本文化の独立(にほんぶんかのどくりつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:33:21  点击:  切换到繁體中文

私はお話致します前に、お斷はり致して置きたいのは、一體私は日本歴史の專攻者でありませんので、今までお話になつた三人の方のやうに、皆日本のことを專門に研究して居られるのとは一寸別だといふことであります。それでありますからして、今日のお話は前にお話しになつた三人のお方の方が本統のお話で、私のは餘興だと思つて頂き度い(笑聲起る)。自然餘興でありますから、お話の中にいろ/\間違もありませうし、又私は今日遲く參りまして、吉澤博士のお話は承はりましたが前の粟野君のお話も中村君のお話も承りませんので、或は重複することを申上げたり、前のお話と違つた意味のことを申上げたりするかも知れませぬ。尤も前のお話を承はらぬ方が私に取つては都合がいゝのであります、前に專門の方のなさつたのを承はつて居つたら私は全くお話が出來ないやうになつたかも知れませぬ。さういふわけで前の方と違つた事をお話致すやうなことがありましたならば、それは前のお方の方が專門家であり、私の方は素人でありますから、前の方が正しくて私のが間違であると判斷して頂けば確かであります、それだけをお斷り致しておきます。
 それから題が少し突飛な題であります。全體今日の講演會の主意は南朝と大覺寺との關係を申上げるといふにあるやうでありますので、私の演題は一寸かけ離れて居ります。元來私は南朝と大覺寺といふやうな題に就て專門に研究も何も致して居りませぬのです。それでは今日のやうな講演會には出ない方がいゝと云ふ事になるのですが、それには少々譯がありますのです、といふのは學問上には關係はありませんが、此大覺寺が斯ういふことをお企てなさるに就て、詰らない掛り合ひからお骨折りをしなければならぬやうなことになつてゐるのです。それは友人の黒板博士が大覺寺の遠忌に就ていろ/\骨を折て居られるのでありますが、其張本人の黒板君が此の講演會に出席が出來ないといふので、私が名代を申付けられたといふやうなわけになつてゐるのであります。併し私は黒板君のやうに國史の專門家でありませぬから、迚も器用なお話は出來ませぬ、それでやはり私相應の話を致すより外ありませぬのです。
 併し私も日本の文化といふものは、自分の專門の東洋の歴史を研究する上から常に考へて居ります。日本の文化といふものは一體最初はどういふ状態から發達して來て、さうして日本の文化が日本の文化らしいものを作り上げたのはいつ頃からかといふやうなことを考へたこともあります。さうして時々發表も致して居りますが、それに南朝、大覺寺といふものが關係を持つてゐるやうに思ひますので、私の考へてゐる方に都合のいゝ所をお話しようと思ひます。それで突飛ではありますけれども、斯ういふものを持ち出したわけであります、どうか其點をお含みおきを願ひます。
 所で日本文化の由來をお話致しますると、詰らなく長くなりますから、それは凡て省きまして、ともかく日本の文化の形づくられるのに取つて一つの大きな時代、特別な時代、それは丁度この後宇多天皇の頃から南北朝までの間にかけての時代でありますが、この時代はよほど大切な時代であると思ひます。勿論その前からして日本の思想にはすでに色々内部に變化が起つて居つたのであつて、必ずしも此時に始まつたわけではありませぬが、この後宇多天皇から南北朝までの間に變化を起して來た日本の文化といふものは、言はゞ王朝文化の最後の保持者である所の皇室とか公家とかいふやうな一團に文化の變化が及んで來たといふ風に私は考へるのであります。
 御承知の通り、日本ではすでに藤原時代、鎌倉時代の丁度變り目頃からして社會の状態も大變變化して參りまして、今迄勢力がなかつた武家といふものがだん/\頭をあげて來て居ります。それから思想の上にも變化を致したと見えまして、その頃は宗教の方に變化が出來て新しい宗教が日本に出來た。それは全部日本人の考へによつて生じたといふわけではなく、幾らか支那で出來る新らしい宗教を輸入したといふこともありませうけれども、兎に角それが日本の思想の上に著しい關係を持つて來て居るといふ事は間違ないことであります。さういふ思想、それから社會状態がだん/\下の方から上の方へ/\と及んで行つて、最後は皇室並に公家の中にさういふ思想、さういふ社會状態に一致するやうなお方を出すやうになつて來たやうに考へます。それが即ち丁度大覺寺統の龜山、後宇多以下南朝系の天皇の方々の時で、さういふ風な考を持つた人が多かつたやうであります。さういふ人達の間には明らかに革新の機運が漲つて居りましたが、それは一面においては日本内部の社會革新機運となりまして、今迄すべて支那の文化を墨守して居つた日本の文化が、そこに一つの獨立の機運を持ち上げて來たやうに考へられます。さうしてそれは單に自然に社會状態からしてさういふ風になつて來たといふばかりでなく、やはり其時代の有力なる君主、有力なる公家達が居られたために、其機運を促進したのであらうと思ひます。そのことが私に最も興味を惹くことであつて、これが日本全體の文化、思想の獨立に取つて、よほど重大なことであると考へます、そのことを大體お話して見たいのであります。
 先程、粟野君が後宇多天皇の御事蹟を委しくお話せられたやうですが、私はそれを承らぬで殘念に思つて居ります。私は粟野君のやうな專門家でありませぬから、材料としては簡單なことで申上げるより外致方ありませぬ。どなたでも國史の研究に志ある人は北畠親房の神皇正統記を御覽になつて居ると思ひますが、正統記で後宇多天皇のことを拜見しますると大變ほめ奉つて居ります。昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります。親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。これは唐の初めに出來た本で、支那にはなくなつて日本に殘つて居り、却て支那で珍らしがられてゐる本でありますが、其内容は經史諸子等、支那の本の拔き書きで、天子に重要なと思はれる事のみが書かれてある、その群書治要で澤山である、それ程深くせぬでもいゝといふことを宇多法皇が仰せられたが、宇多法皇は勿論その後の天皇で名君と言はれた方は皆宏才博覽な方である、醍醐、村上、一條、後三條でも皆宏才博覽で文學などもよく出來てゐられるが、後宇多天皇も亦非常に宏才博覽で入らせられたといふことを言つて居ります。この親房の正統記に書いてあることは、後宇多天皇の御遺告即ち今日あちらに陳列してある所の天皇御自身の御遺言の中に書かれてあることゝ非常によく一致して居ります。であれを拜見致しますと、後宇多天皇の御學問といふものは、單に天皇として知らせ給ふべきことを一と通り知らせ給ふばかりでなく、むしろそれには御滿足なさらないで、天子でおはせられながら、佛教の學問ならば高僧と同樣、普通の諸道の學問ならば諸道の學者同樣に、深く知らせ給ふべき御決心を以て研究せられたといふことが分ります、是はよほど注意すべきことだと思ひます。
 さういふ風に非常に學問に御熱心な方で入らせられたのですが、斯ういふ風に天子が學問に御熱心であるといふことは、これは其時代の何かの方面に必ず影響を與へずにはおきませぬ。その影響をだんだんに考へて見ますると、一面においてはお子さんで入らせられる後醍醐天皇が、たとひ一時にもせよ兎に角日本の政治上の革新を立派になし遂げられたといふことに感化を及ぼして居るのであります。神皇正統記によると、後醍醐天皇の條に、後醍醐天皇も非常に宏才博覽でいらせられ、佛教の方の學問に就ては最初は父天皇たる後宇多天皇にお教を受け、さうして其上更に專門の高僧から許可まで受け給うたといふことが書いてあります。
 其他にも影響は色々及んで居りますが、それはあとで申上げるとして、とにかくさういふ感化を各方面に與へてゐるのであります。それから一面には後宇多天皇のやうな御學問に御熱心なお方は、今言つた通り單に天子として學問せらるゝのみならず、殆ど御自分が學者同樣な覺悟で學問せられてゐるのでありますから、其學問の御造詣は自然に當時の普通の人々の考へるやうな程度に滿足せられずして、更に學問の根本に遡らうといふ意氣込があらせられたやうに考へられます。それで御遺告を見ましても、後宇多天皇は殊に密教に精通して居られた方ですが、其密教でも御自分におかれても弘法大師以來相傳の嚴重な方法によつて密教を研究され、又密教の正統を相續する僧侶には同樣に嚴重な規則に從はせるやう御遺言遊ばされたので、實に密教のピユリタニズムとも申し奉るべき固い掟を示されました。又御遺告のみならず、今日も陳列してありますが、弘法大師の傳記も御自筆で書かれて居ります、斯ういふことは即ち教法の先祖である所の弘法大師を慕つて居られたので、純粹なる高祖の教規通りの古に復さうといふ御考から出來たのであつて、末世の僧侶の程度に滿足せられず、密教の根本を究め、先祖のしたことを復興しようといふ御考からであるといふことが分ります。是がすでに革新の機運を促す所のものであります。
 昔の社會上の事情といふものは今日と違ひまして、何でも新しい事を開拓しようとするには、是は支那でも日本でも同樣で、改革論者の多くは復古といふことを考へるのが通例であります。復古といふことが即ちいつでも革新論であります。後宇多天皇が教法上の復古といふことを考へられたのは即ち一つの革新であつて、是が當時の現状に滿足せられない天皇の革新思想を持たれた證據になるのであります。さうして是は後醍醐天皇の御學問、御考への上にも大變な關係を持つたであらうと考へます。近く明治維新といふものを御覽になつても分りますが、維新以前から日本に漲つてゐた思想は即ち王政復古といふことであります、そしてその王政復古がいよ/\爲し遂げられたところが、今度は開國進取といふことに變つて來たのであります、いや變つて行つたのではありませぬで、近頃の言葉でいふとやはり王政復古の延長であります。つまり後宇多天皇のお考へになつた學問上の復古思想といふものは、もう一つ進んで行くと、後醍醐天皇のやうに更に進んだ思想になるといふことは是はきまりきつた事であらうと思ひます。後醍醐天皇のことを申上げずに斯ういふ風にばかり申しても分りにくいでせうが、それはあとでだん/\に申上げるとして、この後宇多天皇の復古思想といふのがよほど大事であることを御承知願ひたいのであります。
 それから次の時代になりまするといふと、後宇多天皇のお子さんの後醍醐天皇が出られますが、不思議にも亦さういふ機運が大覺寺統にも、又持明院統にもあつたものと見えまして、どちらにもさういふ思想を持つた方が出て居ります。即ち北朝――持明院の方においても、花園天皇といふやうな方が出られて、後醍醐天皇と同じやうに革新的思想を持たれた樣に考へられるのであります。それがよほど不思議な現象であつて、ともかくも其時代といふものはよほど革新の機運が漲つて居つたといふことが分ります。併しこの革新機運は必ずしも最初から日本の文化の獨立といふやうなことを考へたのではなく、最後にそこへ到着したのであると私は考へます。
 さて此革新機運は一面において後醍醐天皇の時に宋學の輸入となります、是は學問上における一つの非常なる變化であります。即ち漢學の方で申せば從來は日本朝廷の學問は漢唐以來の相傳の學問を皆繼續して來たのですが、此の時分から宋學が入つて來たのです。これは勿論禪宗が入つて禪宗の坊さんが其時流行であつた所の宋學の影響を受けて來たからさういふのが基になつたのではありませうが、とにかく宋學が來たのです。普通宋學といふと程朱の學問に限りますが、私はもう少し意味を廣く考へておきたいと思ひます。程子朱子より以前又は其以外にも、支那では北宋の時分にいろ/\變つた新しい思想が出來て居ります、例へば司馬温公の資治通鑑などは從來の歴史を一變した所の有力なる歴史であつて、是はやはり當時の思想によほど影響して居ります。ともかく支那の從來の學問に對して新しいことを考へる所の思想が禪宗の坊さんたちによつてだん/\日本に間接に入つて來てゐたのが、到頭後醍醐天皇の時分になつてそれを本統に研究する人が出て來たのであります、それは誰かといふと有名な北畠玄惠といふ人であります。この玄惠法印といふ人はもと/\天台の方のことを稽古した人でありませうけれども、この宋學の本を讀んで程子、朱子の學問をされたことが、其當時行はれた所の無禮講といふやうなものに結び付けられて來たのであります。さういふやうな事は太平記に書いてあることで、太平記は小説見たいなものであるから事實は不確かであるといふ風に從來は言ひ傳へられて居つたのですが、近年になり、花園院宸記――御日記を研究するやうになりましてからは、其中にそれに關することが書いてあることが分つたのです。さうして後醍醐天皇は玄惠法印に講釋をさせられます。從來の學問といふものは清家とか菅家とかいふ風に相傳の學問をする人に限られて居つたが、此時に特別に玄惠法印といふやうな人を召されて、さうして講釋をさせられるといふことになつたのです。そして花園院宸記によると、其時銘々の意見によつて勝手な説を作るといふことになつたが、あれは困るといふやうなことを書かれてあります。ですから其時は宋學の影響を受けて古い經書などを自分の頭で新しい解釋をするといふ風が起つて居つたと考へられます。是は鎌倉以來禪學が流行して從來の眞言とか天台とかいふ傳統的佛教に對して新しいことを考へる佛教が流行つた時に、漢學においてもさういふことが起つて來たのであります。後醍醐天皇といふ方は漢學においても宋學をやられ、佛家の學問においても單に從來の傳統的の學問のみならず、新しいことをやつて禪宗をお好みになつた。これは親房の書いてゐる所によつても、從來の眞言とか天台とかいふ相傳の學問の外に、當時新しく入つて來た所の禪宗などもやられたといふことが明かに分るのであります。
 さういふ次第でありますから、後醍醐天皇は學問上において新思想家でいらつしゃるわけで、其點は後宇多天皇と幾らか違つて居ります、即ち後宇多天皇は從來の密教といふやうなものを根本的に研究し、密教の復古的方法まで進まれたのですが、後醍醐天皇はそれより更に新しい思想で解釋した所の佛教及び漢學をやらうといふ所まで進められたのであります。即ち御父子の間に御考の程度の違つた點があつたわけでありますが、併し前の後宇多天皇の如く復古思想によつて革新機運を起す所の篤學なるお方がなかつたならば、この後醍醐天皇のやうな方が俄かに飛び出して來られるわけはないのであります。やはり後宇多天皇の學者であらせられたことが大いに後醍醐天皇の新思想に關係があるのであります。
 尚さういふ風な思想は啻に南朝の方々のみでなく、北朝系の花園天皇などにも同樣あらせられたやうであります、即ち花園天皇はやはり禪宗がよほどお好きであつて、當時の思想上においては持明院統の天子であらせられながら、やはり後醍醐天皇に對してよほどの同情を持つてゐられたやうであります。これが妙なことに現はれて居ります、それは何かといふと書風の上に現はれてゐるのです。この書風に就いては今日もあちらに陳列してありますが、あれを見ると龜山天皇など如何にも從來の平安朝から鎌倉に相傳した所の日本風の柔かいおとなしい書風でありますが、もうすでに後宇多天皇になるとその御消息などを拜見しましても其書風は當時の書風ではない、假名にしても眞名にしてもいかにも豁達で、今までのやうなおとなしい書風に甘んじて居られなかつたといふことが明かに分ります。それが花園天皇になると更に豁達であります。殊に後醍醐天皇の御書風において最もさうであります。それについてその頃有名な青蓮院の尊圓法親王即ち持明院統の伏見院の御子で後伏見院、花園院と御兄弟で入らせられる尊圓法親王が書に關する入木抄といふ著述をして當時の書風の批評をして居りますが、その批評を拜見すると、大覺寺統即ち南朝派の書風を幾らか攻撃する樣な態度でお書きになつて居ります。近頃宋朝風の書風が書かれるがそれは自分らの取らぬ所である、さうしてさういふものがだん/\皇室の御書風に入つて來て後醍醐天皇もこれをお書きになつてゐると、幾らか攻撃する意味で言つて居ります。これによつて見ても大覺寺統即ち後醍醐天皇の書風が當時新たに入つて來た所の宋風の書風であつたといふことが分ります。所が其尊圓法親王其人の書風がどうかといふと、此人がすでに從來の書風に甘んぜられない。つまり從來は日本の書風を統一して居つた家がありました、丁度吉澤博士のお話にもあつた通り二條家といふものが和歌の風を統一した如く、書道においても書風を統一して居つた家があつたのです、それは世尊寺といふ家でそれが書風を統一して居つたのであります。そこで伏見院も後伏見院も世尊寺風の書をお書きになつて居つたが、尊圓法親王のは別派で全く新しい書風を書かれた。勿論尊圓法親王は宋朝の書風を採られたのではないけれども、とにかく後宇多天皇の復古の學問におけると同樣に復古的書風といふものをやらうといふお考があつたといふことが分ります。尊圓法親王の書風は世尊寺の流派の元祖である行成卿の書風を飛び越えて道風の書風を目的として居つたやうであります。その尊圓法親王は南朝の書風を幾らか攻撃してゐるやうであるが、御自身がすでにその書風において一變化をして居ります。それで花園天皇の書風も宋朝の書風を加味して居つて、南朝の方の書風と類似して居ります。これは思想においても同樣であるが、書風においてもやはり同樣でありまして御兄弟でありながらすでにさういふ違ひが生じて居つたのであります。
 斯ういふのが凡て當時の學問、藝術に關係して居る所の有ゆる革新の機運でありますが、これはよほど面白い事であつて、内部においてすでに昔から有り來つた傳統的のものに安んぜずして、何でも革命的にやらうといふ機運があつたといふことが分ります。その他最も著しい政治上に於いても同樣の事がありまして、あの北畠親房といふやうな人は其點において非常に偉い考を持つて居つたやうであります。神皇正統記も唯國史の教科書として位に讀んで居れば何でもありませんが、實はあれはあの人の政治に對する革新意見書であります。あれを見ると單に昔からの記録をもとにしてあり來りの歴史を書かうとしたものでないことが分ります。勿論皇室の正統が南朝にあることを表明するつもりもあつたに相違ありませんが、單にそれのみでなく、非常な經綸を以て書いた堂々たる當時の日本の政治に對する革新の意見書と言つていゝのです。其根本は勿論親房が司馬温公の資治通鑑即ち君主の政治の參考になるやうに書いた所の資治通鑑を讀んだ所にあるでありませうが、この正統記は單に昔からの歴史を天子にお教へ申上るといふだけでなしに、昔の變化を述べて新しい時代の天子は如何なる覺悟でゐられ、如何なる方法でなさるがいゝかといふことに對する自分の意見を悉く現はした處の著述であります。だから日本第一の歴史家と言つたら此北畠親房をあげていゝと思ひます。日本の歴史の内で自分で立派な經綸的の意見を以てそれを根本として書いたものは少い、其内で親房の神皇正統記は實に見上げた堂々たる歴史であり、同時に當時の革新意見書であります。殊にその正統論を擔ぎ出すところを見ると、これは單に司馬温公の資治通鑑のみならず、宋元時代支那に行はれた正統論を承知して居つただらうと思ひます。たとへば朱子學派の本である通鑑綱目といふやうなものは、當時支那でどれ程流行したか分りませんから、それが日本に來て親房が見られたかどうかといふことは疑問ですが、兎に角宋の時代に朱子學が發達すると同時に正統論といふものが歴史の上においてよほど大事な事になつたのは確かであります。それを承知して居つたので本の名前も神皇正統記といふ風にしたのであらうと思ひます。是は決して想像ばかりではなく、兩方の時代を比較し、内容を較べて見ると、さうあるべき筈だと思ひます。
 さういふ次第でありまして、凡ての事が革新の機運を持つて居つたのでありますが、天子としてはすでに大覺寺統の後醍醐天皇のみならず、持明院統の花園天皇なども入らせられ、それに仕へた所の有力なる公家達にも亦さういふ風な氣分を持つた人が相當あつたやうであります。私はあの時分の人物としては日野資朝といふ人が大變好きです、尤もこれは若い時分好きだつたのですから、老人の今となつて若手の偉い人が好きだと言つても少し年寄の冷水のやうな嫌がありますが、とにかく日本であれ位痛快な人物はないと思ふ位であります。是が其の當時玄惠法印に新しい學問を受け、又禪學をもした人で、のみならず革新の氣分に於て非常に著しかつた點があります。資朝の痛快な事は、徒然草に爲兼大納言入道が北條方からめしとられて、六波羅へつれ行かれるのを一條邊で見て、資朝は「あな羨し、世にあらんおもひ出、かくこそあらまほしけれ」と言つたといふことが載せてあります、却々面白い。それから西園寺内大臣實衡といふ人と禁中に宿直した時に、西大寺靜然上人が腰かゞまり、眉白く、まことに徳たけたるありさまにて、内裏へ參られたりけるを、實衡「あなたふとのけしきや」とて、信仰の氣色であつたので、それを見た資朝は「年のよりたるにて候」と言つた、其後年老つて毛のはげたむく犬を實衡に送つて、「この氣色たふとく見えて候」と言つてやつたといふことですが、さういふ風な痛快な人です。それで後醍醐天皇は言はゞさういふ謀反氣の滿ち/\た人物で取り圍まれてゐたわけであつて、是が後醍醐天皇をしてあの北條氏を亡ぼさしめ、さうしてたとへ一時なりとも建武中興といふやうな大改革をなさしめた所以であります。
 勿論さういふのが當時の一般氣風であつたでありませうが、それは單に公家の人物のみならず、其外の學説思想などにおいても、同樣に其氣分が現はれて居るのであります。こゝに一つ其例を擧げて見ますと、昔から日本には相傳の學説ともなり、一種の信仰ともなつた事に妙なことがあります。それは改元する――年號を改めるに就て、一つの重大なる事柄としてある革命といふことであります。字は今日の革命思想などいふ革命でありますが、意味は一寸違つて居ります。天地間の運數を考へてどういふ時には革命の氣運が來るといふ學説で、これは漢以來行はれてゐる緯書の説から出たものであります、殊に易緯といふものから出たので、すべて天地間のことを周易の革卦から割り出し、五行の運數、干支などで判斷した考であります。それを日本で應用し始めたのは菅公時代の三善清行といふ人で辛酉革命、甲子革令といふことを申したのであります。その辛酉の年といふのは六十年目毎に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてくるわけですが、その時は天地革命の運數に當つてゐるのであるから、年號を改めて、天子とか大臣とか言ふ者は非常に注意しなければならぬといふので、此の六十年の二十二倍の年數を一蔀といふのである、それで神武天皇即位紀元の辛酉から齊明天皇の六年庚申までを一蔀完終として居る。辛酉から三年經つと甲子の年が來る、甲子は革令と言ひ又革政ともいふ、或は戊午の年を革運といひ、それから辛酉に革命があり、甲子に革政があるとして辛酉を蔀首とする説、戊午を蔀首とする説と、いろ/\ありますが、其後甲子にも必ず改元することになりました。清行は丁度醍醐天皇の延喜元年が辛酉に當つて居りましたので、そこで今年は辛酉革命の時に當つてゐるから御用心なさいといふことを菅公に言つたのです、それで昌泰といふ年號が延喜に改元されたのですが、其説が非常に有力なものとなりまして遂にそれが代々行はれるやうになつたのです。この辛酉といふ年は六十年目毎に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて來て、それから三年經つと甲子といふ年が來る、その時は必ず改元が行はれます。それはずつとのちまで續いて、近代まで行はれてゐましたが、最近では文久元年が辛酉でありまして、元治元年が甲子であります、其の度毎に改元して居ります、勿論戰國時代あたりの朝廷でさういふやうな儀式の出來なかつた時には多少異例もありますが、其他は延喜以來、辛酉革命、甲子革令には必ず改元して居ります。ですから私共は日本の年號を記憶するのに、その事を知つて置くと大變都合がよく覺えよいのです、私は國史家でありませんので年號を宙に覺えて居るのは困難でありますから、この革命革令をたよりにして徳川時代位の年號年數は殘らず記憶するやうに致して居ります。

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