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日本国民の文化的素質(にほんこくみんのぶんかてきそしつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:29:09  点击:  切换到繁體中文

今日申します演題は「日本國民の文化的素質」斯う云ふ風な事を申上げることに致しましたのですが、私は此の問題は前から種々考へて居りますけれども、もう少し悠り考へを纏めようと思ひまして、今日迄何處でも之に就いて講演したこともありません。此の中の極一部分の事に就ては、多少言つたことはありますけれども、大體此の問題に就いては講演したことはありません、勿論まだ私の考へも十分はつきり纏まつて居ないのであります。又十分はつきりした詳しい材料の蒐集も出來て居りませんが、此の會が幸に杉浦先生の記念の會でありますから、兎に角斯う云ふ問題を、恐らく先生が生きて聽いて居られても、お叱りは蒙るまいと思ひまして、斯う云ふ問題の最初の講演を試みて見度いといふので、それで斯う云ふ題目に致しました。まだ十分考へを練つて居りませんから、定めし論旨にも支離滅裂の事があり、お聽き苦しい所もありませうし、御非難の點もあるかとも思ひますが、それは御遠慮なくお訊ねを願ひます。さうして私もだん/\之に關する考へを纏めて見度いと思ふのであります。
 此の數年前から考へましたことは、凡そ國民の文化的の素質、即ち或る國民が文化を持つべき素質があるかどうかと云ふ事を考へるに就て、之を吟味する方法が先づ第一に考へらるべきであるといふことであります。今日でも世界に色々な國がありまして、各々相當な文化を持つて居りますが、然し其の根本から自分の國で自分の文化を發生して居る國民と、さうでないものとがあると思はれます。日本などは時として此の後の方の、文化を持たない國民の樣に誤解される傾きがあるのであります。現に日本には支那の留學生が澤山來て居ります、支那の留學生は盛んに日本に來て研究した揚句、往々にして輕蔑した考へを持つて居ります。それは何かと申しますと、日本は今日大いに進歩した國のやうに自惚れて居るけれども、日本と云ふ國は元來維新前迄は、自分の國即ち支那の文化を取り入れたのではないか、さうして明治以後になつてから歐羅巴の文化、殊に最近に於ては獨逸の文化を丸呑みにして居るのではないか、何も自分の文化を持ち得ない國民で、少しもそんなに尊ぶには當らない、日本が非常に勢力が強くて盛んでも、若し之が亡びたら、後には何も殘らない國であるが、自分の國は大したもので自分の文化を持つて居る、自分等の持つて居る文化は、今日の進歩して居る國、古來進歩したどの國に比べても決して劣らないものを持つて居る、其の點で日本よりも遙かに自分等は優秀な國民だと云ふ事をいふ者が多くあるのであります。之は相當な理由のあることでありまして、日本の眞の歴史、つまり眞の文化の根本を知らずに日本の事を考へると、確に斯う云ふやうな考へになり得るのであります。然し私は左樣ではないと信じて居るのであります。が、然しさうでないと信じた所で、それを立證すべき確かな事がなくてはならぬと思ひます。
 無理に之を立證しようとして、我國は二千何百年經つて居ると云ふやうな、有りふれた、日本人が普通に自慢する樣な歴史を言つたのでは、さう云ふ支那人などの連中はなか/\承知しないのであります。さう云ふ事から私は先づ第一に、それでは世界に、文化を持ち得る國民と云ふものが、一體どう云ふ條件を備へて居るかと云ふ事を考へる必要があると思ひました。で、先づ其の點から云へば近い所で支那であります。私は澤山の國民の歴史を知つて居る譯でもありませんが、先づ支那の如きは文化を持つて居る國民であります。それから印度、印度はやはり之も誤解され易い國でありまして、今でも印度人は未開な樣に思ふ人などがありますけれども、やはり立派な文化を持つて居ると思ひます。それから今日種々の國民より成る歐羅巴の文化で、今日の傳統を爲して居るものはギリシヤ以來の文化でありますから、先づギリシヤ人の持つて居る文化と云ふ樣なもの、又アラビヤ文化、ペルシヤ文化と云ふ樣なものもありますけれども、私はまださう云ふ國々の事を十分考究致しません。先づ私にわかる範圍の國民の事を考へまして、さう云ふ國々が文化の條件として持つて居るものが、どう云ふものであるかと云ふ事を比べる必要がある、所が夫等の國民は不思議にもやはり同じ樣なものを持つて居ります。之は偶然ではないのでありませう。つまり文化國民と云ふものは、さう云ふものを必ず備ふべき必然の理由があるものと思はれます。それはどう云ふ事かと申しますと、支那には丁度今から千九百年前に、其の當時迄あつた所の、凡ゆる書物の目録を書いたものがあります。其の大部分の書物は今日失くなつて居りますけれども、之からつまり今日の支那の文化と云ふものは傳統を引いて來て居るのであります。兎に角支那では前漢の末頃に、非常に立派な目録學者がありました、目録と云ふと古來の書物の名前を帳面に記する丈かの樣に考へられますが、支那の當時の目録學と云ふものは、本の内容に依つて分類し、批評する所の一種の學問であります、其の學問を支那で其の當時考へた人があります。即ち有ゆる學問の總論を目録に依つてやる事を考へた人があります、私は其の人の學問を大變尊敬して居ります、それが有名な劉向、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の父子であります。此の人達が當時有ゆる本を見まして、さうしてそれを一括して批評したものがあります。即ち前漢書の藝文志の中にこの劉向、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の父子の學問の大略が殘つて居りますが、此時の目録には書籍を六種に分類して居ります。それは六藝、諸子、詩賦、兵書、數術、方技、斯う云ふ六種であります。六藝と申しますのは經書でありまして、其外を五種に分類して居りまして、それに又各々此の中が幾つかの細い部となりまして、それに依つて一々評論したのであります。支那人は兎に角當時之だけのものを持つて居た、今から殆ど二千年前に之だけのものを持つて居たので、之は支那人が今から二千年前に立派な文化を持つて居た一つの證據であります。
 印度人はどう云ふものであつたかと申しますと、最初今の佛教などの興る前に、四吠陀と云ふものがあつたと云ふことであります。今でも其本はあるのであります、其の本は多くは宗教的に出來て居ります。支那の劉向、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)父子の時には宗教的ではなかつたのでありますが、印度の四吠陀は組織が全く宗教的に出來て居て、其の四つの内の半分通りは大體宗教に關したものでありますが、其の内の一つはやはり兵事、支那で云ふ兵書と同じ樣に兵事に關したものでありまして、其の他の一つが六藝と同じ樣な性質を帶ぶるものでありました。之は實は支那の前漢時代に比べまして、年代も古いし、それから記録もまだ十分に備つて居なかつた時でありまして、其の後に於きまして印度では、丁度やはり支那の劉向、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の時代と同じ程度位の色々の學問が開けて來て、其の書籍も出來て來ました。印度では支那よりも本を用ひたのはむしろ餘程後でありまして、其の前には學問を口で傳へて居たのでありますが、丁度支那の秦漢以前の樣な状態を以つて傳へて來たのであります。ともかく佛教の興りました頃に五通りの分類の樣なものが學問の上に出來ました。印度で之を五明と申しますが、聲明、因明、醫方明、内明、工巧明、斯う云ふ五種類であります。之が其の分類の仕方がぴつたりと支那とうまく合ふ譯には行きませんが、大體に於てよく合ふのであります。支那では方技、之が醫方明に當ります。工巧明が數術に當るのであります。内明が印度で哲學の樣なもので、大體に於て諸子、六藝に當ると思ひます。聲明は聲の方の學問でありますが、この聲の方の學問と云ふのは、印度では聲を大變に神聖なものと考へたから、斯う云ふものが出來て居りまして、之に音學的な分子が含まれ、文法の樣なものも含まれて居るのであります。其の後因明と云ふものが出來ました、これが論理であります。大體に於て兵書の部分を除けば印度の學問も支那の學問もやはり五つに分れて居て、分類の間には、多少食ひ違ひがありますけれども、然し内容として持つて居るものは、全般から觀れば殆ど同じものである。支那の兵書の部分は印度では古い吠陀の方にあるのであります。斯う云ふものがつまり印度の文化の要素として考へられたものと思ひます。
 西洋の事は私詳しく知りませんけれども、或る時代から希臘のアリストテレスの考へが、近代迄永く續いて、ルネサンスの時代迄此の考へで學問の組立が出來て居りました。日本でもキリシタンが初めて渡つて來ました頃、支那の明の末に利瑪竇(マテオ、リツチ)と云ふお坊さんが西洋から來て、天主教を弘めましたが、其の當時に西洋から來た艾儒略といふ宣教師が支那で、西洋の學問全體に關する西學凡と云ふ册子を書いて支那人に見せたものであります。其本は日本では徳川時代は禁書となつて居りました。當時は東洋人が西洋の學問の大體を知るには西學凡に依つて知つたのであります。之が十七世紀の初頭に支那で出來たのであります。つまり西洋の學問と云ふものは、アリストテレスの時に古代文化の總括が出來て、其の後に來たキリスト教の文明が混和して、一つの學問の大系を成したのでありますが、其の大要を最も早く東洋に知らしたのが其の西學凡であつて、之に載つて居る所に依ると學問を六科に分けて居ります、之に依つて全體の學問を觀ることが出來るのであります。支那字で書いてありますが、一つは文科(勒鐸理加レトリカ)、それから理科(斐録所費亞フイロソフイア)、醫科(默弟濟納メデチナ)、法科(勒義斯レイス)、教科(加諾搦斯カノネス)、道科(※(「こざとへん+走」、第4水準2-91-68)禄日亞トロジア)、斯う云ふものであります。先づ文科、理科の二つから這入つて、それが第一歩の基礎學問であつて、其の後それが濟むと醫科をやるか、法科をやるか、教科をやるか、道科をやるか其の四つの中の一つを專修するとしてあります、之が西學凡の大意であります。其の内主に理科の所に於てアリストテレスの學問を大體に於て論じて居るのでありますが、然し文科と云ふのもやはりアリストテレスから來た所のものであると思はれます。文科はどう云ふものをやるかと云ふと、古賢の名訓、各國の歴史、各種の詩文、それから自分で文章をかき又議論をする事、之が即ち文法學、修辭學、さう云ふものであります。其の次に理科は大體に於てアリストテレスの時代の學問から來たので、最初にロジカ(落日加)を稽古する、其の次はフイジカ(費西加)を稽古する、其の次にはメタフイジカ(默達費西加)、それからマテマチカ(馬得馬第加)を稽古する。それから其の後はエテカ(厄第加)を稽古する、それが即ちアリストテレスの學問の大意だと云ふことを云つて居ります。それだけが準備の學科で、それから後はつまり專門になるのであります。專門は醫科と法科と教科、この教科がキリスト教時代の學問であつて、羅馬教皇が定めた教中の法度で、今日の日本の大學等に、さう云ふものはありやう筈がありません。道科、之は今日日本では神學と稱して居るものであります。で、つまり此の中で最後の二つ、教科、道科と云ふものは、之はキリスト教が歐羅巴に入つてから後に、其の關係から出來た所の學問でありますが、前の四つは希臘以來歐羅巴で文化を有つて居る所の國民が、皆有つべき要素として有つて居た所の學問であります。微細な點に渉つて考へると、異つた種々の部分があるでありませうけれども、兎に角理科の中に含む所の落日加、費西加、默達費西加、馬得馬第加、厄第加、斯う云ふものを必修の科程としてやつたと云ふことは、大體に於て支那や印度の學問の分類と自然に一致すると思ひます。さうして見ると、何處の國民でも文化を有つ國民が有つて居る所の學問の大系は、大體同じものと云ふことが出來ます。
 そこで日本がさういふ文化に必要な學問を有ち得しや否やと云ふことを詮索するにはいかにすれば可いか、日本の樣に外國の文化を始終受けて居た國民は、之を詮索するのは餘程困難であります。日本は聖徳太子以後、平安朝の頃迄、支那の文化を丸呑みにして居た時の學問と云ふものは、恰も唐の代の學問でありまして、其の時代に於て之だけの條件が皆備つて居ても、それは支那の文化を丸寫しにした條件が備つて居るのであります。日本國民はそれを傳へて理解したと云ふだけであつて、本來それを有ち得べき素質があるかと云ふことは斷言し難いと思ひます。それから最近徳川時代になつて又支那文化の再輸入が殆ど三百年間續きました。其時に日本人が如何なる立派な學問をしてゐても、やはり支那の學問の殆ど皆鵜呑みであつて、日本國民でなくても眞似をし得る國民なら出來る事でありますから、それでは文化を有ち得る國民と云ふ證明にはなりません。それでありますから外國の學問を丸寫しにした時代では吟味が出來難い。そこで私は日本が昔の奈良朝、平安朝時代の支那人から受取つた所の文化を殆ど皆失つて、さうしてまだ徳川時代の支那文化の再輸入して來なかつた時代、日本が非常に戰亂に荒らされて暗黒の時代となつてゐた足利時代、特に應仁、文明以後に於て之を調べる必要があると思ひます。勿論さう云ふ暗黒時代は折角支那から輸入した多くのものを失つて居ります、其の當時の貴族の學者、例へば一條禪閤兼良と云ふ樣な學者がありますが、さう云ふ人達は戰亂の爲めに古來相傳の文化を失つたと云ふ事を非常に殘念がつて居る。勿論當時古來相傳の文化を失つた事は悲しむべき事であつたに違ひありませんが、さう云ふ樣に人から借着をして居た着物を皆脱いでしまふと云ふ時には、丸裸の姿を見るに極く好い時代であります。其の時代は日本が文化的素質を有つて居るかどうかと云ふことを見、さうして又それを吟味するに都合の好い時であります。
 然しそれを吟味するには一寸一通りの吟味の仕方では難しいのでありまして、色々な考へ樣をしなければならない。私はやはり支那の事を考へる樣に目録學の方から考へて見度いと思ひました。其頃の日本の目録としては本朝書籍目録と云ふのがありまして、之は仁和寺書籍目録とも申します。之は仁和寺にあつたものを寫したからさう申すのであります。傳へらるゝ所に依りますれば、其の作者は清原業忠と云ふことになつて居ります。之は足利將軍義教の時の人でありますが、足利の世は此義教の時から不安定になりかけたのであります。此の人が赤松滿祐と云ふ家臣に殺されてから、世の中が亂れかゝつたのでありますが、此の義教の注文で書いた目録だと云ふことになつて居ります。之は其の當時の目録を全部書いて居る譯ではありませんけれども、之に載つて居る目録の分類の仕方を見ると云ふと、大體此の當時に必要な書籍の程度が判ります。此の目録は神事、帝紀、公事、政要、氏族、地理、類聚、字類、詩家、雜抄、和歌、和漢、管弦、醫書、陰陽、傳記、官位、雜々、雜抄に分類されて居ります。其中神事、帝紀、氏族、地理、和歌は日本固有のもので、公事、雜抄、管弦、雜々の中にも幾分固有のものがあります。之が前に申しました應仁の亂の前に當りますので、將に日本は支那から來た文化の着物を脱ぎかゝつて居りますけれども、まだ皆脱ぎ切つて居ない時であります。それでありますから、此の中には日本人が丸裸になつてから發見した所の文化的要素のみを見はしては居りません。之は一面には支那文化の傳來と、それから日本の古代から傳つて來た所の宗教上の儀式とか、色々な種類のものを其の中に有つて居りますが、文化國民が有ち得べき要素を、裸になつてから見出したと云ふ其の證據は、此の目録に依つて見ることはできません。然し足利の亂世に於ても日本人がその古來相傳して來た所の文化をどれ程大事にして居つたかゞ判るのであります。さうして此の目録以後に新しく出來たものゝ中に文化的要素があれば、それが眞の日本人が素ツ裸になつてから發見した所の文化であります。それがあるかどうかと云ふことでありますが、それが今日から考へると貧弱なものでありますけれども、有ることはあるのであります。其の有ると云ふ點が、甚だ我々にとつて心強いのであります。

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