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日本の肖像画と鎌倉時代(にほんのしょうぞうがとかまくらじだい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:31:03  点击:  切换到繁體中文


 宋以後の風格によれる肖像畫が、日本に於て多數製作せられし足利中期以後の畫は、其遺品非常に多きに拘らず、何れも精采なき俗惡なるものなる點より考ふれば、宋風の肖像畫は日本特有の肖像畫を漸々に俗化して之を劣等なるものに引き下せしものにして、其の多數に遺存せることは、其の畫の價値を高めることには更に效なし。殊に足利中期以後は、地方の大小名等漸くに勢力を得來つて、身分高き中央縉紳の生活を摸倣せんことを欲求する風盛んとなり、徳川初期にかけて肖像畫の數は莫大の増加を來せり。しかし、その増加によりて少しも肖像畫は進歩せず。されば一たび衰運に向ひし肖像畫は、徳川文化の全盛期に於ても再び興らざりしが、中には時として稍※(二の字点、1-2-22)優れたる肖像畫の殘されあるものあり。その一例は、京都堀川の伊藤家に傳ふる所の、仁齋・東涯二先生の肖像畫にして、やはり主として面相を似せ繪流に畫きしものなり。京都の狩野派に在て、永納の如き大家ありて、豪信の肖像畫を寫し傳へたる事實あるを以て、この二先生の肖像の如きも、京狩野の畫家が隆信・信實一家傳來の法を習ひて畫きしものに非ざるか。未だ確證あらざれば、姑らく後考を俟つ。
 以上は日本肖像畫の全盛期に就て有する余一己の私見なるが、これと異なる意見を有する論者も頗る之あるが如し。其の意見の多くは、現存する肖像畫の最も多數なる足利時代を以て肖像畫の全盛期とせんとする傾向あるが如し。其の據る所は、肖像畫の日本にて盛となりしは、禪宗の傳來に負ふ所多く、禪宗には宗旨の本義として、其師の頂相即ち肖像を傳ふる事とし、これを祭るにも掛眞即ち肖像畫を掛くる風ありしより、肖像畫の用は禪家によりて發達し、隨て日本肖像畫と禪宗とは離るべからざる關係あり、此宗派の盛んなると共に日本の肖像畫の進歩を促せりとするが、一つの見解なり。
 しかし、此議論には著しき缺點あり。禪宗が日本に高僧の肖像を持ち來りしは事實なれども、その本國たる支那に於て、肖像畫の發達は特別に禪宗によりて起りし證據なし。支那肖像畫の流行は、唐以來滋※(二の字点、1-2-22)盛んにして、士大夫の間まで擴がり、以て宋代に及びしことは事實なれども、肖像畫の優れたるものは寧ろ唐代にありし事は、眞言五祖像によりても想像され、已に其時代の詩集等に肖像に關係せる詩文等多く現はる。宋代となりてより此風は一般に擴がり、殊に肖像畫について多く用ゐたる、自分の肖像と言ふ意味の「陋容」「陋質」と言ふ語の如き、禪家以外の宋代の士大夫も之を用ゐたり。士大夫の家には又影堂といふものありて、そこに於て祖先を禮拜せしことなるが、これに祠る所の影は即ち肖像にして、之を作るについて、男子は生前に既に之を畫くを得れども、婦人は生きて居る時にてさへ他人に面を見せざる風俗なるを以て、死後其顏に當て居る帛を取りて、寫生の料とすることは禮に適はずとせる程の議論ありし事は、司馬温公の『書儀』にも見え、士大夫みな影堂及影像を有することが當代の習慣にて、それが禪宗にも及びしに過ぎず。禪家に特別に肖像畫が盛なりしといふ事實は少しも無し。大體、宋代の繪畫は、これを全體より通論するも、人物畫の盛なりし時には非ず、人物畫の盛期は既に唐代に於て通過したり。是れ支那藝術一般の傾向より考ふるも明かにして、唐代までは彫刻大いに行はれしも、宋代以後には頗る衰へたり。彫刻の衰ふることは人物畫の衰ふることゝ密接の關係を有し、人物畫の衰ふることは又肖像畫の衰ふることゝ大關係あり。宋代の如く山水畫の發達せし時代に、肖像畫が衰へて類型的となりしことは、又自然の數なり。ただ支那の文化が日本に輸入さるゝ時に特殊の事情を生じて、原因結果に關する歴史的判斷に錯覺を惹起さしむることあり。卑近なる例を擧ぐれば、日本の藥種屋が金看板を好みて吊れる所より、金看板は藥種屋特有のものゝ如く考へらるゝも、支那に於ては金看板は如何なる店舖にも之を吊るものにして、藥種屋に限れる譯にあらず。足利時代に於て、日本の對支貿易の最も重要なるものが藥種なりしより、藥種屋が直接に支那に渡り支那風の金看板を用ゐしを以て、金看板が藥種屋の特有なるかの如く見ゆるに至れり。建築に於ても亦、佛殿法堂式の建築は、日本に於ては寺院のみに限れるも、支那にては宋代以後の大建築は大體みな法堂の如きものなり。日本にては單に禪宗の寺院を中心としたるものに此式の建築廣まりしを以て、此式の建築は禪宗特有のものゝ如くに考へらるゝが、これは支那文化の日本に輸入さるゝ際に發生する特殊の事情に基くものにして、禪宗と肖像畫との關係の如きもまた此の同一事情に外ならず、根本に於て、禪宗と肖像畫との間に特殊の關係あるにあらざるなり。要するに是れ宋代肖像畫の傳來に關する事情の誤解にして、我が肖像畫の歴史を知らんと欲せば、先づ禪宗傳來以前、日本肖像畫の全盛期あることにも充分に注意する必要あり。
 今一つの意見は、同じく肖像畫の全盛期を足利時代とするものなるが、それにつきて特別の理由を求めんとするものにして、足利時代は低き階級が活動し始めしを以て、社會は個性の發達を促せり、これ肖像畫の如き個性の發現を尚ぶものが、足利時代に盛んとなりし所以なりと考ふるものなり。これは足利時代の肖像畫の實物と、隆信・信實の肖像畫の如き優秀なるものとを比較せずして、即ち實物を無視して説をなしたるものなるが、一方に於てまた時代の眞相の觀察を誤れるにあらざるやを思はしむ。前者に就ては肖像畫の現存せるものを實見すれば、何人も隆信一家のものと、足利時代の多數の肖像畫との優劣を判斷するに苦しむものあらざるべく、禪宗渡來以後の肖像畫に於ても、寧ろ鎌倉時代以後南北朝のもの優れ、其以後のものは衰退せる事を發見するに難からざるべし。後者即ち日本歴史上の時代觀に於ては、余は日本に人心の動搖と共に個性活動し始めて多くの天才を現はせるは、やはり藤原末期より鎌倉初中期間なりと考ふ。即ち宗教上の信仰の動搖より叡山の片隅横河の山中にて既に淨土教の信仰萌し、眞言宗にも新義派の如き淨土思想の發生ありしことは、當時思想上の覺醒ありし證にして、藤原時代に於ては、この淨土教もなほ貴族的なる趣味に囚はれて山越阿彌陀とか二十五菩薩來迎圖などの如き綺羅びやかなる思想を有せしが、鎌倉初期となるや權力思想の覺醒が地方武士に及べる結果、其時代に興れる宗教思想も簡素なる地方武士の生活に相應せる者となり、こゝに淨土宗・眞宗・日蓮宗を生じ、其創立者はみな一代の天才なり。この間に於て武人にありても、頼朝の如き天才的政治家、義經の如き天才的戰術家を生み、縉紳の間にても、比較的低き階級より藤原信西・大江廣元の如き經綸の材を有する人々出で來りて、階級と思想との動搖一般的に行き亙れり。此の動搖によりて天才の輩出する際に、藝術の方にも天才の出現あり、一般の繪畫彫刻にもみな此傾向ありしなり。此時代は最も日本の特色を發揮したる時代にして、其間に生れたる肖像畫も日本獨得の精采を有し、以て南北朝までは多少階級と思想との動搖ありしに伴ひて繼續せられ、後醍醐天皇の時代の如きは、種々なる方面に古來の因習を脱却して、獨創的の思想を表現せるものを續出したりしなり。されば單に外部の事情より推すも、此の如く藤原末期より南北朝中頃までは天才の出現に都合よき時代なれば、肖像畫も亦自然に其機運に應じて興隆せり。
 足利時代は、義滿以後武家の制度確立し來ると同時に動搖減少し、中期以後は應仁文明より引き續ける亂世にして、動搖は激烈なりしも、此時代の亂世は藤原末期とは甚しき相違あり、動搖餘りに大なりしために、最下級のものをして最も勢力あるに至らしむることゝなり、文化とか、修養とかを少しも有せざる階級の跋扈する時代となれり。而して戰爭等に於ても、兵力の多數と、飛道具の如き技巧を要せざる武器とによりて行はれ、しかもそれが統率の才の不充分なる將帥に屬し、多くは群衆心理によりて妄動を續けし時代なり。されば元龜天正頃までは天才の出づべき素地も機會もなく、隨つて藝術も沈滯の氣分を脱せず。大和繪は前代の摸寫に止まり、支那の繪畫を極端に摸倣したりし北宗風の新派あれども、到底繪卷物時代の如き日本獨得の精采を認むべきに非ず。故に其肖像畫の如きも、つまり下級者の成上りの結果、其要求によりて肖像畫を多數に作りしものなれば、注文する方に全く鑑賞力なく、製作者にも藝術の能力を充分に具備せずして、肖像は他の繪畫と一樣に仕入物と墮落せり。藝術が仕入物となる時代はその最も衰退を表す時代なる事は何人も明かに認め得べし。足利時代を以て肖像畫の全盛期と考ふる事は、社會の事情より言ふも、肖像畫の現存せる遺物を鑑賞する上より言ふも、事實とは非常なる相違あり。この故に余は日本の肖像畫の全盛期を、隆信一家が相續して中心となりし鎌倉時代を中心とせる時期に限ると斷定するものなり。

(附記) 支那に於ては、元明以後、肖像畫は益※(二の字点、1-2-22)形式に流れ、仕女の名匠として明代に仇英の如きあるも、肖像畫に精采を賦與する程の感化を及ぼさず、清朝の禹之鼎の如き、肖像を善くすといはれしも、要するに仇英一派の後勁たるに過ぎず。但だ乾隆嘉慶以後、思想の變化と共に仕女の名家輩出して、遂に改※(「王+奇」、第3水準1-88-6)の如き新しき生氣ある仕女畫を生ずるに至れるが、此時代さへも肖像畫は遂に復活するに至らざりき。其の畫法の如きも、元代の王繹が寫像訣なる者を出せしより、一定の範疇に陷りて、其の圈外に跳出する者なし。故に元代に於ても、肖像畫にも南畫の風格を移入せし少數の試みありしも、遂に山水畫の如く發展するに至らず、隨つて我國の畫風にも影響することなかりしなり。
(大正九年十二月史學地理學同攻會講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:史學地理學同攻會講演
   1920(大正9)年12月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月14日公開
2006年1月21日修正
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