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日本文化の独立(にほんぶんかのどくりつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:33:21  点击:  切换到繁體中文


 さういふわけで此辛酉革命、甲子革令といふことが大變有力な説になつてゐたのでありますが、後醍醐天皇の時になつて是に反對説を出した人があるのです、といふのは後醍醐天皇の元亨元年が丁度辛酉だつたのですが、其時に算博士の三善朝衡と小槻言春とが例の如く革命勘文といふものを上りましたが、大外記中原師緒といふ人が此辛酉革命、甲子革令の説に反對説を出したのです。その理由とする所は、清行の説は緯書に依つたものであるが、神武以來、何の書にも革命といふ説はなかつた、支那にしても經典には載つて居らない。清行が據つた所の緯書の文といふものは今はない、今はなくても全くなかつたといふ譯ではないが、要するに緯書は鄙近で、聖人の書でないといふことを學者が疑つてゐる程である、術數の學といふものも聖人の鄙しむ所である。たとひ又運數は禍に當つて居つても天子に徳さへあらばそれは消えるべき筈のものである、天子の徳によつて目出たい事が出てくるものである。だから緯書の説はあつても、革命は畏るゝに足らない、又信ずるに足らない、今日より群疑を決して、法を將來に垂れんことを請ふと申して、辛酉革命の改元廢止論を唱へました。これは當時としては非常に突飛な議論で新しい考へであつたらうと思ひます、勿論これも宋學の思想が入つて居ります。併し當時即ち後醍醐天皇の時には其説が行はれないで、衆議に從はれてやはり改元になりました。それから甲子の時にも亦改元となり、其後も依然として辛酉革命、甲子革令は日本の歴史において行はれて居りましたが、ともかくも當時において斯ういふ新らしい學説を立てゝそれを言ひ出すといふことはよほど偉いことであります。實際まかり間違へば其當時の考へでは改元しなかつたために地震があつたとか、雨が多かつたとか、騷亂が起つたとか言ふやうな色々な苦情が起る、革命説を採らなかつたから斯ういふことが起つたのだといふ風に文句を言はれようといふやうな際において、ともかくもそんな迷信は役に立たんものだといふ説を出したといふことは、よほど面白いことであります。これは詰り當時後醍醐天皇が宋學、禪學をやられたといふ事の外に、一般の學問上においても革新の機運があつたといふことの一つの有力なる證據だと思ひます、私はこのことをよほど面白い現象だと思ひます。
 さういふ風に有ゆる方面に革新の機運があつて、從來の説を故なく信ずるといふ事はなくなつて來て居つたのであります。要するにこれは内部における革新の機運でありますが、内部にさういふ考があるとやはり外部に對しても自然さういふ考が起つて來るといふのは當然だらうと思ひます。所が丁度其頃に不思議にも外部においては蒙古襲來といふ一大事件が起つて居るのであります。蒙古襲來といふことは當時では非常な事でありまして、一國の存亡に關するやうな大變なことでありました。さうして龜山上皇が親から國家人民に代はられると言うて御祈願を遊ばされたやうな事もある位であります。近頃國史家の説では、此の御祈願は後宇多天皇がなされたのではないかといふことであるが、勿論それは後宇多天皇の御時代でありましたが、後宇多天皇は八歳で天子の位に即かれて、十二三年その位に居られたのですが、其間龜山上皇が實際の政治をやつて居られたのですから、御祈願の張本はやはり龜山上皇で入らせられたかも知れぬと思ひます。開闢以來の大事件たる蒙古襲來を防禦しようといふのですから、有ゆる神佛を信仰して何んでも國難を免れようといふので、伊勢とか石清水の八幡其他に御祈願遊ばされたのです。當時の記録によると、何か大變奇瑞があつて、その奇瑞のあつた時刻が丁度九州に大風が起つて蒙古の船が散々になつた時だつたといふやうな事がありましたが、此等の事が外部に對する文化上の獨立の考が出來るのに大變關係があつたものと思はれます。
 此の石清水八幡で尊勝陀羅尼法を修せらるゝ時、その最も主なる人は奈良の西大寺興正菩薩といふ方であつたやうでありますが、其時の啓白にも、蒙古は是れ犬の子孫、日本は即ち神の末葉(笑聲起る)、神と犬と何ぞ對揚に及ばん、縱ひ皇運末になり政道誠なく、神祇非禮をとがめ、佛天虚妄を惡みたまふとも、他國よりは我國、他人よりは吾人、爭でか捨てさせ給ふべきといふので、いやでも應でも助けて貰はんければならぬといふにあつたやうであります、さういふ祈願は非常に面白い思想だと思ひます。勿論これは蒙古に對する敵愾心からではありますが、こゝに面白い現象が起つてゐるのであります、といふのは今迄日本は支那を以て日本文化の師匠であると仰いで居つた所が、其師匠と仰いで居つた支那が、犬の子孫である所の蒙古のために亡ぼされてしまつて、其蒙古は更に日本にまで襲來し、さうして日本の前には國難が横つて居つたわけであるが、とにかく伊勢の大神宮や石清水八幡、三千餘座の神々に祈願して神の子孫が犬の子孫に勝つたわけであります。そんなわけで今迄貴いと思つて居つた支那も、犬の子孫に統一されるやうではさう大したこともないといふので、遂に支那といふものが日本人に取つてあまり有難くなくなつた、そして其支那を亡ぼした所の蒙古をも日本が神の力で退けたのですから、日本はよほど偉いのだといふので、其神の保護を受けるといふことはよほど偉い事に思はれただらうと思ひます。殊に後宇多天皇は日本は密教相應の國である、密教が盛んになれば日本も盛んになり、密教が衰へれば日本も衰へるといふことを御遺告の中にも書かれて居る位で、密教が國體に一致して出來上つた國であると考へられて居りました、今日の言葉で申せば、つまり最上の文化と最上の國家といふものは一致して居るものだといふ考を持つて居られたのです。それが果して當りまして今の通り神風の效驗があつたのでありますから、當時の人には非常にさういふ思想が強く響いたのであらうと思ひます。
 是が又他の事情といろ/\關係しまして、こゝに『日本は神國なり』といふ考を起させるに至つたのです。當時伊勢の方に一種の神道が出來て居りました、これは外宮の神主度會わたらひ氏から新に出て來た所の神道でありますが、これが北畠親房の學問に影響してゐるのであります。親房は佛教にも深い人でありますが、神道においては新しく起つた所の度會家の神道を採用したのであつて、自分でも神道に關する著述をして居ります。だから神皇正統記の一番眞先の書き出しには、『大日本は神國なり』と書いて居ります。これが神皇正統記の第一句であります。さうして日本は神國だから尊いといふことを言つて居ります。あの天竺が天神の子孫から成立つて居るといふ事は日本と類似して居るが、後に道に變化があつて、勢力あれば下劣の種も國主となり、五天竺を統領するもあり、又支那も殊更亂りがはしい國で、始終天子の系統が變り、力を以て國を爭ひ、民間より出でゝ位に居たるもあり、戎狄より起つて國を奪へるもあり、累世の臣として君をしのぎ讓を得たるもある、日本だけは全く違つて萬世一系であるといふことを論じて、さういふ神の御末であるから今日の皇統も正統の天子でなければならぬといふことを結論にして、そこで南朝が正統であるといふことを明かにして居るのでありますが、親房には實にそれが信仰であつたらうと思ひます。此人の政治上の經綸は皆新しいことであるが、其信仰は非常に固い信仰であります。これは古い思想ではなく、當時我國に起つた所の新らしい思想だらうと思ひます。
 さういふわけで、此日本が世界中一番尊いのだといふ思想は當時において新思想と言つてよからうと思ひます。詰り前には支那を崇んで居つたが、支那は詰らない、印度も亦詰らない、日本くらゐ尊い國はないといふのが當時の新思想であつて、それが根本になつて其頃文化の獨立といふものが出來たのだと思ひます。親房の經綸が新しいと申しましても、根本から其當時の社會を打ちこはして低い者が上に立つて勢力を揮ふのを善いとしたのではありませぬ。即ち親房の議論といふのはよほど面白いもので、今日に應用してもいゝと思ふ點があります、例へば勳功があつたからと言つて勳功のために官位は進めらるべきものではない、勳功は勳功として別に賞すべきものである、昔の日本の制度には勳位が十二等あつて勳功のあるものに勳階をやる、官職は官職として、學問もあり、地位もあり、才徳もあるものに授けてゐたのである、それが中古以來代々の家柄にやるやうになつたが、其家柄の内でも其才があり、其學問のあるものにやるのが正しき政道である、勳功があるからと言つて政治の事を知らない武人などに政治をやらせるのは大いなる間違である、つまり今日で言へば軍閥反對です(笑聲起る)。さう云ふ立派な見識を持つて居つたが、一面又却々新らしい運動もやつたものであります。勿論是は後醍醐天皇の思召でもありましたが、一體官職といふものは文武の道二なるべからず、公家が武職にも任ずるのが昔の法だとあつて、親房の子は多く武事に從ひ、自分も東國に在つて、戰爭をもした人でありました、さういふ風な却々面白い經綸を持つて居りました。併し日本全體の事では日本國家の根本は動かすべからざるものだとして、而も其動かない所が日本の尊い所だ、そこに日本といふものは天竺とか、支那とかいふものと異つた日本獨立の經綸もあり、日本獨立の社會組織もあり、日本獨立の學問思想もあるのだと斯う考へたのであつて、親房は殆ど當時の代表的の人物と言つていゝ、又一人で其當時の思想を代表して居つたと言つてもいゝのです。況んや後醍醐天皇其他の人々が皆さういふやうな考を持て居られたのですから猶更のことです。それで支那の學問の中で、それに適當した宋學を輸入したのであります、そして銘々の頭で古い本を解釋して從來の傳統的の學問には滿足しないといふ所から宋學が入つたのであります。この根本は單に宋學といふやうな支那のものに感服したのではなく、すでに日本の思想といふものを獨立的に打ち立てよう、文化的獨立をしようといふ考が暗々裡に動いて居つたので、それでさういふことが大いに用ゐられるやうになつたのであらうと思ひます。これが日本の文化に重大なる關係を持つて居るのであります。
 併しすべて平和で來た時代のみが文化の盛んになる時ではありませぬ。引續き足利時代となり、其中頃から戰國となつて、文化の上においても殆ど暗黒時代を現はしたが、其間に自然に獨立思想がだん/\行亙つて、さうして日本は神國であつて日本は特別な國體だといふことが、この暗黒時代において一般に浸みわたるやうになつて來たのであります。此事は私が應仁の亂のお話をした際に、皇室が衰微して其の極に達して居る時、皇室中心の思想が足利の末半分ばかりの時において一般に行亙つたといふ事を申しましたが、龜山、後宇多天皇頃から南北朝の始めに起つた所の新思想は、足利時代の暗黒時代を經ても其思想は決して消滅しなかつたやうであります。古い文化は足利時代に滅亡しましたが、新たに起つた所の思想はどこまでも一貫して、それが到頭徳川時代まで來たのであります。徳川時代になるといふと、外國の學問をする人でも、日本を中心に考へる思想が非常に盛んでありまして、それが詰り明治維新、今日の日本を形造る根本になつたのであります。是が非常に重大なることで、しかも大覺寺統の後宇多天皇、後醍醐天皇と密接なる關係を持つて居るのであります。それで南朝が正統とか大覺寺の興隆とかいふことを別としても、私共の考へる所では、ともかくさういふ機運が動き、さういふ機運に相當する龜山、後宇多、後醍醐三代の天皇、或は北朝の花園院の如き名君がだん/″\世の中に出られたので、自然公家の中にもさういふ人が出たのだと思ひます。さうしてその以前から武家といふやうな下層から頭を持ち上げて來たものが、自然に日本の社會組織を改革して行つたのであり、詰り極く官職の低い者が日本の權力を執るといふやうな時代が出來てあつたのでありますが、最後に殘つて居つた皇室とか公家とかにも革新機運が行亙つて來たのが、丁度此時代であります。さうして是は不思議にも大覺寺統即ち南朝といふやうなものと關係を持ちまして、後宇多天皇の復古思想から、次には其延長である所の日本中心思想といふものになつて、さうして日本文化獨立の根本をこゝに築き上げたのであります。このことは私の國史に對する淺い智識で考へましても、多少の材料を以て證據立てることが出來るのであります、それで此の機會において斯ういふお話をしたのであります。
 所が面白いことはこゝに一つの著しい事件を生じて來たのです、丁度南北朝の中ごろ以後南朝はよほど衰微して居つたが、兎に角皇子方が東西にお働きになつて、東には宗良親王、西には懷良親王が征西將軍として九州にお出でになつた。其時代に支那では元明の革命があつて、蒙古が亡びて明が起つた。その時に明の使者が九州に到着したが、支那人の書いたものによると、其時征西將軍は自分が日本の國王だと言つて支那の使節に應對した、處が支那の使者は京都に又持明院統の天子があることを聞いて、そこへも使者をやつたといふ事が書いてありますが、とにかく其時支那では日本國王の不恭を責めて征伐せんと欲するの意を示した處、其時に懷良親王からやつたといふ返事、支那ではこれを日本の上表と言つてゐますが、それが支那の本の殊域周咨録とか、使職文獻通編とか、明史などにも出て居ります。

臣聞三王立極。五帝禪宗。惟中華而有主。豈夷狄而無君。乾坤浩蕩。非一主之獨權。宇宙寛洪。作諸邦以分守。蓋天下者乃天下之天下。非一人之天下也。臣居遠弱之倭。偏小之國。城池不滿六十。封疆不足三千。尚存知足之心。故知足者常足也。今陛下作中華之主。爲萬乘之君。城池數千餘座。封疆百萬餘里。猶有不足之心。常起滅絶之意。天發殺機。移星換宿。地發殺機。龍蛇起陸。人發殺機。天地反覆。堯舜有徳。四海來賓。湯武施仁。八方奉貢。臣聞陛下有興戰之策。小邦有禦敵之圖。論文有孔孟道徳之文章。論武有孫呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將。起竭力之兵。來侵臣境。水澤之地。山海之州。是以水來土掩。將至兵迎。豈肯跪塗而奉之乎。順之未必其生。逆之未必其死。相逢賀蘭山前。聊以博戲。有何懼哉。※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)若君勝臣輸。且滿上國之意。設若臣勝君輸。反作小邦之恥。自古講和爲上。罷戰爲強。免生靈之塗炭。救黎庶之艱辛。年年進奉於上國。歳歳稱臣爲弱倭。今遣使臣答黒麻。敬詣丹※[#「土へん+犀」、128-4]。臣誠惶誠恐稽首頓首。謹具表以聞。
此書信にはもとより支那人の手入れがありませうから、どこまで信用して善いかは疑問であるが、大意は變つて居りますまい。即ち日本はあなたの國に較べると國が小さい、あなたは中華の主となつて大きな國に居られる、併しもし戰爭でもしようといふならば決して辭するものではない、あなたの方から兵を遣はして我國を侵すといふことがあつても、其兵隊が來たからと言つて跪いてこれを受けるといふことはしない、あなたの國に從つた所で生きると決つては居らぬ、逆らつた所で死ぬと決まつたものでもない、いつその事賀蘭山の前に行つて一と博奕打つて見ようではないか、何ぞ恐るゝに足らんやなんて言つて、そのあとへ、併しこちらが勝つてあなたの方が敗けたら自分の國の恥ではあると、ずゐぶん大きなことを言つてやつたものです(笑聲起る)。それで支那でも全く驚いたのです。尤もこれは蒙古襲來の時の我邦のやり方に驚いて居つたからでもありませうが、とにかく從來支那のぐるりにあつた諸外國は、何れも支那に對しては中國の君主として尊敬して居つたものであるのに、蒙古の時に使者を拒んだりしたので向ふが驚いた。支那では海外は皆自分の臣下扱ひにして皇帝何々の國に諭すといふ風に手紙なども書いて居つたもので、それが當り前だつたのです。併し日本に對してはよほど考へたものと見えてさうはしなかつた、即ち大蒙古皇帝書を日本國王に奉ずといふ對等の體裁であります、さうしておしまひの所に不宣白と書いてあつた。そこで其時の記録にも臣とせざることを示すなりと書してあります。是位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。
 所で今度は明の太祖が自分は蒙古の天子を追出して中國を囘復したのだから、日本へ使者をやつて日本から又朝貢をさしてさうして體裁を作らうと考へた。そしてもし來なければと言つて幾らか威しの文句を言つてよこしたのです。さうするとそれを懷良親王が見られて、戰爭をするならしようといふ手紙をやつたのです。此時の手紙は日本で言へば、蒙古襲來の時に取つた態度よりも、よほど激しい態度であります、蒙古の時には喧嘩を買つたやうな手紙を出したのではなく唯返事を出さなかつたのです、それを度々來るからうるさいといふので使者を斬つたのです。所が今度のは勢ひがよかつたと言つても九州全體を統治して居つたといふわけではなく、僅かな土地城池を守つて居つたに過ぎない所の南朝の懷良親王が、斯ういふエライ手紙をやつたのです。而も始めから喧嘩を買つた手紙をやつたのだから驚きました。しかし明の太祖も悧巧で、忽必烈のやうな失敗をするのは詰らぬと考へて、自分が死ぬ時に遺訓といふものを書いた、それにはいろ/\な事を書いてあるが、其の中に海外で征伐をしないといふ國が書いてあります、その中に日本が眞先きにある(笑聲起る)。
 斯ういふことで日本が支那に對して氣焔を吐くことが蒙古襲來以來流行つて來たのであります、これは詰り日本の根本の文化の獨立が出來上つたからだと言つてもよいと思ひます。これは丁度蒙古襲來といふ時が後宇多天皇の始めでありまして、そして此の懷良親王の手紙が後龜山天皇の時でありますから、ともかく外國に對する思想の獨立、文化の獨立といふものが大覺寺統を一貫して終始して居ると言つてもよいのであります。これだけのことを申しておきます。(拍手)
(大正十一年五月講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:講演
   1922(大正11)年5月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月28日公開
2006年1月22日修正
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    「土へん+犀」    128-4

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