您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 内藤 湖南 >> 正文

卑弥呼考(ひみここう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:34:14  点击:  切换到繁體中文


 

倭在韓東南大海中。依山島居。凡百餘國。自武帝滅朝鮮。使譯通於漢者。三十許國。
 三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへるは魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。
樂浪郡徼去其國萬二千里。
 魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡のより起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く
其地大較在會稽東治之東。與朱崖※(「にんべん+瞻-目」、第3水準1-14-44)相近。故其法俗多同。
 三國志の文は「所二有無一」即ち風俗物産の※(「にんべん+瞻-目」、第3水準1-14-44)耳朱崖と同じきをいひ、其下に風土を記せる句を續けたるを、後漢書には位置の意義と變じたり。是れ改刪の際に起れる疎謬なり。
城柵屋室。父母兄弟異處。
 三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。更に著しき疏謬は左の一條に在り。云く
女王國東度海千餘里。至拘奴國。雖皆倭種。而不女王
 三國志のこの記事は、前に顏師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。其他、後漢書が魏略の文を割裂し、※(「隱/木」」、第4水準2-15-79)括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち
又有夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)。傳言秦始皇遣方士徐福童男女數千人海(中略)所在絶遠。不往來
の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※(二の字点、1-2-22)明白なり。
 但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く
建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。云々
 此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之が三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。
附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。
 已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。
 第二の要件たる字句の校定は、本文即ち地名官名人名等の考證と相待つて爲さざるべからざる者多く、單獨に各本の※(「止+支」、第3水準1-86-36)異を列擧せんことは、益少きを以て、後段に合併して、此には省略することゝし、今はたゞ已に掲げたる本文が、元槧明修本を本として、一二乾隆殿板本を參照せる者なることを告白するに止むべし。余が見たる諸本の中にては、大體に於て元槧明修本、最も正しきを覺えたり。汲古閣の十七史は、世に善本と稱せらるゝ者なるも、余が知れる所にては三國志、後漢書等は、頗る劣れるが如く、三國志は往々乾隆殿板よりも劣り、後漢書は夐かに元大徳本に淵源せしと見ゆる寛永活版本より惡し。乾隆殿板本は明の北監本に出でたれば、此は重複して擧ぐるを要せざるべく、三國志の明南監本は馮夢禎が手校を經たれば、監本中のやゝ善きものとせらるゝこと、顧亭林の日知録にも見えたれども、其の體式已に古ならず、字句の訛奪も亦往々にしてあり。此等は余が撰擇の標準を定めたる理由なり。又參考せる書中、太平御覽は未だ宋本を見るの機會を得ざれば我が倣宋活字本を主として、極めて希れに鮑刻本を參照したり。鮑刻本は明板本を宋本にて校したる者によりたるが、四夷部倭國の條は、明板の粗惡殊に甚しく、鮑刻本は又之を汲古閣本の三國志にて校改したる跡ありて、校宋本として取るべき處殆ど之なく、我が活字本の影宋本を墨守せるに如かざるなり。通典、册府元龜等は通行本を用ひたり。

       二、本文の記事に關する我邦最舊の見解

 本文の記事を考證するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑彌呼を何人と見たるかを知らんことを要す、是れ我邦史家が本文の記事に下したる最舊の批評と謂ふべき者なればなり。神功皇后紀に左の記事あり。
三十九年。是歳也大歳己未。(魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等郡。求天子朝獻。太守※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)夏遣使將送詣京都也。)
四十年。(魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭國也。)
四十三年。(魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲耆掖耶等約八人上獻。)
六十六年。(是年。晉武帝泰初二年。晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重譯貢獻。)
 此の記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑彌呼を神功皇后なりと信じたりと斷ぜんに何の碍げかあらん。然るに近世の國學者の間には、此等の細注ある記事の大部分を、後人の※[#「手へん+纔-糸」、読みは「ざん」、255-9]入にかゝる者とする説ありて、頗る勢力あり。之を※[#「手へん+纔-糸」、読みは「ざん」、255-10]入とせる所以は、其の外國史書の文が國史に混ずることはあるまじき事なりといふ一種の尊王説に本づけること疑なきも、其の口實とする所は、古本に之なしといふに在り。されども此等の説も、近時田中勘兵衞氏の藏せる奈良朝の古寫本と思はるゝ應神紀斷簡出づるに及びて、大に其の信用を薄弱ならしめたり。應神紀五年船を造りて枯野と名づけたる條の細注、及び二十二年、「兄媛者吉備臣祖御友別之妹也」といへる細注は、書記集解に古本に無し、私記※[#「手へん+纔-糸」、読みは「ざん」、255-14]入せりとなせる者なるに、古寫本には之あり、此外にも集解に引ける古本の據るに足らざる證あれば、同じく集解が古本になしといへる神功紀の細注も、之を※[#「手へん+纔-糸」、読みは「ざん」、255-15]入なりと見るべき根據なし。特に六十六年の細注が晉起居注を引きたるは、尤も其の信ずべきを見る者にして、晉起居注は藤原佐世が日本國現在書目にも見え、古く我邦に流傳せること論なく、神功紀が唐太宗勅撰の晉書を引かずして、此の書を引きたるは、或は未だ晉書を見ざりしに由るならん。されば此の細注の古きことも隨て知らるべし。又日本紀が用ひたる韓國の地名が、往々三國志の三韓傳中に在る地名と符合することも注意せざるべからず。應神紀八年の細注に出でたる支侵シシム、同十六年の細注に出でたる爾林ニリムの如き、三國志馬韓の條にも支侵、兒林の國名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の條に出でたる古爰國なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。又同年に出でたる布彌支ホムキ半古ハムコの地は、、馬韓傳に不彌國、支半國、狗素國、捷盧國の名見えたり。こは三國志が不彌支國、半狗國、素捷盧國とすべきを誤りて四國に分ちたる者なるべく、之を日本紀によりて正すことを得るは、實に奇と謂ふべし。凡そ此等の地名は、韓國の古史にも多く見えず、見えたるも、兒林が爾陵に作らるゝなど、反て日本紀と三國志との近接せるに似ざるを證するに過ぎざるに、日本紀と三國志との符合は、以て日本紀の作者が、已に三國志若くは魏略の類を見たりしことを推知すべし。かく神功紀の細注、並びに紀中の地名の兩端によりて考ふれば、日本紀の作者が、卑彌呼を神功皇后と推定して、其年代をも同時に置きたりしことは疑ふべからず。是れ實に我邦の史家が卑彌呼の記事に對して下せる批評の嚆矢といふことを得べし。此の古き批評は、固より今日史家に在りても漫然看過すべからざる所なり。但し此の見解が果して正當なりや否やは、猶ほ別問題に屬す。
(以上明治四十三年五月「藝文」第壹年第貳號)

       三、舊説に對する異論

 足利氏の中世に當り、僧周鳳あり、文正の頃、善隣國寶記を著はして、始めて倭國が果して日本なりやに疑を挾めり。即ち前漢書地理志の樂浪海中有倭人。分百餘國。とあるを、若し日本とせば百餘國とするは疑ふべしといひ、又魏志の在帶方東南海中。依山島國。度海千里。復有國。皆倭種。とあるを、若し日本とするときは、上に所謂樂浪海中百餘國とある倭人は何れの國を指すやといひ、韻書に倭を以て女王國の名と爲す、蓋し天照大神を地神の首として、此國の主たり、故に之を女王國の名と謂ふか、然るときは凡そ此國の人民は皆其種其奴たるのみ、但し海を度ること千里の語は、樂浪海中の倭と倭種の國と異あるに似たり、未だ疑を決せざるのみといへり。此れ樂浪海中の倭と海を度ること千里の東に在る倭種の國と、何れか果して日本なりやを疑ひ、并せて女王の名が天照大神に本づくにあらざるかを疑へるなり。(善隣國寶記に此疑あることは鶴峰戊申の襲國僞僭考にも摘出せり)
 然るに元禄年間、松下見林が其の名著、異稱日本傳を作りし時は、後漢書、三國志の所謂卑彌呼を全く神功皇后の舊説のまゝに信じて、少しも疑ふ所なき者の如くなりき。
 此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。
 鶴峰戊申に襲國僞僭考あり、(やまと叢誌に出でたり)本居氏を祖述して、更に一新説を出し、襲國は呉太伯が後なる姫姓の國にて、久しき以前より王と僞て漢に通じ、光武の建武中元二年に奉貢せしも、安帝の永初元年に生口を獻ぜしも、皆此國なり、景行帝の親征より後數度の征伐を經て、既に主を失ひつるが、神功皇后の攝政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑彌呼とは傳へたるさまなりといへり。此説は又頗る世の學者を驚かして、靡然として之に從はしむる力ありたる者の如く、黒川春村の北史國號考には、猶ほ本居氏の舊説によりて、卑彌呼を神功皇后とし、筑紫人の使譯、僞りて朝廷のと名告しならんといへるも、鶴峰氏の説の後の史家に奉行せらるゝには如かざりき。
 明治以來の史家は、大體に於て鶴峰説の範圍を出でず。菅政友氏の漢籍倭人考、吉田東伍氏の日韓古史斷、那珂通世氏の日本上古年代考、久米邦武氏の日本上古史等、皆一樣に筑紫女酋の説を取り、但だ熊襲の女酋とする者と、筑後、肥後あたりの女酋とする者との小差を存するに過ぎず。久米、菅諸氏の手に成れりと見ゆる國史眼の若き、吉田氏の日本地名辭書の若き、常用の典據とせらるべき性質の書にすら、已に此説を載せ、久米氏の如きは邪馬臺の考證時代は既に通過したりといふに至れり。
 此等諸家の説に對し、各別に批評を加へんことは、煩雜にして且つ冗漫に渉るを免がれざるを恐るゝを以て、單に其の大意を述べて、評論の變遷を示し、而して其説の可否は、必要なる限り、本文考證の際に道及ぼさんとす。

       四、本文の考證

 本文は上に掲げたれば、此には主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。猶ほ事の次でに述ぶべきは、前號の發刊後、友人稻葉岩吉氏が宮内省圖書寮に藏せらるゝ宋槧本三國志を以て、余が録せる本文を校正し、其の異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の舊藏にして、經籍訪古誌にも出でたる者なり。其異同は各々其字句の下に擧ぐべし。
帶方  漢末公孫氏が遼東に據りたる時、置きたる郡名にして、魏が公孫氏を亡ぼせる後も、之に因りたり。本と樂浪郡の縣名なりしを陞せて郡としたるにて、樂浪の南、即ち今の韓國の忠清、全羅二道の間に當るべし。松下見林が帶方會稽郡名。今八※(「門<虫」、第3水準1-93-49)地方といへるは妄なり。
舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。  舊時を説くは前漢地理志に據り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。史通に魏時京兆魚豢私撰魏略。事止明帝。とあれども、三國志に引く所の魏略の文は、正始嘉平の際に及ぶ者あれば、其の記する所、齊王芳の世を包括せること明らかなり。されば此に今といへるも、齊王芳の世を指せるか。菅氏が之を以て陳壽が自ら其時を指すとせるは、高句麗傳等の例を察せざる誤なり。
其北岸狗邪韓國  同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。日本紀にありては南加羅に當るべし。こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり。後漢書に樂浪郡徼去其國萬二千里。去其西北界拘邪韓國七千餘里といへるも、二の其字は皆倭國を指せり。然るに菅政友氏は誤りて之を韓國を指せるものとして北岸といへるを疑へり。此誤は蓋し當時狗邪韓が已に倭國に服屬せることを思はざるに出づ。魏志の韓傳に云く、韓在帶方之南。東西以海爲限。南與倭接と、又弁辰傳に其涜盧國與倭接界といへり。弁辰涜盧國は吉田氏之を今の陝川郡に當てたるはよし、然るに其の倭と接界すとあるをば、涜盧津として、別に東莱府多太浦に當て、二つの涜盧あるが如く説きしは牽強なり。涜盧は唯一にして古の大良州郡、日本紀の多羅なること疑ひなし。若し韓國内に倭の領土なくば東西南並に海に限らるべき理にして、又其内地の涜盧國が倭と接界すべき理なし。此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る。
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、  對馬は宋本に對海に作れるは誤なり。一大國は本居氏が北史に據りて、一支國と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壹岐なり。末盧を肥前の松浦とし、伊都を筑前の怡土とし、奴を儺縣、又那津、不彌國を應神天皇の誕生地たる宇瀰に當つることは本居氏以來、別に有力なる異説もあらざればすべて之に從ふ。
南至投馬國。水行二十日。  之には數説あり、本居氏は日向國兒湯郡に都萬神社有て、續日本後記、三代實録、延喜式などに見ゆ、此所にてもあらんかといへり。鶴峰氏は和名鈔に筑後國上妻郡、加牟豆萬、下妻郡、准上とある妻なるべしといへり。但し其の水行二十日を投馬より邪馬臺に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説を擧げ、一は鶴峰説に同じく、二は投を殺の譌りと見て、薩摩國とし、三は和名鈔、薩摩國麑島郡に都萬郷ありて、聲近しとし、更らに投を敏の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をも擧げたるが何れも穩當ならずといへり。國史眼は設馬の譌りとして、即ち薩摩なりとし、吉田氏は之を取りて、更に和名鈔の高城郡托摩郷をも擧げ、菅氏は本居氏に從へり。之を要するに皆邪馬臺を筑紫に求むる先入の見に出で、南至といへる方向に拘束せられたり。然れども支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の※(「さんずい+兆」、第3水準1-86-67)兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる處にして周防の一宮と稱せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に當れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に據有せられて、五萬餘戸の聚落を爲せしことも想像し得べし。日向薩摩の如き僻陬とも異り、又筑後の如く、路程の合ひ難き地にもあらず、此れ余がかく定めたる理由なり。
南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。  邪馬は邪馬の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。本居氏は明らかに其地を指定せざれども、日向大隅地方と看做したるべし。鶴峯氏は邪馬臺は襲人の僭稱にて、おのれがをる處を皇都大和に擬して呼しものなり、今も琉球人は薩摩をさしてやまとゝいふなり、琉球の童謠にりゆうきうとやまとが地つるぎならば云々(地つるぎは地續をよこなまれるなり)水行十日は、十日の上に二字を脱せるなりといへり。菅氏吉田氏の説も略之に同じくして詳なるを加へ、大隅國噌唹郡の中なる國府郷小川村の隼人城、清水郷姫木村姫木城あたりに擬し、星野恆氏、久米氏は之を筑紫國山門郡にあてたり。其陸行一とあるを一と改め讀むことは諸説皆一致せり。然るに此の陸行一の字は魏略及び三國志より出でたる梁書、北史を始め、太平御覽、册府元龜、通志、文獻通考等、一も一に作れる者なければ輕々しく古書を改めんことは從ひ難き所なり。鶴峰氏の水行十日を二十日とするは更に據なし。本居氏の説の如く、いつはりて魏の使を受つるなどは、菅氏も兒戲に等しとし、たとひ邊裔なればとて、有るべくも思はれずといへり。菅氏は當時、漢國にて倭と指しゝは、筑紫九國の地なれば、其を領きて威權ありし者を倭王とは稱へしなり、大和に天皇の坐しますことはもとより知らざりしさまなりといへり。然るに此説は邪馬臺が筑紫に在りしを證するには不十分なり。且つ日本紀によれば、意富加羅國王の子、都怒我阿羅斯等が日本國に聖皇ありと聞きて、歸化して穴門に到りし時、其國人伊都都比古、吾は是國の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と爲りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、後世に於ても、明の太祖が僧祖闡等を日本に遣はせし時、征西將軍に抑留せられたれども、猶ほ京都に持明天皇あることを知れるなどより推すに、魏國の使が親しく筑紫に來りて其の内亂にまで遭遇しながら、大和の皇室あることを耳にだもせざるは有り得べき事とも思はれず。琉球にてやまとゝいへる語も、大和朝廷の威力が九州に及びし後に交通して得たる者ならば、據るに足らず。隋書及び北史に倭國都於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也といへり。是れ隋の時には大和を以て邪馬臺と看做したる證なり。東晉より宋、齊、梁の代に亙りて倭王讚珍濟興武等が朝貢の記事は宋梁各書に見えたるが、之を以て大和朝廷の正使にあらずして邊將の私使なりとするの説あるも、其の上表文によれば、大和朝廷の名を以て交通したる者なるは明白なり。されば梁代に當りて、大和朝廷の存在は明らかに彼國人に知られたるは勿論なるが、梁書は當時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。かくの如く支那の記録より視たる邪馬臺國は、之を大和朝廷の所在地に擬する外、異見を出すべき餘地なし。其投馬國より水行十日陸行一月といへる距離も、奴國あたりより投馬までの距離を水行二十日と算するに比しては、無理なりとせず。又當時七萬餘戸を有する程の大國は、之を邊陲の筑紫に求めんよりも、之を王畿の大和に求めん方穩當なるに似たり。此れ余が邪馬臺國を以て、舊説の大和に復すべしと思へる理由なり。尤も邪馬臺と呼べる土地の限界は、恐らくは今の大和國よりは廣大にして、當時の朝廷が直轄したまへる地方を包括するならん。
斯馬國  本居氏は筑前國志摩郡か或は大隅國噌唹郡志摩郷かなるべしといひ、吉田氏も亦以て櫻島とす。余は之を志摩國とす。附て云く、余が地名を考定する方針は和名鈔の郡郷等につきて聲音の類せる者を彙集し、其中に就きて地望に準じて然るべき者を擇び取るに在れど、こゝには唯だ其の擇び取れる結果を示すのみ。以下皆此に倣ふ。


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告