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悟浄歎異(ごじょうたんに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:31:04  点击:  切换到繁體中文



 三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化へんげの術ももとより知らぬ。みち妖怪ようかいに襲われれば、すぐにつかまってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人がひとしくかれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空ごくう八戒はっかいもただなんとなく師父しふを敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものにかれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさととうとさとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師にるものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったんおのれの位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際こんりんざい、正しく美しい生活を真面目まじめに続けていくことができないに違いない。あの弱い師父しふの中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さがそとの弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、おれは考える。もっとも、あの不埒ふらち八戒はっかいの解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空ごくうの師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。
 まったく、悟空ごくうのあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物どんぶつであることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜けるみちを外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのときあわてて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生へいぜいから構えができてしまっている。いつどこで窮死きゅうししてもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見るとあぶなくてしかたのない肉体上の無防禦むぼうぎょも、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が世には存在するかもしれぬ。しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、何も打開する必要がないのだから。
 悟空には、嚇怒かくどはあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁ゆうしゅうはない。彼が単純にこの生を肯定こうていできるのになんの不思議もない。三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、ふせぐことを知らない弱さと、常に妖怪ようかいどもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父しふたのしげに生をうべなわれる。これはたいしたことではないか!
 おかしいことに、悟空は、師の自分よりまさっているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌きげんの悪いときには、自分が三蔵法師にしたがっているのは、ただ緊箍咒きんそうじゅ(悟空の頭にめられている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉にい入って彼の頭をめ付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍れんびんだと自惚うぬぼれているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬いけい、美と貴さへの憧憬どうけいがたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。
 もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪にわれようと、師の生命は死にはせぬのだ。
 二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠たいせき的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、おれは気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与しょよを必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做みなしていることだ。金剛石こんごうせきと炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置とうち」こそ、彼らが天才であることのしるしでなくてなんであろうか?

 悟空ごくう八戒はっかいおれと我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそ究竟くっきょう妖怪ようかい退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫おっくうだし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精ようせいに満ちているのだろう。どこへ行ったって災難にうのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。

 孫行者そんぎょうじゃはなやかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒ちょごのうはっかいもまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚きゅうかく・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世にしゅうしておる。あるとき八戒はっかいおれに言ったことがある。「我々が天竺てんじくへ行くのはなんのためだ? 善業をして来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽ごくらくとはどんなところだろう。はすの葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つあつものをフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮のげた香ばしい焼肉を頬張ほおばる楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただかすみを吸って生きていくだけだったら、ああ、いやだ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、つらいことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬたのしさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくともおれにはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭こかげの午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛すいてき。春暁の朝寐あさね。冬夜の炉辺歓談。……なんとたのしげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまでっても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くのたのしきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能のるものだなとおれは気がつき、爾来じらい、この豚を軽蔑けいべつすることをめた。だが、八戒はっかいと語ることがしげくなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がちらりのぞくことだ。「師父しふに対する尊敬と、孫行者そんぎょうじゃへの畏怖いふとがなかったら、俺はとっくにこんなつらい旅なんかめてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的な外貌がいぼうの下に戦々兢々せんせんきょうきょうとして薄氷はくひょうむような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、天竺てんじくへのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後にすがり付いたただ一筋の糸に違いないと思われるふしが確かにあるのだ。だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察にふけっているわけにはいかぬ。とにかく、今のところ、俺は孫行者そんぎょうじゃからあらゆるものを学び取らねばならぬのだ。他のことを顧みている暇はない。三蔵法師の智慧ちえや八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。まだまだ、俺は悟空ごくうからほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河りゅうさがの水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下ごか旧阿蒙きゅうあもうではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰たいだいましめること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
 孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空ごくう闊達無碍かったつむげの働きを見ながらおれはいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為のいいだ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気ふんいきの持つ桁違けたちがいの大きさに、また、悟空的なるものの肌合はだあいのあらさに、恐れをなして近づけないのだ。実際、正直なところを言えば、悟空は、どう考えてもあまり有難ありがた朋輩ほうばいとは言えない。人の気持に思いりがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。自己の能力を標準にして他人ひとにもそれを要求し、それができないからとておこりつけるのだからたまらない。彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよくわかる。ただ彼には弱者の能力の程度がうまくみ込めず、したがって、弱者の狐疑こぎ躊躇ちゅうちょ・不安などにいっこう同情がないので、つい、あまりのじれったさ疳癪かんしゃくを起こすのだ。俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。八戒はいつもすごしたりなまけたり化けそこなったりして、怒られどおしである。俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまでっても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどんしかられなぐられののしられ、こちらからも罵り返して、身をもってあのさるからすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。

 夜。おれひとり目覚めている。
 今夜は宿が見つからず、山蔭やまかげの渓谷の大樹の下に草をいて、四人がごろをしている。一人おいて向こうに寐ているはずの悟空ごくういびき山谷さんこくこだまするばかりで、そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。俺は先刻から仰向あおむけに寐ころんだまま、木の葉のあいだからのぞく星どもを見上げている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があのさびしい星の上にたった独りで立って、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうも苦手にがてだ。それでも、仰向あおむいているものだから、いやでも星を見ないわけにいかない。青白い大きな星のそばに、あかい小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾をいて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師さんぞうほうしの澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対するあわれみをいつもたたえているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生へいぜいはいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、わかったような気がした。師父しふはいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのもの運命さだめをもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡ほろびの前に、それでも可憐かれんに花開こうとする叡智ちえ愛情なさけや、そうした数々のきものの上に、師父は絶えず凝乎じっあわれみの眼差まなざしそそいでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣にておられる師父の顔をのぞき込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。

――「わが西遊記」の中――




底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1983(昭和58)年9月30日改版24版発行
入力:佐野良二
校正:かとうかおり
1999年2月9日公開
2004年2月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「口+迷」    174-17

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